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石沢麻依 『貝に続く場所にて』 : 〈夢〉は「難解」ではない。

書評:石沢麻依『貝に続く場所にて』(講談社)

最新の第165回芥川賞受賞作。あいかわらず芥川賞・直木賞の注目度は高く、非エンタメ作品に与えられる芥川賞の受賞作であっても、単行本刊行後ひと月あまりの現時点で、Amazonのレビューが20本を超えているのだから大したものです。

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それにしても、芥川賞受賞作へのレビューであるにもかかわらず、毎回かならず目にするのが「読みにくい」「難解だ」といった、少々お門違いの「感想」です。正直な感想ではあるのでしょうが、芥川賞の対象になる作品は、そもそもエンタメ作品ではない。つまり、娯楽作品ではないんですから、「誰にでも読みやすく楽しめる作品」を目指して書かれたわけではない、ということくらいは、承知の上で読んだ方がいいのではないでしょうか。
「教養」がなければならないとは言わないけれど、理解を目指す「知性」がなければ、読めない作品というのは確実に存在するのだという「現実」くらいは、「文学」以前の問題として、承知しておいてもらいたいものです。

さて、問題は「難解」の方です。本当に本作は「難解」なのでしょうか?

私は、小説を読む上においては、(ウンベルト・エーコも言うとおり、誤読というのはあっても)「正解というのは無い」ということを前提にした方が良い、と思います。

もちろん「ミステリ(推理小説)」のような、特殊な「正解」を含み持つ、特殊な小説形式というものはあります。しかし、それにしたって、「正解」とは、作中で描かれた「事件の真相」等についてであって、そうした「事件とその真相」を含む小説全体として考えれば、その読解に「正解はない」というのが、正しい読みという意味での「正解」なのではないかと考えます。
ですから、いわゆる「純文学」的な作品である本作をとらえて「唯一の正しい読解があって、読者はその正解に至らなければならない」というような「狭隘な正解指向」、すなわち「難解」という作品理解は、間違いなのではないかと思うのです。

では、どのような読み方が正しいのでしょう? それは、作品の世界に寄り添いながら、自分の中から立ち現れるものを剔抉する、といった読み方なのではないでしょうか。
つまり、「正しい読み」というのは、いくつもあって、その意味では、特権的に唯一の「正解」というのは無い。ただし、それぞれの読みには、確実に「浅深」はあって、要はどこまで「深く」読めるのかが重要。言い換えれば、深く読もうとすることが「正解」なのであり、そうした意味でなら、作品は「難解」なのではなく、「読む」という行為が「容易ではない(難行)」ということなのではないかと思います。

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前説はこれくらいにして、私の「読み」を示しましょう。もっとも、これは前記のとおり、今のところの「読み」でしかないし、「読み」は時間とともに、この先も深められていく性質のものだとご理解ください。

本作が「記憶」を主題とした作品であるというのは、多くの人も指摘しているとおりだし、作品を読めばわかるとおりです。また、作品の題材として「東日本大震災」や「コロナ禍」が織り込まれています。

だから、この「主題」と「素材」を単純に結びつけるならば、本作は「記憶することの重要性とその困難」といった、終戦記念日などには、毎年あちこちで語られる「社会的問題意識」と結びつけられやすいのではないでしょうか。
無論、これも間違いではないけれど、それだけでは、そもそも「小説」にする意味がないし、「小説」としてもつまらない。では、どう考えるべきなのか。

本作では、現実に依拠した歴史的な「記憶」だけではなく、「夢」という要素が大きな部分を占めています。
そもそも、震災の津波で死んだ友人の幽霊が、語り手の住むドイツの町・ゲッティンゲンにやってくるという「夢」のような展開自体が、「現実」だけを問題にしたものでないことは明らかでしょう。
また、開巻の早々に、夏目漱石の『夢十夜』への言及があることからも、本作においては、「現実」に劣らず、「夢」が重要な要素であることは明らかだと思います。

