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善教将大『維新支持の分析 ポピュリズムか、有権者の合理性か』 : あらゆるものの90パーセントはクズである。

書評:善教将大『維新支持の分析 ポピュリズムか、有権者の合理性か』(有斐閣)

『SFの90パーセントはクズである。一一ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』

「スタージョンの法則」と呼ばれる、文学愛好家には有名な格言だ。
そして、この「法則」を「大阪維新の会を支持する大阪府民」に当て嵌めると、こうなる。

『あらゆるものの90パーセントはクズである。したがって、一一大阪維新の会を支持する大阪府民の90パーセントもクズである。』

著者の善教将大は、本書の中で何度も「有権者は決して愚かな存在ではない」「大阪市民(大阪府民)は決して愚かな存在ではない」と繰り返し強調している。
これは、日本で唯一、圧倒的に「日本維新の会」が強い大阪、つまり「日本維新の会をやたらに支持する大阪の人間は、橋下徹的な〈ポピュリズム〉に弱い。言い変えれば、大阪人は頭が悪いのだ」とする全国的な見方と、その根拠となる〈ポピュリズム〉論を否定しようとするものだ。

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しかし、『SFの90パーセントはクズである。一一ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』という格言を読んで「SFの90パーセントはクズとは、なにごとだ! SFは素晴らしい文学だぞ」と本気で怒る人は、SFをご存じない方なのであろう。
と言うのも、他ならぬシオドア・スタージョンその人自身がSF作家だからであり、彼が『SFの90パーセントはクズである』と言うとき、そこには「SFは、もっと理想を高く持って努力すべきである」という「SF愛」ゆえの叱咤が込められている、という事実をご存じないからだ。

『SFの90パーセントはクズである。』と本気で言っているのではないからこそ『ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』というフォローが入ってもいる。つまり『あらゆるものの90パーセントはクズである』のなら、「クズ」という言葉は「普通・平凡・凡庸」の謂でしかないというのは、理の当然だ。
スタージョンが言いたかったのは「金を取ってSF小説を売っているのだから、読者に面白いと言ってもらえるようなものを書かねばならない。しかし、そのような作品(傑作)は必ずしも多くはない」という意味なのである。「せめて、わが愛するSFは、普通・平凡・凡庸に自足していてはならない」という、これは「愛のある身内批判」であった。

そして、そうした観点からすれば『あらゆるものの90パーセントはクズである。したがって、一一大阪維新の会の支持する大阪府民もクズである。』という言葉も、ただちに、大阪維新の会を支持する大阪府民を「クズ」呼ばわりしている、ということにはならない。
つまり、そこには「大阪維新の会を支持する大阪府民は、普通・平凡・凡庸である。だが、それに止まっていてはいけない」という含意があると言えよう。

したがって「日本維新の会をやたらに支持する大阪の人間は、橋下徹的な〈ポピュリズム〉に弱いのだ」とする、ポピュリズム論も、必ずしも「大阪人は頭が悪いのだ」と言っているわけではないということになる。
むしろ、そこに含意されているのは「大阪府民は、普通・平凡・凡庸である。だが、それに止まっていてはいけない」ということなのだ。

著者の善教将大が言うように、ポピュリズム論が「大衆社会」論を前提として「大衆とは愚昧の謂である」というエリートの意識から生み出された、仮に「主観」的な評価に過ぎないとしても、そうであれば、愚昧(クズ)なのは、大阪府民に限った話ではなく、日本国民全体が(スタージョン風に言えば「日本人の90パーセント」が)、クズ(愚昧)であるということになるし、その場合、著者の善教が強調するような「大阪市民(大阪府民)は決して愚かな存在ではない」というような限定的な言い方は、あまり意味をなさず、むしろ「有権者は決して愚かな存在ではない」つまり「日本人(有権者)は決して愚かな存在ではない」という言い方の方を強調すべきだ、ということになるだろう。
しかしまた、はたしてそこまで言えるのだろうか?

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「愚か」か「愚かではない」か(「賢い」か「賢くない」か)は、所詮、基準の置き方でしかない。
スタージョンのように期待水準が高ければ、いきおい「SFの90パーセントはクズである」ということになってしまうが、献呈本で書評を書いているような書評家や、販促の一環としてレビューを書いているような書店員なら「いや、SFの90パーセントは面白いですよ」と言うであろう。「そこそこで良い」という基準なら、仮にもプロの書いた小説なのだから、それなりに楽しめ、時間つぶしの娯楽にならば十分になり得るのである(同様に、本書を献呈された身内の社会学者仲間や、大阪維新の会の支持者なら、本書をできるかぎり「絶賛」するだろう)。

つまり、「大阪人への期待水準」によって、その評価は「愚昧」にもなれば「普通に賢い」という評価にもなって、どちらも間違いではない。一一そして本書の著者の言い分は、後者に過ぎないのである。

著者が、(出身地は知らないが)関西の大学の出身者として、その「郷土愛」によって、「大阪人」を擁護したいという気持ちはわからないではない。
また、マイナーは実証社会学というものへの愛の故に、やたらメジャーなポピュリズム論に対抗意識を燃やすのも、人情としてはよくわかる。
しかし、著者のそうした評価は、多分に「主観的」なものでしかない。

