適菜収 『維新観察記 彼らは第三の選択肢なのか』 : 「維新の会」は、あなたの想像を絶して ひどい。
書評:適菜収『維新観察記 彼らは第三の選択肢なのか』(ワニブックス「PLUS」新書)
今や「万博2025」の強行開催にむけた「嘘八百」によって、地元大阪は無論、日本国民の多くから顰蹙を「買い集めている」と言っても良い「日本維新の会」だが、「維新の会」の酷さというのは、多くの人がいま思っているほど、甘いものではない。
どういうことかというと、「維新の会」の議員らは、「馬鹿だから」ああいう出鱈目をやっているのではなく、確信犯的にああいう出鱈目をやっている「犯罪者集団」と呼んでも良いような連中なのである。
つまり「出鱈目も、迷わずに押し通せば、通ってしまう」という犯罪的確信に立って、大阪府民や日本国民の「不利益のなること」を、そうとわかっていながら強行し、自分たちが「儲けている」。
だからこそ、「平気で嘘をつく」こともできるし、「責任を取る気もない、ウケ狙いだけのホラ話」を公然と吹きまくることもできるのだ。
その実例が、吉村洋文現大阪府知事の「ポビドンヨード入りうがい薬(通称「イソジン」)で、コロナが治る」だとか「大阪ワクチンで、コロナ禍の日本をリードする」とかいった、根拠などあるわけもない「大嘘」である。
これで、吉村にどれだけ稼がせてもらった企業があったかを、決して忘れてはならない。吉村の「宣伝」のおかげで、「うがい薬」は薬局の棚から消えるほど売れたのだし、「大阪ワクチン」を開発していると称していた三流企業は、国からの莫大な助成金をもらった上で、結局は「使い物にならないものしか、作れませんでした」と降参して、国民の税金である「助成金」を食い逃げしたのである。
これは、吉村洋文の親分格である、松井一郎元大阪府知事も同じで、コロナが流行った頃に、医療従事者が着る「感染対策用の防護服」が足りないというので、防護服がわりの「雨ガッパ」の寄付を広く一般にまで呼びかけた。もちろん、自分一個の「素人判断」によってである。
その結果、当時、わざとらしくヒーロー扱いにしていた医療従事者から「そんなものを着て治療なんかできるか、馬鹿にするな!」と反発され、松井の言葉に騙された多くの人たちの善意を踏みにじって、結局は「雨ガッパ」を、ゴミとしてこっそり廃棄したのである。
また、松井を批判するユーチューブ動画を「紹介した」タレントの水道橋博士を「名誉毀損で告訴する」と、スラップ裁判で脅しつけ、さらには、その動画にリンクを張って紹介した者は、全員告訴するなどとまで大言壮語したのだが、そちらを実行することもなく、うやむやのまま、がっぽりと退職金をもらって政治家を「勇退」し、闇の底へと姿をくらましてしまった。
自身の推進した「万博」「カジノ」の数々の問題点が露見する前に、子分の吉村洋文にその仕事を押しつけて、体良く逃げたのである。
もちろん、松井一郎の前に「維新の会」の代表だった、橋下徹も本当に酷いやつである。
今でこそ、テレビ番組のコメンテーターとして、もっともらしいことを話しているが、この男の本質が、真顔で嘘のつける「サイコパス」であることくらいは、是非とも知っておかなければならない。そうでないと、きっと騙されてしまう。
かく言う私ですら、テレビを視ながら、ついつい「良いことを言うじゃないか」なんて思ってしまうことがあるくらいなのだから、「サイコパス」としての橋下徹の本性を知らない人は、今この時も、確実に騙されていると考えるべきなのだ。
そして、私がこのように「断言する」根拠は、本書でも紹介しているとおり、橋下徹が政治家になる前の「タレント弁護士」時代に公刊した著書に「嘘をつかないような人間は、人間じゃない」とか「勝つためには、嘘をつくのもテクニックの内だ」などと、堂々と書いていたという「事実」があるからで、しかも橋下は、そんな過去の自分を「反省」したことなど、一度たりともない。
あれだけ、他人のことを厳しく批判するのだから、まともな「良心」があれば、自分の過ちや誤りについても、当然「反省」や「訂正」をするはずなのだが、橋下の「現在の綺麗ごと」が、心からのものではないからこそ、「過去の言動の反省」などせず、「自分は昔から、間違ったことなどしたことはなく、ただ、いい加減なマスコミなどに目の敵にされただけだ」と、責任転嫁するだけなのだ。
