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『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス6 異人アンドロ氏』 : 傑作なし

書評:『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス6 異人アンドロ氏』(小学館)

藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス」第6巻は、第1〜6巻の「SF・異色短編」シリーズ最終巻にあたり、1982年から1984年に描かれた、『ビックコミック』『漫画アクション増刊スーパーフィクション』『漫画アクション増刊』『月刊スーパーフィクション』『COMICモーニング』誌に発表された単発作品と、そこから10年以上跳んで1995年に『ビックコミック』誌に発表された「表題作」を収録している。内容的には「大人向け」に描かれたものだが、これまでにない特徴としては、SF専門誌への発表の作品がない、という点だろう。

収録作品は、次のとおり。

(1)「タイムマシンをつくろう」
(2)「倍速」
(3)「昨日のおれは今日の敵」
(4)「侵略者」
(5)「親子とりかえばや」
(6)「殺され屋」
(7)「マイホーム」
(8)「鉄人ひろったよ」
(9)「マイシェルター」
(10)「裏町裏通り名画座」
(11)「有名人販売株式会社」
(12)「異人アンドロ氏」

そして、巻末エッセイとして「え〜、「S」と「F」につきまして、ちょいと一服……。」が収録されている。

はっきり言って、本巻はパッとしない。
と言うか、第1〜6巻の「SF・異色短編」シリーズにしろ、第7〜10巻の「少年SF短編」シリーズにしろ、後の巻になるほど「ネタ切れ」感が否めない。
特に「大人向け」である「SF・異色短編」シリーズの方にその印象が強く、おのずと本巻にその傾向が顕著だ。

「SF・異色短編」シリーズの中で、本巻に限って、

(1)どうして「SF専門誌」発表の作品がないのか? 
(2)どうして、1作だけ、10年も後の作品が収録され、しかもそれが表題作なのか?

という疑問が直ちに出てくるが、これは普通に考えれば、

(1)については、SFマニアに読ませるほどのアイデアが浮かばなかった。
(2)については、作者にも「ネタ切れ」意識があったので、しばらく描き下ろしのSF短編は描かなかった。

という理由が思い浮かぶ。ただし、書誌的に確認したわけではないから、間違っているかもしれない。

また、藤子不二雄がコンビを解散したのが「1987年」なので、そのあたりも関係していそうだが、そのあたりの機微もおいて、やはり、多作したが故の「ネタ切れ」というのは、否定できないところであろう。
まして、当叢書は「藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス」であり、作品の出来不出来に関係なく「SF短編」を「すべて収録」しているのだから、そう考えれば、こうした傾向も止むをないところだろうし、むしろその平均レベルの高さにこそ感嘆すべきなのかもしれない。

だが、個々の作品に対する評価というのは「後期作品にしては」などという、要らぬ「配慮・忖度」など、すべきではないだろう。それは、藤子に対して失礼だし、藤子もそんなことは望まないと考えるので、本巻収録作品についても忌憚なく紹介していきたいと思う。

(1)の「タイムマシンをつくろう」は、アイデアに斬新さはないものの、よくまとまった作品で、内容的にも感じの良いものとなっている。大人向けというよりも、子供に読ませたい作品だ。
しかしながら本作は「このようでありたかった」という、大人なら誰しも多少は思い当たるだろう「慚愧の念」において描かれた作品だとは言えるだろう。「社会的成功よりも、友情を大切にしたかった」という「苦さ」である。当然、ここに「藤子不二雄の葛藤」を見ることも可能である。

(2)の「倍速」は、のろまな主人公が未来人から「加速装置」をもらって、スーパーマン的な活躍をし、憧れの彼女をゲットするというお話。主人公が最後に酷い目に遭うというパターンの作品ではなく、よくある「下ネタ」のひと言でオチをつける作品。
「なんだこれ!」と思う反面、藤子不二雄がこんな作品を描くとは思わなかった、という驚きはあった。

(3)の「昨日のおれは今日の敵」は、漫画家ネタのタイムトリップもの。アイデアに斬新さはないが、ドタバタ喜劇としてシンプルに面白く、よくまとまった作品になっている。

(4)の「侵略者」は、主人公の少年が宇宙人に体を乗り移られ、意識はあるものの、その意のままに操られて危機一髪というお話だが、けっこう間抜けな宇宙人をまんまと騙して別のものに無事転移させ、しかも宇宙人が与えていた「人間としての有能性」だけは残っていたのでラッキー、というお話。ちょっと、都合が良すぎて、完成度は低い。

(5)の「親子とりかえばや」は、意見に隔たりのある親父と大学生の息子の心が突然いれ替わり、相手の日常生活を体験することで、相互理解を深めてハッピーエンドという、ありがたなお話。本来なら、もう一捻りあるべきだろう。

(6)の「殺され屋」は、不死身の超能力者の話かと思えばそうではなく、単なる詐欺師の話で、詐欺師がまんまと、落ちぶれたヤクザの親分を騙すというお話。これでは、SF風ではあっても、SFではないのではないか。

