見出し画像

小川楽喜 『標本作家』 : 〈夢〉の小説 への憧憬

書評:小川楽喜『標本作家』(早川書房)

『西暦80万2700年、人類滅亡後の地球。高等知的生命体「玲伎種」は人類の文化を研究するため、収容施設〈終古の人籃〉を設立。蘇生した歴史上の名だたる文豪たちに小説を執筆させていた。その代償は、不老不死の肉体を与えることと、彼らの願いを一つだけ叶えること。しかしながら、玲伎種による〈異才混淆〉の導入によって自己の作風と感情を混ぜ合わされ、数万年にわたって歪んだ共著を強いられ続けてきた作家たちは、次第にその才能を枯渇させてしまっていた。そんな現状に対して、作家と玲伎種の交渉役である〈巡稿者〉メアリ・カヴァンは、ささやかな、しかし重大な反逆を試みた——
「やめませんか? あなたひとりで書いたほうが、良いものができると思います」』(本書カバー袖の、内容紹介より)

SF版「小説家小説」である。
普通の「小説家小説」なら読まなかっただろうが、『歴史上の名だたる文豪たち』を蘇生させて、小説を執筆させるという「設定」に、惹かれてしまった。
本好きならば、ごくナイーブな反応であったと思う。

本作は、本年(2023年)1月末に刊行されたばかりの「第10回 ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作」である。
さらに、本書の帯には、私の好きな作家・神林長平の、次のような言葉が、「選評」から引用紹介されていた。

『「自分に能力があれば、こういうものが書きたい」と思わせる内容だった。』

期待に目の眩んでいた私は、ナイーブにもこの言葉を、

「自分(神林長平)に、この作者(小川楽喜)ほどの筆力があったなら、こういう内容のものが書きたい」と思わせるほどの作品だった。」

というふうに理解した。
つまり、神林長平を驚かせるほどの筆力で、幻想的な「小説家小説」を描き切った作品だと、そう理解したのである。一一だが、これは、誤解だった。まんまと「引用のマジック」に惑わされてしまったのである。

しかし、このことだけでは、文句は言えない。なぜなら、本書には、選考委員5人(東浩紀小川一水、神林長平、菅浩江塩澤快浩)の「選評」全文が、巻末の付録されていたからだ。

これら先に読んでいたのなら、私は確実に本書を買わなかっただろうし、同じく、勢いで買ってしまった、「特別賞」受賞作である塩崎ツトムの『ダイダロス』も、やはり買わなかっただろう(そちらは、読もうかどうか、未練にも迷っている最中である)。

やはり、新人の作品に飛びつくのは、極めて危険だ。ごくごく稀には、「第1回日本ファンタジー大賞」受賞作である、酒見健一『後宮小説』みたいな、奇跡的な出会いがあるものだから、つい期待してしまうのだが、私ももう若くはないのだから、もっと慎重にリサーチしてから買うべきであった。

 ○ ○ ○

この作品は、非常に「壮大で面白い構想」をもった小説である。その「構想・設計」が、相応に「小説化」されていれば、稀有な傑作になっていたはずだ。
つまり、プロットとしては、素晴らしいのだが、それが「壮大華麗」すぎて、表現しきれてはいないのである。

このプロットを過不足なく小説にしようとすれば、もっともっと長い作品になっていて当然で、それを1冊の長編にまとめるとすれば、「パーツの描写」が不十分になるというのも、やむを得ないところだ。

だが、本作の「描写」が不十分で物足りないのは、作品の「長さ(制限)」の問題と言うよりも、この「壮大な物語」が、作者の「表現力」をはるかに超えたから、ではないかと思う。

本作には、実在の世界的著名作家をモデルにした小説家たちがおおぜい登場するのだが、まずその作家たちが「厚み」に欠ける。

いかにももっともらしい「言動」をして、いかにも「らしく」はあるのだが、それは一種の「物真似」や「形態模写」的な意味での「らしい」であって、人間としての存在感や厚みには欠けて、端的に言えば「人間が書けていない」。
ましてやそれが、「偉大な作家」を描いたものであればこそ、余計に物足りなく感じられるのだ。

(本作で重要なモチーフとなる、オスカー・ワイルドの『サロメ』)

そんなわけで、本作を読んでいて最も強く感じられたのは、作者の「文体の無さ」である。
読むのに苦はないものの、所詮はそれだけで、内容にそぐう「文学性をもった文体」ではない。「形容」に頼りきった「説明」ばかりで、文章自体の存在感や魅力に乏しい、ありきたりな文章なのである。

繰り返すが、たしかに「プロット」は素晴らしい。それを、それなりに具象化してはいるのだが、そこに描かれたものが、それぞれに「物足りない」し、その物足りなさは、「描写」が「説明」の域を出ておらず、文学における「描写」の域には達していないからだ。
「なるほどね」とは思っても、作中人物の存在感や心象、あるいは作中の風景などが、読む者の胸に迫ってくる、澎湃と湧き上がってくる、というようなものではない。それらはせいぜい、よくできた「機械人形」であり「書割り」であって、生きた存在として力動性を欠くのである。

で、そうなってしまったのは、本作のプロットを描ききるには「長さ(枚数)が足りなかった」というようなことではなく、そもそも、本作作者には、このプロットを「小説」にするほどの「力」が無かった、「説明」ではなく、「描写」だと感じさせるほどの、作者固有の強固な「文体」が無かった、ということだったのであろう。

