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山田宗樹 『存在しない時間の中で』 : 「神」はいないが、 〈人間以上〉はいて当然

書評:山田宗樹『存在しない時間の中で』(角川春樹事務所)

とても私好みな作品であり、最初から最後まで楽しめたのだが、さて、この小説が「一般性」を持つかどうかは、いささか疑わしい。

私が本書を購入したのは、本書の帯に、大森望による次のような紹介文があったからだ。

『〈神〉からの問いに、人類はどう答えるか? 『三体』に正面から挑む、究極の宇宙論ミステリー』

大森望は、ベストセラーとなった劉慈欣の『三体』を引き合いに出すことで、多くの人の興味を惹こうとしたのであろうが、私はまだ、そっちは未読なので、主に興味を惹かれたのは「〈神〉からの問いに、人類はどう答えるか?」の方だった。つまり「神の存在」問題である。

一一と言うのも、私は意識的に「宗教批判」を行なっている、自覚的な「無神論者」だからだ。
漠然と「宗教を信じていない」とか「神は存在しない」とかいった、一般論的な、生ぬるい態度ではなく、積極的に「宗教」を「願望充足的ファンタジー」だと批判し、リチャード・ドーキンスに倣って『神は妄想である』に決まっている、と言い切っている。

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したがって、単に「キリスト教の神はいない」とか、もう少し一般的な「神はいない」とか言っているだけではなく、キリスト教と同系のユダヤ教やイスラム教の神は無論のこと、仏教の神や仏や菩薩や如来なども存在しなければ、神道の神も存在しないし、アニミズム的な「カミ」も存在しない。先祖の霊魂も存在しないから、先祖供養や葬式も、神社仏閣参りも、七五三も、その種の宗教行事は、すべて「気休め」であり、「存在しないもの=ファンタジー」への依存だと、そう批判している。「やるんなら、気休めの依存だと自覚してやれ」と、そんな批判をしているのである。

そして、そうした「神」的なものを、物理的にも論理的にも「存在し得ないもの」だと知っていながら、「気休め」や「現実逃避」のためには「(実用的に)必要のもの」とされているがために、さもそれらが存在しているかもように語って恥ない「宗教者」「宗教信者」たちの知的不誠実を批判している。

さらに、よくある、「宗教」のことをろくに知らないくせに、世間の大勢的「常識」を後ろ盾にして、多数派としての上から目線だけで偉そうに「漠然と批判する」のではなく、宗教の教義や神学や歴史に踏み込み(勉強し)、その一方、物理学や心理学、脳科学、宗教学、社会学など、関連する学問も可能なかぎり渉猟して、真正面から「宗教」を批判してきた。

そして、そんな人間だからこそ、逆に本書は「リアルな問い」として楽しむことができたのである。

本書が私に提示したのは、もしも「造物主としての神=世界創造神」にも比すべき、「この宇宙を作った何者か」が存在したとしたら「自分はどうするだろうか」という問いである。

で、私の答えは「私個人は、さほど困らない」というものであった。
なぜなら、本来の意味で「神」と呼ぶに値する「万能の神」は存在しなくても、宇宙を作る程度の「(人類から見た)超越的存在」がいても、何ら不思議ではない、と考えるからだ。そんなものが存在しても、それは「神」ではないし、私の「無神論」や「宗教批判」には、まったく抵触しないからである。

そもそも、この宇宙の中で、「人類」が最も優れた「最高存在」だと考えるのは、あまりに「世間」が狭すぎるのではないだろうか。世に言うとおり「上には上がある」と考える方が、知的に謙虚だし「現実的」だと私は思う。

なお、ここで私が『この宇宙』という場合の「この宇宙」とは、「ビッグバン」に始まる「観測可能な、この宇宙」ではなく、それ「以前」から「存在」した何か、「この宇宙」の「外」や「別」に存在するかもしれない「別世界」などを全部ひっくるめて『この宇宙』と呼んでおり、「ビッグバン」を超えて広がる「すべて」のことなのだから、「人類以上」のものが存在しないと考えることの方が、むしろ無理がある。