(7)の「マイホーム」は、人口が増えすぎて、よほどの金持ちでないと一戸建てのマイホームが建てられないほど地価の高騰した未来。そこで、タイムマシンを使い恐竜が生まれる以前の大昔の地球に家を建てるという話を検討する一家が、もう少しで住宅販売詐欺に遭いそうになったところをタイムパトロールに救われるというお話なのだが、時間旅行以外は、現実にもよくある話でしかない。
例によって、藤子自身が、恐竜を描きたかっただけではないのかと疑ってしまうようなシーンもある。

(8)の「鉄人ひろったよ」は、アルフレッド・ヒッチコック監督の名作『ハリーの災難』(1955年)を思わせる作品。ヒッチコック作では、「人間の死体」を見つけてしまった人たちが、当たり前に「事件だ」と大騒ぎするのでも恐れおののくのでもなく、「困ったなあ。妙なものを見つけちゃったよ。どう処分しよう?」という調子で展開する、ブラックユーモアコメディー。本作の場合は、見つけた(そして、勝手についてきた)のが「鉄人」(巨大ロボット)だった、という違いである。「こんなもの拾っちゃったよ、どうしよう?」という惚けた調子がウリの作品である。

(9)の「マイシェルター」は、マイホームを持とうとしたお父さんのところに、奇妙なセールスマンがやって来て「現在の世界の核保有状況からすれば、いつ核戦争が起こってもおかしくないのだから、家族を守るためには、地上に家を新築するのではなく、核シェルターを作るべきだ」と説得する。最初は相手にしていなかったお父さんも、徐々に心配になってきて、そのせいで連夜、「高額な核シェルターを買うとなると、どんな生活になるか」とか「核シェルターでの生活はどんなものか」とか「実際に、核戦争が起こって、自分たちだけが助かった時にどうなるか」といったリアルな「夢」を見た結果、他の人たちを見殺しにして自分たちだけが生き残る生活なんて、とても堪えられないと、核シェルターの購入を断念する。一一ところが、奇妙なセールスマンの正体は…。というお話。
よくまとまってはいるが、さほど意外性はない。むしろ、一種の「社会批評」的な作品だと理解すべきであろう。

(10)の「裏町裏通り名画座」は、主人公が、とある裏町裏通りに裏さびれた名画座を見つけて覗いてみると、ロードショー中の最新作人気映画2本が、格安で上映されていた。これは観ない手はないと喜んで観てみると、実は、タイトルも含めて、かの人気作品とは「似て非なる別の映画」であり、この2本に共通するのは、人気作品の「感動」や「カタルシス」が無い、なんとも「裏さびしい」感じの作品であったということ。
これはたぶん「人生って、じつはそういうものだよね」といったところを語っている作品なのであろう。「裏通りにこそ、実人生がある」というような。
その意味では、「派手な宣伝」や「観客動員数・収益額」といったものばかりに釣られて大騒ぎする、昨今の日本の映画業界の「売れた者勝ち」的な貧しさを、かつてにも増して、鋭く批判するものになっているのではないだろうか。

(11)の「有名人販売株式会社」は、ある日、進学浪人中の青年のアパートに大きな荷物が配達されてきて、包装を解いてみると中からは、なんと「憧れのアイドル」が出てきた。どうやら彼女は「違法に製造されたクローン人間」のようで、本来の購入者と同姓同名の彼のところへ誤って配送されたようなのだ。クローン人間の彼女は、最初に包みを解いた青年を慕うのだが、誤配送に気付いた製造業者は彼女を回収して、本来の注文主のところへ送る。だが、すでに「主人」の刷り込み設定が終わっている彼女は、本来の注文主には馴染めず、あわや廃棄処分にされるところを、主人公の元へと逃げ帰ってくる。かくて二人の逃避行が始まるが…。
最後は、彼女のオリジナルであるアイドル嬢が、別件で自殺したために、そのクローンの方で世間を欺こうという話になり、彼女の命は救われる。しかもアイドルになった彼女は、テレビの向こうから「あなたが社会人になったら結婚するつもりだから、待っているわ」というメッセージを、青年に公然と送ってくれるというハッピーエンドである。一一しかし、いろいろと「これでいいのか?」という、疑問の残るオチだ。

(12)の「異人アンドロ氏」は、小説家の村上龍が監督した映画『だいじょうぶマイ・フレンド』(1983年)を、ちょっと思わせる作品。あるいは、特撮ドラマ『ウルトラセブン』の第10話「怪しい隣人」の、「良い宇宙人」バージョンだともいえよう。
『だいじょうぶマイ・フレンド』のストーリーは『日本に落ちてきた異星人を三人の若者達が愛と友情と音楽で救ける姿を描く』(「映画.com」)ハートフルコメディーだが、本作の場合、アンドロ氏は、人間が助けなければならないほどか弱くはない。彼なりに事情があって、地球人になろうとしてやってきた「善意の友好的な宇宙人」で、その意外性がウリの作品である。
感じの良い作品ではあるものの、表題作としては、いまひとつ物足りないと言わざるを得ない。


(2023年12月4日)

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