ゲームを葬る〈メタ・ゲーム〉 : 小川哲 『ゲームの王国』
書評:小川哲『ゲームの王国』(早川書房)
私は「ゲーム」が好きではない。
と言っても、私の好きではない「ゲーム」とは、伝統的な「ゲーム」のことであり、例えば、囲碁、将棋、コントラクトブリッジといった厳格なルールを持った「知的ゲーム」の話で、アーケードゲームとかテレビゲームなどは、必ずしも嫌いではない。
囲碁、将棋、コントラクトブリッジといった厳格なルールを持った「知的ゲーム」があまり好きではない理由は、ルールを完全に体得して、それを楽しめるようになるまでに、それなりの時間を要し、それまでは、基本的につまらないからである。つまり、面白くなるまで、面白くもないゲームを、練習のつもりでやろうとまでは思わない。私はせっかちなのだ。
その点、習得までに時間のかかる複雑なものもあるとは言え、アーケードゲームとかテレビゲームなどは、ある程度なら最初から直感的に楽しめるものが多いので、むしろ好きと言うよりは、すぐにハマってしまいがちで、それが怖くて、大人になってからは意識的に遠ざけるようになった。
そもそも、いずれにしろ「ゲーム」というのは、やったからといって、何も身につかないのに、「時間」だけはやたらに食う娯楽でしかないから、あまり好きにはなれないし、好きになりたくもない。
(パチンコなどの「カネ」のかかるゲームは論外であり、まして賭博は愚かしい。したがって、課金で金を巻き上げられる類いのゲームも、自制心のない馬鹿のやるものだと思っている)
私は、高校生の頃から読書という趣味にはまり、これまでそれを生涯のものとして、自覚的に楽しんできており、あれも読みたいこれも読みたいと、無闇に本を購入しては、今から10数年も前には、すでに新たに本を買わなくても、死ぬまでに読みきれないほどの未読本を所蔵するに至った。
つまり、それらを読もうと思えば、ゲームなどにうつつを抜かしている暇など一時たりとも無いので、わざわざ、多くの時間を費やしてまでゲームを楽しめるようになろうなどとは思わないし、すぐに楽しめるとしても、あとに何も残らないに等しいゲームに、膨大な時間を注ぎ込むことなど、到底できない相談なのである。
だから私の場合、好きなアニメも含めて、同じ理由で「連続もののドラマ」は、基本的には鑑賞しない。
放映終了後も、よほどの高い評判の続くような画期的な傑作(例えば『新世紀エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』など)ならば、あとでまとめて観ることはあっても、「流行っている最中」の作品は観ない。なぜなら、そうした作品の多くは、放映が終了するとともに、急速に話題にも登らなくなってしまうような「消費的娯楽作品」でしかないからだ。
したがって、私は、ドラマやアニメを見る場合にも、数時間で完結する映画作品などに限定している。それなら、結果として、さほどの作品ではなかったとしても、「時間的被害」を最小限に抑えることができるからである。
では、そんな私が「読書」を生涯の趣味とした理由とは何か。
それは、「読書」の場合そのほとんどで、鑑賞中の「楽しみ」とは別に、自分の「身につく要素」があるからだ。
そしてそれは、単なる「知識」だけではなく、「鑑賞力」「読解力」「思考力」といったものであり、そうしたものは、仮に娯楽小説の鑑賞であっても、一種の「脳トレ」的な要素を持ち、その意味での充実感を伴うのである。
また、言い換えれば、読書の中で、一番つまらないのは「娯楽小説の凡作」の鑑賞だと言えるだろう。それでは、ほとんど何も身につかないからである。
だからこそ、私は「面白いと評判の、やたらに売れている流行小説」というのは、基本的に敬遠する。読んで何かが身につくような作品が、一般大衆的に流行するなどということは、ほぼ無いからである。大衆が娯楽小説に求めているのは、基本的には「現実逃避」と「各種感動によるカタルシス(非理性的浄化作用)」でしかないからだ。
