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遠野遥 『破局』 : 共感し得ない主人公としての 〈あなた〉を描く : けんご@小説紹介には紹介できない小説

書評:遠野遥『破局』(河出書房新社)

「第163回 芥川賞受賞作」である。本作は間違いなく「純文学」だ。どこが「純文学」なのかと言えば、読者を「楽しませない」ところであり、「頭を使えない読者」には、到底ついていけない作品だからである。

本作の「面白さ」は、一人称の語り手である主人公「私」が、とうてい共感し得ない「変な奴」であるにも関わらず、本作を読んでいる読者も含めた「今どきの若者」の「ある一面」を、見事に象徴して見せている点だ。

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当然、そんなものが「当人」たちに喜ばれるばずもない。本作の「面白さ」とは、「興味深さ」を意味するのであり、自分の理解できることにしか興味を持てないような「視野の限定された」それでいて「その自覚もない」ような読者には、到底「楽しめるような代物ではない」のである。だから「純文学」なのだ。

 ○ ○ ○

本作の主人公は、とても「真面目」な青年である。「真面目」ではあるのだが、たしかに「変」なのだ。何が「変」なのかと言えば、「バランス感覚」というものが、およそ欠如している点だ。

例えば、こんな具合である。

『 近頃、私たちには時間がなかった。麻衣子は政治塾に通い、時々父親のつてで知り合ったという議員の手伝いもしていた。何年か社会人経験を積んだ後は、自分もどこかの議員に立候補するつもりだという。大学の講義やゼミも手を抜いている様子はなく、最近は就職活動も始め、私の相手をしている暇はいよいよなさそうだった。最後にセックスをしたのは、一ヶ月以上前だったか。付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。それに、私は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることはできない。麻衣子が目標に向かって頑張っているのなら、それを応援するのが私の役目だろう。』(P35〜36)

見事な「描写」である。この一説で、主人公の人柄であり、その「特異性」が見事に描出されている。
ミステリなどでよくあるような、わけのわからない妄想や被害者意識にとり憑かれている(「ウヘヘ…」といった感じの)人物とか、わかりやすく独善的な世界観にとらわれている人物とか、そういった「紋切り型」の「サイコ」ではなく、世間の「良識」を語らせつつ、その「偏向=変さ」を的確に描いている。

彼の言うことは、まったく「お説ごもっとも」であり、決して間違っているわけではない。しかし、「理屈としては、そうだけど、君の本音はそうではないだろう?」と問えば、彼ならきっと「いや、これが俺の本音です」と答えるだろう。
実際、上の部分は主人公の「心内語」であり、「口頭」での主語は「俺」なのに、「心内語」の主語が「私」という、無自覚な不自然さも含めて、そこに「意識的な嘘」はあり得ないのである。

しかし、「だからこそ変」なのだ。
普通の人間なら「何が正しいことなのかを、頭ではわかっていても、感情がそれを否定する」といったことが、往往にしてある。つまり、「葛藤」である。それが、この主人公にはない。実質的に「内的な葛藤が無い」のである。
だから「変」であり、どこか「ロボットの心内語」めいた、フラットな印象なのだ。本人は「葛藤」しているつもりでも、そこには、形式的な葛藤はあっても、感情的な葛藤がない。

例えば、上の引用部分を「普通の人間」風に書き換えてみれば、こんな具合になるだろう。

「 近頃、俺たちには時間がなかった。麻衣子は政治塾に通い、時々父親のつてで知り合ったという議員の手伝いもしていた。何年か社会人経験を積んだ後は、自分もどこかの議員に立候補するつもりだという。大学の講義やゼミも手を抜いている様子はなく、最近は就職活動も始め、俺の相手をしている暇はいよいよなさそうだった。たしかに麻衣子は頑張っていると思う。それは否定しないし、喜ばしいことだと思う。でも、……俺としては、やっぱり寂しい。麻衣子が俺を軽んじているとは思わない。思いたくもないが、もう少し、俺のために時間を取ってくれてもいいのではないか。彼氏である俺と、もっと一緒にいたいと思うのが、普通の彼女なんじゃないのか。麻衣子は、本当に俺を愛しているのだろうか。それとも、形ばかりの便利な彼氏に過ぎないのだろうか。最後にセックスをしたのは、一ヶ月以上前だったか。付き合っているのだから、正直、俺は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したい。もちろん、勉強もしなくてはならず、毎日セックスばかりしているわけにもいかないが、でも、若い恋人同士なんだから、二日に一度くらい、しても当然で、したくなるのが自然なのではないだろうか。でも、麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは法律的には強姦であり、麻衣子の気持ち次第では、俺は犯罪者として法の裁きを受けることになるかもしれない。そんなことはないと信じたいけど、今の麻衣子を見てると、ちょっと不安になってしまう。いずれにしろ、俺は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることはしたくない。麻衣子が目標に向かって頑張っているのなら、それを応援するのが俺の役目だろうと思う。でも……」

