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この平凡な現実 : 「小川哲 × 樋口恭介 × 東浩紀 「 『異常論文』から考える 批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」 」を視聴する。

結論から書いておくと、この鼎談で語られていることは、実に平凡である。

「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」」
(https://genron-cafe.jp/event/20211110/)

面白くないとは言わないが、その面白さは、三人の「人柄」やら「人間性」が窺えた、という点にあって、特別に面白い話や深い話が聞けたわけではない。

酒の入った三人が、それぞれの「意図」を持って、自らの人間性の一部を世間(視聴者)に晒し、視聴者としては、そうした「公式の場では普通は見られない、人間らしい部分」を見られたような気になって「面白い」ということであるし、録画に残っているライブコメントも、大筋でそういう部分を楽しんでいるようだった。日頃見られない「作り込まれていない、生な部分」に接することができたという、ある種の「特権的な体験」をしているという満足を、ライブの視聴者は感じていたのであろう。
しかしながら、こうした鑑賞者たちの受け取り方は、いかにも浅いと思う。

この鼎談では、かなり早い段階から飲酒が始まるのだが、当初、樋口恭介だけは「酒に飲まれるので、奥さんから飲むなと言われている」と固辞するが、座長である東浩紀がしきりに、樋口に飲ませようとする。
小川は、樋口に近いと言うか、「友人」関係にあると認めているSF作家だが、自分は酒を飲んでも大丈夫だと言って飲酒し、側面から東を支援する。

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(酔うと眼鏡を外す樋口恭介。この段階では素面)

なぜ、東がしきりに、樋口に酒を飲ませようとするのかというと、それは樋口の応答が、いかにも「公式見解」的に無難なものであり、東が期待する「本音」の部分を出さないからである。
そのため東は当初「どうしたの、樋口くん。いつもの感じじゃないじゃない」みたいなことを言い、樋口の方は「いや、僕は意外といつもは、こんな感じですよ」みたいな言葉を返し、鼎談は、ひととおりのやりとりが交わされるものの、まるで「書店イベント」でのそれのように、フックに欠け盛り上がりに欠けるものとなっていた。
(※ ちなみに、本稿内の「」で括った鼎談者による発言は、もっぱら私の記憶による大筋の再現である。内容的な、間違いがあれば、ご指摘願いたい)

その後、ライブを視聴していた樋口恭介の奥さんから、樋口に電話が入り「飲酒OK」の許可が下りた。
東や小川の危惧したとおり、樋口がその身を鎧ったまま、保身的に「無難な公式見解」ばかりを口にしていたのでは、イベントが盛り上がりを欠いて失敗に終わるし、その敗戦責任者として樋口の評価も下がってしまうと、奥さんもそう危惧して、飲酒OKサインを出したようだ。

奥さんからOKが出た途端、樋口恭介は飲酒を始めるのだが、そのピッチは三人のうち最も早い。これはもう、いかにも危うい酒飲みぶりだ。要は、奥さんが止めなければ、自制などできないダメ人間であることが、容易に窺えたのである。

案の定、樋口はどんどん「単なる酔っ払い」と化してゆき、他の二人のやりとりを無視した不規則発言で、悪い意味でのクロストークを頻発させる。人がしゃべっているときに、いきなり何事かを喚きはじめて、視聴者は発言の内容が聞き取れなくなってしまうのである。

しかし、これは東浩紀の望んだ展開だ。
東は最初から「いつもの樋口くんじゃないね」「ツイッターの樋口くんとは違う」「もっと、いつもの感じでやってほしいな」といったことを繰り返し、「このままではつまらないよ」といったことまで言う。だからこそ、樋口の奥さんも「まずい」と思って電話までしてきて、樋口の禁を解いてしまったのだ。

 ○ ○ ○

私がこの鼎談の存在を知ったのは、つい最近のことだ。Googleの検索欄を表示した時に表示されるネットニュースに、この鼎談の紹介記事が出ていたのだ。

それは、東浩紀が主催する「ゲンロン」のメンバーである、若手作家・名倉編(※ 名前である)による、

異常と批評の奇妙な邂逅──小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」イベントレポート
(https://www.genron-alpha.com/article20220125_01/)

である(2022/01/25)。

この記事だけを読むと、鼎談タイトルに恥じない、何やら難しくも深い議論がなされたかのように見えるが、実際の内容で言えば、そうした議論は、全編9時間にわたる大鼎談のうち、酒が入るまでに交わされた、最初の2、3時間のものでしかない。

