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瓜生中 『よくわかる山岳信仰』 : 政治的フィクションに 汚されない 〈生活に発する信仰心〉

書評:瓜生中『よくわかる山岳信仰』(角川ソフィア文庫)

日本の信仰は「山」に始まると言っても過言ではないだろう。成り上がった一地方豪族である「ヤマト国朝廷=天皇家」を権威づけるために、7世紀にもなってから、紀元前にまで遡る「神の血をひく一族の系譜物語」として制作され成立した『古事記』や『日本書紀』。一一それ以前、制度化以前の「日本の信仰」のことである。

つまり、今の「神道」ではなく、「原始神道」とでも呼ぶべきもののことであり、「天孫降臨」という部族神物語を押し付けられる以前、すでに私たちの先祖は「死者の魂が山に登り、その頂上から天に昇っていく」とする、実に感覚的な信仰を持っていたようなのである。その意味で「山」は、「(浄化された祖先の霊魂としての)神に近い場所」であり、そこから「神の住まう場所」と観念されたり、「山」そのものが「神」として信仰の対象になったりもしたのだ。

そうした「原始神道」の上に、力づくによる「ヤマト朝廷神道」が被さって、より近世的な「神道」が徐々に形成されていき、そこへさらに、大陸から輸入された最新知としての「仏教」が、政治的党派権力上の優位に立って、「本地垂迹」(仏教の仏や菩薩が本地で、神道の神は垂迹=仮の姿)という考えに基づいた「神仏習合」を推し進めた。
また、すでに輸入されていた「道教」由来の「神仙術」や「陰陽道」などの影響を受けた民間の「山岳修行者」たちが、神道や仏教の美味しいとこ取りをして、ほとんど成り行き的に形成されていった「修験道」が絡んで一一というのが、日本の宗教なのだ。

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これでもずいぶん簡略化し図式化した説明であり、現実にはもっと複雑に絡み合った相互関係の中で、お互いにその時代の信仰形式が、流動的に形成されていたと言えよう。そのために「日本の宗教」はややこしいし、すべてが多かれ少なかれ「山」に関係してくる。
日本の宗教で、「山」に無縁な宗教などないと言ってよく、だからこそ本書『よくわかる山岳信仰』は、実際のところ、日本の信仰形式全般をカバーするものであり、否応なく内容豊富で、決して「修験道」などの典型的な「山岳信仰」だけを扱ったものではないのである。

私は当初、このタイトルから「修験道」的な部分を勉強しようと思って購入したのだが、結果としては「山」を起点とした「日本の宗教」全体を、広く相関的に知ることができて、これまでごちゃごちゃになっていた部分を、かなりスッキリと整理することができた。本書は、タイトルこそ軽っぽいが、内容の充実した、実にありがたい一冊だったのである。

また、それでいて本書は、決して「情報の寄せ集め」ではなく、著者の一本筋の通った「日本の信仰」観に貫かれており、読んでいて、とても気持ちが良かった。
著者は、あくまでも「権力者のでっち上げた、覇権的な信仰形式」ではなく「人々の生活実感に根ざした、自然な信仰」を重視して、その観点から「日本の宗教」を理解し整理しているので、時に「あるべき信仰」像を熱く語る部分もあった。例えば、次のような部分だ。

『 ここで「神道」ということについて一言しておきたい。小著のテーマからは少し外れる感があるが、日本民族の原初的信仰、いわば宗教以前の信仰としての山岳信仰を理解する上では重要な問題である。
 最近は「神道」という言葉が極めて無神経に使われており、神道の中にこそ日本民族の「心」のルーツがある、といった短絡的な物言いをする人が少なくない。「神道」という言葉はすでに『日本書紀』の用明天皇(聖徳太子の父)の項に「(用明)天皇、仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」と記されている。つまり、用明天皇が仏教とともに神道も尊重したというのである。
 しかし、この場合の「神道」という言葉は、(※ 後の時代に、理論的に形成された)伊勢神道や吉田神道、国家神道とは似て非なるもので、日本古来の神々に対する信仰という程の意味である。そして、伊勢神道や吉田神道といった場合の「神道」は、自己の権威を高めるための極めて政治的、政策的に組織化されたものなのである。だから、そこには日本民族の心のルーツといった側面は見られない。
 精神的な拠り所としての原型は、今も地方の山村で行われている素朴な神事や催事、そして、神社を中心とする村人たちの素朴な信仰の中に見られるのである。敢えてこのような信仰形態に名前をつければ「神社を中心とする日本固有の神々に対する素朴な信仰」とでもいうことができるだろう。どちらかというと『日本書紀』に見える「神道」という言葉に近いニュアンスで、「伊勢神道」や「吉田神道」、ましてや「国家神道」とはまったく異なる概念であるということができる。』(P84~85、※は、引用者補足)