と、こんな感じだろうか。ずいぶん「人間らしく」なったはずで、読み比べれば、主人公による「原文」の異常さが、際立つはずである。

 ○ ○ ○

しかしながら、この主人公の「変さ=異常さ」は、ある意味では「今どきの若者の真面目さ」を極端化したものでしかなく、これと似たような人など、いくらでも実在するし、それでいて、この主人公と同様、その自覚がないようだ。

こうした「歪んだ(本気の)正論」というのは、例えば、こんな具合である。

『結局、人を傷つけたってことなんだから、謝罪すべきだろ』

とこれは、記憶で書いているのだが、どういったシチュエーションで発せられた言葉かというと、先般、炎上事件として話題になった「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」事件で、豊崎由美のツイッターアカウントに寄せられた、けんご支持者による豊崎批判コメントのひとつだ。
ちなみにこの人物は、自分が豊崎由美を「傷つけ」ようとしていることに、完全に「無自覚」である。

豊崎由美は、けんごについて、

『正直な気持ちを書きます。わたしはTikTokみたいなもんで本を紹介して、そんな杜撰な紹介で本が売れたからって、だからどうしたとしか思いませんね。そんなのは一時の嵐。一時の嵐に翻弄されるのは馬鹿馬鹿しくないですか?
あの人、書評書けるんですか?』
(豊崎由美、午後10:58 · 2021年12月9日·Twitter for Android)

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とツイートした。これに対して、けんごは、次のように応答した。

『書けません。僕はただの読書好きです。

書けないですが、多くの方にこの素敵な一冊を知ってもらいたいという気持ちは誰にも負けないくらい強いです。

読書をしたことがない方が僕の紹介を観て「この作品、最高でした」「小説って面白いですね」と言ってくれることがどれだけ幸せなことか知ってますか?

 (午前1:18・2021年12月11日)』

『TikTokの投稿をお休みさせていただきます。各方面で様々な企画等控えているのに、本当に申し訳ないです。

僕はTikTokを仕事にしてません。PR動画を1本もあげたことないです。純粋楽しかったのですが、これからは楽しめそうにありません。

動画も含めて、Instagramでの小説紹介は続けていきます。

 (午前8:49・2021年12月10日)』

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見てのとおり、本当か嘘かは別にして、「純粋な」カマトトのけんごは、豊崎由美の「心ない言葉=適切な評価」に傷つけられたと自己申告しており、けんごの支持者は、それを「真に受けて」、豊崎由美を「加害者」認定し、「加害者=悪=謝罪すべき」と考えて、上のツイートを「匿名」で行ったということだ。
無論、同レベルの豊崎批判者は山のようにいて、だからこそ、こんな幼稚な批判でも「バッシング」を構成し、一定の影響力を行使することができたのである。

で、問題は、この「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」という、実にわかりやすい「子供の論理」である。

上に「再現」して紹介した豊崎批判のツイートを放ったのは、もしかすると(けんご曰く)『読書をしたことがない』ような未成年の「子供」かもしれない。だが、似たようなツイートは山ほどあったので、20代、30代は当たり前で、下手をすると「還暦」を過ぎたような人でも、似たようなコメントをしていた蓋然性は十分にある。
なにしろ事実として、還暦を過ぎたミステリ作家の綾辻行人が、豊崎を「名指し」しないで、けんごを支持する豊崎批判のツイートをしていたのだから、「子供の論理」を弄するに、年齢は関係がないようだ。

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ともあれ、綾辻行人のような高齢者は、あくまでも例外だと思いたいが、そんな綾辻世代の人たちよりも、下手をすると、その「孫の世代」である、今どきの(本物の)若者たちの中に「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」という「変に真面目=硬直した思考」の持ち主が増えているのではないかという疑いが、28歳で本作『破局』を書いた、遠野遥にも共有されているようだ。「真面目だけど、どこか変な奴が増えている」という危機意識が遠野にあって、本作を書いたのではなかろうか。