しかし、この鼎談の真価であり面白さは、東浩紀が鼎談後半で「6時間かかって、やっと樋口くんの本音が聞けるようになった」といった趣旨の発言をしているとおりで、樋口恭介が、完全な「酔っ払い」状態になった後にこそ存しており、名倉編がレポートにまとめたような内容は、実際のところ、この鼎談の「タテマエ」部分でしかないのである。

例えば、「異常論文」という名称の意味についての、名倉のまとめはこうだ。

『つまり異常論文は「小説でありかつ論文でもある」ような、双方の重なる作品を指すのではない。この定義を聞いた小川は、それはむしろ小説や論文といった既存の言葉では定義されてこなかった名前のない領域に与えられた名前なのではないかと応答した。樋口もこれに同意し、「異常論文」は批評にもまた近いジャンルでもあると付け加える。』

要は、これまで適切な名称が与えられなかったがために、見落とされがちだったユニークな作品に「新しい名称」を与えることで、新奇さに訴えて、人々の目を惹こうとした、ということだ。

しかし、いまさら言うまでもないことなのだが、もともと「文学は何でもあり」である。
これは、まともに文学を読んできた者には常識に類する話でしかないが、小説は読んでも、「文学とは何か」を考えたことのない多くの人にとっては、「文学」とは「文学だと(権威から)名指されたもの」のことでしかなく、そこからはみ出してしまうものは「文学」だと認知されず、「見えない存在」と化してしまいがちである。

しかし、このような視野狭窄ほど「非文学的」な態度もなかろう。権威ある存在から「これは文学ですよ。だから安心して読みなさい。きっと面白いはずですから」などという「保証」を与えられないと、自分でひとりでは読むものも決められないような読者とは、そもそも「文学」とは無縁の衆生でしかないからである。

だが現実には、「SFファン」であれ「本格ミステリファン」であれ、その「わかりやすい肩書き」にアイデンティを委ねて安住しているような者に、「文学」そのものを考えてみる姿勢などないのは当然だろう。彼らは、権威に保証されたものを追認することで、安心を得ているだけの読者なのだ。

一方「文学」とは、形式的な保証を与えない、むしろそれを脱構築し、ズラしながら展開していくものなのだから、そうしたものと、「特定ジャンル」ファンやマニアとの折り合いが悪いのは、むしろ理の当然なのである。

例えば、今回「異常論文」と呼ばれたものも、所詮はひと昔前に「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」などと呼ばれたものでしかない。
しかし、そうしたものは「(わかりやすく)定義されないもの(し得ないもの)」であるがゆえに、「安心できる小説」を読んで「安心」を得たい読者、読んで「よし、私はこの作品の素晴らしさが理解できたぞ。私は優れた読者なんだ」と自己肯定がしたいだけの読者には、当然のことながら喜ばれない。
こうした作品を読んだ者の多くは、それをこれまでの「読みのパターン」に落とし込めず、「何がやりたいのかわからない」「何が面白いのかわからない」となり、「わからない私は、能力が低いのではないか」という不安にかられることになってしまうからである(そしてしばしば、感情的な否認に走る)。

したがって、「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」といったものは、一部のコアな文学ファンにしか読まれない。「一読でわからない作品」だからこそ「挑み甲斐もある」と、そんな風に感じる、ややマゾヒスティックで打たれ強い読者だけが、こうした作品を喜んだのだ。

つまり、こうした作品は「読まれなかった」というわけではない。読む読者を、好むと好まざるとにかかわらず、選んでしまっただけなのだ。
誰もがこうした作品の存在を知らなかったわけではないし、その存在価値を認めなかったわけでもない。ただ、「多数の読者」を得る「商品」としての価値を、獲得し得なかっただけなのである。

そんなわけで、「異常論文」というキャッチーな名称が読者に保証するのは「どうせ異常なんだから、あなたが理解できないのも当然なのだ。ただ、その異常ぶりを楽しめれば、それが理解したということなのだ」といったことだった。
そのおかげで、これまでは「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」といったものを敬遠していたSFファンも「安心」して、「面白がって見せた」というわけである。「私は異常論文が、理解できる」と。

