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橋下徹という〈偶像〉 :松本創『誰が「橋下徹」をつくったか 大阪都構想とメディアの迷走』

書評:松本創『誰が「橋下徹」をつくったか 大阪都構想とメディアの迷走』(140B)


橋下徹は、大衆の「偶像」である。

「聖書」は、次のようなかたちで「偶像崇拝」を禁じている。

『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。』

「出エジプト記」20章4節から5節)

「偶像(アイドル)」とは、要は、「人間がでっち上げた神」「まがい物の神」、つまり「ニセの神」である。
だから、それに『ひれ伏し』て崇拝したり『仕えたり』してはならない。端的に言って、それは「神=真理」を蔑ろにすることであり、「人間的虚妄=偶像」に身を委ねる、危険な行為だからである。

例えば、「アイドル歌手」を好きになる程度のことはかまわないだろう。しかし、それに『ひれ伏し』て崇拝したり『仕えたり』してはならない。そうなると、「真理」が見えなくなって、身を滅ぼすことにもなりかねないからである。つまり、「お布施」もほどほどにしておかないと、身を滅ぼすことにもなりかねないということだ。

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しかし、それが所詮は「個人的な趣味」の域に止まって、仮に「身を滅ぼす」のが個人に止まるのであれば、それはその人の「勝手」だと、そう言えないこともないだろう。
だが、そうした「偶像=木偶人形=アイドル=ニセの神」を、「政治指導者」として崇めるのだとすれば、それが「個人の自由」で済まないことは明らかである。一一だからこそ、「橋下徹という偶像」は「盲信者」たちにもわかりやすく、解体されなければならない。

しかし、これはけっこう困難事である。
なぜなら、「橋下徹という偶像」は、言うなれば、かの「金の子牛」のようなものだからだ。

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『民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。
アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。
そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。
主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。』

「出エジプト記」32章1節から7節)

つまり、『民』(人々=大衆)は、預言者モーセが「神」から言葉を預かるため登ったシナイ山からなかなか降りてこないことにしびれを切らせて、「金の子牛」の偶像を作ってこれを祀り、神に感謝するお祭りを始めた、というわけだ。

で、今は過去のものになった「橋下徹」ブームも、今もつづく、大阪での「維新の会」ブームも、言うなれば、この「金の子牛」を祭神として崇める、愚かな「民」による「神聖冒涜=真理冒涜」だと言えるだろう。

特に、「橋下徹」は、まさにこの「金の子牛」であった。
たしかに「橋下徹」は、「金メッキの子牛」ではなく、それなりの「才能=金」でできた「金むくの偶像」だったかもしれず、その意味では、愚かな「民」には、光り輝く「ありがたい存在」だったのだろう。一一しかし、事の本質は、そこにはない。

仮に「橋下徹」が「金むくの金ピカ」であろうと、所詮はそれは「神」ではなく、「ニセの神」でしかない。
それこそ「拝〝金〟主義」の金ピカが大好きな、趣味の悪い「大衆」には、「橋下徹=金の子牛」はありがたかっただろうが、「金の子牛」の問題は、それが「見かけの豪華さ」でもなければ「何でできているか(金むくか否か)」というところにもない。
「金の子牛」の本質は、それが「ニセの神」という、「真理に対する冒涜」性にあるのである。

 ○ ○ ○

「橋下徹」という人物が「アイドル」でしかないことは、各種の研究によってかなりハッキリとしている。「維新の会」というのも、「橋下徹」を原型とした「偶像の偶像」でしかない。一一これも、各種の研究によって、実証的に明らかにされている。

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だが、問題なのは、「民=大衆」というものは、そうした「研究・検証」というものに興味を持たない、ということである。
端的にいって、彼らには「知的探究心」というものが無いに等しく、本を読む習慣すらない者が大半なのだから、「研究」的な資料を読むことなど、死ぬまでない者が大半なのだ。

そんな彼らにとっては、とにかく「見かけ」が大切である。つまり「金ピカ」こそが、わかりやすくてありがたいのだ。
その意味で「橋下徹」は、きわめてわかりやすい「金ピカの偶像」だ。「金ぴか」が好きな大衆にとっては、彼が「金むくか、金メッキでしかないか」すら問題ではない。そもそも、そんな検証になど興味はない。
彼らは「金ピカ」であることがありがたいのだし、それで「盛り上がることができたら良い」だけなのだ。それは、オリンピックだ、花火大会だ、なんだと「世間並みの、派手なイベント」を追い回しているだけの、彼らの「薄っぺらい趣味嗜好」を見れば、自ずと明らかである。

