フィリップ・K・ディック 『流れよわが涙、と警官は言った』 : アイデアSFではなく、自伝的SF
書評:フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』(ハヤカワ文庫)
1981年に「サンリオSF文庫」から翻訳刊行されたものの、まもなく同叢書がまるごと廃刊になったため、1989年に「ハヤカワ文庫」で再刊された作品である。
「あらすじ」としては、次のような作品だ。
見てのとおりで「目覚めたら、そこは自分が存在しないはずのパラレルワールドだった」というお話で、はたして主人公のジェイスン・タヴァナーは、この「悪夢のような世界」から脱出して「元の世界」へ戻れるのか?
いかにもディックらしい、例えば映画にもなった『マイノリティ・リポート』なんかと同系統の「手に汗握る、サスペンスフルな物語」一一かと、そう思ったら、肩透かしを食うことになる。
どうやら、本作はそのような作品ではないらしい。
主人公のタヴァナーが『三千万人のファンから愛されるマルチタレント』という設定になっているのは、もちろん、彼は「誰もが知っている、憧れの有名タレント」だからこそ、「あんた誰?」という「浦島太郎」的な状況も際立つことになるからだ。
無名人なら、ごく限られた周囲の人間以外は、その人を知らなくて当然なのだが、タヴァナーの場合は「みんな」が知っており、ほぼすべての人に「面が割れている」というのが前提となっているので、誰も彼を知らないという状況での「孤立感」も際立つ。
また、本作の描く世界は、ディックお得意の一種の「警察国家」、つまり『マイノリティ・リポート』と同じような世界で、身元の定かではない者とか、犯罪者というのは、「強制労働収容所」送りになってしまう。
だから、ごく親しかった恋人も、彼の冠番組関係者も、タヴァナーのファンも、全員「あんた誰?」で、身元を保証してくれる人のいない彼には、きわめて危険な世界なのだ。昨日まで、イケメンのモテモテ金持ちタレントで、誰もが彼にチヤホヤしていたのに、この世界では「なかなか、いい男だ」とは認められても、身元不明の怪しげな人物として、彼に救いの手を差し伸べてくれる者が、なかなかいない。
だから、「孤立無縁のタヴァナーの、運命やいかに!?」となるのが定石なのだが、一一そうは、ならないのである。
本作の「近未来」には、「スイックス」なるものが存在する。
この言葉の説明が、思わせぶりにもなかなかなされず、物語終盤になって、やっとなされるのだが、その意味するところは「遺伝子操作のよる強化人間」というほどの意味だ。「意志」の堅固さや「機転」の良さ、さらには「容貌」の良さや「芸術的才能」などに恵まれた、ごく少数の人間を指しており、その一人がタヴァナーなのだ。
ではなぜ、「スイックス」がごく少数者に限られているのかというと、それも今ひとつハッキリと説明されていないのだが、要は、その「遺伝子操作」が、期待されたほどの効果をあげなかったのと、その技術の開発を行なっていた博士が死んでしまい、プロジェクトが頓挫した、とかいったことのようだ。
つまり、安価で遺伝子改造ができて、それでみんなが美男美女のスーパーマンになれるというわけではなく、一般人に比べれば相対的にそのようになれる確率が高い、という程度の話だったようである。
だから、タヴァナーの魅力や才能は、すべてが「スイックス」のおかげというわけではなく、もともと持っていたものの上に、いくらかプラスされた結果だと考えるのが正しく、言い換えれば、「才能ある美男美女だからスイックスだ」と決めつけられるほど、ハッキリとした効果のあるものではなかった、ということのようである。
そんなわけで、「スイックス」であるタヴァナーは、絶体絶命的な状況を、持ち前の「美貌」と「機転の良さ」や「図太さ」によって切り抜けていく。その中で、彼に惚れてしまう女性が複数登場して、彼の逃亡生活を支えてくれるのだ。
だが、こうした設定は、「合理的」ではあるけれども、ある意味では「ご都合主義」的でもあって、「そんな危機的な状況を、そんなにうまく切り抜けられるものなの?」という感じがしないでもない。お話としては、ちょっとうまくいきすぎていて、その意味では、意外にサスペンスに欠けるのである。
それで私の場合は、何かもう一捻り二捻りあるのだろうと予測し、それに期待して読み進めていったのだが、結局のところ、それらしい展開もないまま、「スイックス」の属性をよく理解している、優秀な警官である警察本部長のバックマンが、タヴァナーを自首に追い込んで捕らえてしまい、それで一件落着となってしまう。一一で、私としては「なにこれ?」と唖然とさせられたのであった。
本作における、この奇妙な「定式からのズレ」の謎については、私が読んだ「ハヤカワ文庫」版の解説者である大森望が、おおむね納得できる説明をしてくれている。だから、それを、しれっと紹介してもいいのだが、そんな、よくある「受け売り」はしたくないので、私なりに「一捻り」したいと思って、これを書いている。
ともあれ、本作を一読して、私と同様「なにこれ?」と思った読者は少なくないようだ。Amazonの本書紹介ページにも、私の感想と似たような意見のカスタマーレビューが、少なからず散見されるのだ。
まずは「レビュアー名・評価点数・レビュータイトル」だけを順不同(私が確認した際に表示されていた順)で示す。
投稿された「29本」のレビューのうち、上のとおり「11本」が、この調子なのだ(現時点)。
