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フィリップ・K・ディック 『火星のタイム・スリップ』 : 醒め得ない悪夢としての読者たち

書評:フィリップ・K・ディック『火星のタイム・スリップ』(ハヤカワ文庫)

1964年発表の、ディック中期の長編である。

『火星のタイム・スリップ』などという邦題だから、火星まるごとタイム・スリップするような、壮大な作品かと勘違いされるかもしれないが、本作もまた良くも悪くもディックらしく、そういうタイプの物語ではない。原題は『MERTIAN TIME-SLIP』で、直訳すれば「火星人のタイム・スリップ」となり、タイム・スリップするのは「火星人」である。
ただし、「火星人」と言っても、原住火星生物のことではなく、火星に移り住んだ地球人類のことだ。つまり、平たく言えば、ただの「人間」のことなのだが、その人間が、どのようにしてタイム・スリップするのか?
一一そこがディックらしく、「意識」の問題となるのである。

(私が読んだ、1997年「第11刷」の装丁)

火星移住のための星間航行時における放射線被曝などから、火星に移り住んだ人たちの間に、「奇形を伴う身体障害児」や「精神異常児」が生まれてくる。
そして、後者の「精神異常児」の多くは、火星唯一の民間福祉施設「B・G・キャンプ」に収容されていたのだが、地球政府と呼んで良い「国連」が、そうしたキャンプを閉鎖することで障害者を抹殺しようとしている、という情報が火星にもたらされ一一。
そんなところから物語が幕を開け、1960年代、世界的に(現実に)発生した「サリドマイド薬害事件」などを引き合いに出しながら、「障害者差別」の問題が、きわめてアクチュアルに語られる。

『(※ 自閉症の息子マンフレッドをキャンプに預けている)スタイナーは彼女(※ 同様の父兄の一人、ミセス・エスターヘイジイの言葉)をさえぎった。「その法案の成立は確かなんですか?」
「と思いますね」夫人は顎をつきだしスタイナーをまっすぐ見つめた。知的な目は穏やかだった。
「用心してしすぎることはありません。恐しいことですわ、彼らはキャンプを閉鎖し、そしてーー」夫人はその先を言わなかった。口には出せぬあることを彼はその目に読みとった。異常児は、彼の息子も夫人の息子も、ある科学的な、苦痛をともなわぬ、瞬間的な方法で殺される。夫人はそう言うつもりだったのか?
「言って下さい」彼は言った。
「子供たちは眠りにつかせられるでしょう」
 彼は幅吐をもよおした。「殺される、と言うんですね」
「まあ、なんてことを。よくもそんなことを口になされますね、平気で?」夫人は恐怖にみちた目でスタイナーを見つめた。
「まさか」彼は苦りきった口調で答えた。
「それが事実だとしたら一一」だが彼は夫人の言葉を信じてはいなかった。彼がそれを望んでいないからか? あまりにも忌まわしいことだからか? いや、ちがう。夫人の本能を、現実に対する認識を彼が信用していないからだ。夫人はある歪曲されたヒステリじみた噂をとりあげているにすぎないのだ。むろん、B・G・キャンプと収容児になんらかの影響を及ぼすような法律が上程されたという事実はあるだろう。だが異常児をもつ親は、常にそうした不安におびえているのである。彼らは、生殖線に永久的な変化が生じたと認められる場合、一般にはガンマ線を一時に大量に浴びた場合であるが、その両親及び子供は、強制的に不妊手術をほどこされるという噂も聞いているのだ。』(P50〜51)

『 不意に彼(※ スタイナー)は、われにもあらず声をつまらせながら、わめいた。「彼らの方が正しいのかもしれないんだ。喋ることもできない、人間のあいだで暮すこともできない子供が、なんの役にたつんです?」
 (※ キャンプの教師)ミス・ミルシュはちらりと彼の顔を眺めたが、何も言わなかった。
「一生、仕事ひとつできないんだ。一生、社会のお荷物で暮すんだ、いまと同じように。それが真実じゃないですか?」
自閉症の子供はいまだにわたしたちを悩ませます」ミス・ミルシュは言った。「自閉症とは何かということ、その原因は何かということ、そして長い年月、なんの反応も示さなかった子供が、不意に、理由もなく、精神的な発育を示しはじめるという傾向、そういったものが、わたしたちを悩ませるんです」
「わたしは、心からその法案に反対できない」スタイナーは低い声でいった。「よく考えてみると。はじめの驚きが消えてみると。その法案は、正当なのかもしれない。そんな気がしますよ」彼の声は慶えていた。』(P53〜54)