『 つまり、平城京の都市機能はすでに完全に麻痺していたのであり、その惨状を招いたのは元祖箱物行政を推進した聖武天皇だった。そして、聖武天皇の跡を継いだ孝謙天皇も父親に負けず劣らずの浪費家だった。孝謙天皇は、一度退位した後に再び即位して称徳天皇となった。称徳天皇は破綻した財政を横目に、西大寺や新薬師寺といった大掛かりな寺院を建立して人々の顰蹙を買った。それと同時に弓削道鏡を寵愛して彼が天皇の地位を窺うきっかけまでつくった。
 その称徳天皇も宝亀元年(七七〇)には崩御し、弓削道鏡も失脚して下野の薬師寺に流されて同じ年にその地で亡くなった。そして、称徳天皇の跡を継いだ光仁天皇は、腐敗堕落して破綻した仏教界の粛正と平城京の復興に力を注いだ。
 その一環として、光仁天皇が先ず着手したのは山林抖藪(※ 山林修行)の解禁だった。「僧尼令」にあった事実上の山岳修行の禁令を削除したのである。これによって、それまで吉野や熊野など各地の霊山に潜伏して修行していた行者たちは、心置きなく修行に専念することができるようになったのである。
 光仁天皇が山岳修行者に活路を与えたのは、奈良の大寺で権勢だけを誇示している堕落した僧侶よりも、深山幽谷で厳しい修行に打ち込む若くて無名の僧侶の方が求道心と信仰心に富んでいると見たからである。
 周知のごとく、このころ最澄や空海は比叡山や四国の室戸岬などに籠って厳しい修行に専念して仏教の奥義を体得しようとしていた。彼らは用意されたエリートコースを自ら外れてアウトロー(※ 山岳修行者)の仲間入りをしたのであり、当時の世間の人々にとっては理解しがたい行動であった。しかも、律令制の下では山岳修行者は捕縛されて流罪に処せられる危険もはらんでいた(※ 役の小角[役行者]にも、流罪されたという記録がある)。
 もし、最澄や空海が聖武天皇の時代に生きていれば、運よく罪に問われずに済んだとしても、重用されることは決してなかっただろう。』(P106~107)

『 しかし、明治になると神仏分離政策によって(※ 記紀神話の神のみを祭神とするために)本地仏は廃され、(※ 出羽)三山はそれぞれ神社となって祭神も改められ、羽黒山は倉稲魂命(伊氏波神)、月山は月読命、湯殿山は大山祗命、大己貴命、少彦名命とされた。
 ちなみに現在、各地の神社に祀られている祭神は、出羽三山のように、明治初年に急ごしらえで定められたものである。しかも、祭神を選定したのは仏教嫌いの右傾した神道家や、歴史や宗教についての知識を全く持たない無知蒙昧な明治政府の役人たちだった。その結果、千年以上に及ぶ伝統を無視して、いい加減な祭神が割り当てられたのである。
 例えば、羽黒山は(※ 山そのものが)古くから農耕の守護神として信仰されていたことから、単に穀物の神である倉稲魂命に定められた(※ 新たに、祭神として勧請された=実質的には、力づくで押し付けられた)。月山は「月」という字のつながりで月読命が定められた。湯殿山の大山祗命は山の神の総元締め(※ というだけの理由)であり、また湯殿山が温泉の湧き口を御神体としていることから、温泉開発の神とされる大己貴命(大国主命)も祭神とした。少彦名命は出雲で大己貴命の国造りを手伝った神である(※ ことから、抱き合わせで勧請された)。要するに、きわめて短絡的な理由で祭神が定められ、長きにわたって培われてきた地域の信仰や伝統は全く無視され(※ 押し潰され、隠蔽されていっ)たのである。』(P236~237)

著者の、人々の生活に根ざした信仰への愛情が、よく伝わってくると思う。

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日本の信仰も、当然のことながら、最初は自然の中における生活の中から、それこそ自然に生まれてきた「実感=感情」なのだが、それがやがて、権力者による「統治の道具」として利用され、歪められていく。それでも、その中には、本来の自然な信仰心が生き延びているというのも、また事実なのだ。

私たちは「日本の宗教や信仰心」というものを考える時に、やはりその成り立ちについて、真摯に学ぶ必要があり、そうした敬虔な態度なくして、信仰を語る資格などないし、「罰当たり」なのだと、そう心得るべきなのではないだろうか。


初出:2021年5月26日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年6月7日「アレクセイの花園」

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