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本作『ゲームの王国』には、それぞれに違ったかたちではあれ、厳格なルールによって規定された「ゲームの王国」を理想として希求した、二人の主人公、ムイタックとソリアが登場するのだが、前述のような「ゲーム嫌い=純粋遊戯嫌い」の私からすれば、「現実逃避的」でしかない、という点において、どちらも十全に納得しうる主人公ではなかった。
仮に、自分の「理想」を実現できなかったにしろ、その「理想」が「理想と呼ぶに値するもの」であったならば、私はその「未到達」や「中途挫折」もやむを得ないものと考えるし、「理想」を殉じた彼らに同情もしただろう。
だが、ムイタックとソリアの場合は、その「理想」が、もともと無理のあるものでしかなく、作中で描かれるほど「頭が良い」のであれば、もっと早くに、その「無理」に気づいてしかるべきであった。なのに、この二人は、その「趣味的な理想」に趣味的に執着して、必然的な失敗・敗北に終わるだけなのである。
作者は、そんな主人公の二人に同情的であり、彼らの「必然的な失敗・敗北」を、なにやら「美しいもの」のように描くのだけれど、それは私に言わせれば「小説家のレトリック」によるものでしかなく、客観的に見れば、彼らは「それほどのもの」ではない、というのが、私の下した評価であった。
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本作では、カンボジア現代史における「ポル・ポト政権下の悲劇」が扱われており、その点に多く「好奇の目」が集中したようで、文庫版の「あとがき」でも、著者は、何度も繰り返されるその種の「陳腐な質問」にいささかうんざりして、そうとは気づかれないように回答をはぐらかしてきた、という趣旨のことを書いている。
さて、私はすでに、本作著者である小川哲について、次の三本のレビューを書いている。
(1)『嘘と正典』レビュー「小川SFにおける〈静かな諦観と叙情性〉」(2020年5月4日)
(2)東浩紀・樋口恭介との鼎談レビュー「この平凡な現実:「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」」を視聴する。」(2022年2月5日)
(3)『ユートロニカのこちら側』レビュー「〈後期クイーン的問題〉の作家・小川哲のユートロニカ」(2022年2月28日)
小川は、(2)の鼎談の中で「両親が、共産党員あるいはそのシンパ」であったという事実を、予防線を張りながらも告白的に語っていたが、私は、そのことを根拠として、(3)のレビューで、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』を参照しつつ、次のように書いた。
私は、最初に読んだ小川作品である『嘘と正典』のレビューにおいて、小川の「両親が、共産党員あるいはそのシンパ」であったことを知らないままに、その〈静かな諦観と叙情性〉を指摘していたのだが、それが、(2)の鼎談での前記の発言に裏付けられて、(3)での、上記のような「読み」へと発展した。
そして、そうした点を踏まえて、本作『ゲームの王国』を読めば、二人の主人公の「理想とその挫折」の物語は、決してわかりにくいものではないし、なぜ「ポル・ポト」を描いたのかも、なんら疑問を残さず解消し得る。
小川のような「経歴」の持ち主が、「共産主義の理想と挫折、そしてその悲劇」を描こうとすれば、作品の舞台となるのは、国内だと「日本共産党の世界同時革命の挫折」とか「左翼学生運動の挫折」などになるだろうし、海外に舞台を移せば「ソ連共産主義の変節」あるいは「フランス革命の省察」みたいなものが考えられるけれど、こうしたものは、ハッキリ言って「いまどき流行らない」。
となれば、すでに過去の事件だとは言え、まだまだ日本では十分に掘り下げられたことのない、大虐殺の惨劇をともなった「ポル・ポト政権下の悲劇」という題材は、マスコミ的には、実に良い着眼であったと言えるだろう。それは、その「オリジナリティ」と「話題性」において、多くの「知識人」の注目を集め得るものだったのである。
(ポル・ポト)
(作中でも描かれる、都市市民の強制移住)
さらに、このような、いささか派手な「舞台」をしつらえた作品であったからこそ、作者個人の内的こだわりである「共産主義運動の挫折=理想の挫折」というものが、うまく韜晦された、とも言えるだろう。