それだけではありません。物語の舞台であるゲッティンゲンに登場する、地元の登場人物である女性たちは、「聖人伝説」を下敷きにした『聖女の名前を持つ女性たち』(P141)で、それぞれの過去に関わる物品は、それぞれの「聖人伝説」関わる道具となっており、とても「反現実的」です。

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また、登場人物ではありませんが、ゲッティンゲンの街に所縁のふかい聖人「聖ヨハネ」への言及があり、その「聖ヨハネ」を象徴する道具が「貝」。
本作中、語り手の友人アガータの飼い犬ヘクトーが、地面に埋もれていた貝がらをたくさん掘り出すという意味深なシーンがありますが、「貝」と言えば『夢十夜』の「第一夜」で、死んだ愛する女を埋めるために「真珠貝」で墓穴を掘ったという描写があります。また何より、「貝」で「記憶」とくれば、プルーストの『失われた時を求めて』に登場する「貝」型のお菓子「マドレーヌ」を忘れるわけにはいかないでしょう。同作の主人公は、熱い紅茶にマドレーヌを浸して口に含んだ瞬間、それまでに人生の「記憶」が一気によみがえります。つまり、マドレーヌは「記憶のタイムマシン」みたいな働きをしているわけですね。

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以上、思いつくままにいろいろ書きましたが、私がここで言いたいのは、本作をつらぬくのは「アナロジー(類似性)」や「連想」による「夢のロジック」だということであり、その意味で「記憶・夢・伝説・物語」は、実のところ、不可分のものである、ということです。

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さて、本作の語り手は、「東日本大震災」での「津波」によって友人・野宮を失っています。物語冒頭で、ゲッティンゲンにやってくるのは、その野宮の幽霊です。
津波にさらわれたらしい野宮の死体は、結局見つからないままとなってしまったために、本作の語り手は、10年が過ぎても、野宮の記憶を整理ができないままで、忘れることさえ出来ないでいます。また、自身も震災の被災者でありながら、海から遠い山地に住んでいたために、「津波」や「原発事故」については、他の多くの日本人と同様に「テレビで視ただけ」であって「直接体験」はしておらず、その点に「後ろめたさ」や「負い目」のようなものを感じていて、「野宮の体験は知り得ない」「結局は、体験者にしかわからない」という、ある種の「理解の不可能性」を抱えて苦しんでいるのです。

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で、こういうことは、私たちにもあるんじゃないでしょうか。「当事者以外にはわからない」という、「当事者の特権性」意識であり、ある種の「他者理解の断念」です。
たしかに、体験していないことについて、安易に「わかる」と思うのは、それこそ安直でしょう。他人の経験なんて、最終的にはわからない、と言った方が正確です。
しかし、では「他人のことはわからない」「まったく同じ経験をしなければわからない」ということから「語る資格がない」と結論するのは、果たして正しいことなのでしょうか?

私は違うと思います。もちろん、他人の経験を、完全に理解することはできません。しかし「似たような経験」をしておれば「想像し共感する」ことは可能でしょう。そうでなければ、そもそも同じ「震災体験者」だと言っても、個人の体験は別々ですから、誰もお互いに理解できないし共感できないということになってしまいますが、さすがにそれは、人間の現実を無視した、観念的な極論だと思います。
むしろ私たちは「他人の経験は、経験できない」からこそ、「物語」という(「擬似」ではなく)準体験装置を必要としてきたのではないでしょうか。

無論「まったく同じ経験」をすることが不可能なように、ある「小説」に対して「まったく同じ読解」をすることは、原理的に不可能です。しかし、私たちは「小説」という「フィクション」を介することで、完全ではなくとも、相互的な「理解」の場を得ることができるのではないか。
そしてそれは、「小説」という形式の「物語」だけではなく、聖人伝説などの「伝説(共有される物語)」も同様だし、そもそも「記憶」というもの自体が、「現実」そのものではなく、「体験を、個人の視点から編集したもの(物語)」でしかないというのはあきらかでしょう。また、そんな「記憶」をもとにして再編集されたものが「夢」なのです。

