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鈴木崇巨 『福音派とは何か? トランプ大統領と 福音派』 : 〈福音派〉著者による 「欺瞞的弁明の書」

書評:鈴木崇巨『福音派とは何か? トランプ大統領と福音派』(春秋社)

近年、アメリカの政治に多大な影響を行使する宗教勢力として、一般の耳目を惹く機会もすくなくない「キリスト教・福音派」を紹介する一書として、たいへん勉強になる本である。
ただし、「詐称」めいたタイトルとその書きっぷりは、まったくいただけない(誉められない)ので、まずはその点について批判しておく。

本書のサブタイトルは「トランプ大統領と福音派」となっており、帯には大きく『「アメリカ・ファースト」の真実』と謳われていて、一見したところ、アメリカのトランプ大統領とその「アメリカ・ファースト」という政策の背後にある、「キリスト教・福音派」(以下、単に「福音派」と記す)の「内幕」のようなことを解説した本ではないかとの印象をあたえるのだが、本書内において、トランプ大統領への言及も、その「アメリカ・ファースト」という政策についての言及も、ほとんど無いに等しい。
本書に書かれているのは、あくまでも「福音派」とは、どういうタイプの「キリスト教の(超)教派」を指す言葉なのかの解説であり、その勢力の現状である。

つまり、あの「傲岸不遜で、非倫理的かつ非人道的」なトランプ大統領の支持宗教集団ということで、一般に「あまり良い印象を持たれていない、福音派」が、実際にはどういう(超)教派なのかを、「福音派」に寄り添うかたちで「好意的に解説した」紹介書が、本書なのである。

したがって、著者の語り口とは「トランプ大統領の政策を積極的に支持したいとは思わない(『アメリカの保守的な福音派の人々が、トランプ氏の個人的な倫理性には目をつぶり、次善の策としてトランプ氏を支持している』本書P115)が、しかし、福音派が、なぜトランプ大統領を(その「非人道的な政策」をも)支持するのかという点について、キリスト教の教理的な問題に立ち返って、正しく理解してほしい」という態のものとなっている。
そして、こうした著者の立場は、本書の最後の一節において、問わず語りに明らかになっている。

『 今までのアメリカの大統領に対して、筆者は賛成とか反対とかを考えたことがありませんでした。筆者にとってアメリカの大統領はただ遠い存在でした。日本では、トランプ氏の無茶ぶりに反対しない方がおかしいという雰囲気があります。また、一応反対の姿勢を示しておかないと、彼が失脚した時に弁明の言葉を失うと危惧している評論家がいます。
 筆者は戦後の食べるものがない時代に、小学校でアメリカの粉ミルクによって栄養を与えられた者の一人です。アメリカは豊かな国で「与える」国でした。日本は国家予算が貧しい時代にも、米軍によって守られてきました。アメリカは世界の警察官になり、多くの人命の犠牲と経済的な援助で日本と世界を豊かにしてきました。
 聖書の教えによれば、「愛」とは常に「与える愛」のことで、「要求する」ものではありません。アメリカの「与える愛」を筆者は受けてきました。現代は、世界中の人々が、アメリカに愛を要求しようとしているのではないでしょうか。
 「空をの鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥より優れた者ではないか」(「マタイによる福音書」6:26)。神は今も万物を与え続けています。聖書によれば、神はその愛するひとり子をさえ十字架上に与え尽くしたと報じています。』(P198〜199)

このように語る著者は、アメリカの福音派教会で働いたこともある、牧師である。しかも『筆者は戦後の食べるものがない時代に、小学校でアメリカの粉ミルクによって栄養を与えられた者の一人です』と言う、1942年(昭和17年)生まれの日本人だ。

つまり、福音派の信者であるブッシュ(Jr.)大統領のひき起した「イラク戦争」や、そのきっかけとしての「9.11 アメリカ同時多発テロ」以降も世界各地で相次いだ、キリスト教圏を標的とした一連のイスラム過激派によるテロといった事態を、知らないはずがない本書の著者が、ヌケヌケと『今までのアメリカの大統領に対して、筆者は賛成とか反対とかを考えたことがありませんでした。筆者にとってアメリカの大統領はただ遠い存在でした。』などと言うのを、誰が本気で信じられるだろうか?
信じられるとしたら、その人は「頭がおかしい」か「現実から目を背けて生きているか」の、どちらしかないだろう。したがって、普通に考えれば、本書の著者は「嘘つき」である断じることも出来よう。