本作『ゲームの王国』は、「ポル・ポト政権下の悲劇」を背景や舞台にしたからこそ、より身近な「共産主義運動の挫折=理想の挫折」を描き得たのではなく、「共産主義運動の挫折=理想の挫折」を描くのに、もっとも陳腐にならない舞台として「ポル・ポト政権下の悲劇」が選ばれた、と考えるべきなのだ。
つまり、『ユートロニカのこちら側』で描かれた、次のような「オマージュ」が、本作では中心に据えられて、全面展開していると読むべきなのである。
つまり、本作『ゲームの王国』は、ルールの厳守される世界としての「ゲームの王国」を「理想の社会」として求め、その政治的実現に生涯を賭けたソリアと、「現実」を捨象して「純粋な抽象ゲームの世界」に退却して生きようとしたムイタックという、両極端の「理想主義者」が、「現実」の中で敗れ去っていく姿を、「敗者の純粋性」への「オマージュ」を込めて描くことによって、そうした「理想」を「精算・葬送」した。つまり、そのどちらも選ばない著者・小川哲自身は「俗な世界を、俗なままに渡っていく」という、そんな「諦観」に満ちた生き方を選ぶことの「けじめ」として、本作『ゲームの王国』を書き、そうした「夢想=理想」の不可能性を、アリバイに作りとして書いた、といったことなのではないだろうか。
したがって、結局のところ本作『ゲームの王国』は、両親のように「理想を掲げて生き、そして必然的に敗れる」ような「愚かな人生」を選ぶことのできない、「賢い」作者が、「脱理想主義的な人生」を選択したことの「アリバイづくり」のための作品だ、ということになるのではないか。
「理想主義の敗北」をあざ笑うだけなら、「ネトウヨ」のような、知性と想像力を欠いた豚どもにだって可能だろうが、当然、小川は、自身をそのようなものと同列に置きたくはない。
ならば、「理想主義者」たちの想いに理解を示しつつも、しかしそれが、所詮は非現実的であり、その意味で思慮を欠いた「特攻」にも似たものでしかないと考えるから、自身はそれを選ばずに「この薄汚れた世界の中で、薄汚れながら生きていくことを、選択するしかないのだ」と、「アリバイ工作」的に語った作品だ、ということなのではないだろうか。
無論、こうした言い方は、著者に対して厳しすぎるだろう。
そもそも、著者がこうした「現実認識」や「世界観」という「諦観」を持っていたとしても、それはむしろ「正しい」ものであるとも言えるし、私自身、おおむねそのような「悲観的な世界観」と「諦観」を持っている。
しかし、私が、小川哲のこうした「身振り」に批判的なのは、結局のところそれが「賢しらな自己正当化」でしかなく、両親の「愚かな理想主義」への「オマージュ」に見せかけた、「あらかじめの敗者」たる、自身の生き方の正当化でしかない、と感じるからである。
つまり、「薄汚れた生き方」を選んだのであれば、両親のことなど引き合いに出さず、黙って、自らの選んだ生き方の「責任」を引き受けて生きていけばいい。その方が、言い訳がましくなくて潔く、「美しい」ということだ。
ところが、小川の場合は「私も本当は、きれいな理想に生きたいんですよ。ただ、両親の生き方を目の当たりにして、その理想の不可能性を見てきた私としては、もう理想を信じることなどできないから、私は、好むと好まざるとにかかわらず、この薄汚れた世界で、薄汚れて生きていかざるを得ないのです(だから、そんな私を責めないでください)」というような「賢しらな、予防線的言い訳」を、小説というかたちで、世間に頒布して「アリバイ工作」をしているにも等しいと感じられ、私としては、そんな見苦しい言い訳など聞きたくない、ということにもなるのだ。
このような意味で、小川哲という人は「とても頭がいい」というのは間違いない。
しかし、だからこそ、(2)の論文で指摘したとおり、他人を「コントロール」しようとしてしまいがちなのだ。「こう書けば、読者が共感しつつ、こう読むだろう」というのを十二分に考えながら、読者を、自身の「人生観」を肯定する方向に誘導するのである。
無論、小説であれ論文であれ、あらゆる文章は、そうした「自己正当化」と「支持者の拡大」を意図したものであろうけれども、私が小川に反発をしてしまうのは、「諦観」というキーワードに象徴される、いわば「泣き落とし」戦術を、そこに感じるからだ。