名倉は、「異常論文」という「ネットミーム」由来の造語の反響について、次のように書いている。

『ネットミームから生まれた『異常論文』は、刊行されるとSFやアカデミズムの外まで届く大きな反響を呼び、スタニスワフ・レムの訳者である沼野充義からも激賞されたという。』

これは、一種の「ハッタリ」である。
『SFやアカデミズムの外まで届く大きな反響』などと言っているが、そんな「反響」について語っているのは、「異常論文」関係者に限定されており、昔の言葉で言えば、これは「自己喧伝」であり「提灯持ち」であり「(営業的)プロパガンダ」でしかない。
要は、狭い業界内であろうと、ちょっと反響があったなら、それを何倍にも増幅して、大声で「流行っている! 流行っている!」と連呼すれば、世間の狭い田舎者が「流行りもの」に飛びついてくる、という仕掛け(友釣り)だ。

さて、このように書くと、私が「悪意」を持って、ことさら「扱き下ろしている」かのように受け取られるのだろうが、そうではない。
例えば、樋口恭介自身も「SFプロトタイパー」を名乗って喧伝し、ちょっとした「ブーム」になっているらしい「SFプロトタイピング」について、この鼎談の中で、東浩紀は「所詮は、薄っぺらな新しいもの好きブームの焼き直し」ではないかという趣旨のことを語っているし、小川哲にいたっては、酒が入る前は「まったく興味がない」と言い、酒が入ってからは「詐欺みたいなものだと思っている」とまで言っているのだ。
これが「SFプロトタイピング」に近いところにいて、しかし、自分はそれに関わっていない人の「醒めた見方」であり「本音の評価」なのである。

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( ITコンサルタント樋口有介の「SFプロトタイピング」の書)

さらに小川哲は「異常論文」についても、「特に新しいものだとは思っていないけれども、こうした新しい器を作ってもらうことで、これまで作品発表の場が与えられなかった作家や作品の受け皿になるというのは、単純に良いことだと思う」という、実に正直な「職業小説家の都合」を語っている。一一「レッテルを貼り変えるだけで、売れる商品になるのなら、それは職業作家として有難いことだ」という、身も蓋もない話だ。

事ほど左様に「異常論文」などというものは、「文学」読者には、何ら「新しい」ものではない。
それを過剰に喜ぶのは「盆地の中に安住して、視野の限定されていることにも気づいていなかった、文学的田舎者」の読者でしかないのである。
そもそも『スタニスワフ・レムの訳者である沼野充義』に激賞されたからといって、それがどれほど「広範な評価」を保証するものだと言うのか。
沼野の名がここで挙げられるのは、彼が「レムの翻訳者」であり、レムが「SFマニアの、いまどきの偶像」(原語からの新訳刊行中)だからでしかなく、『SFやアカデミズムの外まで届く大きな反響』と言うのなら、普通の読書家が知っているような「有名人」の名を50人くらい列挙して見せろ、という話でしかない。つまり、所詮は「田舎」で語られる「都会でも大ブーム」言説でしかないのである。

このように、名倉が「レポート」で仰々しく報告しているようなことは、大した内実を持つものではない。ただ、「ゲンロン」のメンバーとして、この鼎談の価値を喧伝したいがための「営業トーク」でしかないのである。

そんなわけで、名倉がピックアップしている、鼎談での他の話題に関しても、いちいち解説する価値はない。本稿読者は、安心して「そんな大層なものではなかったのか」と思ってもらって結構。
前述したとおり、「見世物」としては面白いし、視聴料が千数百円なら安い。ただ、それに9時間を費やすのは、やはり時間の無駄だと、読書家である私は評価する。なぜなら、その隙に、もっと中身のある本が読めるからだ。

 ○ ○ ○

この鼎談で、私が唯一「面白い」と感じた話題は「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=political Correctness=PC)」つまり「社会の特定のグループのメンバーに 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策を表す言葉であり、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。」(Wikipedia「ポリティカル・コレクトネス」)と「批評」をめぐる問題だ。

しかし、これも難しい議論がなされているわけではない。要は「なにかというと、言葉尻を捉えては叩いてくるので、下手なことが言えず、言論が萎縮してしまう」という、ありふれた「問題提起=不満表明=愚痴」の類いでしかない。

東浩紀は、現実的問題として、ポリコレが、悪い意味での「アイデンティティ・ポリティックス=アイデンティティ政治」になってしまっている、とおおむね正しく指摘している。「ポリコレ」の「負の部分」である。

『ジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティマイノリティーに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動。外部の多数派には分からない特定の集団独自のアイデンティティ-の数が増える一方、集団の垣根を超えた見解・感情が共有が急速に失われている。国内外の左派はマルクス主義や社会民主主義の限界が明らかになる中で、新たな主義としてアイデンティティ政治を受け入れた。これ自体は必要な一方で、格差是正のやり方を考えることよりもエリート内での議論に関心が向かった。そのため、古くからあるマジョリティー抱える問題、アメリカならば白人労働者層の貧困の問題からは注意が逸れ、理性的な対話を脅かしかねないようになった。
アファーマティブ・アクション(積極的優遇措置)はアイデンティティ政治がアイデンティティマイノリティーから社会的不公正とされているモノを是正するために推進された法的改正の一つである。一定の成果を上げているが、逆差別やマジョリティの弱視無視・皺寄せが起きていることへの批判の声も存在する。』(Wikipedia「アイデンティティ政治」)

簡単に言えば「党派権益政治」である。
自分たちの「マイノリティー性」を強調し、「弱き強者=裏返しの特権階級」として「ヘゲモニー」を握り、権益を確保しようとするような、「公正さ(フェアネス)」や「他者への思いやり」を欠いた、身も蓋もない「我利我利亡者」的な考え方であり態度が、「ポリティカル・コレクトネス」という建前の下に横行して、「議論」が成立しなくなっている、という悪しき現実。

たしかにこれは重大かつ喫緊の問題であり、何よりも「言いたい放題」なほどに「自由」を重視する、リベラルの一人である私としても、こうした問題を看過するわけにはいかない。私自身「弱者の味方」を自負しているからこそ、「弱者の味方」という立場にドロを塗るような、誤った「ポリティカル・コレクトネス」は、とうてい容認できないのである。

しかしながら、「ポリティカル・コレクトネス」の「問題」は、「ポリティカル・コレクトネス」自体を批判否定して、無くしてしまえばすれば良い、というような簡単な問題ではない。言うまでもなく、「ポリコレ」は、「必要」な「弱者への配慮」であるからこそ、その「濫用」が問題なのである。
そして、この「ポリティカル・コレクトネス」の必要性と、その弱点としての「アイデンティティ・ポリティックス」の問題は、どちらか一方を採れば良いということではないからこそ難しい。逆に言えば、難しい問題を難しい問題のままに、バランスを取りながら取り組まねばならない問題である、という点に難しさがある。

ところが、東浩紀の場合は「プロの言論人」の「保身」の問題として、「ポリコレ」批判をしているようにしか見えない。要は「営業がしにくくて困る」といった程度の問題意識でしかなく、本気で「ポリコレ」の二面性問題に取り組む気構えが見られないまま、わかりやすい不満だけを口にしているのである。

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これも「酒が入っているから」言えた「本音」なのかもしれないが、しかし、誰にも判定し得ない「本物の弱者」にとっては死活問題である「ポリコレ」について、所詮は「物書き業者に対する営業妨害」といった程度の問題意識で、迂闊に「ポリコレ」を攻撃するというのは、言論人としては「不見識」であると言うほかないだろう。

「ただのおっさん」の意見としては「気持ちはわかる」のだが、東浩紀は「ただのおっさん」として発言しているのではない。「言論人(批評家)の東浩紀」として発言しているのだから、これは、いくら「酒が入っているから」という「アリバイ工作」をしたって、許されることではないのだ。
それに、東自身(小川もそうだが)「酔ったからと言って、(後で記憶が飛ぶことはあっても)心にもないデタラメを言うことはない」と自信満々に語っているのだから、「酒を飲んだ上での放言」ということにはできず、おのずと「公的な発言」としての「有責性」を引き受けないわけにはいかないのである。

したがって、この鼎談で語られた「ポリティカル・コレクトネス」あるいは「アイデンティティ・ポリティックス」の問題は、切実な「社会問題」として考えなければならない難問であり、その意味で興味深くはあったものの、東を中心とした鼎談者の「ポリコレは問題だよね」レベルの議論は「まったく下らない」ものでしかなかった、と言えるのである。

 ○ ○ ○


そんなわけで「鼎談の中身」自体は、特段なにもないに等しかった。だが、最初に書いたとおり、三人の「人柄」やら「人間性」が窺えたという点でなら、「エンタメ」として大変面白かった、とも評価しえよう。その意味でなら、視聴する価値はあった。

