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高山羽根子 『暗闇にレンズ』 : 世界に対する〈謙虚さ〉の長所と短所

書評:高山羽根子『暗闇にレンズ』(東京創元社)

高山作品は『うどん キツネつきの』『オブジェクタム』につづく3冊目で、私のとっての初の高山長編だが、残念ながら、著者の長所が生かされない作品になってしまっているように思う。

著者の長所とは何か。
私が思うに、それは「テーマや主張を作らない」ということであり、言い変えれば「作者として『この作品は、こういう作品だ』というような作り方をしない」ということになるのではないだろうか。
本書にも、

『 未知江は、あらゆる演出を消し去ることが不可能であると思い知った後であっても、その事実を肝に銘じながら一層慎重に〝作為〟を消すことに注意を払った。未知江は映画制作の仕事をかなり長く続けたが、新人の指導にをするようになってからはことあるごとに、
「物語は私たちがこしらえるんではありません」
 と話していた。撮影者が作るのではなく、また俳優や記録対象が作るのでもなく、見る側が作るのでもない。物語はそうしたすべての隙間から、望みもせず生まれてしまう火花のようなものだ、と映画人になるべき若者に対し、言って聞かせていた。』(P173)

もちろん、未知江が作っていたのは「ドキュメンタリー映画」であって、本書作者の作っている「小説」ではない。言うまでもなく「小説」というのは、「ドキュメンタリー映画」に比べて、圧倒的に「創作」の度合いが高く、素材への依存度が低い。
しかし、本質は同じである。人は、ゼロから物を作るのではないからだ。

高山羽根子は、評価の別れがちな作家で、高山を評価しない人の言い分の多くは「何が言いたいのかわからない」と言ったところにあるだろう。つまり、わかりやすい「筋立て」や「テーマ」や「オチ」が無い。読み終わって「著者の描きたかったもの」がよくわからない。一一そういったところではないだろうか。

一方、高山を高く評価する読者の多くは、そういう「わかりやすいエンタメ小説」に、飽きたらない人たちなのではないだろうか。そんな「どこかで読んだことのあるような、お定まりのパターン小説なんか、読むだけ時間の無駄」とか「お子様ランチは要らない」などと考えるような読者なのではないだろうか。

だが、言うまでもなく、高山羽根子が書きたい小説とは「わかりやすいエンタメ小説」ではない。作者が意図的にこしらえられるような、安上がりな「こしらえもの」ではなく、作者が精一杯、誠実に「描出しようとした世界」から『望みもせず生まれてしまう火花のようなもの』を求めての、創作なのではないだろうか。

つまり、高山羽根子は、しばしばSF的な題材を扱ったり、キャラクターが立っていたり、リーダビリティーの高い文体を持っていたり、といった「エンタメ作家」的な長所を持ってはいるけれども、本人が「小説書き」という行為に期待しているものは、「娯楽提供」などではなく「世界創作の恩寵」のようなものなのではないか。その意味では、高山羽根子が(「直木賞」ではなく)「芥川賞」を受賞したというのは、きわめて妥当なことだったのではないだろうか。

そして、本作である。

本作もまた、そのような「意図」によって書かれた作品であろうことは、ほぼ間違いない。
本作は、「映像を撮ること・視ること」と「人間」との関わりを描いているが、それが「(一義的に)どういうものである」とか「どうあるべきだ」などという「著者としての結論」を下してはおらず、またそのつもりもない。ただ、映像と人間との関わりというものを多面的に描きながら、『そうしたすべての隙間から、望みもせず生まれてしまう火花のようなもの』の発出を期待していて書いたのが、本作なのではないだろうか。

一一しかし、そうした作者の期待は「不発に終った」というのが、私の評価である。

私は、作者のこのような「創作姿勢」を支持する。しかし、それが必ず成功するものだなどとは思っていない、ということだ。

作者が今回の失敗から学ぶことがあるとすれば、それは「長編小説」を持たせるためには、著者の「書き方」は「背骨に欠ける」というようなことではないだろうか。
もちろん、これは比喩的な表現であって、「プロットをしっかり立てろ」とかいった話ではない。

そうではなく、高山の「世界」と向き合う姿勢が、いささか状況依存的であり、あなた任せであって、短編であれば、そういう姿勢でも「たまさか」火花を生むこともあるし、それで充分なのだけれども、長編の場合、その程度の(火力の)火花では、長編小説という重量に見あわず、その世界を支えきれないのではないか、ということである。

つまり、高山羽根子に求められているのは、「世界と拮抗する、作者自身の世界観の強度」なのではないか。
世界との、全身全霊を賭けた「ぶつかり合い」があってこそ、そこに力強い火花が生まれうるのではないか。単に世界に対して謙遜に、世界の声に忠実であるだけではなく、自身の不完全さを承知の上で、それでも自身を賭けて世界に対峙する姿勢があってこそ、開示される世界もあるのではないかと、私にはそう感じられるのである。

世界に対して、もうひとつの世界である「私」を賭けて、全身全霊でぶつかるという姿勢は、「世界を創る」などというエンタメ的な不遜さの対極にある、「謙遜さ」なのだと私は考える。
高山羽根子には、そうした「身を捨ててこそ」という「謙遜さ」において、作家的な強度を高めてもらいたいと思う。

初出:2020年10月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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