例えば、著者が「批判的指向性」という「ジャーゴン(専門用語)」を用いて、大阪人も「批判的指向性を持ち合わせている」と評価する場合、それは嘘ではないけれども、一種の「レトリック」でしかない。
というのも「批判的指向性が皆無な人間」などというものは(脳機能に障害でもないかぎり)存在しないからだ。

つまり、誰でも多少は「批判的指向性」を持っている、というのは「自明の前提」であり、「大阪人にも批判的指向性がある」というのは、ポピュリズム論によって大阪人の選択行動に厳しい評価を与えるポピュリズム論者もまた、共有している事実に過ぎない。
つまり、ポピュリズム論者が求める「批判的指向性」はスタージョン的に水準の高いものであり、著者の善教将大が「大阪人」に求める「批判的指向性」は極めて低いということでしかない。

喩えて言えば、大阪人にとっての、ポピュリズム論者は「教育ママ」であり、著者の善教将大は「過保護ママ」であって、評価の対象である子供、つまり「大阪人」自体には何の違いもないのである。

著者の善教が指摘するように、たしかにポピュリズム論というのは、多くの人によって用いられている分、そうした中で「主観的」に過ぎる(安易に過ぎる)部分があるというのは否定できない事実だろう。しかしまた、ポピュリズム論が「主観的でしかない」という善教の断定的な言い方も、所詮は「党派的」なものであり、「主観的」なものでしかない。

と言うのも、「ポピュリズム論」というのは、昨日今日に編み出されたものではなく、長い時間と多くの知性によって練り上げられた「経験的理論」であって、決して「無根拠なもの」ではないからだ。
善教は、マイナーな「実証社会学」的な立場から、そうした経験主義的理論を「実証的裏づけのない主観的評価」だと半ば決めつけているのだが、しかし善教のいう「実証」とは、「数字」や「統計」的な「物証がある」というほどの意味でしかない。
しかし、その「物証」を解釈するのは、人間の「解釈学的主観」でしかないというのも、厳然たる事実。

つまり、著者の善教将大が強調する「実証学」的な「確かさ」というのも、「証拠」自体に依拠するものではなく、「証拠をいかに正しく読み解くかという、読解の確かさ」に依拠するものでしかない(「物証主義」は大切だが、「物証」は絶対ではない)。
善教は「我々には証拠があり、ポピュリズム理論家には主観しかない」と決めつけるけれども、ポピュリズム理論家にも「歴史的経験という証拠の蓄積」があってこそ、ポピュリズム理論は「一定の確からしさ」を保証されているのである。

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さて、このように面倒くさい論理的な分析を加えなくても、本書の著者の「主観性の強さ」つまり「思い込み」「党派性」「コンプレックス」「決めつけ」の強さは、その文体に明らかで、「学術的意匠」に圧倒されさえしなければ、著者の主張の「主観的な偏り」は容易に読み取れるはずだ。

もちろん、著者の「判官贔屓」に対し、大阪人である私としても「感謝と同情の念」がないではないが、しかし、なかば地元の人間による「自己賛美」というのは、あまり有り難くはない。同じことを主張するにしても、もうすこし冷静に客観的にやってもらえれば良かったと思う。その方が、かえって「大阪人の擁護」として効果的だったと思うからだ。

(ちなみに、「特別区設置住民投票」において、一部の維新支持者が「反対」票を投じたという事実は、維新支持の大阪市民にも批判的指向性があったから熟考の末にそうしたとも「解釈」できるし、単に、詳しくは知らない大改革が地元で実現しそうになって(動物直観的に)ビビったとも「解釈」できる)

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レビュアーの「cherry blossoms」氏も書いているとおり、本書が『データ自体は豊富で見やすく、読者が独自に「やはりポピュリズムだ」と分析する機会【注】を与えてくれるので、自分で思考する人にとっては有益な本』だというのは、まったく同感で、著者の地道な「調査」結果までが、無価値であるとは思わない。

しかし、その「データ(物証)」を解釈するのは、著者であり読者であって、そこには「解釈」というかたちで「主観」が介在せざるを得ないということは、何度でも強調されるべきだろう。
つまり著者が「実証社会学」者だからと言って、特別に「客観的」であるなどという保証はない(実証社会学者の90パーセントもクズである)のだし、事実、本書にはそのような「主観性」が不必要なまでに過剰に滲み出ているという事実を、著者は謙虚に反省すべきではないだろうか。

もちろん、私のこの「評価」もまた「解釈学的」な議論、つまり「主観に依拠する解釈」的意見でしかなく、証拠は「本書」にしかない。
しかし、私はこうした「解釈術」をひとりで編み出したわけではない。私の「主観的判断」の背後には、膨大な「人間的叡智の歴史」が存在する。私は、それをすべて利用しているわけでも、正確に利用できているわけでもないのだけれど、しかし私のそれが「実証科学」的な手法ではないからと全否定する蛮勇を、著者が持ち得るとは思えない。むしろ、そうした「独善」的な態度こそ、過度に「主観的」なものでしかないからである。

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初出:2019年5月30日「Amazonレビュー」

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