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ピーター・トライアス 『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』 : 〈戦後的フィクション〉を生きない、知性のために

書評:ピーター・トライアス『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』(ハヤカワ文庫)

三部作最後の『サイバー・ショーグン・レボリューション』の邦訳版も刊行されたので、そろそろ読まねばなるまいと、買ってあったシリーズ第一作である本書を手に取った。

購入当時は、日本のアニメを中心とした「オタク文化」の影響を強く受けた作品、ということで注目した。
私は「オタク」世代ではなく、その前の「マニア」世代だが、私個人にマニア気質はなく、単なる「ファン」だと思っている。しかし、かの宮﨑勤さんと同年生まれなので、日本の「オタク文化」の動向には常に注目してきたから、その海外における影響という面にも興味があった。もちろん、同じ興味から、スピルバーグ監督の 『レディ・プレイヤー1』も観ている。

で、そんな私が、本作をいま読んだ感想としては、正直「こんなものかな」という感じで、たしかに日本のアニメの影響が、道具立てだけではなく、キャラクターの描き方などにも表れている。例えば、本作のヒロインと呼んでいいだろう「槻野明子」は、典型的な「ツンデレ」キャラだ。
要は、人物の描き方が、「文学的なリアリズム」に立脚したものではなく、アニメキャラ的なのだ。大塚英志だったが提唱した「まんが・アニメ的リアリズム」によって描かれているのである。

私は、テレビシリーズの『鉄腕アトム』の時代からアニメを視て育ってきた人間なのだが、「小説」に関しては、必ずしも、そういったものを求めているわけではない。いや、アニメやマンガには、ずっと接してきたからこそ、「文学」には「文学でしか描き得ないもの」を期待する気持ちが強いので、「まんが・アニメ的リアリズム」で書かれたものの多い、いわゆる「ラノベ」は(否定する気はないが)、よほど評価の高い作品以外は、娯楽としてさえ読もうとは思わないのである。

したがって、私は本作の「ラノベ」的な部分については「こんなものかな」以上のものは感じなかった。ただ、本作で評価できるのは、多くのレビュアーに、あまり顧みられていない「歴史批評」的な部分である。

本作が「改変歴史SF」であるというのは言うまでもないが、そのことによって著者が描いているのは「もしも立場が違っていたら、私たちはどのように振舞っていただろうか」という、そんな真摯な「問い」である。問題は「どんな世界になっていただろうか」ではなく、「私(たち)は、どのように振舞っていただろうか」なのだ。
具体的には、「第二次世界大戦を、枢軸国が勝っていたとしたら」「アメリカが敗戦して、日本とドイツがアメリカを分け合うかたちで占領していたとしたら」、「私たち」は、はたしてどのように振舞っていただろうか、という問いでなのある。

ここで言う「私たち」とは、作者の場合「アメリカ人」であるし、読者である私の場合は「日本人」となろう。つまり、この作品が問うているのは、「勝者と敗者」の双方であり、「勝者の視点と敗者の視点」を相対化し、逆転させる視点の確保だと言えよう。

例えば、私たち日本人は、先の大戦の「結果」について、ながらく「敗者の立場」からしか見てこなかった。
「原爆を落とされて、ひどい目に遭った」とか「国土が灰燼に帰して、ひどい目に遭った」とか「中国からの引き揚げで、ひどい目に遭った」とか「シベリア抑留で、ひどい目に遭った」とか「ソ連は終戦直前に条約を破って攻め込んできた、ひどい国だ」とか「軍部政府に騙された」とか、逆に「GHQに洗脳され、憲法まで押しつけられて、いまだにひどい目に遭っている」とかいった具合で、自分たちが遭遇した「被害」的側面ばかりを強調し、その「加害者」を批難ばかりしてきた。
また、だからこそ、日本が被害を与えた(加害した)東アジアの国々が経済力をつけ、日本(による、戦後賠償的な経済支援)に頼らなくても済むようになると、「従軍慰安婦」や「朝鮮人強制労働」などの賠償問題が噴出して、嫌が上にも日本の「加害者性」を突きつけられることにもなったのである。

つまり、もしも先の戦争で「日本が勝っていたなら」、きっと「現実の日本が被ったような損害」を、他国に対してより「いっそう強いていた」だろうし、そのことに寸毫も良心の呵責をおぼえず、むろん「反省」もしなかっただろう、ということなのだ。
そして、本作には、そうした「日本の(勝ち負けに関わらない)本質」が、やや誇張されたものだとは言え、的確に描かれている。本作は、間違いなく「日本的精神史」批判となっているのである。

ただし、これは、現実には「勝者」であったアメリカに対しても、裏返したかたちで向けられている批評だと言えるだろう。
つまり、アメリカが敗戦して、戦勝国である日本やドイツに「ひどい目」に遭わされれば、自分たちが「無垢の被害者」ででもあるかのように思い込んで「自己美化」に励み、自分たちが「現実の勝者」として為したことなど(例えば、原爆の投下などといったことを)「仮定的に」想像することもできなかっただろう。
(無論、それでもアメリカは、日系人の強制収容について、謝罪し賠償した点で、敗戦後日本よりはマシかもしれない。原爆については、被害が大きすぎたために、政治的な公式謝罪は困難かもしれないが、個人レベルで過ちを認める人たちが、パヨク呼ばわりされることはないだろう)

そして、さらに言えば、本作における、少々「荒唐無稽」とも思えるような「極端さ」は、しかし、単に「まんが・アニメ的リアリズム」に拠るわけではなく、著者の「韓国系アメリカ人」という立場に由来する、ある種の「現実的リアリズム」に立脚するものともなっている。
と言うのも、著者は幼少期に韓国で「軍政下における、激しい民主化運動」を、その目にしているからである。つまり、彼は、子供心にではあれ、「反体制ゲリラ闘争」を目にしており、「世の中が変わるかもしれない=勝者と敗者が反転するかもしれない」という世界を、肌身に感じていたのだ。

だから、1970年代以降の「実力闘争のない、平和な日本」に生まれ育った読者が、本書に込められた「実感的リアリズム」を理解できないのは、ある意味では仕方ないことなのだろう。本書に描かれたような「極端なこと」は、現実には起こりえず、批評的な誇張として描かれたものであろうと、そう無難に考えてしまう。

しかし、現実の歴史から目を逸らさず、歴史的事実に学ぶならば、私たち、戦後の「平和ボケした日本人」が想像もできないようなことを、私たちの曾祖父や祖父や父たちが、現実に行なってもいたのである。
無論、そんな人ばかりではない。けれども、それは現にあったし、小説に書けるような非道な行ないなら、現実にもどこかで現に為されていたはずなのだ。

だから、本書を「やや荒唐無稽な、思考実験的・歴史批評作品」だと考えるのは、間違いだ。
「これくらいのことなら、人間は何度でもやってきた」そんなことを描いた、ある意味では「普通にリアルな作品」だと、私たちは、そこまで想像力を働かせるべきであろう。

したがって、本作が「まんが・アニメ的リアリズムによって書かれた、少々荒唐無稽なラノベ的作品」だから「SFではない」などと言っているような読者は、「SF」について、ろくに考えたこともない読者だと言えよう。
「SF」の、一つの定義である「スペキュレイティブ・フィクション (Speculative Fiction) 」とは、文字どおり「思弁」することが出来て、初めて読める小説なのだ。
したがって、作品の表面(=物語)を掻い撫でにすることしか出来ないような読者に、「SF」を云々する資格など無いのである。

初出:2020年10月15日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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