だが、その部分を楽しんだ「東浩紀ファン」「ゲンロンファン」などの、大半の視聴者は、本当の意味での、三人の「人柄」やら「人間性」を楽しんだ、というわけではない。

なぜなら、酔っ払って、ほぼ自己コントロールを失った樋口恭介は別にして、東浩紀と小川哲は、前述のとおり「酒が入っていた」とは言え、自己コントロールを失ってはおらず、所詮は、視聴者に対して「見せたい自分」を「演技」的に見せていたに過ぎないからである。
したがって「酒が入ったから、本音が出て、素の人間性を窺わせ始めた(から面白い)」などと思って、この「鼎談」を視ていた者は、東浩紀と小川哲に、まんまと手玉に取られた、ということなのである。

では、具体的に、東と小川は、自身をどのように「プロデュース」していたのであろうか。

東の場合は、樋口恭介に厳しい注文をつけながらも、最終的には樋口の「可能性」を信頼して評価し、その後押しをする「懐の深い大人」一一を演じたのだと言えよう。

一方、小川の方は、「困ったちゃん」である樋口を、それでも「友人」として愛し、その愛のゆえに「否定すべきことは否定し、言うべきことは言って」軌道修正させながら、樋口の成功を願っている「頭のいい、ものの見えた、それでいて本質的に優しい人」一一を、馬鹿な樋口をダシにして、演じ切ったのだ。
そもそも小川は、樋口とは違い、東の設えた舞台の上で、自身を「見せる」ことに慣れた人なのである。

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この「読み」もまた「悪意」が籠っていると評価する人が大勢いるだろう。だが「世の中はそんなに甘くない」ということをもう少し骨身に刻んだ方が、身のためである。

「人前」で、見るからに「(面倒見の)いい人」だからといって、その人が本当にそういう人であるかなど、まったく当てにならないというのは、「まともな社会人」なら経験的に知っていなくてはならないことだ。

例えば、上司先輩が「優しくなった」のは、その人が「優しくなった」のではなく「パワハラ」が問題視されるようになったので、保身のために「優しい人」を演じるようになっただけ、という蓋然性が高い。この場合、その上司先輩は、あなたのことを思って「優しくなった」のではなく、自分の「保身=利益」のために、あなたをダシに使って「優しい人」を演じているに過ぎない。

この程度のことは、当たり前の問題意識と「人を見る目」があれば、誰にでもわかることだ。そもそも人間は、そう簡単に変わるものではなく、変わったとすれば、変わらざるを得ないように「環境」が変わった、に過ぎないのである。

また「見るからに、親切そうで優しい人」だからといって、いちいち信用するようなら、あなたは特殊詐欺のいい「カモ」であること間違いなしだ。今は大丈夫でも、もう少しボケたら、詐欺被害に遭うこと間違いなしと、私のこの言葉を肝に銘じておくべきだろう。

事ほど左様に、最初から「公開」することを前提とした「ゲンロンカフェ」における鼎談なのだから、よほどの「馬鹿」か、よほどの「酔っ払い」でもないかぎり、自分の「素の顔」をそのまま見せたりはせず、多少とも、世間に褒めてもらえるような人間を演ずるだろうというのは、当たり前に推測できることなのである。それを、そんなことすら疑いもしないのなら、それはよほど「ボケている」と言うべきなのだ。

実際、前記のように、東浩紀も小川哲も「酒を飲んでも、飲まれることはなく、自分の言っていることは、ちゃんと理解しており、自己コントロールできる」と言っているのだから、それが「素の顔」であるわけがない。
事実、動画を見ればわかるとおり、酒が入ってから語られる「本音」も、「ゲンロン視聴者」の顰蹙を買うようなことは決して言わず、前述の「ポリコレ批判」のように、「ゲンロン視聴者」が喜ぶような「本音」を選んで語っているにすぎない。要は「我々は、メタレベルに立ってるが、ツイッター・リベラルの奴らは、自分たちの正当性のアピールしか眼中にない、多様な他者を思いやれない二次元思考の人間だ」という、視聴者の「エリート意識」と「仲間意識」をくすぐるだけの、実質的には「身内褒め」に過ぎない。