要は、自身が「福音派」であり、じつはこれまでトランプ大統領を支持してきたのだが、それを日本で表明したのでは、「福音派の擁護」という大目的が果たせないので、「人種差別は良くないよね」程度のことは口にして、可能なかぎり自身の「中立性を強調」した上で、本書ではひたすら「(自己流の)福音派の真実」を語って見せたわけなのである。

だが、やはり本音はトランプ支持であるために、上記のとおり、

『日本では、トランプ氏の無茶ぶりに反対しない方がおかしいという雰囲気があります。また、一応反対の姿勢を示しておかないと、彼が失脚した時に弁明の言葉を失うと危惧している評論家がいます。』

だなどと、トランプ批判者を「偽善者」呼ばわりして、わざわざ貶めずにはいられなかったのだ。

本書の著者に言わせれば「アメリカのお世話になっているくせに、トランプ大統領にたてつくなど、天に唾する所行だ」というのが、その本音なのだろう。
また、本書の著者なら「在日米軍の駐留費の5倍増額」にも、当然のこととして大賛成するのではないだろうか。もちろん、著者の視野には「沖縄」も「普天間」も「辺野古」も無いだろう。

しかし、このように「中立」を演じ「無知」を演じ「謙遜」を演じる著者に、本当の意味での「客観性」や「誠実」を期待するのは、それこそ『無茶』な話で、トランプ大統領に「メキシコ人移民への愛を期待する」ようなものだ。
それに著者自身、アメリカにこれ以上の「与える愛」を求めるのは、そっちの方が「厚かましい」のだという口吻なのだから、著者に「福音派の立場」を超えた「普遍的な愛や誠実さ」を期待するというのも、きっとお門違いなのであろう。

つまり、本書は「悪印象の強い福音派」についての「福音派の弁明書」だと思って読めば、とても参考になる本なのである。こういう本は、意外に珍しいからだ。

また、本書のタイトルや惹句が、まるで「福音派に否定的なもの」であるかのような「誤解」を(意図的に)与えやすいものとなっているのも、正直に「福音派の弁明書」であることを示すと、読んでもらえない蓋然性が高いという予測からの、意識的な「配慮」であったのだろうと理解することも出来よう。
事実、1ヶ月前に刊行された本書に対するレビュー投稿は、私が最初である。これは、日本人に多い、読書が好きな伝統的プロテスタントの信者は、「福音派」の本など読まないし、一方、「反知性主義」である福音派の信者は、もともと本が好きではない(勉強好きではない)からかも知れない。

ともあれ、私自身は、タイトルと惹句に「騙された」おかげで、「福音派の弁明書」という貴重な本を読めたのは、「災い転じて福となす」と言おうか「不幸中の幸い」とでも呼ぼうか、とにかく結果としては「ためになった」と喜んではいるのである。

 ○ ○ ○

さて、ここからは、著者の解説に補足を加えながら、「福音派」とはどういうものなのかを、解説していこう。

キリスト教というのは、もともと一つであったものが東西に分裂して、西のローマ教皇を頂点とする「カトリック」教会と、東の「正教会」に分裂した。これは、簡単に言えば、もともと何人かいた教皇の主導権争いの結果だと言って良いだろう。
やがて、西欧世界において国家権力と結びついて絶大な力を持つにいたったカトリック教会内の、政治的かつ信仰的腐敗堕落が問題となり、ルターをはじめとした人たちによる「宗教改革」が始まり、その結果ルターらは教会を破門されたものの、ルターらを支持する世俗の領主たちの庇護によって、ルターたちは(火刑に処されるという難を逃れ)それぞれの理想をかかげて「あるべきキリスト教会」をそれぞれに設立してゆき、これがのちに「プロテスタント(抗議派)」と呼ばれるようになる。
つまり、カトリックや正教会が、古くて保守的なのは当然だが、その堕落を批判して「あるべき姿への回帰」を求めたプロテスタントも、本質的には十分に保守的な体質を持っているのだと言えよう。
ただ、カトリックや正教会のように、ローマ教皇や総主教といった「役職的特権(神との仲保者特権)」をみとめず、プロテスタントは、より集中的に「聖書」に教義的権威を認めたせいで、近代的な「聖書研究」が進み、プロテスタントは「近代的知」と親和性の高い「進歩的なキリスト教」になっていった。

