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小川哲 『地図と拳』 : 何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ。もうぢき。

書評:小川哲『地図と拳』(集英社)

600ページを超える大作であり、久々の長編ということで期待したのだが、そこまでの作品ではなかった。

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これくらい書けておれば、次の直木賞くらいは差し上げても良いレベルには達している。つまり、エンタメとして「年間ベストテン」に入るくらいなら十分に可能だし、もとより著者の力量は安定おり、安心して楽しく読めもする。

だが、これほどの大作なのに、相応の「重み」に欠けるのだ。
たぶん、これでは数年を待たずして、その印象は薄れるだろう。共感できる描写は多々あっても、読者の「腹」に食い入ってくるほどの力がなく、読者に「腹」に残していくようなものがない。

本書を読んで、日本が中国で何をしたかを初めて知る若い読者なら、それなりのインパクトもあろう。
しかし、そうした「歴史の勉強」なら、専門書とまではいかなくても、ノンフィクションやドキュメンタリー映画などで学んだ方が、ずっと残るものが大きいだろう。
この小説を読んで、歴史的事実に対しそれなりのインパクトを受けたところで、そこから「歴史の勉強をしよう」と思い立つような読者は、そう多くはないはずで、九割がたの読者は、そのまま別の「エンタメ小説」に移行するだけだろう。

だからこそ、小説で歴史を書くのであれば、読者が「勉強になりました」「私たちは考えなければならない」などと言うような作品では「まったく不十分だ」ということである。

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本作の「弱さ」の理由は、明白である。
それは、作者固有の「諦観」が、その物語的想像力を抑制している、ということだ。なまじ「賢くて、見えている人」だからこそ、著者の「想像力」は、多分に「計算的」であって、「想像力の爆発」だとか「暴走」だとかいった部分が、ほとんど働いていない。だから、「力」が弱い。

私たちのこの時代において、未来に「希望」が持てないのは致し方ないとしても、それでも「求めずにはいられない」という「情念」が、この作者には不足しており、それが「この世界」とは「別の世界」を、生き生きと立ち上げることを妨げている。
本書著者は「頭が良い」し「書き手としての力量」もあるから、エンタメとしての歴史小説を書くことに困りはしないが、そこから「現実を撃つ」ほどの力を、作品に持たせることができないでいるのだ。すなわちそれが、今の小川哲の限界だと言えるだろう。

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本作を読んだ読者なら、こうした作者の「個性」が、本作の主人公と呼んでいいだろう「細川」に似ていることに気づくかもしれない。

「細川」は、目の前の事象や、自身の立たされた立場における「願望」に捉われたり、惑わされたりはしない。つまり、戦争に傾いていった日本人の多くとは違って、「希望的観測」になど捉われない、おかれた状況に酔わされない「醒めた目」の持ち主であり、だからこそ、早々に日本の敗戦を「論理的に予想」して、彼なりに「将来の日本のために」手を打つことの出来たような人間だ。
そして、本書の著者である小川哲も、そんな「醒めた目」の持ち主であり、彼の視野は「ジャンルSF」だの「文学」だの「世俗的な名誉としての文学賞」といったものを超えて、もっと先を見ている。

だが、「細川」に見えたのは、せいぜい10年後であり、日本の敗戦までであったが、テクノロジーの発達によって、膨大な参照情報が得られる現在、つまり、作中の「仮想内閣」によるシミュレーションなどとは比較にならないほど、膨大かつ容易に「未来予測」情報が得られる現在において、「細川」的な人間であれば、10年先どころか100年先だって容易かつ正確に予想することができるだろう。だが、その「予想」が、決定的に「希望の持てないもの」だった場合、彼は、いったい何を考えるだろうか。

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つまり、「希望の持てない未来」が見えてしまった者、「未来改変などできない」と確信してしまった者のできることとは、そんな「未来」に対して、それでも「無駄な抵抗」だと承知で、その「愚かさ」を生きることの中に、人間が今を生きることの意味を見出すか、さもなければ、「見るに忍びない未来」から目を逸らして、今ここにおいて相対的価値を有するものに注力するか、しかないだろう。
一一無論、本書著者の小川哲は、後者である。だから、「火事場のクソ力」など出しようもない。小川は、賢すぎるのだ。見えすぎてしまって、自身の限界を超えることができない人なのである。

