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谷川嘉浩 『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』 : 「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、 私のことか?

書評:谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

初めて読む著者の本である。書店で、そのポップな表紙が目を惹き、

『つながっているのに寂しい、「常時接続の世界」を生き抜くために。』

帯に刷られた著者の写真は20代前半にも見えるし、『新進気鋭の哲学者による』とあるから、いかにも若者向きに読みやすそうな感じの本で、予定の詰まった読書にも左程の負担にはならないだろう。一一そう考え、例によって「では、お手並みを拝見しようか」と、またもやうかうかと購入してしまった。

読んでみると、実際、読みやすいし、著者の考え方はかなり堅実なものであり、ほぼ異論はなく同意できるものだった。当然のことながら、勉強になった部分もあるし、紹介されている図書も、何冊か「ブックオフオンライン」で購入してしまった。
だから、決して悪くはないのだが、特に「目新しい」ものはなく、著者も、そんなハッタリめいたことには興味がないようなのだが、やっぱりちょっと物足りない感じが残った。

著者は、いまどきの薄っぺらな「情報処理」のあり方(例えば「ファスト教養」「ファスト読書」「マルチタスクな情報処理」)に問題を見ており、そんな「今どきのパターン」にどっぷりハマっている人たちに、いかに「哲学」的に学び、腰を据えて考えるということが、充実した行き方をする上で大切なのかを、教えようとしている。

つまり本書は、きわめて真っ当な「哲学入門書」なのだから、「目新しさが無い」というのは、仕方のないところなのだろう。
だが、歳をとった今の私からすれば、こんなわかりやすい「若者向け入門書」では、やはり「物足りない」という印象は否めなかったのだ。

本書の内容については、Amazonカスタマーレビューの常連レビュアー「無気力」氏のレビュー「常時接続の世界で孤独を確保する方法」が、よくまとまっているので、本書の「内容紹介」がわりに引用させていただこう。

『スマホ時代ということについて、常時接続によって「孤独」が失われてしまったという問題意識のもとで、「創造するときも、解釈するときも、謎や疑問、不確実性とともにあることができるかどうかということ」(本書195ページ)に関わる能力としてのネガティブ・ケイパビリティの重要性が指摘される。そして、孤独を確保するための「趣味」の必要性が議論される。ここで言うところの趣味は括弧がつけられており、一般的に想定されるところの趣味ということではなく、「趣味は謎との対話である」(本書176ページ)とあるとおりである。

導入ではオルテガの『大衆の反逆』が引かれ、以降も著名な哲学者や思想家を参照しながら、かつエヴァンゲリオンの様々な場面や『ドライブ・マイ・カー』などの映画、小説作品も思考のための素材として使いつつ、常時接続の世界を生き抜く方法について思索していく。「スマホ時代の哲学」というタイトルに相応しく、著者による「哲学」の営みにつき、その過程を読者も共有するように読んでいけるような構成となっている。
各章の末に付されたコラムでは、より学術的な議論も展開されており、そういう知識を求める読者への配慮も行き届いているところも好感を持てる。』

いかにも面白そうではないか。一一実際、面白いし、納得もできる。だが、何か根本的に「物足りない」。

どうしてだろうと、そう思案して思いつくのは、「結局これでは、著者と考えを同じくする、哲学をかじっているような人なら、納得して同意するもだろうが、著者が本来訴えたかった人、つまり、哲学に入門してほしい一般の人々には、著者の声は届かないだろうな」という感じであり、結局のところ本書は「哲学に興味のある、ごく限られた哲学オタク的な若者にしか読まれないし、読んだところで、そんな読者がオタクの域を脱することもないだろう」と、そんな「内輪ウケ」的な印象しか与えないのだ。

著者の気持ちや意図は、きわめて真っ当なものなのだが、この「面白そうな」アプローチでは、「常時接続」というものに象徴される「資本主義リアリズム=ネオリベラリズム」の厚い壁(非情さ)を打ち破ることはできないだろう、と感じるのである。

例えば、本書には、奥付付近の「著者紹介」が無く、「はじめに」や「あとがき」などの中で、著者は簡単な「自己紹介」をしているのだが、エッセイ的にくだけた語り口の自己紹介なので、いまいち客観的なデータがつかめない。例えば、生年はどこにも書かれていない。
で、どんな人かとネット検索してみると、こんな「自己紹介ページ」が見つかった。

『 基本情報

所属 京都大学人間環境学研究科共生人間学専攻

学位 博士(人間・環境学)(2020年3月 京都大学)
   修士(人間・環境学)(2016年3月 京都大学)

(中略)

学位論文では、互いを見知らぬ大規模かつ複雑な「社会」という領域を見出し、そこに存在する諸問題に取り組んだ、19世紀後半から20世紀前半におけるアメリカの知識人たちの思想と実践について論じました。その中心に据えたのは、哲学・心理学・政治学・社会学・大衆社会論・消費社会論など、多領域にまたがって活動した知識人であるジョン・デューイ(1859-1952)です。

これは、勁草書房から『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』として2021年2月19日に発売されました。

私の主専門は「哲学」です。ただし、哲学の知識を活かしたり、哲学で培ったスキルを汎化したり、あるいは、新しく知識やスキルを身につけたりして、やれることは何でもやるという研究スタイルを採用しています。

例えば、『メディア・コンテンツ・スタディーズ』(ナカニシヤ出版)への寄稿、「ゲームはどのような移動を与えてくれるのか:マノヴィッチとインゴルドによる移動の感性論」(『Replaying Japan』)、「コンテンツ・ツーリズムから《聖地巡礼的なもの》へ:コンテンツの二次的消費のための新しいカテゴリ」(『フィルカル』)などは、そうした研究スタイルをわかりやすく伝えるものだと思います。

