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藤子・F・不二雄 『未来の想い出』 : 人生のやり直しは、そううまくはいかない。

書評:藤子・F・不二雄『未来の想い出』(小学館・ビッグコミックス)

「藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス」全10巻を刊行順に読んで、逐次各巻のレビューを書き終えてしまったので、もう藤子・F・不二雄の「SF作品」を読むつもりはなかった。だが、前記叢書と同様の装丁本が刊行されたので手に取ってみると、その帯には「生誕90周年記念出版」と刷られていた。
叢書の各巻よりは薄いみたいだが、「コンプリート・ワークス」の直後に「未収録作品集」ということもないはずだとよく見てみると、本書『未来の想い出』は、短編集ではなく、1巻本「長編」または「(長めの)中編」だということがわかった。それで、これも乗りかかった船だと思い、購読することにした。
内容的にも、「自伝的要素」のある作品のようなので、その点でも興味を持った。

このレビューを書くために調べてみると、やはり本書は「藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス」の好評を受けて刊行されたものだと判明した。

『これは4月から本日8月30日にかけて刊行された「藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス」全10巻の通常版の好評を受けてリリースされるもの。藤子・Fが1991年に発表し、「ドラえもん」を除くと最後の連作となる中編「未来の想い出」が「藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス」に近い体裁で再編集され、藤子・Fの生誕90周年記念日となる12月1日に発売される。

「未来の想い出」は1991年にビッグコミック小学館)に連載された作品で、かつて大ヒットを飛ばしたものの、現在は鳴かず飛ばずのマンガ家・納戸理人が、タイムリープし人生をやり直す物語。1992年には森田芳光監督により「未来の想い出 Last Chiristmas」として映画化もされ、同作には藤子・Fも占い師役として出演している。』

『藤子・Fが1991年に発表し、「ドラえもん」を除くと最後の連作となる中編』だというのだから、たしかに「特別な作品」であり、記念出版に相応しい作品選びだったと言えるだろう。
いずれにしろ私は、出版企画者の狙いに、まんまとハマったのである。

さて、本作の内容だが、簡単にいうと「自伝的要素を含む、タイムリープSF」ということになる。
次のようなストーリーだ。

『人生に後悔している漫画家が「記憶を持ったまま人生を何度もやり直す」というループもので、時代を1971年から1991年の20年間に設定している。漫画家の奮闘記を基本軸に、漫画家仲間との交流や女優志望の劇団研究生との真剣交際が盛り込まれている。

主人公の風貌が藤子・F・不二雄自身に似ていること、主人公の駆け出し時代に漫画家仲間と共に住んでいた西日荘がトキワ荘に酷似していることなど、時代や年齢がやや異なるものの、自伝的要素も存在する。

本作と発表年が近いループものの作品には、ケン・グリムウッドの小説『リプレイ』(1987年)や木内一雅渡辺潤の漫画『代紋TAKE2』(1990年)がある。藤子・Fは本作連載第1回で主人公に「古いね。ファウスト以来、手あかのついた題材じゃないか」と語らせることで、本作の設定が斬新なものではないことを示している。なお、藤子・Fが敬愛する漫画家・手塚治虫は生涯で3度、ファウストものの作品を手掛けている(1950年、1971年、1988年)。本作の主人公がファウストに言及することで「手塚の後追い漫画」という批評を先んじて封じる効果が生まれている。』

(Wikipedia「未来の想い出」

漫画家の主人公が、業界のゴルフコンペで思いもかけない「ホールインワン」を放ち、喜びのあまりショック死してしまう。
あと一歩で三途の川を渡りかけたものの、それに気づいて此岸に戻ってみると、彼の意識は、20年前の若い自分の身体に入っていた。20年前に戻っていたのである。つまり、復活したら(?)彼には、死ぬ前の「前世=未来?」の記憶が残っていたのだが、それは時間の経過とともに徐々に薄れていく。しかしまた、そんな彼の目の前に、不意に未来の風景が現れたりする。これが「未来の記憶」である。