したがって、本作でも、多くの読者が「不自然」に感じるのは、あれほど超人的な洞察力のある「細川」が、「仮想内閣」などというものを作って「未来予測」をし、それで「どうして、未来が改変できるなどと考えたのか?」という点である。

たしかに、「細川」の神様ではないから、多量の情報を得ることは困難であり、だからこそ、今のコンピュータやインターネットの代わりに「集合的人間コンピュータ」とでも呼ぶべき「仮想内閣」を作って、多様な情報と多様な視点を集め、情報解析を行ったのだろう。また、それで、比較的正しい「未来予測」ができたのである。
だが、問題は、そうした「正しい未来予測」とは、「改変不能性」をあらかじめ含み持っているからこそ「正しい未来予測」たり得るのである。

例えば、時の内閣が、(A)正しく「戦争を回避しよう」としても、(B)「国民がそれを許さない」だろうから、(C)「結果としては、国民に押し切られて、戦争をすることになる」と いったような場合、(A)の部分だけを取り上げて「正しい未来予想」と呼ぶわけにはいかない。この判断には、「国民の意向」という重要要素が含まれていないからである。つまり、インプット情報が、決定的に不足しているがための「不完全な未来予測」でしかないのだ。

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そして、本作中で「細川」がやったことは、せいぜい(A)止まりなのである。
これは、細川が「内閣」止まりの「未来予測」しかしなかったということを指して言っているのではない。そうではなく「国民」レベル、あるいは「人間」レベルの情報を、考慮していない、ということなのだ。だからこそ、「細川」は、「戦後」に希望が持てたし、その未来予測は、せいぜい「10年」程度だったのである。
一一だが、著者の小川哲の場合は、そうではない。

小川哲の場合は、「国民」レベル、あるいは「人間」レベルの情報を、否応なく得てもいれば、それを考慮せざるを得ない時代に生き、さらには、それを考慮してしまうだけの「知性」を持っている。だからこそ「見たくもない未来」が見えてしまって、いやでも「諦観」を持たざるを得ないのだ。

だが、賢く「諦観」を持ってしまった者には、非凡な小説など書けない。
そもそも、滅びると分かっている人類のために「永遠の文学」を遺す意味など無いというのは、「理の当然」である。ならば、彼が書く小説とは、今ここでウケる小説、今ここで評価される小説、今ここで売れる小説、といったものにならざるを得ないのもまた、「理の当然」ではないか。

つまり、小説を書く者、あるいは「文学者」とは、私がここまで論じてきた意味での「賢い人」であってはならないのだ。むしろ「愚か者」でなければならない。「愚か者」であったればこそ、「非常の力」も発揮し得るし、「奇跡」も起こし得る。そして奇跡とは、時に「必然性を超えた未来」でもあり得る。
言い換えれば、「愚者としての文学者」とは、「神聖痴愚」でなければならないのである。

だが、小川哲は、そうしたスケールを持たない、現代日本的に「賢い人」なのだ。
だからこそ、その「賢さ」において、自身の筆を矯めてしまっている。

小川哲は「賢い人」だから、賢く「出来ることをやろう」としている。
たしかにそれは、賢明な判断ではあろうけれど、「文学者」の判断だとは言い難い。

このような意味で、小川哲の眼には、本作『地図と拳』の主人公「細川」と同様の「視覚限定」が働いていると言えるだろう。
しかし、「細川」の場合は、著者の都合による「外部からの強制」であったけれど、著者の小川哲自身の「視覚限定」とは、その「現代日本人らしい賢さ」による「内的な(自主)規制」だと言えるだろう。小川哲自身に、その自覚が無くても、である。

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(※ なお、本稿サブタイトルの『何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ。もうぢき。』は、歌人・中城ふみ子が、『短歌研究』誌の編集者であった中井英夫に当てた、手紙の一節である。乳がんで余命宣告を受けていた、歌人としてはまだ無名の新人だった中城に、中井はそれでも「あなたは書かねばならない人だ」と迫った。その残酷な愛に対し、情熱の人であった中城が返した、信頼ゆえの「甘えの言葉」であった。 『黒衣の短歌史 - 中井英夫全集 第10巻』(創元ライブラリ)所収)

(2022年7月19日)

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