メディア論、ゲーム研究、教育学、文化社会学など複数分野で論文等の研究成果を出しているだけでなく、教育面でも、デザイン論や文化社会学をテーマにした卒論・修論、エスノグラフィーをベースにした卒論・修論を書く学生を輩出しています。

より詳細な自己紹介として、ウェブメディア「Less is More.」(株式会社インフォマート)に掲載されたインタビュー(こちら)を挙げておきます。

ビジネスの個人受託も、しばしば請け負っています(コンサルテーションやコンセプトメイキングが大半ですが、ライティング、研修・講演、リサーチ、ヒアリングなどもそれぞれ複数回経験があります)。

学術/非学術問わず、講演、執筆、リサーチなど依頼があれば、Gmailのアドレス宛(yshr.tngw)にご連絡ください。』

(サイト「researchmap」より)

一連の、ネオリベラルな(成果主義的な)「大学改革」によって、今どきの大学教師は「大学にこもって、もっぱら専門の研究にいそしみ、その結果を学生に教授する」だけでは済ませてもらえない、というのは知っている。
要は「見える実績を出せ」と「お国」から言われているのは知っているし、このページなどは、そのための「売り込み(自己宣伝)」ページだというのもわかってはいるが、やっぱり、私のような昭和の人間には、「哲学者」とか「哲学教授」といった人が、こういう「なんでも対応できますので、どうぞよろしく」みたいなことを書いているのを見ると、いささかゲンナリさせられてしまう。

「たしかに有能なのだろうし、何にでも対応できるのかもしれないけれど、それって、結局は、資本主義リアリズムに上手に適応した、器用な何でも屋だってことじゃないの? お国が右向け右といえば、右を向くし、右を向くことこそが正しいといった理屈だって、求められれば、巧みに構築できますよ、って感じなんじゃないの?」と疑ってしまう。

著者自身も本書で書いているとおり、「哲学者」というのは「自分の頭で、一人でうんうん言いながら考える人」みたいなものではなく、「2500年続いてきた哲学の伝統を継承し、その知を時代に合わせて活用する、知の専門技術(伝承)者」みたいなものだという考え方は、決して間違いではないと思う。
著者も言うとおり、先人の知恵をないがしろにして、自分だけで何か考えようとするのは、あまりにも非効率的だし、そもそも独善的に傲慢な考えで、そんなものなど多くの場合「休むに似たり」といったことしか結果しないであろうというのは、容易に想像のつくことだからだ。

しかし、「哲学」的な知識が「どうとでも使えるような知識」であるというのは、やっぱりおかしいと思う。

「哲学的な知」は、その徹底性において、おのずと「人の生き方」を規定し、拘束するものだとも思うからである。つまり、「流される」ことを容易には是認しない、「哲学」となるはずなのだ。

無論、こう言うと、著者は、そんなつもり言ったのではないと言うのだろうし、事実、そんな「便利で使い勝手の良い、哲学的技術屋であるつもりはない」と言うのだろうが、私は「でも、歴史を見れば、大半の知識人は、知の命ずるままには生きれませんでしたよね。すなわち、長いものに巻かれた。あなたの現状だって、それに近いんじゃないですか?」と、意地悪な追求をしてしまうだろう。

彼(著者)も「哲学で、食っていかなければならない」のだから、ある程度の妥協は致し方のないことだと、そう理解してはいても、だからと言って、「哲学」をやっている人が、世間並みの「妥協」をするというのは、やはり「何のための哲学なのか?」という疑問を感じずにはいられず、やはり釈然としないものが残ってしまうのだ。

で、先に引用した「無気力」氏のレビューの、

『スマホ時代ということについて、常時接続によって「孤独」が失われてしまったという問題意識のもとで、「創造するときも、解釈するときも、謎や疑問、不確実性とともにあることができるかどうかということ」(本書195ページ)に関わる能力としてのネガティブ・ケイパビリティの重要性が指摘される。』

というところで言及されていた、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、何だろうか?
「創造するときも、解釈するときも、謎や疑問、不確実性とともにあることができるかどうかということ」に関わる能力とは、どういうことか?

要は、「スッキリしないもの(や状態)に耐える能力」ということだ。

言い換えれば、面倒くさそうだからといって「目を逸らさない」「スルーしない」「無かったことにしない」という能力。逆にいえば、嫌なことや面倒なこと、すぐには解決できないことであっても、それに耐えて腰を据え、時間をかけて向き合える能力、とでも言えるだろう。

今の人たちは「スマホ時代のマルチタスク」に追われており、面倒なものだけではなく、個々の事象に「興味やこだわりを持って」関わっている暇などないと、個々の事象を「大量に流す」ことで済ませ、早々に「目を逸らし」「スルーし」「無かったことにする」のだが、それでは、いつまでたっても自分の中身は空っぽのままで、本物の自信など持てるようになるはずがない。

したがって、今の時代に哲学する(思考を取り戻す)ためにどうしても必要なのは、そうした負荷に耐える「ネガティブ・ケイパビリティ」であり、その能力が問われている、という話なのである。

で、だから私が、多くの人にとっては、たぶん「どうでもいいこと」であろうことにこだわって「どうも信用できないな。本当にそうなの? あなたを信じてもいいの?」などと(嫌われることも覚悟で、孤独を引き受けて)「粘着」するのは、すなわち「ネガティブ・ケイパビリティ」があったればこそであり、私のこの「粘着力」こそ、著者が「今どきの(アッサリ系の)人々」に求めているものなのである。

だから、著者の谷川嘉浩さんも、私のこんな「粘着(的思考努力)」を、許してくれることだろう。

一一「我が意を得たり!」とまでは、言わないにしても。


(2022年12月3日)


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