ともあれ「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」とか「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」「(いつでも)1+1=2」などというロジックは、つまらない「本格ミステリ」でなら通用しても、「文学」では通用しない。文学においては、人間の心理は「単純ではない(形式論理では済まない)」からで、

『付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。』

などと考えてしまうような「シンプルなロジック」は、「異常」なものとして提示されるしかないのである。

一一と、こう書いても、たぶん「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」とか「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」「(いつでも)1+1=2」などと考える単細胞な人には、私が何を問題にしているのかが、きっと理解できないだろう。だから、先の「豊崎批判者」のツイートを例題として、その「問題点」を解説しておこう。

「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」

というのが「豊崎由美批判者」の主張だが、例えば「ナイフを持って襲いかかってきた襲撃者から、もみ合いの中でナイフを奪い、逆に襲撃者を傷つけてしまった」という場合、「被害者」は襲撃者の方となり、悪いのは(加害者は)、襲撃者を傷つけた被襲撃者の方だ、ということになるのだろうか? 現に「加害した者」となった被襲撃者の方が、結果的に「害を被った者」となった襲撃者に対し、「謝罪」して、罰せられるべきなのだろうか? 一一無論、そんなことはない。

もちろん、場合によっては「過剰防衛」が問われる場合もあるのだが、ナイフを持って襲いかかってきた襲撃者から我が身を守るためのもみ合いの中で、結果としてやむなく襲撃者を傷つけたのなら、それは「正当防衛」であり、当たり前に、襲われた方が「被害者」であり、襲った方が「加害者」となる。仮に、加害者の方が、結果として死んだとしても、である。

では、けんごの「小説紹介」は、「加害行為」だろうか。無論、そうではない。単に「レベルは低いが、大衆ウケした小説紹介」に過ぎない。
では、豊崎由美の「けんご批判」は、「加害行為」なのだろうか。無論こちらも「加害行為」ではない。単なる「批評」である。「駄作は駄作」「駄評論家は駄評論家」「書けない奴を書けない奴」と評したに過ぎない。

つまり、もしも自分自身が「批評の対象」となるのが嫌なのなら(その覚悟が無いのなら)、「社会に対して影響力を行使」しようなどとしてはならない、ということなのだ。

「社会的発言(行為)」には、それ相応の「責任」が伴い、おのずとそれは評価され、支持してくれる人もいれば、批判してくる人もいて当然。
それが「大前提」なのだから、「発言責任」者として、そうした「批判」を受け止められないのであれば、最初から仲間内で(影響の少ない範囲で)「小説紹介」をしていればいいだけであり、それならば「その(大きな)影響力に見合った、レビューが書けるのか」などと問われることもないのである。
要は「ウケれば(フォロワーさえ増えれば)何でも良い」というわけではない、ということなのだ。

そんなわけで、「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」事件「本質」とは、「プロの書評家である豊崎由美が、けんごに(プロの)言論人としての、責任とその自覚を問うた」ということなのだ。
だからこそ、けんごの方は『僕はTikTokを仕事にしてません。PR動画を1本もあげたことないです。純粋楽しかった』だけだと、その「発言責任」の引き受けを拒否し、「誤魔化して逃げた」のである。

言うまでもないことだが、けんごは「アマチュア」として「小説紹介」や「動画投稿」をやっているのではない。目的は「フォロワーを増やし」「有名になって」「皆にチヤホヤされ」「金も稼ぐ」ことで、それは『各方面で様々な企画等控えている』という言葉にも明らかだ。
けんごが、この『様々な企画』を、奇特にも、すべて「無報酬」やっているというのならば、「アマチュア」と認めてやってもいい。私も、紀伊国屋書店などで現に目にした「けんご大賞」なるものも、すべて「無報酬」で、無料で「名前を使ってもらい」やってもらっているというのなら、立派に「アマチュア」であろう。だが、決してそうではないはずだ。(一一違うかい、けんごさん?)