しかも、(5つ星のうち4.0)や(5つ星のうち3.0)というのは、決して「悪意票」でもなければ「否定票」でもない。満足はしていないものの、なんとかその「不満」や「わからなさ」の原因を理解しようとしている読者による「好意評」だと言っても良さそうだ。なにしろ(5つ星のうち5.0)を付けて「まあまあ」と評した人さえ見られるのだから、これはたぶん、レビュアーの多くが、ディックファンでありディックに好意的であるためか、あるいは、ディックの権威に遠慮してしまった結果なのではないだろうか。「いまいち面白くなかったんだけれど、だからと言って、駄作だと断じるほどの自信もない。なにしろキャンベル賞の受賞作でもあるしね」という感じである。
本作の「わからなさ」について、比較的率直に語っている、「やまだ6」氏によるレビュー「訳の分からない話」を、ここで全文引用しておこう。
そう。私は本作に「もう一捻り二捻り」あるいは「二転三転」を期待し、「やまだ6」氏は「謎の解明」つまり「驚愕の真相」のようなものを期待したのだが、そのいずれもが、本作では裏切られる。
ほとんど「ネタバレ」にさえならないような「謎の真相」は、簡単にいうと「特殊な薬物のせいで、脳内的に別の世界にトリップしてました」といったようなもので、ほとんど説明にはなっていないし、何よりあっけなさすぎる。
だが、本作の「真の狙い」は、ハヤカワ文庫の解説者である大森望が書いているとおりであり、そして「やまだ6」氏が『要はこれは、主人公や女たちが語る愛についての話であって、謎はオマケなんですね。』と書いているとおりだったようだ。
つまり、私個人に関していえば「私のような、男女の情愛にうとい人間に、そんなもの理解できるわけもなければ、楽しめるわけでもない」というような話だったのだ。これが、私とっての「謎の真相」だったのである。
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言うなれば本作は、「娯楽作品」ではなく、ディックの「文学趣味=人間を描く」が前面に出た「私小説SF」とでも呼ぶべきものであり、描きたかったのは『流れよわが涙、と警官は言った』と題するとおりで、「愛する人を失うことのつらさ」であり、要は「(真の)愛」なのだ。
だから、大森望が「解説」で書いているとおり、本作の「真の主人公」は、タヴァナーではなく、警察本部長のバックマンの方なのである。
彼は、物語の後半で「最愛の妹」を失うことになる。「双子の妹であり、近親相姦の愛人」であった妹をだ。それで『流れよわが涙、と警官は言った』という話にもなるわけだが、それに比べると、「スイックス」として人並みはずれて「意志が強く、情に流されない」、言い換えれば「鈍感にも厚かましくもなれる」タヴァナーには、バックマンのような「人間的な熱い涙」が流せない。大森望も指摘するとおり、バックマンにとっては、「スイックス」であるタヴァナーは、「非人情な=涙を流さない」人造人間(レプリカント)も同然の、不愉快な存在だったということである。
大森望の解説から、肝となる部分を引用しておこう。
ごく大雑把に言えば、ディックは、妻と子供に逃げられ、その寂しさを埋めるために受け入れたヒッピーたちには薬物中毒のせいで死なれたり、仲間のなかにいた新しい彼女に裏切られたりと、つらい別れを何度もくりかえして鬱状態にもなっていたし、被害妄想もあったのだ。
だが、ディックという人は、そうした自分を、突き放して評価するような「冷めた(醒めた)タイプ」ではない。むしろ、ドラッグ中毒のダメ人間たちに同情し、そちらを擁護するタイプの「感情優先タイプ」の、よく言えば「熱いタイプ」なのだ。
大森望も書いているように、同じ「正義漢」ではあっても、人生とは「そういう(どうしようもない)ものだ」(『スローターハウス5』)と、ある意味で達観しているカート・ヴォネガットとは、真逆のタイプなのである。
だから、有名人でモテモテで、若い恋人ができてしまうタヴァナーが、自身をモデルにしているキャラクターでありながら、ディック本人は、タヴァナーには共感的ではなく、とうてい世間の理解を得られないであろうドロドロの情愛で結ばれていた妹を失って、涙を止められなかったバックマンに、自身を投影したのである。
したがって本作は、たしかに「ディックらしい作品」ではあるのだけれど、その「らしさ」を、「SF」の側面に求めていたら、裏切られてしまう。
ディックの、この「私小説的な嘆き節」に共感できる人とは、「愛する人を失うことの痛み」に敏感な人、ということになろう。
だが、残念なことに、私自身はタヴァナー型の人間だったから、バックマンの情動がピンと来ずに、「なにこれ?」となってしまった。
いつも書いているとおりで、私は「恋愛」もの(小説・映画・マンガ等)にはほとんど興味のない人間であり、また、ある意味ではカート・ヴォネガット的に達観したところのある人間である。「人間なんて(恋愛なんて)、所詮そんなもの」というところのある人間なのだ。だから、本作が理解できなかった。
しかし、最も残念なのは、私が「タヴァナー型」の人間でありながらも、タヴァナーのような美貌も才能も人気もなく、当然、異性にも同性にもモテモテというわけではない、という点である。一一とまあ、この作品の感想として、こんなふざけたことを書いている時点で、私が本作向きの読者ではなかったというのは、おのずと明白なのであろう。
(2023年12月16日)
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