東浩紀は、今どきの「ポリコレ」に問題があると言いながら、では、言論人として体を張って「悪しきポリコレ」と戦うのかというと、そうではない。「馬鹿を相手にするのは、やるだけ無駄」とばかりの捨て台詞を「ゲンロン視聴者」向けに語った上で、自分たちの「閉鎖空間」に自己監禁すると言い、それが「ゲンロン」という場所だ、と言うのである。

したがって「ゲンロン」というのは、「戦いの場」ではなく、基本的には「避難場所」であり「安心して陰口の叩ける場」でしかないのであり、これは言わば、自己監禁の「ひきこもり」戦略なのである。

ともあれ、この鼎談での東浩紀と小川哲の「身振り」が、所詮は「お見物衆」の前での、樋口恭介をダシにした「泣かせのお芝居」でしかないというのは、例えば「アイドルの世界」を少しでも知っている人には明白であろう。
文筆家であるにも関わらず、わざわざ自分の姿をモニター上に晒して、それで日銭を稼ごうとか、売名しようとかする者が、何も考えずに「素の自分」を晒すわけなどない。彼らはすでに「舞台の上の、プロの演者」だからである。  

『「どういう関係性でいきましょうか、私たち」
 初めまして、に続いて梅染真凜が私に投げかけた言葉は、単刀直入を通り越して失礼なほど、急ぎ足かつ土足で踏み込んでくるような内容だった。
 (中略)
 返事できないでいると、おかっぱ髪の少女は畳みかけてくる。
「プランの一つ目はオーソドックスな『敵対から尊敬へ』というものです。まず私は努力を否定し効率的に人気を稼ごうとして、愛星さんの保守的なやり方に異を唱え、私たちは険悪なムードになりますが、やがてあなたのひたむきな姿勢にほだされて、徐々に尊敬の念を向けるようになっていく」
「ちょっとちょっと、待ちなさい」
「ご不満なら一段階捻りましょうか。最初私は愛星さんにおべっかを使ってすり寄っていきますが、腹の底では旧世代呼ばわりして見下している。そのことが露見して私は本性をむき出しにしますが、あなたのパフォーマンスにプライドを叩き折られ改心する。つまり私がまずヒールを務めるというものです。単純な仲良し営業やケンカップル営業では飽きられるのも早いですが、段階を踏んでストーリーを作れば長持ちするかと」
「そういう話をしてる訳じゃなくて」
 (中略)
「ちょっと初めから説明しなさいよ」
「愛星さんがグループでデビューされた明治時代と違って、最近ではユニット結成前から物語を織り込んだ関係性を用意するのが常識です。成功確率が高いのは先ほどあげた二つのテンプレですよ」
 (中略)
「設定とか言うのをやめなさい。それになんでもかんでも劇的なヤラセを組み込もうとするのはやめて。あなたと話していると本当のことが全部嘘になっちゃうから」
「演出と言ってください。それも、人気を獲得するための正当な手段としての。これまで演出ゼロなありのままのキャラでやってきた訳ではないでしょう。アイドルとして自分を長生きさせたくないんですか?」』
(大森望編『ベストSF2021』所収、伴名練「全てのアイドルが老いない世界」より、P242〜246)

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「メタレベルに立つ能力」とやらがカケラでもあれば、「アイドルの世界」において、この程度の「演出」が現に為されていることくらいは、容易に想像がつくはずだ。
そして今どきは、「評論家」だ「小説家」だと言っても、それはまさに「アイドル=偶像」であって、その「権威という幻想」を読者に与えて喜ばせる、芸人の端くれなのだ。
ましてや、わざわざ「新しい放送プラットフォーム」である「シラス」まで作って、そこで自分たちを売り込んでいる東浩紀やそのお仲間(小川哲を含む)が、「アイドル=偶像」を目指していないわけなどないのである。

したがって、この鼎談においても、東が視聴者に売り込もうと狙っていたのは、「面白い物語」であって「批評的な中身」ではない。後者はあくまでも「ネタ」であって、そこが眼目ではない。「批評」の世界も、今や「資本主義リアリズム」に毒されて、そんな「ベタ」な話(批評は中身だ)では済まないのである。
(なお、この鼎談で東浩紀は「資本に取り込まれなかったがゆえに、批評家として生き残っているのは自分だけ」みたいなことを言っているが、東が今でも目立って活躍しているのは、若手批評家たちに『ゲンロン』誌や「ゲンロンカフェ」などの露出の場を提供しているからで、筆一本だったなら、ここまで周囲から持ち上げてはもらえず、他と地味な批評家たちと、大差などなかったはずである)