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(紀伊国屋書店 梅田本店 2022年1月17日撮影)

 ○ ○ ○

というわけで、自分の好きなけんごが、わざとらしい三文芝居で「傷ついて見せた」ら、それをそのまま「鵜呑み」にして、けんごを「傷つけた」豊崎由美を「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」などと責める、けんごファンというのは、端的に本書『破局』の主人公と同質の「単細胞人間」でしかない。

しかし、なぜ、今どきの若者に、こうした「破局シンドローム」を見ることができるのだろうか?

無論、昔から、こういう人間は存在した。しかし、問題は、そんな「単細胞人間=ロボット人間」が増えている、と感じられる現状である。

多くの人の間でこのような「問題意識」が共有されるのは、事実として、そういう人間が増えているからかもしれないし、あるいは、昔は「バカ扱いにされるので、表には出てこなかった」ような人が「バカにバカと言っちゃいけません」という世間の「正論」に押されて、自覚を欠いたまま前面に出てくるようになった、ということなのかもしれない。

あるいは、日本社会における「建前」主義が、外圧によって強化された結果、多くの若者が「建前を建前」と気づけないままに、社会に出てきた結果なのかもしれない。

私は、石田光規著『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』のレビュー「さびしい〈ムレの時代〉」で、次のように書いた。

『今も昔も若い人は「本音と建前」の区別がつかない。しかし、昔なら、十代も半ばになれば、その「欺瞞」に気づいて「大人はずるい」と批判し始めるのだが、今の大人は、もっと巧妙だから、若者は「本音と建前」の使い分けに気づかないまま社会に放り出されて、「隠された本音社会」の中で、あくまでも教え込まれた「建前」を生きようとして苦しむのである。』

そう。若者は「建前」だけを教えられ「それさえ守っておれば、あなたは正しく生きられ、人から非難されることもなく、幸せに生きられる」などと「嘘っぱちの保証」を信じて世に出てきたため、その「建前」が万能ではあり得ない複雑な現実の中で、やがてその「矛盾」に苦しむことになる。

そして、自分が教えられてきた「建前=紋切り型の正論」が「絶対的な正義」などではないと気づくまでの間は、件の「豊崎由美批判者」のような「単細胞な正論」を、不用意に振り回したりするのだろう。
だが、そんなものがいつまでも通用するほど、世の中は甘くなく、早晩、彼あるいは彼女は、正当に「バカ」扱いにされて批判され、屈辱に塗れることになるのである。

しかし、そのような「適切な屈辱」を与えられることで、彼あるいは彼女が「大人の思考」を適切に身につけられれば、本作『破局』の主人公のような「破局」を迎えなくても済むだろう。
本作の主人公の最後の姿は、「フランケンシュタインの怪物」にも似た、まさに「憐れまれるべき狂人」ともいうべきものだが、そんな彼を作ったのは、間違いなく「建前」しか教えなかった、無責任な大人たちなのである。

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(映画『フランケンシュタイン』1931年)

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ともあれ、本書の価値がわからず「楽しめない」という「正論を吐く、未熟な読者」の多くは、まさに本書主人公の「似姿」だと言ってよいだろう。彼らは、こんな風に言うはずだ。

「小説家というのは、読者を楽しませるために小説を書き、それを売っている食べているのだから、作品の狙いがどんなものであろうと、ジャンルが何であろうと、結果として読者を楽しませることができなかったのなら、その小説は無価値であり、それを書いた作家は批判されてしかるべきである」

「お説ごもっとも」なのだが、例えば、こういう「単細胞読者」は、私が「しかし、ドストエフスキーを持ってしても、犬猫を感動させることはできないよ」という「真理」を語っても、納得してくれないだろう。その場合の彼らの理屈(反論)は「私たちは人間で、犬猫ではない」。

無論、そんなことはわかっている。私の持論は「犬猫は犬猫でしかあり得ないが、人間の場合、神に等しい人もいれば、犬猫以下の者も大勢いる。人間というのは、そういう可能性の幅において秀でた生き物なのである」というものなのだ。
ただし、無論この理屈も「犬猫以下の知性しか持たない人間」には理解できないだろう。私としては、理解する努力をして欲しいのだが、それができないところが「犬猫以下」なのである。

というわけで、本作『破局』は、「今のアクチュアリティ」を描いた作品であるから、今読まれるべきであり、10年後にはその価値を失っている蓋然性は十分にある。
ただし、「今のためにだけある作品」であっても、ぜんぜん問題はない。いずれにしろ、人類は永遠に生きるわけではなく、永遠に残る作品など皆無だからである。

(2022年1月26日)

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