つまり、私たちは「体験記憶」というものと「現実(そのもの)」をしばしば同一視しがちで、そのために「記憶」を特権視しがちなんですが、それこそ厳密に言うならば、私たちは誰しも、厳密な意味での「現実体験」なんかしておらず、「現実そのもの」なんてものは知らないのです。言い換えれば、私たちは「それぞれの物語」を生きているのだと言っても、あながち間違いではない。

だからこそ、私たちは「物語」というものをとおして、完全には通じ合えない「他者」への「想像力」を働かせなければならない。そしてそれこそが何より、自分自身を「深く掘る」ということなのではないでしょうか。

本作の主人公は、自身の「非体験」に対して「後ろめたさ」や「負い目」を持つけれど、しかし、すべての人は、何らかの個別(特権的な)体験を持つ一方で、すべての他者個々が経験した重要体験を、経験してはいません。
例えば、本作では「東日本大震災」や「コロナ禍」の体験が「重要体験」として例示されていますが、しかし、本作の舞台がドイツであることを考えれば、『かつてそこに住んでいたユダヤ人(…)連れて行かれ殺された人たち』(P114)という「歴史」が極めて重要な「記憶」なのですが、それについて「直接体験」による「記憶」を持っている日本人など皆無に等しいでしょう。また、だからこそ先般の東京オリンピック開幕式の演出家だった人ですら、過去のこととは言え「ユダヤ人虐殺」を「お笑いネタ」にすることができた。
その一方、直接日本人が関わった「隣国の植民地支配」や「従軍慰安婦」や「徴用工強制労働」などの問題についても、「直接体験」による「記憶」を持っている人など、いまや皆無に等しいでしょう。でも、「直接体験」による「記憶」が無いから、「真相=現実」は「知らない」し「わからない」で、済ませられることなのでしょうか。

こう考えてくれば、本作の語り手の「直接体験による記憶」が無さについての「後ろめたさ」や「負い目」というのは、誠実なものではあれ、視野の狭い、多くのものを見落とした上での「原理主義的」な態度だとは言えないでしょうか。

そして、ここで私たちが考えなければならないのは、「小説」読解における「正解」という観念であり、それに立脚した「難解」という観念の是非です。
最初に書いたとおり、「小説」読解においては、「正解」に至ることが目的だという観念は誤り(強迫観念)であり、その誤りに立脚した「正解に至ることが困難=難解」という観念もまた、誤りなのではないでしょうか。
そうではなく、私たちに必要なのは、自身の「記憶・夢・伝説・物語」が意味するところ、そして他者の「記憶・夢・伝説・物語」の意味するところを、我が事として「深く理解」しようとすることなのではないでしょうか。

このように考えていけば、本書が「難解か否か」という設問は、そもそも間違いであり、必要なのは、自分の「今ここ」から、より深く「読む=体験する」ことが、正しい「読み」だということになるのではないでしょうか。

したがって、誰の「読み」も間違いではない。ただし、安易な「読み」かそうでないか、ということは、問われなければならないのだと思います。

以上のようわわけで、「貝に続く場所」とは「記憶の旅へと続く場所」という意味だと理解したのですが、さて、どこまで読めていますことやら。

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初出:2021年8月23日「Amazonレビュー」

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 【補記】(2021.08.27)

本稿の最後の部分で『「貝に続く場所」とは「記憶の旅へと続く場所」という意味だと理解した』という、私の読解を示しておきましたが、先程フッと「貝」とは「解」でもあるのではないか、気づきました。
つまり「貝に続く場所にて」とは、「解に続く場所にて」ということであり、この場合の「解」とは、「正解」ではなく「読解」の方なのではないか。

こう考えれば、「貝に続く場所にて」とは「読解への旅へと続く場所にて」という意味であり、この作品は「読解の旅路の出発点、あるいは半ばの場所」にある、という意味なのではないか。

だとすれば、私が本稿の最初の部分で、

『前説はこれくらいにして、私の「読み」を示しましょう。もっとも、これは前記のとおり、今のところの「読み」でしかないし、「読み」は時間とともに、この先も深められていく性質のものだとご理解ください。』

と書いたのは、予防線などではなく、まったく正しい読解についての態度だったのではないか、と気づきました。

文字どおり、一歩前進できたように思います。

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