『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス2 ノスタル爺』 : もう、あの日には帰れない。
書評:『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス2 ノスタル爺』(小学館)
「藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス」第2巻は、第1〜6巻の「SF・異色短編」シリーズの2冊目にあたり、1973年から翌1974年に描かれた、青年コミック誌『ビックコミック』の掲載作品を中心に、『S・Fマガジン』『コミック&コミック』掲載の各1篇を併録している。
したがって、内容的には「大人向け」である。
収録作品は、次のとおり。
本集の中で、最も評判の良いのは、(7)の「ノスタル爺」で、これは「泣かせる、切ない作品」だからであろう。
他の作品は、「アイロニー」や「批評性」が前面に出ているのに対し、この作品はハッキリと「情に訴えてくる作品」だからである。
しかし、これらは、短期間に連続的に描かれた作品だけあって、全体に似た傾向を持っている。何かというと、
・「大人の世界はイヤだなあ」という、諦観を伴った気分
・「あの日(子供の頃)に帰りたい」という、ノスタルジックな思い
である。
当然、この2点は、同じ思いの表裏だ。
12本の収録作の中で、こうした「作者の思い」が、最も端的に表れているのは、(2)の「劇画・オバQ」であろう。
これは、『オバケのQ太郎』の原作マンガ最終回で、広い世界を知ろうと、書置きを残して正ちゃんの家を出ていった「オバQ」こと「オバケのQ太郎」が、ひさしぶりに正ちゃんたちの住む町に帰ってきて、昔いっしょに遊んだ仲間たちとの再会を果たす、というお話なのだが、Q太郎が住まわせてもらっていた家の「正ちゃん」も、今では結婚をして一家をかまえ、会社勤めをしている。
オバケの寿命は長いので、ほとんど外見は変わっていないが、Q太郎といっしょに遊んだ子供たちは、みんな大人になっていて、それなりに大変な日々を送り、それぞれに生活のための悩みだって抱えているのだ。
そうしたところへ、思いがけずQ太郎が帰ってきたので、みんなが集まり昔を懐かしみ、最後は酒の勢いもあって、「もう大人の生活なんてウンザリだ。俺たちは夢に向かって生きるぞ。俺たちは永遠の子供だ!」と大いに盛り上がり、Q太郎を感激させる。
だが、翌日、家で目を覚ました正ちゃんは、妻から子供ができた(妊娠した)と知らされて、昨夜の「夢に生きる」という決意を放棄して、生まれてくる子供のために、地道な生き方を続けることを決意するのだ。
そして、その姿を見たQ太郎は、「正ちゃんに子供ができたってことは、……もう、正ちゃんは子供じゃないって、ことなんだ…な……」と納得して、黙って、空の彼方へ去っていく。一一というお話である。
つまり、この作品に表現されているのは、「大人の世界のつまらなさ」であり「子供の頃は楽しかった。できれば、あの日に帰りたい」というような「懐旧の情」なのだが、しかし、それでも「そんなことは、もうできないんだ」という、大人の諦観もしっかりと込められているため、本作は、しみじみとした「ペーソス」あふれる、味わいぶかい作品となっている。一一もう、私たちは、あの「能天気なQちゃん」には、会えないのである。
そしてまた、私たちは、現実の世界においても、「大人の事情」によって、Qちゃんには会えなくなっている。
私たちは、犬に追いかけられて大慌てで逃げまわる(私の場合は、堀絢子さんの声で話す)Qちゃんに、もう二度と、テレビでさえ会うことができないのだ。
なお、本作が「劇画」タッチで描かれているのは、この作品世界が「(大人の)リアルな世界」であり、かつての「まんが(タッチ)」の世界は「(子供たちの)夢の世界」だったということを、ひと目見てわかるかたちで表現したということである。
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ここからは、各作品に短評を付しておこう。
