見出し画像

小田雅久仁 『禍』 : 自己喪失の恐怖と快楽

書評:小田雅久仁『禍』(新潮社)

前著『残月記』で、吉川英治文学新人賞日本SF大賞をダブル受賞して注目された、けっこうキャリアのある作家の短編集である。

『2003年、「影舞」で第15回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作となる。2009年に『増大派に告ぐ』が第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、作家デビューした。
2013年、『本にだって雄と雌があります』が第3回Twitter文学賞国内部門で第1位となった。2014年、「11階」で第25回SFマガジン読者賞国内部門を受賞。2022年、『残月記』で第43回吉川英治文学新人賞を受賞。2023年、同作で第43回日本SF大賞を受賞。』

Wikipedia「小田雅久仁」

つまりデビュー作からでも10年以上のキャリアを持つ作家なのだが、日本ファンタジーノベル大賞出身者にありがちな、「ジャンル分けの困難性(レッテル不能性)」が禍した、というタイプの一人ではないかと思う。いわゆる「ファンタジー」作家ではないのだが、「ホラー作家」だとか「SF作家」だなどとわかりやすく分類しずらいほど、いろんなものが書けるし書く、そんな「境界的」な作家なのだ。

私がこの作家に注目したのも近年のことで、『本にだって雄と雌があります』が第3回Twitter文学賞国内部門で第1位となった際に、そのタイトルに惹かれたのと、大森望がこの本とその著者を『本の雑誌』の連載書評で褒めていたのが大きかった。
本好きには無視し得ないタイトルだとはいえ、Twitter文学賞だけなら「若い人にウケた、軽い小説なんだろうな」とスルーしていたのだが、大森望が強く推していたので「これは、若者向けというわけでもあるまい。チェックしておく必要がある」とそう考えて、同書を購入した。一一しかしながら、例によって、積読の山に埋もれさせてしまった。
そして、出世作と呼んでも良い『残月記』についても、大森望が強く推していたし、これは今年の目玉になりそうだとの感触もあって刊行早々購入したのだが、やっぱりこちらも、積読の山に埋葬してしまったのである。

 ○ ○ ○

さて、そんなわけで「今度こそは」と読んだのが、本書という次第。
収録作は、次の7本だ。

(1)食書
(2)耳もぐり
(3)喪色記
(4)柔らかなところへ帰る
(5)農場
(6)髪禍
(7)裸婦と裸夫

大雑把にいうと、(1)〜(6)までが「ホラー」で、最新作の(7)は、ユーモラスな「SF」。(7)だけが奇妙に浮いている感じである。書名の『禍』からしても、(7)は、必ずしも「禍」を描いてはおらず、むしろ「希望」を描いた作品だと言えるかもしれない。言い換えれば、ユーモア小説として書いたからこそ、素直に「希望が書けた」ということなのかも知れない。

(1)は、タイトルどおりで、「本を食う」話。本を食うと、その作中世界に入り込んでリアルな体験ができるという、依存性のある奇妙な病気(?)に感染した中年男性が、魔女めいた女の支配する、物語の中の世界にのめり込んでいく、といったお話だ。

(2)は、語り手の男が、電車内で遭遇した、ある事件をきっかけにして、「耳もぐり」という不思議な術を体得した経緯を、失踪した彼女の捜索のため、男に話を聞きにきた若者に語り聞かせる、という話。
「耳もぐり」とは、文字どおり、相手の耳の穴から、体ごと相手の中に潜り込んで、相手と体験を同じくできるというもので、長く相手の中に止まると、自我が融合して一体化してしまう危険性がある、というようなものだ。

(3)は、何か得体の知れないものが、徐々に世界から「生命としての」を奪い、灰色の世界へ変えていくという危機が描かれている。どうやら、この得体の知れない何かとは、主人公が、子供の頃から夢だと思っていた「もう一つの世界」を襲ったそれであり、それがついに、こちらの世界まで浸出してきたのだった。

(4)は、ある時、バスの二人掛け席の隣に座った肥満女性に、異様な性的興奮をおぼえたしまった男の末路を描いた作品。もともとスレンダーな女性がタイプであり、そのタイプである妻を深く愛していた男が、それ以来「女のの中に溺れたい」という、思いがけない欲望に憑かれ、またその女が乗り合わせてくるのを待つようになる。だが、待ちに待った肥満の女は、よく似た別人であり、以降、太ってはいるものの、最初の女ではない、しかしどこか似たところのある別の女が次々と現れ、最後に最初の女が現れて…。
本作に描かれる「脂まみれ」っぽい性的幻想は、「第10回日本ホラー小説大賞受賞作」である、遠藤徹の傑作「姉飼」の描いた、倒錯的欲望に通ずるところが感じられた。

(5)は、人間の「鼻」を畑に植えて、何かを得体の知れないもの作っている、山奥の怪しい農場に雇われた男の体験談。独特の静かな非現実感がそくそくと迫る作品。

(6)は、には霊力が宿るとする怪しげな新興宗教の、トップ継承の記念集会に、数合わせのサクラとして雇われ参加した女が、その集会で目にした、およそ非現実的でグロテスクな出来事を描いたもの。

(7)は、すでに少し触れたが、本集では異色の、ユーモアSF的な作品。主人公が電車に乗っていたところ、隣の箱から、にネクタイをしただけの中年男が移ってきて、「お前らァ! いつまでもそんな格好してんじゃねえよ! これからはそんな時代じゃねえだろ!」と叫んで、その箱の乗客たちに次々とタッチすると、その中からも、いきなり服を脱ぎ始める者が現れて、車内はパニックになる。列車が駅に着くなり車外に逃れ、駅から出た主人公は、すでに駅前が同様のパニック状態にあることを知り、まだ「感染」していない人たちと、ビルの屋上に避難して立てこもるが、というお話だ。