もちろんそれらは、「人類」には「観測不能」な存在であり、その意味で「認識論」的になら「存在しない」と言えるかも知れないが、私としては「観測できないもの=存在しないもの」だとは考えない。
例えば、「アリやバッタ」にとっての「人間=人類」は、認識論的には「存在していない」のではないか。そもそも、認識することができないのではないのか。
「人間」に踏み潰され、手足を引きちぎられても、彼らは、自身の体に起こったことは感覚的に理解するだろうが、「人間にやられた」とは「思わない=考えない」だろう。「人間」にやられようが、「犬」や「猫」にやられようが、風で飛んできた木の枝にやられようが、彼らは自身の体に起こったことを、同じように知覚するだけで、それを引き起こしたものの区別などできないから、しないはずだ。つまり、「アリやバッタ」にとっての「人間」は、認知し得ないという意味においてなら「存在しない」のである。だが、現に「人間」は存在する。

だとすれば、「人類」という「種」の認知能力の限界の先に存在する「高次存在」を、人類は、人類に対する「アリやバッタ」と同様の立場において、認知し得ない。私たち「人類」の認知能力を超えたところに「存在するもの」を、私たちは認知し得ず、したがって「存在する」とは、どうしても考えられなくて当然なのである。それらは、あくまでも「人類」の能力の一種である「非認知」としての「推測」や「空想」の中でしか、その存在を「仮定」し得ないのだ。

では、こう言っている私は、「神の存在可能性」を認めているのであろうか?

そんなことはない。「神」とは、文字どおり「万能」でなければ、その名に値しない。単に「人類」より優れているというだけでは、とうてい「神」の名に値しない。
そもそも、「アリやバッタ」よりもずっと優れている「犬や猫」は、「神」ではない。「犬や猫」よりも優れている「人類」も「神」とは呼べない。
「犬や猫」なら、自分たちよりずっと優れた存在としての「人類」を、「神ごときもの」と感じるかも知れないが、それ(人類)は「神」ではないし、同様に、「人類」よりずっとずっと優れた存在としての「高次存在」が実在していて、「ビッグバン以降の、この宇宙」を創造していたとしても、それは「宇宙創造者」ではあっても、「神」ではあり得ない。彼らよりもさらに優れた「高次存在」が、当然のことながら「想定可能」であるという一点において、彼らは「神」ではないからである。

つまり、「神」の名に値する「存在」とは、それ以上の「高次」存在が想定しえない「天辺(てっぺん)」の存在でなくてはならないが、それが「天辺(てっぺん)」の存在であると客観的に認知しうる外部的存在(客観的判定者)など存在し得ないのだから、結局「神は存在しない」と「言う」のが正しいということになるのである。

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こんな風に考える私のような人間にとっては、本書は、現実としては与えられることのない問いを、「思考実験」として与えてくれたものとして、じつに面白かった。

「ホラ話」としてとか「文学」としてとか「フィクション」としてとかいったことではなく、「もしも自分が、こうした状況におかれたら、どのように考え、どのように生きるだろうか」ということを、リアルに考えさせてくれる「思考実験」的課題として面白かったのだ。一一できることなら私は、こんな「存在」や「状況」と遭遇してみたい、自分を試してみたいと思ったくらいだった。

だから、本書を単なる「小説」だとか「SF」だとかいった、生活臭と手垢にまみれた「人間文化」の範囲で享受しようとする人は、私が感じたような「スリリングな面白さ」を感じることはできないだろう。

日頃は「無神論者」を気取りながら、いざとなれば、思わず「神だのみ」をしてしまうような「神を内面化した人」には、本書が「この宇宙のあり方」とリアルにリンクするものとは感じられるはずもないから、前述のような面白さを感じられないはずだ。
例えて言うなら、この「宇宙」という「まつりごと」に参加していない傍観者には、「まつり」の面白さを体感することはできないのである。

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初出:2021年8月22日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)


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