(1)「イヤな イヤな イヤな奴」は、長期間航行をする貨物宇宙船を舞台にした作品で、見るからに「SF」ぽい作品ではあるものの、描かれているのは、当たり前の人間社会でも、よくある話だ。つまり「結束するためには、共通の敵を作るべし」ということ。
個人的には、物語半ばでオチが読めてしまった。
(2)「劇画・オバQ」は、先述のとおり。
(3)「休日のガンマン」は、作者が、映画『ウエストワールド』(マイケル・クライトン監督・1973年)の公開よりも先に案出していたと強調する作品。
要は、「西部劇の世界」を再現した「大人のための遊園地」。そこには、人間そっくりのロボットが配置されていて、ゲストとして訪れた人間が、西部劇のガンマンよろしく、ロボットたちを撃ち倒して、ストレス解消をする、というアトラクションのお話である。
物語のオチは、『ウエストワールド』のように、「ロボット」たちが反乱を起こして……といった派手なものではなく、こんな「大人の遊び場」にも「外の世界の論理」を持ち込んでくる野暮な大人がいてウンザリだ、一一といったものになっている。
なお、こうしたアトラクションとしての「虚構世界」というのは、例えば、飛浩隆の「廃園の天使」三部作(未完)などでも採用され、壮大な物語を展開している。
(4)「定年退食」は、高齢化社会の到来による、食糧危機の問題を描いているが、食糧危機とは違ったかたちで、現在の日本では「高齢化問題」が深刻化しており、その点では「予言的」と呼んでいい、切実さのある作品となっている。作中には、次のようなセリフも見える。
ちなみに、現実の方では「65歳以上の老年人口1人を、15歳から64歳まで現役世代何人で支えるか」というと、現在はすでに、上の「二.七三人」を上回っている模様である。
(5)「権敷無妾付き」は、恵まれた地位で定年退職する裕福な男性を標的にして「妾付きの妾宅」を売るというビジネスを描いた作品で、その誘惑に揺れる高齢男性の姿を描いている。
さすがに「妾付きの妾宅」を売るビジネスなんてものは無いだろうが、「援助交際」とか「パパ活」といったものは、基本的には同じようなものなのであろう。ただし、問題の中心は、「性倫理」ではなく、「経済格差の拡大」なのではないだろうか。
(6)「ミラクルマン」は、超能力者の男性と、それを頭から信じようとしない友人との、やりとりを描いた作品。要は、「夢のない時代」だということなのであろう。
(7)「ノスタル爺」は、伏線があって、オチのある作品なので、下手に紹介すると興醒めなので、ここでは前記のとおり「本集の中で最も評判の良い作品」だとだけ書いておこう。
(8)「コロリころげた木の根っこ」は、江戸川乱歩の短編「赤い部屋」に代表される、いわゆる「○○○○○○○○の犯罪(念のため伏字)」を描いたミステリ作品。オチは容易に見抜けるだろう。
(9)「間引き」は、「コインロッカー・ベイビー」を扱った作品だが、テーマは「人口爆発による人命の軽視」を、SF的に誇張して扱った作品である。
(10)「やすらぎの館」は、「何も考えずに、親の腕の中でぬくぬくと生きていた、子供の頃の平和な世界に帰りたい」という欲望を描いた、いささか薄気味わるい設定のお話だが、オチとしては「それでは社会は、たちいかない」というところに収まって、(2)の「劇画・オバQ」と同様、「大人の世界の苦しみ」も、やむを得ないものとして、消極的に肯定されている。
(11)「箱舟はいっぱい」は、大彗星の地球衝突という人類破滅の危機が迫っており、ひそかに地球脱出用のロケットが建造されているが、それに乗れるのは、ごく限られた人間だけだ、一一という噂が流れて、パニックが起こるというお話。はたして、この「噂」は、本当なのかデマなのか?
(12)「宇宙開拓史」は、「宇宙開拓史」にまつわる6つエピソードを描いた、連作の「一コマまんが」である。そういえば、「一コマまんが」なんてものは、めっきり見なくなったなあ。
(2023年7月21日)
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