ちょうど、エラリー・クイーン作品における「操り」の問題を、真っ先に論じたミステリ作家・法月論太郎の、初期「泣き落とし」小説的な側面を、小川の書きっぷりにも感じるから、私は「そんな泣き落としには乗せられないぜ。そんなものが通用するのは、けんご@小説紹介なんかがオススメの、泣ける通俗小説ばかり読んで、感動消費している、いささか頭の弱い、豚のような大衆読者だけだろう」と考えるからである。
私は、こういう読者について、しばしば、次のような警告を発する。
「あなたがたみたいに、薄っぺらい感動消費に明け暮れているような人間は、そのまま歳をとったあげく、いずれは特殊詐欺の良いカモになるだろう。今でさえ、そんなのなんだから」と。
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そんなわけで、本作『ゲームの王国』を、「(技術的に)よく書けた小説」だと評価しないでもないのだけれど、その「意図するところ」がいささか卑しいと思うので、本作を絶賛推薦した著名な人気作家たちとは違い、私はこの小説を、無条件に肯定する気にはなれない。
たしかに、現実離れした「理想」の先には、敗北という現実が待ち受けているのかもしれないが、しかし、安っぽい「感動」の先にあるのも、また間違いなく敗北である。
いまどき流行らない、古い格言で恐縮だが、私は基本的に『肥った豚になるよりは、痩せたソクラテスになりたい』という、J・S・ミルに共感する、古い人間である。だからこの格言を、次のように言い換えておきたい。
「感動という投げ与えられた駄菓子に目の眩んだ豚であるよりは、不可能な理想をそれでも凝視する、飢えた狼でありたい」
以下では、本作からの引用を示しつつ、以上の「読み」の根拠を示しておきたいと思う。
したがって、以上の「読み」を、納得できなかった人だけに、お読みいただければ十分であろう。
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「サロト・サル」とは、「ポル・ポト」の本名である。
ここでポル・ポトが言っているのは、要は「馬鹿と煙は高いところが好き」ということだ。賢い人間なら「目立ち」たがったりはしない。
もちろん人間だれしも、他人からもてはやされたい、チヤホヤされたいという願望が抜きがたくある。つまり「光の当たる場所」である「高いところ」に立って、注目を浴びたい。そして賞賛されたい。
しかし、他者からの賞賛は、同時に他者からの妬みを、必然的に招いてしまう。
そして何より厄介なのは、「賞賛」や「光」や「高いところ」には、すぐに慣れてしまって、嬉しくもありがたくもなくなってしまう点だ。
だが、自身に向けられた「悪意」や「敵意」といったものの方は、日々新しく、そう簡単に慣れることのできるようなものではなく、主観的には、自身に向けられた、そうした「負の感情」ばかりが、常に意識されてしまう。
だからこそ、賢い人間は、標的になりやすい「光の当たる場所」や「高いところ」に登るのは避けて、その真逆である場所に止まることを、あえて選ぶのである。
しかし、言うまでもなくこれには、非凡な「自制心」が必要だ。わざわざ、泥まみれの塹壕に身を隠し続ける「忍耐」は、誰にでも持てるものではないからだ。
周知のとおり、これは「人気アイドル」などによくある話だ。
彼や彼女は、所詮「アイドル=偶像」であって、「人間」であってはならない。だから、脱糞してはならないし、セックス中毒であってならないのだ。
だが、彼らとて、現実には「人間」なのだから、その期待に応え続けるのは、しばしば「苦行」以外の何物でもないのである。
基本的に、人間の目では「客観的に、完全に正しい評価」というものは、不可能である。あらゆる「評価・判定」は、その評価者・判定者というフィルターを通さないわけにはいかないからだ。これは「機械」であっても同じである。
しかしまた、そうであるからこそ、「アイドル」だの「人気作家」だのといった「美しい夢」も存在しうる。