【以下、オチまで紹介しますので、未読の方はご注意ください】

20年前の自分に戻った、主人公の漫画家・納戸理人は、たまたま出会った親切な『女優志望の劇団研究生との真剣交際』を考えるが、貧乏漫画家だからと告白を躊躇しているうちに、不運なかたちで彼女との交際が絶たれ、悔やむに悔やみきれぬまま、中途半端な気持ちで「今の奥さん」と結婚し、その結婚生活にも満足していない。

そのころ彼は、すでに「前世」の記憶を失っているために、また同じ人生を繰り返すことになる。「前世=未来」どおりに漫画家としての人気が凋落した彼が「人生ってなんだろう。持ち上げてから落とすなんて、神様は残酷だ」などと憤っているところを、車に撥ねられてしまう。
幸い奇跡的にも軽傷だったのだが、事故のショックで彼の「繰り返しの人生の記憶」が蘇り、彼は自分がまもなく、件のゴルフコンペで急死し、また人生をやり直すことになるという事実を知る。

そこで今回は、死ぬまでの猶予期間に、次に復活(転生?)した際、役立てられるような知識をしっかりと頭に入れ、前回と同じ道をたどることなく、成功裡のおわる人生を歩もうと考える。
そして、予定どおりに死んで復活すると、まだ前世(未来)の記憶の薄れないうちに、それを記録しておいて、その知識を活かして、漫画家としてやり直そうとする。

だが、彼に繰り返しの運命を与えた「神」も さる者で、前回とは少し違ったパターンを繰り出してきて、自分の人生を計画どおりに改変しようとする主人公の企てを妨害しようとしてくる。
しかしまた、主人公の方もその手には乗らずに、これまでの人生を基礎にして改訂を加えた人生計画を歩もうとする。すると「神」は彼に強烈な頭痛を与えて、彼の「運命への反逆」を阻止しようとするのだが、彼はその苦痛に堪えて、着々と自分の新人生を歩み始め、とうとう予定どおりに、漫画家としての安定した成功を収めることになる。

同時に彼は、前世では不本意なかたちで終わってしまった『女優志望の劇団研究生との真剣交際』に、新たなかたちで取り組み、前回の「妨害要因」を回避して、彼女との交際を発展させていくが、それを快く思わなかった「神」は、前回とはまったく違った「火災」というかたちで彼女を始末することで、二人を引き裂こうとする。
だが、それに気づいた主人公は、やけになって火事の火の中へ飛び込んでいく。たとえ彼女を救えなくても、少なくともこれまでとは違った「死に方」になるので、結果としては「神の計画」を粉砕したことになると考えたからだ。

つまり本作は、主体的に生きようとする主人公と、運命を司る神との闘争と描いた、「繰り返しの人生」SFだと言えるだろう。
はたして主人公は、運命をねじ伏せることができるのか?

で、結果はというと、一一病院で目を覚ました彼の病室に「可愛い娘」と「美人の妻」が面会に来る。
もちろん「美人の妻」とは、すでに人気女優となっている、かつての『女優志望の劇団研究生』だ。つまり、主人公は、命懸けの抵抗によって、ついに「神」に勝利したのだ。一一という、これは「ハッピーエンド」の作品である。

で、私としては、この「オチ」に「えっ、これで終わりなの?」という呆気なさを感じて、まったく納得できなかった。

忌憚なく言えば、このオチは「最後に愛は勝つ」とか「一念岩をも通す」ということでしかない。
しかし、「神」さまは、そんなに甘くはないだろうし、普通に考えれば「このままで済むわけがない」。つまり、本当の「苦難」は、むしろこの先に仕組まれていると考えるべきで、そこまで描かれていない本作は、基本的に「未完成で不十分な作品」だということになる。
また、こんな「ハッピーエンド」で喜んでいるような読者は、頭が悪すぎて、それこそ「神さまの操り人形」でしかない、ということにもなるのである。