「サイコパス」は、「正直に非を認めても、損するだけ」だと、そう考えるから、「反省」や「訂正」なぞしないのだ。
「どうせ、一般大衆は馬鹿だから、すぐに忘れる」と、そう「正しく見抜いており」、損得勘定しかない人間だから、自分一個の「良心の問題」として、「反省」したり「訂正」したり「謝罪」したりするなどということは金輪際ない。そんなことをすれば、「藪蛇」でしかなく、するだけ「損だ」というのが、「倫理観」というものを欠落させた「サイコパス」特有の発想なのである。
そんなわけで、とにかく「維新の会」は、酷い。
「頭が悪い」とか「無能」だとかいうことではなく、彼らは確信犯的な「犯罪者集団」なのだ。
つい、人を信じてしまう一般市民を騙し、それで私腹を肥やすことを目的としており、そのためなら「嘘」くらいは平気でつけるという、ある意味ではプロフェッショナルな、犯罪的「類友」集団なのである。
言い換えれば、「頭が悪い」とか「無能」なのは、「維新の会」のメンバーではなく、それを支持している「維新の会の支持者」なのである。
彼らは、普通に考えれば「酷い」とわかるようなことさえわからないほど、理性を麻痺させており、「維新の会」が、「威勢の良い嘘とハッタリ」で見せてくれる「夢」に酔っている、「現実逃避者」なのだ。すでに完全に「思考停止」している人たちなのである。
だからこそ、例えば「万博の悲惨な現状」を知らされても、決してその現実を認めようとはしない。それを認めてしまったたら、自分が「救いがたい馬鹿」だったという現実を認めざるを得なくなるからである。
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本書は、「維新の会」の酷さを、「保守」主義の立場から、批判的に紹介したものである。
こう書くと、「維新の会も、保守なのではないのか?」と思う人もいるだろうが、そうではない。
「保守」とは、文字どおり「保ち守る」という「防衛的」思想であり、その意味では「革新」を目指す「左翼」とは、真逆の方向性をもつ思想だ。
「革新」が「悪いところをどんどん改め、変わっていこう」という思想なのに対して、「保守」は「現状にはそれ相応の優位性があり必然性もあるのだから、多少の問題はあっても、そこには目を瞑って、よほどの危機的な事態に立ち至るまでは、現状を保守しよう。急進的な改革は、それ相応の危険を伴うので、ともかく無難着実にやるべきだ」というものなのである。
したがって「保守」は、当然のことながら、「構造改革」なんてことは口にしないし、「〇〇をぶっ壊す!」などとは言わないし、「伝統芸能など、時代にそぐわない無駄なものだから、補助金は打ち切る」(橋下徹)みたいなことは言わない。
こうした発言をする者は、金輪際「保守」などではなく、「急進改革派」であり、言うなれば「極左」なのである。
だからこそ、「新自由主義者」として、「保護(保守)政策の解体」を進めた「安倍晋三」は、いくら口で「日本の伝統」などと言っても、その本質は「保守」ではあり得ないし、安倍晋三と同じ穴のムジナである「維新の会」も、当然「保守」ではない。
では、安倍晋三や「維新の会」が、「左翼」なのかと言えば、もちろん違う。
彼ら自身、「左翼」を目の敵にしていることからもそれは明らかなのだが、では、彼ら「新自由主義者」と「左翼」の違いは何なのかといえば、それは「改革革新の目的」なのである。
「左翼」が「社会改革」を目指すのは、現状の「階級社会(格差社会)」を否定して、より「平等な社会」を目指すためである。
言い換えれば、「左翼」は、「資本家」などの「富を独占する階級」を解体して、「労働者(一般市民)」にわけ与える「富の再分配」を目指して「改革」を行おうとしているわけなのだが、安倍晋三や「維新の会」などの「新自由主義者」は、それとは真逆で、「強い者が、より好き勝手に振る舞え、社会的敗者でしかない貧乏人になど配慮しないで済む社会を作ろう」と、そう考えている。それが「本音」なのだ。