人々の目が、研ぎ澄まされた哲学者や批評家のそれと同じレベルであったなら、「アイドル」や「人気作家」などという「幻想」は、ほとんど存在し得なくなるだろう。「無知盲目」であるからこそ、天使や天国も、リアルに「夢想」し得るのである。
これも、(02)の議論と同じことである。
人々の「見えない眼」があるからこそ「幻想」が成立し、「幻想」があるからこそ、この世の大半の「ゲーム」が成立している。
「完全に透徹した眼」や「悟り」といったものは、「この世(のゲーム)」への関わりを断念させるものになるだろう。「この世界に、意味など存在しない」と。
「馬鹿と煙は高いところが好き」と賢く悟っていたポル・ポト(サル)ですら、愚かにもそこに登ってしまい、文字どおり「サル」並みになってしまったという、ありきたりな現実である。
ことほど左様に、能力がありながら塹壕の日陰に踏みとどまるというのは、賢いだけではない、非凡な人間にしかできないことなのだ。
無論、ここでのポル・ポトが、作者である小川哲の、自虐的「戯画」であるのは、言うまでもない。
ラディーは、本作における「憎まれ役の悪党」である。
だが、彼のこうした考え方は、誰の中にでもあるものでしかない。だからこそ、彼は「エンタメ」である本作において「憎まれ役」たり得ているのである。彼は、私たち自身の「見たくない横顔」なのだ。
事実、ネットを見れば、こうした輩が山ほどいる。それは、一人では何も言えないくせに、多数派になった途端、「正義」を振りかざして、毛色の変わった人間を袋叩きにするような「雑魚」どもであり、「ネトウヨ」や「炎上事件における多数派」などが、その典型であろう。
「勝利そのものが目標かもしれない」というは、「理想」を捨てて「生きる」ことを選んだ、作者・小川哲の、自己批判的な告白であり、同時に、「読者の同情」を買うための、アリバイ工作でもある。「私はこんなに苦しんでいますよ」というわけだ。
だがこれこそが、小川哲の「読者コントロール」の手口(同情喚起)なのだ。
私は、この「コーギ」が嫌いなのだ。私にとって、「ゲーム」とは基本的に、自己選択的なものでなくてはならない。
例えば、「お前は日本人だ」と決めつけられるのは、嫌だし、お断りだ。だから、そう決めつけられた際には「いや、私は、たまたま日本に生まれただけの、人類の一人に過ぎない」と答えるし、その一方で私は、しばしば「日本人として恥ずかしい」とも言う。この場合、私は、自らの選択で「日本人としての責任」を引き受けて、「日本人というアイデンティティ・ゲーム」に参加しているのである。
「普通」でなくなるのが、決して「簡単」ではないことくらいは重々承知の上で、作者はここで、「頭の悪い」人としてのチャンを描いている。一一この程度のこと、読者は当然、気づいてしかるべきである。
そもそも、大半の人は「普通凡庸」であるからこそ、「承認欲求」にかられて、「小説家」などの「有名人」に憧れ、自分もそうなりたがるのである。「光の当たる場所」「高いところ」に登りたがるのだ。
そしてその意味では、「普通」であるというのは、人間が「知性」による「自制心」を欠いた「豚」状態にある、ということでもある。
当然、豚も、本能的に群れたがり、そこでブーブーと自分の権利を主張するが、そうした愚かな集団に悪魔が入り、断崖絶壁に向かって、みずから突進することにもなる。その実例が「ポル・ポト政権下の悲劇」だとも言えるだろう。
これは、作者・小川哲の「諦観」を表現したものと見て良いだろう。
要は「私は世界から疎外されていて、本質的に、世界に関わることができない」という「乖離感」の表明であり、「だからこそ、私の世間並みの生き方は、止むを得ない、方便でしかない」という、責任回避のアリバイ工作でもある。
そのとおりだが、私の場合は、引いたカードをみずから捨てた結果について、あとであれこれ悔やんだりはしない。捨てる前に、その結果を十分に検討し、その結果責任を引き受けて、カードを捨てるからだ。
例えば、夢を追ってマンガ家やアニメーターになろうとはしない、妻子を養う責任を負うのはしんどいので、結婚はしないし、子供も作らない。基本的に、自分一個の責任以上のものは負わない(し、それを後悔もしていない)。