『「やあ、マニイ」スタイナーは息子を呼んだ。
 少年は顔をあげもせず、気づいたそぶりも見せない。ただ何かをいじりつづけている。
 法案の起草者に手紙を書こう、とスタイナーは思った。小生の息子はキャンプにおります、小生は貴下のご意見に賛成いたします。
 その考えは彼を愕然とさせた。
 殺すことだ、マンフレッドを一一彼はそれに気づいた。あの子への憎しみが、あの話を聞いたことによって解きはなたれ、表に現われたのだと。彼らがなぜ秘密裡に討議しているのか、やっとわかった。大勢の人間が、憎しみをいだいているのだ。自分自身で気づかずに。』(P54〜55)

『 禿で、デブで、背の低い、眼鏡をかけた店の主人が、スタイナーの横に座った。「どうした、うかない顔をして、ノーブ?」
「B・G・キャンプが閉鎖されるらしいんでね」
「そりゃいい」とレッド・フォックスの主人は言った。「あんな化物は、この火星にゃ用はないよ。外聞が悪いったらありゃしない」「同感ですよ」スタイナーは言った。
「あるところまでは」
「ほら、六〇年代にぞくぞく生まれたあざらしみたいな赤ん坊な、ドイツの薬を飲んだ連中の腹から生まれた、あれと同じだ。あんなものはみんな片付けちまったほうがよかったんだ。五体満足な丈夫な子供がいくらでも生まれるっていうのに、なぜあんな化物に金を使うのかねえ? 腕が余分にあったりさ、一本もなかったりするような、片端ものが生まれたらどうだ、あんただって生かしておきたいとは思わんだろう?」
「そうですね」と彼は答えた。地球にいる彼の義弟が、あざらし状奇形であることは黙っていた。義弟には生まれつき両腕がなく、カナダの専門店で特別に作らせた精巧な義手をつけているのだった。
 でぶの主人に、彼は何も言わなかった。黙々とビールを飲み、カウンターの前に並んでいる酒壜をじっと見つめた。この男は最初から好きになれなかったし、マンフレッドのことも話したことはない。彼は、相手の根強い偏見を知っていた。相手が変り者でないことも。相手にぶちまける怒りはどこからもわいてこなかった。彼はただ疲れていて、言いあう気にはなれなかった。
「あれがはじまりだったんだ」店の主人は言った。「六〇年代初期に生まれた赤ん坊が一一B・G・キャンプにもああいうのがいるのかね一一あそこに足をふみいれたことはないが真平だね」
「B・Gにいるはずはないでしょう? ああいうのは異常児とはいわないんだ。異常児というのは、種類がちがうということだから」
「ああそうか」と相手は認めた。「なるほどね。とにかくだ。あいつらをさっさと片付けておけば、B・Gなんて施設もいらなかったはずだろ。だってさ、おれには、六〇年代に生まれた怪物と、それからあとに放射能のせいで生まれた片端ものと何かつながりがあるように思えてしかたがないんだ。つまりあれは、劣った遺伝子のせいじゃないのかね? いま考えてみるとナチスのやり方は正しかったと思うね。やつらは一九三〇年なんて昔に、劣った血統を根だやしにしなければならんと思ったんだからな。やつらにはわかって一一」
「うちの倅は」スタイナーは言いかけて、口をつぐんだ。自分が言ったことに彼は気づいた。でぶの男は彼を見つめた。「うちの枠はあそこにいる」スタイナーはようやく言葉をついだ。「あんたの息子さんが、あんたにとって大事なように、おれにとっては大事な息子なんだ。もう一度きっと生まれ変ってくると思ってますよ」
「一杯やってくれ、ノーバート」でぶの男は言った。「お詫びのしるしだ。あんなことを言ってすまなかった」
 スタイナーは言った。「B・G・キャンプが閉鎖されたら、おれたちみたいに子供を預ってもらっている親は、悲惨なことになる。おれには耐えられない」「わかるよ」でぶの男は言った。「気持はよくわかる」
「おれの気持がわかるとしたら、たいしたものだ。おれにはさっぱりわからないんだから」スタイナーはからのコップをおいて、スツールからおりた。「酒はもう結構だ。じゃ、これで失礼する」彼は重いスーツケースをもちあげた。
「あんたがここへ来るたんびに」店の主人が言った。「キャンプの話はよくしたが、あんたは、倅があそこにいるなんて一言もいわなかった。卑怯だぜ」主人は、腹をたてていた。
「卑怯だって?」
「そうともさ、知ってりゃ、あんなこと言うもんか。あんたがいけないんだ、ノーバートーーひと言いってくれりゃいいものを、わざと黙っているなんてな。そんなやり方はきたない」顔が怒りのために赤くなった。
 スタイナーはスーツケースをさげて店を出た。』(P58〜61)

こういうのを読んでさえ、いまだにこの作品を評して「ディックの悪夢世界」だとか「最高傑作」だとか、そんなどうでも良いことばかりを嬉しそうに語れる人たちには、心底ウンザリさせられる。きっと「障害者差別」のことになど、そもそも興味がないのだろう。
さらに突っ込んで言えば、その多くの本音は『知ってりゃ、あんなこと言うもんか。あんたがいけないんだ』一一つまり、知ってりゃ「そのことには触れない」し、公に触れなければならないとなれば、それこそニュースキャスターの口真似みたいなことを、平気で口にするのだろう。また、そんなやつばかりだからこそ、レビューを書いても「コピペ」みたいなものしか書けない。

