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高寄昇三『脱法的〈大阪市廃止〉と「大阪市」形骸化の危機』 : 〈民意無視〉の維新の会と「日蓮の教え」

書評:高寄昇三『脱法的〈大阪市廃止〉と「大阪市」形骸化の危機』(公人の友社)

(※  本稿の初出は、2021年2月21日「Amazonカスタマーレビュー」ですが、すでに管理者によって削除されております)

コロナ禍の最中、昨年(2020年)11月1日に、「大阪維新の会」の代表である松井一郎大阪市長と、吉村洋文大阪府知事の主導によって、いわゆる「大阪都構想」の是非を問う「2回目の住民投票」が強行された。「大阪市を4つの特別区」に分割して、大阪市の下部機構として組み込み、府市一体の体制を作ろうとしたものだが、事前の「賛成」優勢という大方の予想にもかかわらず、結果としては、辛くも僅差で「反対」多数の否決となった

松井市長と吉村知事が「敗戦の弁」において「半数もの反対意見には、真摯に耳を傾けたい」と言った、その舌の根も乾かぬうちに、松井市長は「大阪市を8つの特別区に再編する」という「簡易版都構想」とも呼ぶべき政策を打ち出した。
今度は、住民投票で民意を問うのではなく、議会において過半数を占める「数の力」で、議決によって事実上の「大阪市廃止」を図ろうと企てているのである。
2回にわたって示された「民意」は、あからさまに蔑ろにされたのである。

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もはや、「維新の会」を止めるには、知事、大阪市長の両方を「維新の会」が独占し、府議会・市議会を「維新の会」とその従属政党となり果てた「公明党」とで過半数を占める現状を、選挙において変えるしかないだろう。
しかし、当面、選挙がない以上、私たち「大阪市廃止反対派」は、「維新の会」の策動を監視し、タイミングを逸することなくカウンターを当てていかなければならない。

だが、それをするにも、「維新の会」の新たな策謀の中身を正しく知る必要があるし、さらに言うなら、私たちのこれまでの戦いの不十分なところを反省検討して、さらなる戦線の強化を図らなくてはならない。

昨年の「住民投票第2ラウンド」の戦いは、たしかに皆がそれぞれによく闘った。だが、それに満足して「肩の荷」を下ろしてしまったら、私たちはいずれ、蛇のごとく執念ぶかい敵手に、敗れることになるだろう。「大阪市」は解体され、無用の府市一元化による「独裁体制」によって、大阪の生活基盤を決定的に傷つけられることになってしまうのだ。

「二度の住民投票」を経ても、まだヌケヌケと「大阪市の特別区化」を行おうとするような政党を、どうして信じることなど出来よう。
もとより彼らは、「民意」など尊重してはいないのだ。ただ、住民投票で勝てるという自信があり「勝てば自分たちのやりたいようにやれる」と思っていたからやっただけで、「民意」は、利用するためのものではあっても、尊重するためのものではなかったということなのだ。

だから、府市が一体化して独裁体制が築かれれば、後に待っているのは、「維新の会」の本領である「新自由主義」的な「金儲け政治」である。
「大阪万博」であり「カジノを含む統合型リゾート」の実現。一一もちろん、そうしたことで、大阪市民や府民の生活が潤うのならいい。しかし、そんなことには絶対にならないと断言しよう。

なぜなら、安倍晋三前内閣において進められ、現・菅義偉内閣によって継承されている「新自由主義」的「大企業保護」政策(法人税を下げ、累進課税を緩め、消費税を上げるなど)が、国民の生活を、少しでも豊かにしただろうか?
「労働者に自由な働き方を」などと聞こえのいいことを言ったあげく、企業が安く自由に使い捨てられる「非正規労働者」を大量に産んで、なるほど「企業」は儲けただろう、株価はバブル景気以来という空前の高値を更新したが、では、私たち庶民の生活は、少しでも潤っただろうか。
それでも、こんな政権を信じてついていけば、この先はきっと潤うだろうなどと、お人好しに信じることができるだろうか。

「大阪維新の会」の「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」などといった「新自由主義」的な「金儲け政治」も、まったく同じことである。
なるほど、それで「大企業」は儲かるから、協力するだろう。だが、儲けるのは、潤うのは、そういう「上級府民」だけだと断じていいのではないか。これでもまだ、あなたは「大阪の企業が潤えば、大阪の府民全体が潤う」などという、甘い絵空事を信じるのだろうか。

「維新の会」が「大阪市の廃止」を目論むのは、前回の住民投票でも明らかにされたように「大阪市の豊かな税収」を「大阪府」が巻き上げて、「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」に注ぎ込むためである。
地下鉄の延長だのといったことも、「府民サービス」が目的ではなく、「大阪万博」であり「カジノを含む統合型リゾート」に向けての、「観光客」向けの「地ならし」に過ぎない。

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(こんな言葉を信じるような人は、詐欺被害候補者、間違いなしだろう)