それ以上の責任は、趣味的にしか負わないから、負いきれなくても、別に無責任ということにはならない。「寄付」などと同様で、できるかぎりのことをすれば、それで十分な「社会貢献」なのである。
したがって、私にすれば、作者の生き方を投影した、ここでの語り手の独白は、所詮「無考えな生き方における泣き言」でしかなく、それで同情を引こうとする、見苦しい所業だとしか思えない。「おまえの選んだ道ならば、泣き言など口にするな」と言いたいのである。
私に言わせれば『真理という光』などというものは、もともと人間には到達不能なものなのだから、与えられた十九枚のカードを全部めくったところで、手には入られないというのは、初手からわかりきった話でしかない。
主観的に「(相対的に)良いカード」を引いたと思えば、残りに、より良いカードが残されている可能性があったとしても、それを承知の上で、そこで断念する(自制心を働かせる)のが、「知性」というものである。
どっちにしろ、残されたカードにも「真理」など隠されてはいないのだから、ことは「程度もの」でしかないからだ。
したがって「欲望のままにカードを最後までめくってしまったあげく、やっぱり真理の光は手に入れられなかった。ならばあの時に、カードをめくるのを止めておけばよかった」などと後悔する者は、端的にいって「自制心という知性に欠けた人間=欲望のままに生きる愚かな豚」でしかない。
「人間って、理想や真理を求めて、どうしても最後までカードをめくりがちですよね」などという、頭の悪い読者の共感を求める目配せなど、反吐の出るものでしかない。
博打で負けたカネを、博打で取り戻そうとして、さらにカネを注ぎ込む愚か者、そのままである。
そしてこの場合、注ぎ込まれる「カネ」とは、他人の命である。
こんなバカが、なにがしか「同情されるべき理想主義者」として描かれるこの小説は、その意味では、子供騙しのお涙ちょうだい小説でしかない。
全くそのとおりであるが、ただ、私にとっての本書著者・小川哲は、こうした意味での「嘘つき」でしかない。
著者によって、コロリと騙されてしまう多くの読者にとっては、小川哲は「嘘つき」ではないが、私はそうではないからこそ、小川を「嘘つき」と呼べるのだ。
そしてまた、このように「不味いものは不味い」と言ってしまう私自身も、正直者という「嘘つき」である。
馬鹿正直を「演じる」ことによって、無理をしなくて済むのである。その意味で、私は「嘘つき」なのだ。
これは、まずまずな「世渡り術」だが、私には通用しない。
このやり方が通用するのは、疑いを持って追求している方の人自身が、疑わしい当の相手に嫌われたくないとか、周囲に嫌われたくない、などと思っている場合に限られる。
つまり、疑われた者が「そうやって何から何まで調べようとする人間は嫌いだ」と不機嫌になった「演技」をするのなら、疑う方は「そういう誤魔化し方をする人間だと、余計に追求したくなるね」と、憎たらしい余裕の笑いを浮かべる「演技」をすればいい。これで、相手の「コントロール」から逃れることができる。
要は、自身の「嫌われたくない」「評価されたい」という欲望を、自己コントロールできない人間だけが、その欲望につけ込まれて、他人に「コントロール」されてしまうのだ。
そして、「嫌われたくない」「評価されたい」という欲望を自己コントロールできる人間とは、すなわち「光の当たる場所」や「高いところ」に出たいという欲望を自己コントロールでき、塹壕の陰に隠れ続けることのできる人間なのである。
これは、作者・小川哲の正直な気持ちでもあろう。
事実、小川哲は(01)で語ったように、嫉妬の標的になりやすい「光の当たる場所」や「高いところ」に出てしまうリスクを承知していながら、インタビューを受けるような作家になってしまったのだから、要は、自分には「自制心という知性が足りなかった」という事実を、ここで認めているのである。自分も所詮は、自己コントロールのできない「普通の人=俗物」だと。
まただからこそ、小川哲は、両親のように「理想に生きる」ことなどできない。
世間から「所詮は、人間の現実が見られない、頭の悪い観念論者(=共産主義者)でしかない」と蔑まれながら、それでも「理想を目指す」ことなど、自分にはできない。自分は所詮「薄汚れた俗物」でしかないのだと、小川哲自身もそう気づいているからこそ、本作のような小説を書いて「観念的自己回復」を謀らなければならないのである。