東浩紀が、「選評」で次のように書いている。

『 今回の選考は意見が割れた。選考会では最初に各委員が事前に定めた点数を発表する。じつは評者は最高点を塩崎ツトム『ダイダロス』に、最低点を小川楽喜『標本作家』に投じた。結果は後者が大賞となり前者は特別賞となった。
 選考は全員一致を原則としている。それゆえ評者も受賞に同意している。人類滅亡後の遠未来、超知性が超技術で歴史上の文学者を蘇らせ「人類最後の小説」に挑ませるという設定が、他の候補作にない壮大なものだったことは確かだ。
 その前提で記せば、にもかかわらず評者が厳しい評価を下したのは、そこで文学と名指されているものがあまりにも保守的だったからである。小説に登場する作家名は偽名だ。けれどもモデルは容易に想像がつき、多くは英語圏の有名作家である。受賞作はそんな彼らの大作家としてのイメージを読み替えるのではなく、むしろステレオタイプをなぞるように展開していく。最後で登場するのもワイルドの『サロメ』だ。評者はその文学観に同意できないので評価は厳しくなった。
 しかしこれは裏を返せば、評者が同作を小説ではなく「批評」として読んだということかもしれない。その点は選考会でも指摘され、受賞反対は取り下げた。とは言え選考に批評家が加えられている以上、このような意見の存在も本賞の一部ではあるだろう。だからここに記すが、デビューにケチをつけるかたちになったとしたら申し訳ない。あらかじめ謝罪したい。(以下略)』(P434)

本作ついての私の評価は、東浩紀のこうした評価と、似たところもあれば、大いに違っているところもある。

「似たところ」とは、作中の「大作家」の描写が『彼らの大作家としてのイメージを読み替えるのではなく、むしろステレオタイプをなぞるように展開していく。』という点だ。
つまり、「型どおりのレッテル」をなぞっているにすぎないから、「大作家の大作家たる存在感」が少しも立ち上がってこず、ありきたりな「説明」に終わっている点である。

そして、私の評価が、東評と違っているのは、東が『厳しい評価を下したのは、そこで文学と名指されているものがあまりにも保守的だったからである。』としている点だ。
東が、批評家らしく、新作や新人に「今日的な存在意義」を求めるのは、わからない話ではないのだけれど、一般読者である私としては、作家の文学観が新しかろうが古かろうが(前衛であろうが、保守であろうが)、とにかく「小説」として「よく書けているならば」、どちらにしろ「面白い」のだから、どっちだってかまわない、という立場なのだ。問題は、「文学的イデオロギー」ではなく、「小説としての出来不出来」である、ということだ。

そして、ついでに書いておくと、私が、この東浩紀の選評で看過できないのは「みんながそう言っているから、意見は撤回します」という、「大政翼賛」的な、腰の引けた態度である。

自分の「意見」さえ表明できるのなら、「結果」責任までは取りません、ということだが、それは違うのではないか。
他の委員から説得されて「意見を撤回した」というのならわかるが、東は意見を撤回してなどおらず、だからこそ、自分の意見を「選評」に書き残した。

しかしこれでは、結局のところ、「選考委員として、自分の信じるところに従って、自分の責任を果たした」ことにはならず、実際には「商売(出版)の邪魔」をするわけにはいかないし、我(の信ずるところ)を通して「憎まれ役になるのが嫌」だから、言いたいことだけは言って、「批評家としての体裁」だけは整えておき、しかし「受賞(出版)させるか否かを決める、選考委員としての務め」の方は放棄した、ということにしかならないのである。

つまりこれは、「文学観の新しい古いの問題」ではなく、「選考委員としての責務」を十全に果たしたか否かという、「職業倫理」の問題なのだ。

(洗礼者ヨハネの首を掲げ持つサロメ)

一一ともあれ、そんなわけで、本作には、私も東浩紀も「構想自体は素晴らしいが、作品としては、その構想を実現できていない」という点で、同じ「不満」を持っている、とは言えるだろう。

本書の帯に「惹句」として引用されている、神林長平の「選評」の一節

『「自分に能力があれば、こういうものが書きたい」と思わせる内容だった。』

を、『自分に、この作者(小川楽喜)ほどの筆力があったなら、こういう内容のものが書きたい」と思わせるほどの作品だった。』というふうに読み替えてしまい、『神林長平を驚かせるほどの筆力で、幻想的な「小説家小説」を描き切った作品』なのだと『誤解』したというのは前述のとおりだが、では、神林長平が、この一節で何を言わんとしていたのかと言えば、それは単に、

「自分に、この構想を実現し得るほどの能力があれば、こういうものが書きたい」と思わせる内容(構想)だった。

ということであって、作者である小川楽喜に「その能力があった」ということでは、全然なかった。
あくまでも、この一節は、『標本作家』という作品そのものや、作者の「能力」を語ったものではなく、本作でも実現できなかった「構想の素晴らしさ」を語ったものにすぎなかったのである。


(2023年3月10日)

 ○ ○ ○



















 ○ ○ ○



 ○ ○ ○













 ○ ○ ○







この記事が参加している募集

読書感想文

SF小説が好き