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潮田潮『解剖 日本維新の会 大阪発「新型政党」の軌跡』 : 〈ウォッチャー〉的な「日本維新の会」の紹介

書評:潮田潮『解剖 日本維新の会 大阪発「新型政党」の軌跡』(平凡社新書)

意外にも、フラットな本であった。
私は「維新の会」が大嫌いな、いわゆるアンチだ。とにかく「維新の会」の「俗物性」と「人を小馬鹿にした、隠されたエリート気取り」が我慢ならない。だから、本書も「維新の会批判」の立場から書かれた本なのだろうと思って購ったのだが、読んでみると、そうではなかった。しかしまた、「維新の会ヨイショ本」でもなかった。
著者である潮田潮の視線は、良くも悪くも、冷めた「ウォッチャー」のものだと言って良いだろう。

したがって、「解剖」というほどのことはなく、サブタイトルにある「大阪発「新型政党」の軌跡」紹介の印象が強い。「維新の会」が、どのようなところからどのようにして生まれ、どのような毀誉褒貶を経て、今の「日本維新の会(新)」があるのかを知るには最適である。

著者は、「維新の会」の「軌跡」を描くにあたって、「当事者の証言」を多く採用している。したがって、本書に登場する「証言者」の多くは「維新の会」関係者であり、一方「維新の会」の政策を批判する立場の証言は「維新の会の軌跡」を描くのには役立たないので、数が少ない。よって、本書は、基本的には「維新の会」の立場から描かれた、自己申告による「維新の会」像を紹介したものと言って良いだろう。

そのため、維新の会の「批判的解剖」を期待していた向きには、本書はまったく物足りないものにしかなっていないのだが、しかしこれは、著者が「中立」を装って「維新の会の言い分」を一方的に紹介したものだというわけではない。
著者は、要所要所で、維新の会「関係者」の「証言」に、適切な「注釈」を付けている。つまり「批判」というほどのものではないにしろ、維新の会「関係者」の「証言」が、そのまま現実にはなり得ていない「理想」に過ぎないと、批判的に注釈しているのである。一一例えば、こんな具合だ。

『 (※ 数的勢力拡大を意図して、他党との)離合集散の末、維新は(※ 数的拡大路線を捨てて)一五年(※ 2015年)後半以降、「大阪組による再出発」で純化路線に転じた。(※ 与党や対立野党とは別の勢力としての)第三極には手が届かず、小勢力のままで純化路線を堅持する。半面、代表の松井一郎が「野党第一党に」と大言壮語で党内を鼓舞しなければならないという危機的状況と隣り合わせである。』(P247、「おわりに」より、※は引用者補足)

この『大言壮語』という表現がそうだが、「嘘つきだ」と批判しているわけではないものの、松井一郎や吉村洋文らの発言はしばしば、(橋下徹の系譜者らしく)「事実そのまま」ではない「ハッタリ」的なものだということを伝えている。一一これが、本書著者の「冷めたをウォッチャー」的スタンスなのだ。

「維新の会」については、支持者にしろ、私のようなアンチにしろ、その時々の政策や発言を問題にするので、どうしても、維新の会の「成り立ち」にようなものについては学ぶ機会がない。しかし、本書を読めば、少なくとも「維新の会」どのような出自を持つ政党なのか、その歴史的経緯を知ることができる。

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無論、「当事者証言」が中心となっているので、自身の立場を正当化する「ご立派な過去やその意図」ばかりが語られるわけだが、そこを眉に唾して読むだけの力があれば、この「ほとんど公式的な党史」とも読めるものの裏に隠された、ドロドロとした人間的現実を透視することも、決して不可能ではないだろう。
例えば、「維新の会」が、安倍晋三や菅義偉、石原慎太郎といった人たち組もうとした事実は否定できないものとして紹介されているその一方、松井一郎が「森友学園」の籠池氏と意気投合していたといった「不都合な事実」は語られていない。つまり、本書には、明らかな「黒歴史」は、まったく出てこないのだ。

しかし、その「タテマエ的党史」だからこそ、現実との「ギャップ」を改めて確認することもできる。
「維新の会」という政党の政治家が、いかに「裏側」を隠した上での「大言壮語」を語る、ポピュリズム政治家かというのが、浮き彫りになりもするのだ。

したがって、本書は、アンチ「維新の会」のための基礎教養書として、おすすめである。

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初出:2021年9月26日「Amazonレビュー」

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