実際、人生とは、そんな「尻切れトンボな寝物語」のようなものだ。
「貧乏な娘は、王子様に愛されて、幸せに暮らしましたとさ」では済まない。娘も王子様も歳をとって、多かれ少なかれ、変わっていくからであり、二人が結ばれた瞬間こそが「幸福の頂点」であるならば、あとは「下り坂」でしかないからである。
例えば、どんな売れっ子作家でも、生涯「売れっ子」であり続ける人などいないからこそ、売れっ子作家でも、売れ続けるための、涙ぐましい努力をしないではいられない。
それでも、ひと昔前なら、人気作家になれば、いちおう食っていくことだけはできたけれども、今時の小説家など、所詮は「いくらでも交換の利く消費財」でしかないから、仮に直木賞を受賞して、売れっ子作家になったところで、それが一生続くわけでもでもなければ、死後にまで、その名声が続くわけでもない。
ほんの5年ほど前にベストセラー作家だった小説家たちを、何人か思い出してみるがいい。彼らの中で、今もベストセラーを出し続けている者が、いったい何人いるだろうか。
これが、ソニアとムイタックの違いであるが、前述のとおり、私に言わせれば、両者は「両極端の理想主義者」という点では、同質である。
つまり、「理想主義的現実主義」も「純粋抽象主義」も、「生活的現実=人間の動物性」への配慮を欠いているという点では、非現実的な「観念」であり、「頭でっかち」の思想でしかないのである。
後者のムイタックの立場が、作者である小川哲が、当初選んだ生き方である。
しかし、そうした「純粋抽象の世界」への退却が、うまくいかないものだというのを、ムイタックが悟らざるを得なかったように、小川哲も、「フィクション=小説」の世界への退却もまた、この「現実世界」の中のことでしかない、という現実を、否応なく悟らざるを得なかったのである。
だからこそ、小川は「嘘」をつくことを否定しないし、それで他人をコントロールし、利用することも否定しない。なぜなら、それがこの世界の一部であるというのは、否定できない事実だからだ。
これも「嘘」である。
ここまで縷々紹介してきたように、本作『ゲームの王国』は、かなりの部分、作者・小川哲の「人生(観)」を率直に反映した作品であり、その意味では、これは「作り事(嘘)」の少ない「正直な小説」なのだ。
そして、それが読み取れないとしたら、それは、作品のせいではなく、読者の無能のせいでしかない。
だが、作者である小川哲としては、本作に、自分の「実人生」など読み取られたくない。
むしろそれは、作者自身が作品に込めたものとして、そこで完結すれば十分であり、阿呆な読者は、本作を「面白いフィクション」としてだけ消費してくれた方が、「本当のこと」を書き過ぎてしまった作者としては、むしろありがたいのだ。
だから、小川はここで、本作の「フィクション性」を強調する「嘘」を、「あとがきでの本音表出」と見せかけることで、読者をコントロールしようとしているのである。
つまりここでは、「嘘と誠(本当)」が、故意かつテクニカルに、転倒させられているのだ。
ここは、かなりの部分「本音」ではあろうけれど、なぜこんなことを書いたのかと言えば、それはこの言葉が、小川哲が「今後(当面)は、プロの作家として、嘘ばかりを書いていきますよ。この『ゲームの王国』は、ある意味では、これまでの正直な自分との決別の書なのです」という宣言なのだ(もっとも、小川が「純文学」的作品でも食っていけるほどの地位を確保できれば、話は別だ。小川の最終的な希望もそのあたりにあると、私は睨んでいる)。
ここで解説者の橋本輝幸が指摘しているのは、本作が『厳密な制御や堅牢なロジック』によって鎧うことをしなかったために書きえた、作者・小川哲の「素の顔」を窺い得る「自由な作品」だ、ということである。
もちろん、「窺い得る作品」であるということと、「どんな読者にでも読み取れる」ということは、同じではない。
(2022年5月21日)
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