実際、この程度の抵抗によって、あっさり降参してしまうような神様なら、現実の人生においても、誰も苦労はしない。言い換えれば、この作品が描く世界の「神」様であれば、もっと意地悪な報復など、いくらでも可能なのだ。
つまり、主人公が「漫画家としての大成功を経験した後に落ち目になるなんて、あまりにも残酷であり、神様は意地悪だ」と、そう告発したような「神」なのであれば、あるいは、主人公がその運命に抵抗しようとすると、それを妨害しようとしたような、文字どおりに「意地悪で陰険な神」様なのであれば、当然のごとく、彼に「甘い夢」を見せたうえで、それを奪うという、例のパターンで、主人公が勝ち得た「美しい妻や可愛い娘」を奪うだろう、ということだ。これは、目に見えた話ではないだろうか。

実際、「聖書」の神も、人間の「神への忠誠」を確認するために「妻や子や財産をまで、すべてを奪う」という、残酷無比な「試練」を与えた、というのは、有名な「ヨブ記」に書かれているとおりなのだ。

(妻も子も財産も健康も、全てを奪われたヨブ)

したがって、「意志の力」によって、主人公が「神」にあっさり勝ってしまったような本作のラスト(ハッピーエンド)は、いかにも「大甘」であり「子供騙し」の結末でしかないと言えよう。だから、本作を、その「完成度」において評価するならば、とうてい「凡作」以上の評価は与えられないのである。
一一そして、こうしたことからわかるのは、藤子・F・不二雄の「SF的な発想や構想力」は、やはり「短編向き」だという事実であろう。

そんなわけで本作は、作中でも語られているとおりで「アイデア自体には新味が無い」上に、作品としての「完成度」も低い。
したがって、本作の「読みどころ」として残るのは、「自伝的要素」の部分ということになるだろう。

例えば、この「自伝的」作品には「藤子不二雄A」こと「安孫子素雄」に当たる人物が登場しない。したがって、その意味でも、この作品は「(安孫子が存在しないという)やり直しの人生」を描いた「パラレルワールドSF」だとも言えよう。
そして、そこに注目するならば、わざわざ自伝的な作品を描きながら、その漫画家人生において、最も重要な人物であったはずの安孫子を排除せずにはいられなかったところに、藤子・F・不二雄の実人生における「失敗」意識が如実にあらわれていると、そう言えるのではないだろうか。

(藤子不二雄『まんが道』

また、本作が『「ドラえもん」を除くと最後の連作となる中編』になったというのも、なんとも「象徴的」でもあれば、「悲しい現実」でもあろう。
つまり、藤子・F・不二雄こと「藤本弘」は、最後の「自己言及的な作品」においても「安孫子との和解」を描くことはなく、扉を閉ざしたまま死んでしまった、ということになるからである。

もちろん、「公式」には「二人は、けんか別れしたわけではない」ということになっているだろう。
それも、嘘だというわけではなく、別れるには別れるなりの様々な理由(例えば、経済的な理由)などもあったのだろうが、しかし、二人の友情が「昔のまま」だったのであれば、「自伝的作品」の中に「安孫子」を登場させるのを、わざわざ避ける理由はない。いや、むしろフィクションの中だからこそ込められる「想い」や「真情」があったはずではないだろうか?

だが、現実には、この作品においては「安孫子」の存在は「禁忌」扱いにされ、封印されたままで、その登場はない。
しかも、この作品のラストは「やり直しの人生が成功だった」という、作者の願望だけが描かれた、物語としての結構の弱さを感じさせるものとなってしまっている。

したがって、もしも「藤子・F・不二雄ほどの作家」が、と思うのであれば、やはり本作は、その実人生が影を落としたが故の「願望充足優先の失敗作」だったと、そう評価すべきなのではないだろうか。

彼は「神様」になったのかもしれないが、実際のところは「神」に敗れていたのではないかと、私はこの作品を読み終えて、そう思わざるを得なかったのである。


(2023年1月12日)

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