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長谷川眞理子 『進化論とは なんだろうか』 : 進化論の〈啓示〉

書評:長谷川眞理子『進化論とはなんだろうか』(岩波ジュニア新書

本書が、進化論の基本的な意味をしっかりと伝える(およそジュニア向けの枠など、はるかに超えた)優れた著作であるというのは、他のレビュアーの指摘にもあるとおりである。
それにしても、では、進化論の「基本的な意味」とは、いったい何なのであろうか?

私は、理系の人間ではないし、特に科学が好きだというわけでもなく、ただ、科学を「人間の思考を相対化してくれるもの」として、言わば「持つべき興味を持っているだけ」なのだ、とでも言えるだろうか。
具体的に言えば、私が近年、特に進化論や脳科学といったトピックスに注目するのは、それが「宗教」という「人間的な、あまりにも人間的な」世界観を、クールに相対化するものだからである。

しかし、こういう興味の持ち方も、あながち邪道だとは言えないだろう。今でこそ科学は、宗教とは無縁なもののように考えられがちだが、もとはと言えば、宗教(神学)の一部であったのだから、無縁どころか「下克上」的な関係にあって、今でも宗教の側は、科学に愛憎相半ばする感情を持ち続けているのである。だが、そのことを知らない理系の方は、少なくないはずだ。

『私たち人間は、神経系が発達して、自意識をもち、周囲のものを自分との関係で理解し、自分自身をも理解しようとする存在になりました。私たちは、自分や周囲のものの目的を考え、生きることに意味を見いだそうとします。このような人間の営みに、進化という生物学的事実は、直接的にはなにもモラルのようなものを提供するわけではありません。自然界の成り立ちからモラルを見いだそうとするのは、人間がどうしてもそうしたいからなのでしょう。直接、万人に適用するモラルを自然界から得ようとするのは、「自然主義の誤謬」と呼ばれる誤りです。しかし、進化を知り、生物の適応を知り、生命の流れを知ると、みんな一人一人個人的に、自分自身が生きていく上で、何か重要なものを見いだせるのではないでしょうか?』(P228〜229)

これは本書の「おわりに」の結びの言葉だが、ここで語られているのは、まさに今もなお延々と「進化論」を敵視し続けている「神信者」の存在、という現実を踏まえたものであることは明らかだろう。

本書でも簡単に言及されているとおり、生物や人間や地球や宇宙が、あまりにも良くできていることをして、それは「デザイナー(設計者)がいるからに違いない」と言って、「神の延命」を謀る人たちが結構いて、それがアメリカでは馬鹿にならない政治的勢力にもなっているのが、今のこの世界である。

彼らが「進化論」を批判する場合のオーソドックスな理屈は「創造主としての神という聖書の教えが、確たる証拠の無い仮説だとするのならば、進化論もまた仮説でしかなく、その意味で両者は等価であり、誰ひとり真理を知る者などいない」という「相対化論」である。
そして、「進化論」を知らない人は、これでたいがいは騙される。
「たしかに、そうだな。科学者だって、科学の理論はすべて仮説だと認めてるし」というわけだ。

しかし、「すべてが仮説」だからといって「ミソもクソの同じ、ではない」というのは当たり前の話で、「神の実在」という仮説は「ウルトラマンの実在」や「空飛ぶスパゲッティーモンスターの実在」と同程度に荒唐無稽で、およそ確度の低い(低すぎる)仮説でしかなく、仮説の出来としては、「進化論」とは比べるべくもないものなのだ。
つまり、真の問題は「仮説としての出来」なのであって、「仮説であるか否か」は、人を誤誘導するための、偽の問題なのである。