ところで、この鼎談の中で、『異常論文』への寄稿者の一人である伴名練への言及は、小川による「驚いたことに、伴名練はSFしか読まないで、自分の文学世界を構築してきた人だ」と紹介する箇所だけである。

だからこそ、伴名練は「SF小説アンソロジー」の編者として、適任でもあれば有能でもあるわけで、その意味では、ここで小川は、伴名練を「文学的教養を欠いたSFオタク」だと言っているのではない。一一と、そう好意的に解することもできるが、普通に読めば「文学的教養を欠いたSFオタク」と取られてしまうであろう、これはいかにも片手落ちな紹介であった。

しかし、私に言わせれば、「文学的教養を欠いたSFオタク」であろうと、伴名練は、現実に対する鋭い洞察力を持った作家である。

樋口恭介編の文庫版『異常論文』を、私が批判的に論じた際も、このアンソロジーの中で『異常論文』の問題性を、鋭く洞察し得たのは、伴名練の短編小説「解説 一一最後のレナディアン語通訳」と、その後にくる神林長平の本書解説「なぜいま私は解説(これ)を書いているのか」の2本だけだと指摘して、伴名作品を引用紹介した。

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『 レナディアン語の評価が、「言語SFを得意とする作家の創造した魅力的な架空言語」から滑り落ち「監禁言語」「犯罪者の言語」といったものに固まるのは、中国語によってAが自身の性的被害を語り始めてからのことである。
 レナディアン語とは、レナディアン人であるAにとって、「アル(=榊)が神であり父であり母であり恋人である」と予め定義された支配のための言語だったのである。
 異常な多義性を持っているのは、Aにとっての、発話によるコミニケーションと、自身が受けている性虐待とを認識上で混同させ、その境界線を心理的にも溶解させるためだった。
 語彙や文法が変わっていくのは、言語という意思表示のための道具が榊が司っていることを誇示し、榊に従わねば意思疎通さえ不可能という状態を作って、洗脳を強化するためのものだった。』(P666)

『「榊は、言葉は剣であるべきではないと語りました。綿のように無数の対象を包み込むものでなくてはならないと教えました。
 けれど私は、言葉は時に剣でなくてはならないと思います。安らぎと恐怖、快楽と苦痛、親切と悪意、事実と解釈、愛と支配、あなたと私、それを言葉が切り離すことができると知った時に、私は本当にこの世界に生まれたのだと感じます。もし剣と呼ぶのが危ういのならば、暗闇の中に浮かぶ光だと思います。
 たとえば夜の道で人の足元を照らし、行く先を示す暖かな街灯の光のような」(A)
 (原文は中国語、生田志穂訳)』(P676)

どうであろう。
榊美澄というSF作家は、本アンソロジーの編者である樋口恭介同様に、悪い意味で「レトリック巧者」だったのではないだろうか。

(拙論「真説・異常論文」より)

つまり、私はここで、伴名練の当該短編の中で悪しき「監禁作家」として描かれているカリスマ作家の榊美澄を、「樋口恭介の似姿」と見ることが十分に可能だ、と指摘したのだが、今回ここで注目すべきは、もちろん「監禁」という言葉である。

本稿において、すでに指摘しているとおり、東浩紀の「ポリコレ」に対する身振りは、まさに「自己監禁」であり、他者から一方的な「倫理的非難」を浴びない、心地よく安全な場所(仲間内の島宇宙)への「ひきこもり」だったわけだが、伴名練が描いた「監禁作家の榊美澄」もまた、まったく同じ身振りを示した作家だったのだ。

なお、このことについて、名倉編の鼎談レポートには、こう書かれている。

『 小川は(※ 「東浩紀と倒し方」としては)ウェブでの炎上を仕掛けることが有効ではないか考えたが、東はこれを否定する。炎上はこれまで何度も経験しており、対処もできるためだ。一方、樋口がひねり出したのは「監禁」という方法だったが、それが現実的にむずかしいのは言うまでもないだろう。これらを受けて東自身の口から語られた「東浩紀の倒し方」はじつにシンプルなものだった。曰く。それは東と対話をしないことである。』