しかし、では「橋下徹」は、そんな「薄っぺらい趣味嗜好」に応じるだけの「金メッキの子牛」かというと、そうではないところが、なかなかに面倒なのだ。
彼は「ニセの神=金の子牛」ではあるけれど、それは、必ずしも「金メッキの子牛」ではなく、「金むく(純金)の子牛」であり、「偶像としては本物」なのである。だからこそ「タチの悪いニセ物」なのだ。
大衆にとっては、彼はすでに「金むくの子牛=本物の神」だということになってしまっているのである。

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本書は、「どうして、あれほどの橋下徹ブームが起こり得たのか?」という問題について、現場としての「メディア論」の立場から、これを検証し、「橋下徹」そのものよりも、むしろ、橋下徹を「祭神」に祭り上げてしまった「メディア=マスコミ=祭司」への批判の方に重点が置かれている

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「橋下徹」に、色々と問題のあることくらい、多くの「頭の良いメディア関係者」には、おおむね理解されていた。彼らは決して「橋下徹の問題点」に気づかなかったわけではないのだ。
しかし、「橋下徹」には「わかりやすい魅力」があった。たしかに彼は「魅力的な人間」であり「何かやってくれそう」な「オーラ」を発していたので、結局は、「頭のいいメディア関係者」も、すっかりその「オーラ」にやられてしまったのである。

「頭の良いメディア関係者」というのは、たいがいの場合、その「頭の良さ」に自負を持っており、そのせいで「自分は騙されない=真実が見抜ける」と思っている。
だから「橋下徹」についても、「彼の問題点は十分に理解しているが、彼の稀有の才能をも私は理解している。彼は〝使える道具〟なのだ、だから我々が、彼をうまく利用すればいいのだ」と考えた。一一それは「頭は良いけれど、魅力のない人間」が考えそうなことだったのである。

つまり、「頭の良いメディア関係者」は、「橋下徹」が「ニセの神=金の子牛」でしかないと理解していたから、「これをうまく使えば、世の中が変えられる」などと、一一身の程知らないことを考えた。

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だが、それは「偶像」というものの怖さを知らない「慢心者=愚か者」の発想でしかない。
その結果、自分たちが「金の子牛」をコントロールし、利用するつもりで、「金の子牛」を危険な存在に育て上げてしまった。その巨大化した「金の子牛」は、もはや「頭の良いメディア関係者=凡庸な学歴エリート」の「頭でっかちな細腕(非力)」では、どうにもできない「モンスター」になってしまったのである。

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「橋下徹」が、「魅力的な見かけ」に値する「中身」を持たない「ニセの神=偶像」であるというのは、「頭の良いメディア関係者」を始めとした、ある程度「知性」のある者には、容易に知り得る事実でしかない。

だが、「知性の足りない大衆」にとっての興味は、彼が「本物の神か否か」にはない。
そんな「難しいこと」はどうでもよくて、要は「橋下徹」が「見目麗しい金ピカ」であることこそが重要なのだ。まして、彼の「見目麗しさ」は、「金メッキ」ではなく「金むく」なのだから、「橋下徹は本物である」ということにしかならない。

「橋下徹」は、金むくの「本物の偶像」であり、もはや彼が「神」かどうかなど、どうでも良いことなのだ。
大衆にとっては、目を楽しませてくれるものなら、それがオリンピックであろうと花火大会であろうと万博であろうと(どんな「お祭り」であろうと)、実際のところ「なんでもいい」のであって、もはや「本物の神」である必要などないのである。一一と言うか、「本物の神とか、なんだか面倒くさいしー(本物の神さんとか、めんどくさい感じせえへん?)」くらいの感覚なのだ。

だから、「橋下徹」批判はむすがしい。

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人々が、「本物」や「真実」や「真理」を求めてはおらず、ただ「目先の快感」を求めているだけの、この「高度資本主義社会」においては、彼らが、真に崇めているのは「橋下徹」ですらない。
「大衆」が求めているのは、「天国に行けそうな気分」にさせてくれる「麻薬」なのだ。「天国」そのものを求めているわけではないのである。一一だから「本物の神」は「いらない」のだ。

したがって、「橋下徹」という「麻薬としての偶像」を、まさにそれを求めている「シャブ中としての大衆」から切り離すのは、容易なことではない。
それをするための、いちばん有効な方法とは「新しい麻薬=偶像」を与えることだというのは、かなりはっきりしているのであるが、それでは問題の解決にはならないから、「麻薬としての偶像」破壊は、困難事なのである。

仮に「橋下徹」が劣化して、大衆から見放されたとしても、その頃には、次の「金ピカの子牛」が「大衆」によって打ち立てられることだろう。

から、私たちが問うべきは、それが「偶像=ニセの神」か否かではなく、本気で「本物の神」を求める気が、そもそもあるのか、ということである。

私が「無神論者」であるのも、「偶像=ニセの神」拒絶者だからだ。
私は、すべての「偶像」に対して、「そいつも偽物だ」と、「NON(非)」を叩きつけずにはいられないのである。


(2022年9月3日)

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