それに「神信者」の言う「仮説としての進化論」とは、まず間違いなく「ダーウィンの進化論」である。だから、アメリカの「神信者」たちは「ダーウィンの進化論を学校で教えるな」というような言い方をする。彼らの「進化論」理解は、いまだにダーウィンに止まっているのだ。
たしかに「進化論」と言えば「ダーウィン」、「ダーウィン」と言えば「進化論」なのだが、現代科学における「進化論」とは、本書でも紹介されているとおり「総合説(進化の総合説)」であり、ダーウィンのそれとは、仮説としての確度がまったく違う、いわば「後継最新機種(理論)」なのである(要は、T型フォードと最新型ポルシェを一緒くたにするな、という話である)。

『(※ ダーウィンの進化論は、遺伝の法則すら知らないところでうち立てられた、かなり直観的な仮説であり、とうぜん誤りもあった。しかし、そこへ実験的に検証されたメンデルの遺伝理論の知見が組み込まれ、各種の非「自然淘汰論」からの挑戦を)乗り越えて、動物学、植物学、遺伝学、集団遺伝学、古生物学などの分野の研究者たちが、進化のメカニズムに関する理論を統一的に再構成し、自然淘汰による進化の理論がしっかりとできあがったのは、一九三〇年年代から一九五〇年代にかけての間でした。この新しい理論の枠組みを、進化の総合説と呼びます。現代の進化学は、この総合説の上に発展してきたものです。』(P221)

つまり、科学者たちは、「神信者」たちとは違って、ダーウィンを「無謬の教祖」として崇めたわけでも、『種の起原』を「教典」としたわけでもなかったわけで、そのあたりが「神信者」たちの発想からは理解しがたく、彼らは、ダーウィンの権威を否定すれば、それで「進化論」を退治できる、という発想だったのであろう。
だが、「科学」とはそういうものではなかった。科学とは、「教祖」や「教典」を拠らず、むしろ、そうしたものを疑い、乗り越えていくことで、一歩でも「真理」に近づくために、日夜「仮説による仮説の乗り越え」を行っている、真の意味での「求道」だったのである。

しかし、こう書くと、「科学信者」は喜ぶだろうが、「科学」もまた、信仰の対象ではない。科学が「疑い、乗り越えていくことで、一歩でも「真理」に近づくため」のものであるのだとしたら、科学的であるというのは、ただ単に「科学の側にくっ付いて勝ち誇る」態度ではないことも、また明らかであろう。「科学」する人とは、「党派所属メンバー」のことではなく、「科学を生きる人」のことなのである。

「進化論」が教えてくれること。つまり「進化論の〈啓示〉」とは、「党派」なんていう「人間的な、あまりにも人間的な」喜びや価値観などとは無関係な、もっと醒めた「世界理解」なのだ。

例えばそれは、小説家で評論家の笠井潔が、ある小説の中で主人公に語らせていた「僕たちは、轟々と流れる宇宙という永劫の流れの中に、一瞬浮かんでは消える一粒の泡のようなものだ」という認識に近いものだろう。つまり、人間の存在にも、人生にも、あらかじめ与えられたような意味はない。
言い変えれば、科学を学ぶことにも、善をなすことも、生きることにさえも、そういう意味では、何の意味もない。科学の〈啓示〉とはまさに、これだ。

しかし、こうした科学的かつ客観的な認識は、なにも「ニヒリズム」を肯定するものではない。
「宗教」はしばしば、「科学」的な認識が、人間に「ニヒリズム」をもたらす(倫理を失って堕落させる)と言って非難するが、それは間違いだ。
なぜなら、科学は「ニヒリズム」などという「人間的な、余りにも人間的な」ものについても、意味があるなどとは言わないからだ。

つまり、すべてに「あらかじめ与えられた(保証された)意味」など無い。私たちに意味を与えてくれるものなど存在しない。だからこそ、人間は人間のとっての「意味あるものを作る」しかないのである。
そして、どうせ作るのであれば、人間にとって、より「美しいもの」を作らなければ、価値が無い。
そうした意味で、「神信仰」という自堕落な自己肯定よりも、つねに洗練されていく仮説としての「進化論」の方にこそ、よほど人間的な価値があるのである。

書評:2019年8月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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