つまり、安倍晋三や「維新の会」などの「新自由主義者」の掲げる「改革」とは、「弱者保護」的な「社会主義的保護政策」を潰そうとするものであり、要は「自分たち、優れた人間のための社会に作り変えるべきだ。無能な社会的敗者に配慮するなど、無駄なことであり、社会を衰退させることにしかならない。劣った者たちに、われわれ優れた者の脚を引っ張らせてはならない」というのが「新自由主義」の考える「勝者の自由」なのである(例えば、麻生財閥のバカ息子である、麻生太郎の顔を思い浮かべてみると、その実感が湧くはずだ)。
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本書の著者である「適菜収」は、自称「保守」主義者である。だから、安倍晋三を目の敵にしてきたし、同時に「維新の会」を攻撃してもきた。
適菜にとっては、安倍晋三や「維新の会」は、「日本の伝統的な社会構造」を破壊する(「左翼」どころではない)危険な「急進改革派」なのだ。
だからこそ、自身が「左翼」と誤解されかねないほど、安倍晋三や「維新の会」を批判してきたのだ。
安倍晋三や「維新の会」が、「保守」ではないのは無論、安倍や「維新の会」を支持するような者も、「保守」ではないし、「保守」でありえようはずがない。
例えば、安倍晋三の応援団だった「ネット右翼」や、「維新の会」の熱心な支持者なども、当然「保守」ではなく、危険な「急進改革派」に過ぎない。だからこそ、よくもわからないまま、政令指定都市である大阪市を解体するだけの「大阪都構想」に賛同したりもできる。
ただ、彼らの大半は、馬鹿で不勉強だから、「保守」の意味などわかっておらず、「反左翼なら保守だ」という程度の認識の持ち主ばかりだし、また、みずから「ネトウヨ」ですとも名乗れないので、格好をつけて、意味もわからずに「保守」を名乗っているだけなのである。
そんなわけで、本書著者の適菜収は、自覚的な「保守主義者」であり、その意味では「左翼リベラル(弱者に配慮しつつ、より開かれた自由な社会を目指す、改革推進派)」とは、ある意味では、真逆の立場なのだが、しかし、安倍晋三や「維新の会」を敵視し批判するという点では、結果として、「左翼」と完全に一致している。保守だ革新(左翼)だと角を突き合わせる以前に、安倍晋三や「維新の会」などの「新自由主義者」が、あまりに酷い存在だから、そっちに対処せざるを得なかったということなのだ。
「保守主義者」である適菜収は、安倍晋三や「維新の会」の、「新自由主義者」としての「強欲改革主義」を批判し、私のような「左翼リベラル」も、安倍晋三や「維新の会」の「新自由主義者」としての「強欲改革主義」を批判している。
「左翼リベラル」が「改革」を進めるのは「格差なき平等社会」の理想を目指しているからであり、それに対し「新自由主義者」が「改革」を進めるのは、「徹底した格差社会」を作るためで、要は「改革推進派」だと言っても、その方向性が「真逆」なのである。
だから、私は、適菜収の、安倍晋三批判、維新の会批判、新自由主義批判については、これを高く評価してきた。
しかし、適菜収の「保守主義」については、厳しく注文をつけてもきた。なぜなら「保守主義」とは、結局のところ「無難な保身主義」であり、「弱者」の存在は「仕方がないもの」だとほとんど容認して、ひたすら「現状維持」を目指す態度(理想を目指さない思想)だからである。
「保守主義者」は、自分たちに都合の良い今の社会が脅かされないかぎり、何もしようとはしないし、ましてや「弱者」という他人に配慮しようなどとも思わない。
弱者たちが「革命」でも起こしそうにでもなれば、そのとき初めて、自分たちの社会を守るために「妥協案」くらいは出してくるが、積極的に「理想社会」を目指そうとか、弱者をなんとかしてやりたいなどという「理想」は持っていない。彼らは、悪い意味での「現実主義者」なのである。一一だからこそ、適菜収は、私から批判されることにもなったのである。
しかしまあ、安倍晋三や「維新の会」のような、自分のことしか考えていない「新自由主義の我利我利亡者たち」に比べれば、適菜収のような「保守主義者」の方が、数等マシだというのは論を俟たない。