なるほど、観光客が戻って来れば、観光関連業者や繁華街で営業している一部の飲食店などは潤うだろう。
だが、それも結果論であって、「維新の会」は、そんな「小規模事業主」たちを喜ばせるために「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」をやろうとしているのでないことは明らかだし、「維新の会」による府市一体の独裁体制下で、むしろ「中小企業」の倒産が(コロナ禍以前から)増えているのが事実なのだから、仮に「大阪万博」や「カジノを含む統合型リゾート」などの「金儲け事業」が成功しても、その余禄にあずかれる「一般住民」など、ほとんどいはしないのである。

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だから、私たちは、止まることを知らない「維新の会」の策動に、対抗し続けなくてはならない。
彼らのやっていることの「実態」を暴いてその「虚像」を剥ぎ取り、勢力を削ぎ、好き勝手をやらせず、次の選挙では、「嘘つき維新の会」を叩き潰さなくてはならない。
そうでないと、私たちの大阪は、いずれ「搾り取られるだけ搾り取られて、捨てられる」だろう。

そのためにも、まず「勉強」しよう。

「二重行政の弊害」などという、使い古された「嘘」を、いつまでも使わせていてはいけない。
例えば、府と市で同じようなハコモノを作ったのは、どっちもカネ余りで、どちらも勝手にやったからで、大阪市だけが悪いのではない。大阪府も勝手にやっていたのである。
そもそも、金が無くなれば、金をどう使うかで、府と市は真剣に戦わなければならなくなるだろう。手前味噌な政策や、間抜けな政策など、当然許されなくなる。お互いに問題点を指摘し合うことになるからだ。
しかし、今のように、知事と大阪市長が「グル」になっていたら、そうした「相互監視」は不可能となってしまう。それが「府市一体の独裁体制」というものの現実なのだ。
だから、絶対にそんな独裁体制を許してはいけない。「大阪市」には大阪市のやりたいことがあり、「大阪府」には大阪府のやりたいことがあるのなら、それを両者が持ち寄って、府民市民の前で堂々と論戦して、どちらのやり方が正しいのかを判定してもらうという、そんな「健全な政治体制」を構築しなければならない。

また、10億もの予算を投じて「住民投票」を行なったにもかかわらず、そうした「民意」が無視される「住民投票」の現行制度を改めなければならない。
つまり、「住民投票」に、相応の政策拘束力を持たせなければならない。
また、重大議案について行われるのが「住民投票」であれば、「賛成過半数」ではなく「賛成3分の2以上」などにすべきである。そうすれば「賛否は伯仲していたから、半数の指示は得た」などという「維新の会」の臆面もない「投票結果無視」が許されることもなくなるだろう。また「過半数でも勝てれば、強行できる」という安易な発想から、「住民投票」が繰り返される危険性も無くなるだろう。

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以上のようなことを、本冊は専門家の立場から、詳しく教えてくれる。
だから、私たちは、出口の見えない闘いに懲りることなく、また気持ちを新たにして立ち上がらなければならない。そのためには、まず「勉強」が必要なのだ。
たかだか100ページほどの小冊子も読めないで、戦いに勝とうなどと虫のいいことを考えてはいけない。そんな心がけでは、勝てる戦いも勝てないからである。

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そして最後に、「元創価学会員」として、ひと言つけ加えさせてもらおう。

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「2回目の住民投票」において、「公明党支持者の半数以上が、都構想に反対票を投じた」という事実は、本当にうれしかった。
反対票を投じてくれた人がいたからこそ、創価学会員が「盲信者ばかりではない」ということを証明した、「脳みそのない集票ロボットばかりではない」ことを証明してくれた、そして「日蓮の仏弟子も生き残っている」ことを証明してくれたと、そう感じたからである。

創価学会員は「地湧の菩薩」であるはずだ。人々を救うために、末法濁悪の世界で、困難な菩薩道に励む存在であるはずだ。決して「政治権力=世俗権力」のために、それを得るために働いているのではない。

だから、組織が間違っていれば組織を批判し、幹部の指示が間違っていれば幹部を批判し、それで「法難」に遭うのであれば、大聖人のように堂々を、その「正法流布の証」を引き受けようではないか。広布の天地に、一人立とうではないか。

『月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。』
(『聖人御難事』)

正法流布の戦い、すなわち衆生救済の戦いとは、それを妨げようとする「魔」との戦いである。だから「魔」の競い起こらないような「イエスマンのロボット的活動」など、真の姿ではないと知るべきであろう。
庶民の側に立ち、庶民のリアリティーを持って、現実を直視し、庶民を虐げる魔の働きに向かって戦いを挑み続けるのが、日蓮の末弟子の、あるべき姿である。

『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし』(『開目抄』)

久遠の同志たちよ、日蓮とその仏弟子たる我々の戦いとは「逆風に向かって獅子吼する」戦いであることを、決して忘れてはならないのだ。

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初出:2021年2月21日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年2月25日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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