私たち日本人は、現につい最近もこうした問題のニュースに接したばかりなのだが、そのニュースを聞いて、本音では、上の酒場の主人みたいなことを考えた人も、決して少なくないはずだと、私は確信している。

「建前」は別にして、「人間」の本音とは、いつの時代にも、そう大きく変わるものではないというのは、つい数年前まで大暴れしていた「ネット右翼」が、聞くに絶えない「ヘイトスピーチ」を、数に任せて公然と行っていたことからも明らかだろう。彼らはべつに、改心してから消えていなくなったわけではないのである。

無論、著者のフィリップ・K・ディックその人は、「精神障害者」に同情的な立場だ。と言うか、彼自身、若い時分にはドラッグもやり、幻覚も見、精神を病んだこともあり、実際のところ「ちょっと、頭おかしいんじゃなの」と言われても仕方のないようなことを小説でもエッセイでも書いていて、彼が有名作家でなかったら、完全に「キチガイ」扱いされいた側の人間であるし、彼自身、それくらいは十分に自覚している。
だから、彼の「反・障害者差別」は、ディック読者が「障害者差別はいけないよね」などと、どこまで本音なのかわからない「公式見解」を口にするのとは訳のちがう、ほとんど自分自身の問題なのである。

したがって、本作の登場する「精神分裂病(現在の統合失調症)」自閉症の(先天的身体障害児とは別種の)「異常児」だとされる少年マンフレッドは、単純に「同情されるべき存在」として描かれているわけではない。

本作では、「統合失調症」における「認識世界」もまた「ひとつの世界」であって、私たちが当たり前に認識する世界像が「唯一正しく認識された世界」だとは、考えない。
言うなればそこで、「世界観」が相対化されるのだが、しかしディックは、それを単純に「同等なものだ。だから、そのまま尊重しろ」というような描き方をしているわけではない。
彼自身「統合失調症」的な経験をしているからこそ、正しかろうが間違っておろうが、ひとまず、そうした世界認識が、強迫的なものであり、当人にとって極めて苦痛なものであることをも知っている。だから、「できれば正常とされる世界で、平穏に生きたい」と、そう願いながら、しかし、そう望んでもそうは生きられない者の苦しみを、本作で描いているのだ。

そんなわけで、本作の「SF的仕掛け」は、そうした「障害」による「時間認識」の部分に設定されている。
「統合失調症」が、「個別認識の統合の失調の病い」であるとすれば、当然のことながら「時間感覚」にも狂いが生じる。例えば、「一昨日の記憶」と「昨日の記憶」と「今日の記憶」が、あるいは、「ちょっと前の記憶」と「さっきの記憶」と「今の記憶」が、いわゆる「時間軸」に沿って「統合」できないのであれば、その人には「時間が、整然と一方向に流れはしない」ということになるだろう。
つまり、そうした「精神的な認知統合障害」を、恣意的に利用できるならば、人は「タイム・スリップ」したも同然の「体験」ができるのではないか、といったところから生み出されたアイデアが本作では使われており、だからこそ「いかにもディック的」な世界なのである。

『水不足に苦しむ火星植民地で絶大な権力をふるっている水利労組組合長アーニイ・コット。彼は、国連の大規模な火星再開発にともなう投機で地球の投機家に先を越されてしまった。そこで、とほうもない計画をもくろんだ。時間に対する特殊能力を持っている少年マンフレッドを使って、過去を自分に都合のよいように改変しようというのだ。だが、コットが試みたタイム・トリップには怖ろしい陥穽が………!? ディックの傑作長篇』(表紙カバー背面の内容紹介文)

物語の後半は、「タイム・スリップ」に至るまでの、上のような物語が語られ、それは、それこそ「いつも通りのディック」だとも言えるのだが、やはり、だからと言って本作を、例えば、「悪夢的」などという「常套句」で語ることの「無神経さ」は、度し難いものだと私は思う。
所詮は「エンタメ」として提出された作品だから、そういう消費のされ方も仕方がない部分があるとは言え、そうした読み方しかできない読者の程度の低さが、それで否定できるわけでも、帳消しにできるわけでもないからだ。

そしてそうした意味では、本作に登場する「精神分裂症」の少年マンフレッドが感じている「悪夢のような、この世界」とは、まさしく私たちのこの現実そのものだと、そうも言えるのではないだろうか。「人間とは、度しがたく救いがたい存在であり、この世界は、醒めない悪夢だ」と言っても、あながち間違いではない、ということにもなるのである。

はたしてこれは、マンフレッド少年のそれと同様に、単に「私個人の世界観」が暗いというだけの話なのだろうか?


(2024年7月12日)

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