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映画 『MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』: 職場で見る〈夢〉

映画評:竹林亮監督『MONDAYS』


強くオススメである。
尖ったところはないが、よほどのひねくれ者でないかぎり、確実に楽しめる娯楽佳品だ。

簡単にいえば、広告制作会社のオフィスを舞台にした、タイムループものの、シチュエーション・コメディである。

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週末まで、オフィスに居残りして徹夜の仕事をこなし、やっと日曜だと思って目覚めたら、「月曜」だった。
「あれっ?」と思っても、その瞬間には「先週の記憶がない」のだから、仕事疲れによる錯覚だと諦め、重い体をひきづるようにして、また今週も「同じ仕事」に再度(?)取り組む。
この「無限ループ地獄」からの脱出は、はたして可能なのか?

予告編などで、その絵面だけを見ると、いかにも金のかかっていない低予算映画だという印象を受けて「これは劇場の大画面で観なくても、DVDになってからでいいや」と思ってしまう人も少なくないだろう。それもあながち間違いではないのだが、そんなケチな考えは捨てて、是非とも映画館へ足を運んで、楽しんでほしい。そして、この映画を応援してほしい。そんな気にさせる映画だ。

この映画は、全体の印象としては、記録的な大ヒット作となった低予算映画『カメラを止めるな!』(2017年・上田慎一郎監督)に近い、ああいう感じ、の作品である。

たしかに、『カメラを止めるな!』ほどの「斬新さ」はない。しかし、この作品は「仕事に疲れた大人」のファンタジーとして、とても感じのいい作品に仕上がっている。
甘いといえば甘いし、最後は「お涙頂戴」になっているとは言え、しかし、この(=私たちの)リアルな「無限ループ地獄」から抜け出すには、結局のところ「これしかない」のではないだろうか。

この映画の正式タイトルは、映画の冒頭に掲げられる『MONDAYS』だけであり、「このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」の方は、宣伝用に付された便宜的なサブタイトルだと見ていいだろう。そのぶん、本来のタイトル『MONDAYS』は、この映画の本質をよく表した、とても洒落たタイトルだ。

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(部長役の、マキタスポーツの好演が光る)

だが、映画を観終えた後なら、そのセンスの良さもよく理解できるが、まだ観ていない人には、あっさりと見過ごされてしまい、印象に残らないタイトルだともいえよう。だからこそ、やぬを得ず、宣伝用に、身もふたもない説明的なサブタイトルがつけられたのであろう。
しかしまた、この『MONDAYS』という象徴的なタイトルには、作り手の「捨てきれないこだわり」があったのである。


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『MONDAYS』とは、言うまでもなく「繰り返しやってくる、同じ月曜日」という、サラリーマンにとっては、なんとも重い意味を含み持つタイトルだ。

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いや、サラリーマンだけではないだろう。
学生だって、この言葉の重さが理解できないはずはないし、今の時代には「私には、休日なんてない。この映画が描いているのは、ひと昔前の、ある意味では牧歌的な日本社会だ」とまで言いたくなるほどの、過酷な労働環境にあえいでいる人もいるだろう。それも、たしかにそのとおりだと思う。

しかし「そんな時代だからこそ、この映画は作られたのだ」とは考えられないだろうか?

つまり、この映画のラストが「お涙頂戴的な良い話」になっているのは、単に「無難にまとめた」ということではなく、私たちが、今の日本の「無限ループ地獄」的に劣悪な労働状況から脱出するためには、この映画で描かれたような「連帯と人情(他者を思いやる気持ち)」なしには「あり得ない」、という厳しい現状認識が、作り手側にあったからこそ、この映画では、あえて、ちょっと古風なまでの「人情話」によってオチがつけられたのではないか。

実際、「現実は、そんなに甘くないよ」と言うだけなら簡単で、それで済ませられるのは、比較的甘い労働環境にある、余裕のある人なのかもしれない。むしろ「そのうち、本当に殺されるのかもしれない」というブラックな労働環境で働いている人たちの方が、この映画に心から涙しないではいられないだろう。自分の職場は、どうしてこのようになれないのだろうかと、大真面目に嘆かないではいられないのではないだろうか。

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この映画を、「現実は、そんなに甘くないよ」と切る捨てて済ませられる「恵まれた人」と、この映画に過剰なまでに感情移入せざるを得ない人との差とは、次のような対比に喩えられるかもしれない。
それは、「こんな映画、大したことないよ」という映画マニアあるいはSFマニアと、「こんな映画、私には撮れない(作れない)」という映画作家との違いである。

つまり、この映画は、単なる「娯楽消費映画」だと見れば、「よくできた楽しい佳作」ということでおしまいだけれども、この作品を一種の「社会派」作品だと見て、ラストの「人情話」が、現実の「非人情社会」の「陰画(裏返し)」だと見れば、この作品の持つ意味も、ズッシリと重いものに変わってこよう。

「そこまで考えるのは、この映画に対して好意的すぎるんじゃないか」と言う人もいるかもしれない。
しかし、ある「現実」を絶望的にとらえることだけが「客観的評価」ではないだろう。
多くの人の「読み取ることのできない意味」を読み取って、作品の持つ「可能性」を開示することこそ批評家の使命であり、その才能の示しどころなのであれば、私はこの作品の「社会派」的な側面を強調するのは、決して間違いではないと思う。

それに、私がここで強調したいのは、この映画が「社会正義」を訴えているのではなく、「連帯と人情」という非常に「人間的」な側面の重要性を語っている点だ

私たちが、この閉塞的な社会から抜け出すには、結局のところ「他者の痛みを思いやる心」、これが無くてはどうにもならないのではないか。
この作品は、そんな「厳しい指摘」を、心優しいラストにおいて語っていたように思うのである。

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(2022年10月26日)

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