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小畑健、 大場つぐみ 『DEATH NOTE 短編集』 : DEATH REVIEW あるいは 「Cキラ」としての ネトウヨ

書評:小畑健、大場つぐみ『DEATH NOTE 短編集』 (ジャンプコミックス・集英社)

「キャラクターの面白さ」で作品を読まない私にとって、『DEATH NOTE』とは、

 (1)高度な知的駆け引きを犀利に描いた、その優れたミステリ性
 (2)「正義とは何か」という重厚なテーマ性

という2点において、傑出した作品であった。

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だから、今回の短編集は、(1)の点では、物足りなかった。短編集なんだから仕方がないとは言え、それほど期待が高かったのである。

しかし、(2)の点で、面白いと感じたのは、冒頭に収められている「Cキラ編」だ。

この短編は、デスノートを手に入れた何者かが、キラを気取って「安楽死を望む高齢者」を殺していくというストーリーで、この「新たなキラ」に対しては、当然のことながら、世間の評価が大きく分かれることになった。

一方は、「否定的評価(安楽死殺人否定論)」としての「それは所詮、人殺しでしかない」という「正論」。
そしてもう一方の「肯定的評価(安楽死殺人肯定論)」としては、「苦しいだけの生を安楽に終えたいと、いわば自分から死を切実に願っている人たちを、苦しませずに死なせてあげるのだから、ぜんぜん悪いことではないじゃないか」というのと、もう一つは「生きていても、どうせ社会のお荷物にしかならない高齢者には死んでもらった方が良い。これは、若者を中心とした、皆の本音だろ」と、肯定的評価の中での「タテマエとホンネ」両面からの支持である。

デスノートによる「安楽死希望の高齢者」の殺害を支持する若者たちの中からは、やがて「若い自分だって死にたい」と望む者も出てきて、「新しいキラ」は、この望みまで叶えてやる。彼の「安楽死」理論からすれば、年齢は本質的には問題とならないからだ。
しかし、「新しいキラ」のこうした選択は、はたして肯定できるものなのだろうか?

それこそ、「ホンネ」で言えば、肯定できる人は大勢いるだろう。だからこそ、大場つぐみは、アクチュアルな問題として、この「安楽死」問題を採り上げたのだと思う。

しかし、この作品は、単に「安楽死問題」で終わるものではなく、いわば「ネトウヨ」問題とも深く絡んでいると言えよう。
どういうことかと言えば、本作は「たまたま得た強力な(数の)力によって、自分はネット上の匿名の陰(安全圏)に隠れたまま、独りよがりな正義を振り回し、神を気取りたがる」人たちの問題、を描いているからだ。

エルを継いだニアが、この匿名の犯人を「Cキラ」と呼んでバカにし、興味を示さなかったのは、この犯人が、このように「頭の悪い、独りよがりの小心者」でしかなかったからに他ならない。
一人では何もできないくせに、デスノートという「強力なツール」を与えられたことで、自分が「神」になったがごとく振舞うことを恥じない、身の程知らずのバカ。こんなバカは、バカだからこそ手に負えない存在ではあるのだけれど、こんなバカの相手は、「知的な闘争」に魅力を感じるエルの仕事でないことは、明らかだったからである。

では、ニアはどうしたか。
やっとのこと重い腰を上げたニアがやったのは、世間に向かって「私は、この事件に関与しない」と、まず公言すること。これが何を意味するのかというと、犯人への「お前は自分を、神のごときキラの後継者だなんて思っているのかもしれないけど、それはとんでもない勘違いだ。キラの好敵手であったエルに言わせれば、お前なんて、単に頭の悪いクソ野郎でしかない。だから、お前のことなんか、エルは相手にしない」という、最大限の「侮辱」表明である。

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だからニアは、最後に犯人へのメッセージとして、一言「この人殺し」という、侮蔑の言葉を投げつける。
言うまでもなくこれは「お前なんか、頭が悪いからこそ、つまらない理屈で自分の犯罪を正当化しているだけの、どこにでもいる人殺しでしかない。つまりお前は、偽キラなんだよ。このクソ馬鹿が」という意味である。

なぜ、ニアが「この一言」の「心理攻撃」を「エルらしくない」と考えたのかと言えば、それは無論「高度な知的闘争」ではなく、敵がバカであることを前提とした「感情的な関与として攻撃」だったからである。先代のエルなら、本当にまったく興味を示さず、目もくれなかっただろうと考えたからだ。

本書で描かれた「Cキラ」が、「ネトウヨ」を象徴する存在であるというのは、彼の「顔」が描かれないことでも明らかだ。
彼は「個人」ではない。「群体としてのネトウヨ」を象徴する存在だからこそ、彼には「顔」が与えられていない。
そして、彼が「ネット」にこだわるのも、本件犯罪の必然性というよりも、彼の「武器」が「ネット(の匿名性)」であることを示している。「ネトウヨ」という存在が生まれえたのは、「ネット」という「デスノート」を手にし得たからなのである。

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「Cキラ」は、ニアの一言、「この人殺し」という断定によって、自殺した。それは、キラと同様の神的存在と認めるエルが、彼を「新しいキラ」とは認めず、単なる勘違いのバカだという評価を下して、その「自己幻想」と打ち砕いたからである。

しかし、現実の「Cキラ」は、もっと頭が悪いから「お前は、単に利口ぶっているだけの、頭の悪い勘違い人間だ」と指摘したところで、決して自身の「バカさ=勘違い人間ぶり」に気づくことはないだろう。彼らは、それほどまでにバカであり、『DEATH NOTE』の世界のバカよりも、現実世界のバカの方が、数等「頭が悪い」のだ。

それに現実世界には、「ネトウヨ」を反省させるほどの、「神」のごとき存在は、実在しない。
仮に「ネトウヨ」が「神」と呼ぶような存在がいたとして、その彼らが「ネトウヨ」に対して「君たちは、単なるバカだよ。勘違いするな」などと「本当のこと」を言ったとしても、「ネトウヨ」たちは、それで反省するどころか、逆に、彼らをバカにした「神」たちの方こそ「神ではなかった」と格下げにして、自己防衛をするだけであろう。
事ほど左様に、「本物のバカ」とは「頭が悪く」て「自省」のかなわない(自己批評性を持てない)存在であり、私たちは、そんな現実を生きなければならないのである。

だが、それでも「言葉」は決して、無力ではない。
「正しい(的を射た)言葉」は、一種の「呪い」であり、必ず「人の心に爪痕を残す」ものである。即効性は無いとしても、決して無力ではないのだ。だからこそ私も、このように「デスレビュー」を書いているのである。

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書評:2021年2月9日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年2月18日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)


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 ○ ○ ○ 「高齢化社会問題」関連





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