しかし東浩紀には、樋口恭介の「監禁」という手法を否定して、「自分は戦える」などと言う資格があるのか?(「対処」できるとしか言っていない点に注目)
無論、そんなものはない。東浩紀が戦える相手とは、せいぜい「ネトウヨ」や一本調子の「ツイッター・リベラル」レベルの有象無象で、相手にしなければ済む程度の相手に限定され、決して「ポリコレ知識人」と正面切って(カネにもならない)バトルができる、というわけではないからである。

そもそも東浩紀は、この鼎談でも、酔っ払って大口を叩き始めた樋口恭介を、ちょっとカマして縮み上がらせる、なんてこと外連味たっぷりにして見せていたけれど、東がそれをできるのは、明らかに、自分より「社会的地位(業界的影響力)が低い(格下)」とか「年下」であるとかに限られ、「社会的地位が高い」「年長者」について「不満」を口にするときは、その当の本人のいないところで「泣き言」のように語って周囲の同情を惹く、といった程度のことしかできない。

これは柄谷行人浅田彰は無論、昔、笠井潔が先輩ヅラで擦り寄ってきたときにも、取り込まれまいとして逃げ腰にはなったけれど、決して、笠井を正面から批判して「だから、貴方とは組めない」と言ったわけではない。「泣き」の入った「正論」で、笠井を拒絶しただけなのである。
(ちなみにこの時、笠井潔は、東浩紀の正論を、言論人として「市場のヤスリに掛かっていない」脆弱なものだといったようなかたちで否定していたはずだが、今ではすっかり、東の方が「市場のヤスリ」を掛ける側に変貌している。一一『動物化する世界の中で 全共闘以後の日本、ポストモダン以降の批評』2003年刊)

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そんなわけで、私が言いたいのは、伴名練の「洞察力」はすごい、ということだ。

樋口恭介編『異常論文』所収の短編小説「解説 一一最後のレナディアン語通訳」にしろ、大森望編『ベストSF2021』所収の短編小説「全てのアイドルが老いない世界」にしろ、ごく身近にある「リアルな問題」を、「小説」の中で説得的に描き、剔抉してみせるのだから、その「社会派に見えない社会派」ぶりは、「読めない読者」には評価不能であるにしろ、もう少し評価されるべきだと私は、そのように強く訴えたいのである。

まして、伴名練は、小川哲の言を信用するならば「SFしか読んでこなかった人」なのに、ここまで「人間」を洞察できるというのなら、それは、これが伴名練の本質的な才能であり、だからこそ彼は、ことさらに深刻ぶった書き方をせずとも、読者を感動させる、「人間が描ける」作家なのであろう、ということにもなる。

私みたいな嫌われ者に褒められても、迷惑なだけかもしれないが、伴名練の実力と人気は、私が誉めたくらいでは揺るがないと信じるので、読者は、私の評価など気にせずに、伴名練の描く「人間」たちを味わっていただきたい。伴名練は、決して「単なるエンタメ作家」ではないということが、必ずや感じ取れるはずである。

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繰り返しになるが、結論としては、小川哲・樋口恭介・東浩紀による鼎談「『異常論文』から考える批評の可能性──SF作家、哲学と遭遇する」」は、「平凡な現実」の再演でしかなかった。

それは「会社の飲み会」でもよく見かける光景の変奏でしかなく、「人気商売の世界=アイドルの世界」では当たり前に演じられる「きれいごとの三文芝居」でしかなかった、ということだ。

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そうした意味で、東浩紀と小川哲の演技力は、なかなかのものであり、それなりに評価に値するものだとは言え、まとも酔っ払ってしまい、「イキったヘタレ」の本性を衆目に晒すことになった樋口恭介には、心から同情する。
結局のところ、東と小川という年長者二人に良いように利用され、「道化役」を演じさせられて、多くの人に「これが樋口恭介の本性か」と見下されることになっただけなのだから。

そして、そうした意味では、私なんかより、東浩紀や小川哲の方が、よほど残酷な「樋口恭介批判者」だったと言えるのではないだろうか。

まあ、千円ちょっとで9時間も楽しめるのだから、暇な方は、私の書いていることが事実かどうかを確かめるためにも、ぜひ、この鼎談の録画をご覧あれ。
しかしまた「中身が無いのなら、千円ももったいない」という方は、youtubeでの再放送をお待ちいただければと思う。

「刮目せよ! 春の到来せる日本SF界隈の現実がここにある」という「煽り文句」を、私からも適当に捧げておきたい。

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(2022年2月5日)

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