ところが、「知的に進歩的なキリスト教」というのは「庶民ウケが悪い」。
ベストセラーになった森本あんりの『反知性主義 アメリカの生んだ「熱病」の正体』でも描かれているとおり、アメリカにおいても、当初はこの「知的に進歩的な、リベラルなキリスト教」が主流だったのだが、こうしたものには、わかりやすく「信仰の喜び」が感じられない庶民層信者が多く、「知的な信仰」に不満や反発があったことから、新約聖書の『使徒言行録』に描かれたペンテコステ(聖霊降臨)を地で行くようなタイプ、つまり「ミサにおいて信者たちに聖霊が下り、人々が口々に異言を発しだす」ような「体験主義的(非理性主義的)」な教派(ペンテコステ派)が出現して、人気を博していくことになる。

こうした「聖霊降臨」派(ペンテコステ派)というのは、従来の「知的に進歩的なキリスト教」としてのプロテスタント諸派からすれば「悪魔憑き」とも「狐憑き」ともつかない、いかにも怪しい「土俗信仰まがいのもの」にしか見えなかったのは当然であろう。
「たしかに、聖書にはそうしたものが描かれているが、しかしそれは一種の比喩であり寓話であって、それがそのまま起こったということではない」というのが「知的に進歩的な、伝統的プロテスタント」の考え方だったのである。

ところが、ペンテコステ派の人たちにすれば、自分たちは「聖書に書かれていることを、そのまま信じ、そのまま実践しているだけ」なのだから、むしろ「われわれの信仰態度こそが正統なキリスト教信仰のそれであり、原始キリスト教会の信仰をそのまま受け継いでいるのは、われわれの方である。あなたがた(リベラルなプロテスタント)は、近代的知とやらに迷って、神の絶対的支配の真実を見失った、迷妄者なのだ」ということになる。

そしてここで、プロテスタントは、「知的に進歩的な、伝統的プロテスタント(リベラル)」と「聖書の教え(福音)をそのまま実践する、聖霊主義的な(ペンテコステ派などの)保守派」というふうに、二分されてしまう。

つまり、後者の考え方からすれば、「近代」がもたらした「男女平等」、「同性愛」や「堕胎」の自由といったことは、「聖書の教えに反するもの」なのだ。
また、地質学や物理学をはじめとした現代諸学の知見において、もはや否定されきったと一般には考えられている「聖書・創世記の記述」の真偽にかかわる「科学的な、地球の成立年代推定」や「進化論」といったものも、すべては「間違った近代的イデオロギー」に過ぎない、ということになる。

「聖書の記述に忠実であるならば、そうでしかあり得ない」というのが「聖書の教え(福音)をそのまま実践する、聖霊主義的な(ペンテコステ派などの)保守派」の考え方であり信仰的信念で、「知的に進歩的な、伝統的プロテスタント(リベラル)」と「聖書の教え(福音)をそのまま実践する、聖霊主義的な(ペンテコステ派などの)保守派」の、どちらの「聖書理解」が、より「原文に忠実か」と言えば、もちろんそれは後者の方なのだから、「聖書の記述は正しい」という両者共通の「信仰(フィクション)」に立つかぎりにおいて、なまじ「近代的知」にも配慮する「知的に進歩的な、伝統的プロテスタント(リベラル)」は、不利となる。
そして、その結果(長年の鎖国政策によって、歴史的に特殊状況におかれていた日本などは例外として)、南米やアフリカなどの経済発展と人口増加の目覚ましい「非ヨーロッパ」の多くの国々と地域では、いまや「聖書の教え(福音)をそのまま実践する、聖霊主義的な(ペンテコステ派などの)保守派」が圧倒的な勝利を収めるに至り、反対に「知的に進歩的な、伝統的プロテスタント(リベラル)」や「カトリック」は、明白に落ち目となっているのである。

したがって、著者の立場からすれば、カトリックや従来の(リベラルな)プロテスタント諸派は、「聖霊」の働きを抽象化することで軽んじ過ぎたために、人々の心に訴える力を失い、人々を救うことが出来なくなった。その一方、従来の教派の枠にとらわず、「聖霊の働き」を信仰の重点におく「福音派」の人たちが、キリスト教を本来のかたちへと回帰させることで、多くの人々を現に救っているのであり、キリスト教そのものは決して衰退しているわけではない、ということになるのである。