以上、大雑把に全収録作の内容を紹介したのは、この作家の「特徴」を論じるための下拵えとしてである。

作者、小田雅久仁の特徴は、ひとことでいえば「侵蝕による自己喪失の恐怖と欲望(の葛藤)」といったことだろうか。

たぶん作者は、(3)や(4)の主人公と同様に、本来は「さわやかな硬質性」のようなものに惹かれる人なのであろう。
その意味で、(4)の主人公の、本来の「女性の好み」というのが著者自身の「好み」でもあり、その好みを色濃く反映したのが(3)のヒロインだと思う。

ここで私が言うところの「さわやかな硬質性」とは、いうなれば「自他のけじめ」がスッキリとついていて、それでいて気持ちの良い関係を保証する個としての属性、とでもいうべきものであり、言い換えれば「過剰干渉」的な「ベタベタした癒着的関係」とは、真逆にあるものだ。

つまり作者は、通常は「さわやかな硬質性」を持つ、適度に距離をおいてくれる他者に好感を持っているのだが、心のどこかで、それとは相反する「暗い欲望」を抱えている。他者からの侵蝕をうけ、自他が溶け合い、個として私が失われている「崩壊感」のようなものに惹かれる自分がある、ということを、作者は自覚しているのだ。
だから、作者は「他者からの侵蝕」の物語を「恐怖」の物語として語るのだが、しかし、心の底ではそれを望んでもいる

(1)の主人公は、本を食った先の世界で、魔女のような女の、マンションの廊下での排尿の甘い匂いに惹きつけられ、同様の男たちと共に、女の奴隷になることに喜びを感じる。これは明らかに、マゾヒスティックなものだが、作者には、こうした自虐的な欲望が確実にあって、同時にそんな欲望を恐れてもいる。

(「食書」に登場する女は、こんな感じか)

(2)も、耳から他人の中に潜り込み、やがて一体化するというのは、(1)と同様の「他者からの侵蝕による恐怖と快楽」を描いたものだし、(4)の「豊満な女の肉に溺れたい」という欲望から「母胎回帰」へという流れも、本来の「さわやかな硬質性」好みを捨てて、肉欲に溺れて崩壊しゆく自分の「後ろめたさとそれゆえのマゾヒスティックな快楽」を描いている。
(6)もまた、生き物のような生々しさをもつ髪の毛が、体に入ってくると同時に、それによって自分が生まれ変わる、というグロテスクな世界を描いている。

一方、(3)は、以上とは別方向を描いた作品で、この作品における「侵蝕」は、「灰」化ということからも明らかなとおり、「湿気」や「脂気」が抜けて崩壊していく世界を描いていると言えよう。また、だからこそ、物語はそこで終わらないで、「灰」の塊になって死んだかと思われた主人公たちは、その灰というサナギを脱ぎ捨てて再生し、砂浜から希望の水平線に向かって旅立っていくことになる。
(7)も、衣服を脱ぎ捨てるだけではなく、人間として皮膚まで脱ぎ捨てて、青白い皮膚という「イメージとして、冷えて硬質な体」を持つ人間に生まれ変わり、海に没した新世界を、喜びを持って生きることになる。

(5)については、以上のような「二項対立」的な図式には当て嵌まらない
(1)(2)(4)(6)などで描かれた「濃密な欲望への没入」という過剰な「動物性」の方向でもなければ、(3)や(7)のような「鉱物的非侵蝕性」の世界でもない。
しかしこれは、両極二項の間で揺れ動き、「どちらか一方だけ」を選びきれずにいる著者にとっての第三項として、「どちらでもない、静かに繰り返される、植物的な生」を描いた作品だと理解することが可能なのではないだろうか。

 ○ ○ ○

そんなわけで「湿度・粘度・脂気」が高く「臭気」の濃い「恐怖と快楽」の世界が合う人は、この作者の世界を堪能できるだろうし、それが趣味ではない人には、まったく「合わない」、あるいは「生理的に受けつけない」ということになる可能性が高い。
これは、作者の「文体」にも言えることで、その静かににおい立つような独特の文体は、エンタメ作家には稀有な域に達しているものの、だからこそ「読みにくい」と感じる、今どきのエンタメ読者も少なくないだろう。

(「柔らかなところへ帰る」の肥満女のイメージは、こんなところか。小田雅久仁は、きっと春川ナミオを知っているはずだ)

で、私はというと、前述の遠藤徹の「姉飼」が大好きなのだから、「湿度・粘度・脂気」が高く「臭気」の濃い世界というのは、決して嫌いではない。いや、むしろ好きなのだが、そういうのが好きな者としては、逆に「あとひと推しがなく、もの足りなかった」「もっと徹底してやって欲しかった」という印象が否めなかった。
また、だからこそ、私が一番好きだったのは、「さわやか」と呼んで良い(3)の「喪色記」であり、小説的な仕掛けの部分で(2)の「耳もぐり」ということになる。

だが、この2本を読んだだけでも、本書を読んだ価値は十分にあったし、ぜひ他の著作も読んでみたいと思っている。決して水準は低くない、力のある作家なのだ。

だから、願わくば、徐々に「薄味」になるのではなく、「濃厚さ」を増していって、最後は「ど変態なヘビー級の奇書」を書いてほしいと思うのだが、これはいささか高望みにすぎるだろうか。


(2023年9月19日)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○




 ○ ○ ○



 ○ ○ ○







 ○ ○ ○














 ○ ○ ○

 ○ ○ ○






この記事が参加している募集

読書感想文

SF小説が好き