本物の「保守主義者」は、「新自由主義者」とは違って、「自分の利益」だけではなく、「国」や「社会」を守らなければならないという意識は持っているからだ。彼らが、「新自由主義者」を嫌い批判するのは、「新自由主義」とは、徹底した「個人主義」であり、自分さえ良い目を見られれば、あとは「社会」が壊れようが、「国」が壊れようが、そんなことにはお構いなしだからである。
そしてその実例が、来年の「万博2025」だと、そう言えばわかりやすいはずだ。
そんなわけで、私は、適菜収の「保守主義」自体を支持しているわけではなく、あくまでも彼の「反・新自由主義」を支持しているのだし、その観点から、本書も支持して、このように「紹介文」を書いているのである。
一一本書は、「維新の会の酷さ」は重々知っている、という人にさえ読まれるべき本である。
「維新の会」の露骨な酷さにさえ気づいていないような人は無論のこと、知っているつもりの人さえ、本書を読むべきなのだ。本書は、それだけの価値がある、「薄いが、中身は濃い」本なのだ。
事実、「維新の会」の酷さについては「もう、嫌というほど知っている」つもりだった私でさえ「それにしても、ここまで酷いのか」と思わしめたのだから、普通の人が驚くのは当然の、「驚嘆すべき事実の数々」が、本書では紹介されている。
私たちは、「維新の会」の酷さを知っているつもりであったけれど、その認識が、まだまだ甘かったという事実を、本書は教えてくれるのだ。
だからこそ本書は、是非とも広く読まれて然 るべきである。間違いなく、この本には、その価値がある。
本稿のタイトルを『「維新の会」は、あなたの想像を絶してひどい。』としたのも、そういう意味なのである。
だから、是非とも読んでほしい。
この「大阪」が、この「日本」が、決定的に「破壊」されて、子供たちの未来が奪われる、その前に。
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ここからは、本書で紹介された「維新の会」関係者による、「信じられない言動(事件)」を、いくつか、引用して紹介しよう。
とてもわかりやすく書かれているから、中途半端な要約などよりその方が読みやすく、わかりやすいはずだ。
また、そうしたいくつかは、言わば「サンプル」としてここに示すだけだから、本稿を読んだからと言って、本書を「もう読まなくても良い」ということにはならないはずである。
ちなみに、いくつかの「事例紹介」をする前に、注意を促しておきたいのは、以下に紹介する、とんでもない「維新の会」関係者の存在は、決して「例外」ではない、という点だ。
こうした「トンデモ」たちが、「維新の会」から、ぞくぞくと生み出されるのは、「維新の会」の新旧の上層部、つまり、橋下徹、松井一郎、吉村洋文、馬場伸幸らの「酷さ」を、その「正体」を、「維新の会」の議員にでもなろうかという者は、よく承知しているからなのだ。
つまり、自分も「維新の会」に所属することで、「嘘」でも何でもつきまくって、橋下らのように私服を肥やそうとそう考え、それが許される政党が「維新の会」だと思って、入ってくるのだ。そしてそんな具合に、元から「サイコパス」傾向のある「嘘つき」どもが集まってくるため、不祥事を起こす者も飛び抜けて多くなるのである。
まともな政治家を志す者は、初めから「維新の会」になど入って、その「舎弟」になろうなどとは考えないのだ。
なお、以下に紹介する「見るからに馬鹿」たちも、人間としての本質部分では「橋下徹、松井一郎、吉村洋文、馬場伸幸」らと何も変わりはしない。
ただし、「犯罪者は犯罪者なりに、その能力差はあった」ということなのだ。要は「バレないように、私腹を肥やす能力が足りなかった」だけ、なのである。
この程度ではない。まだまだあるし、露見していないものも、現在進行中のものもあるはずだ。
それでも彼らは、維新の会の「頭数のうち」だったのである。
一一要は、「維新の会」を舐めてはいけない、ということだ。
この程度のことは、「暴力団員づら」した松井一郎に言われなくても、当然承知しておかなければならないことなのである。
(2024年6月5日)
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