さて、「福音派」という呼称の分かりにくさは、「ルター派」「会衆派」「ペンテコステ派」といった「特定の教会・教派」を指すのとは違って、例えば、カトリックや正教会の中にも、あるいはイギリスの聖公会のなかにも、プロテスタントの中では保守的なルター派の中にさえ存在している、「超・教派」である点にあろう。
あらゆるキリスト教会派のなかに存在する、「聖霊の働き」を重視する保守的な人たちが「福音派」であり、「福音派」の強さは、この超党派的な広がりにあるのだとも言えるだろう。

『 「福音派」という言葉は、けっして特定のキリスト教の「教派」のことではありません。「福音派」という言葉には、「私は自由主義的な(リベラルな)聖書解釈をする人間ではけっしてありません。聖書の一字一句をそのまま信じる保守的な解釈をする人間です」と言う意味が含まれています。』
 (P65、原文は「けっして」に傍点)

ともあれ、このように、良く言えば「聖霊の働きを重視する」、悪く言えば「反知性主義」的なキリスト教が、世界的に広まっており、その「聖書原理主義」の姿勢に発する「保守性」から、近代の「人権」や「科学」を否定する政治勢力に加担するものとなっている。

もちろん、多くの「福音派」系のキリスト教信者は、近代の「人権」や「科学」まで否定することはない(事実、そのお世話になっている)し、保守政治にべったりということもないだろう。しかしまた、基本的な考え方が「聖書原理主義(聖書保守主義)」であるならば、その世俗生活や政治においてもまた保守的にならざるを得ないというのも、間違いない事実であろう。

私のような「無神論者」から見れば、世界がこのように「非理性的」なものに「先祖返り」してしまうというのは、それだけ世界に不幸と不安が差し迫っているからであり、その「現実」の直視を避けて「逃避」するために、現実を手っとり早く否定してくれる「絶対権威」に盲目的にでもすがりたい、という感情が高まっているからではないかと思える。

しかし、そのような「現実逃避」のための信仰(フィクション)とは、所詮は、マルクスの言う「麻薬」でしかないだろう。難局を乗り越えるための「手術の補助手段としての麻酔」ならば良い。しかし、麻薬や麻酔そのものを目的(神)としていれば、やがてその人は狂死することにならざるを得ないのだ。

「現実を見られなくなる」とは、どのようなことなのか。
それは、最初に指摘したとおり、アメリカで牧師として働いたことのある80歳ちかい男が『今までのアメリカの大統領に対して、筆者は賛成とか反対とかを考えたことがありませんでした。筆者にとってアメリカの大統領はただ遠い存在でした。』などということを、ヌケヌケと言えてしまうようになる、というようなことなのだ。

本書の著者には、ありもしなかった「大量破壊兵器」という難癖によって殺された多くのイラク人や、イラクの破壊された国土と社会も、貿易センタービルに飛行機で突っ込んだテロリストの存在も、それによって亡くなった多くの人命も、まったく見えなくなっていたのである。
本書の著者に言わせれば、それも「神の意志」の前では、小さな「人間的な事件」にすぎなかったということになるのであろう。

私は、そんな「福音派」を、あるいは「聖霊に憑かれて異言を発するようなキリスト教信者」を、伝統的なキリスト教信者のように「異端」だと呼んで否定するつもりは、毛頭ない。
と言うのも、「宗教信仰」というものが、そもそも「現実逃避の妄想的フィクション」でしかないのだから、そのなかで「どちらが正統で、どちらが異端か」などという議論は、客観的事実においては「完全に無意味」であり「不毛」なものでしかないからだ。

本書を読んで、「福音派」の言い分が、たいへんよくわかった。
しかし、その結果として確信できたのは、キリスト教というのは、本質的に「現実逃避のフィクション」でしかない、という「冷然たる事実」である。
そうであるからこそ、「非理性的」で「現実逃避」的な教派の方が「本来の教えに忠実」だなどという、皮肉な話にもなってしまうのである。

初出:2019年11月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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【補記】(2020.02.22)

コメント欄でご指摘いただいた誤記について、訂正をしました。
「9.11 アメリカ同時多発テロ」と「イラク戦争」の順序を書き違えるとは、同時代の体験者として、我ながらお粗末さまでした。
文章を流れで書いていると、わかりきったことほど、書き間違えても気づかないということなのでしょう。三度は、推敲して文章を直すのですが、まさか、そんなところで間違っているとは夢にも思いませんでした。
ご指摘くださった方の意図はどうあれ、ありがたいこととお礼を申し上げます。

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