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魚豊 『チ。 ―地球の運動について― 』 (3): フィクションにおける「リアリズムの功罪」

書評:魚豊『チ。―地球の運動について― 』第6集〜第7集・完結(BIG SPIRITS COMICS・小学館)

いよいよ完結だが、私としてはスッキリしないものが残った。

時代はますます「C教」ことキリスト教に厳しくなっていく。登場人物たちは「地動説」の書を刊行しようと命懸けの奔走をするのだが、そう上手くはいかない。第6〜7集の主人公と呼んでいいだろうロマ(旧称ジプシー)の少女ドゥラカも、ついにはその目的を達成せずに死んでいく。救いを感じさせる描写ではあるものの、最終巻である第8集の後半、第58話の最後で、むなしく死んでしまうのだ。

(手前が、ドゥラカ)

そんな展開から、残りわずかな枚数で、この物語にどのような決着をつけるのだろうと思っていたところ、第59話以降である最終章の主人公となる青年アルベルト・ブルゼフスキの、子供時代の回想シーンに、なんと第1集の最後で死んだはずのラファウが、成長した青年の姿で登場する。

これはどういうことだろう? ラファウが「実は生きていました」というような、ミステリー小説的な伏線など張られていなかったと思うのだが、私の読み落としだったのだろうか? 一一そんなふうに思ったのだが、いずれにしろ、すでに第1集は手元になかったし、第1集では、明らかに作者は読者にラファウは死んだと思わせるように描いていたはずだから、この最後の最後での、ラファウの「想定し得ない」登場には、作者の意図的な「仕掛け」があるというのは、間違いなかった。
だが、最後まで読んでも、その意味するところが、私には判然のしなかったのである。

それで、このレビューを書くために「Wikipedia」を覗いてみると、次のような興味ぶかい指摘があった。

『  最終章
これまでのP国やC教などイニシャル表記ではなく、ポーランド王国と明言される。作品の舞台が「地動説が迫害される世界を描いたフィクション作品」から「現実世界のポーランド」を描くものへと移行したのか、3章までの世界と最終章の世界は、地動説への迫害の有無が異なるパラレルワールドとして取り扱われているのか(前者との連続性を認めると地動説への迫害もC教すなわちキリスト教の一部の者が、ポーランド王国で過去に行ったとフィクション性が引き継がれるが、パラレルワールドならば遮断される)は濁されている。』

そうだったっけ? 私はそれを完全に見落としていたのだが、確認してみると、前述のとおり、第58話の最後でドゥラカが死んでしまい、そのあと始まる第59話の冒頭には、

『1458年 ポーランド王国都市部』

と大きく書かれている。
以降の部分に「キリスト教」という表記は見つけられなかったものの、出典を明示した聖書からの引用や、トマス・アクィナスなど実在したキリスト教神学者などの名前も出てくる。そして何よりも、じつは最終章の実質的主人公となるアルベルト・ブルゼフスキ自身が、実在の人物なのだ。
作者は、彼のラスト・ネーム(苗字)が明かされるシーンで『〝ブルゼフスキ〟』と強調符号を付しているので、これは間違いない。アルベルトは、これまでの主人公たちとは違って「実在の人物なのだ」ということを、作者は強調しているのだ。

(アルベルト)

言い換えれば、ドゥラカが死ぬ第58話までの物語は「フィクション」だということになる。
もちろん、このマンガ自体がそもそも「フィクション」に決まっているのだから、その意味するところは「フィクションを内蔵したフィクション」だということであり、つまり本作は、単なる「歴史フィクション」ではなく「メタ(歴史)フィクション」だったということを、作者は最後の最後で示しているのだ。

このあたりの事情を、「Wikipedia」は次のように説明している。

『 フィクション性
現代の日本では、ガリレオ裁判などの印象が強いためか、「中世ヨーロッパでは地動説を唱える者へのキリスト教による激しい迫害・弾圧があった」と信じられていることが多いが、実際の歴史において地動説が強烈な迫害を受けたという記録は残されていない。迫害とは逆に、地動説を唱えたコペルニクスは領主司祭を務めるなど教会と密着していた。 そのため本作品は地動説が迫害される世界を描いたフィクション作品であり、登場する国名も「P王国」などとなっている。 魚豊は「この勘違いも面白く感じて、テーマにしたい!と思った」と語っており、本作で描かれる「地動説へのキリスト教による苛烈な迫害」はあくまで虚構のものとして描かれていると考えられていた。
しかし、終盤において地動説は異端だと必ずしも解釈されるものではなく、一律・一般的な迫害は存在しないと明言された上で、作品描写のような限定された場所での時の権力者の独断による異端判断など(他にガリレオを連想する計算上の仮説としてではなく唯一の真理と強硬な人間に対してもと例示)歴史となる記録には残らない形で揉み消しつつ迫害された人間が存在したことが、民衆には上述の勘違いを引き起こすに至ったという史実性と整合し得る解釈が提示された。ただし、それも3章までこの解釈に基づく作中世界もあくまでフィクションであり、匿名表記を外した一切の迫害描写がない現実世界を思わせる最終章は繋がらないパラレルワールドとの解釈も可能な作りにはなっている。
いずれにせよ、近代化によって宗教の絶対性が揺らいでいったことは事実であった。そういった時代の変わり目に、人々の価値観が変わっていく様子が描かれている。』

だが、私は、この説明は全く不十分だと考える。というのも、これではまるで、現実には「地動説」に対する「キリスト教会からの迫害」がなかったかのように読めるからである。だが、そうではない。単なる『時の権力者』の個人的な資質の問題ではないのだ。

現実に「迫害」はあったし、記録が残っていないのは、作中でも示されているとおり、記録を残さなかったのか、残せなかったのか、証拠隠滅のために廃棄されたからに他ならない。
「異端」の考え方を廃棄するというのは、ずっと昔からのキリスト教の基本的な態度だというのは、キリスト教の歴史を齧った者には、常識に類する話でしかない。例えば、キリスト教初期からの「異端」である「アリウス派」「アタナシウス派」というのは、「派」という呼称からも分かるとおり、キリスト教徒であり、その内部に属するものであって、決して「異教」のことではない。キリスト教徒だが、教義理解について、公然と「異論」を立てたので、「教会主流派」から事後的に「異端」認定されたグループに過ぎないのだ。
だが、「教会主流派」との教義論争の記録が残ってはおらず、現在では、彼らを批判した「教会主流派」に属する初期の神学者(今では「教父」)と呼ばれる人たちの著作の中で、批判されたり、批判的に引用された部分から、「アリウス派」や「アタナシウス派」の教説が「推測」されるしかなくなっているように、彼ら自身の著作は、「教会」が門外不出の「資料」として秘匿したごく一部を除いては、すべて燃やされてしまったのである。一一したがって、資料が残っていないから無かった、というのは「間違い」だというのは、今も昔も、洋の東西も問わない事実なのだ。

キリスト教会の基本的な考え方とは、次のようなものである。

「どんな意見を持とうと、それは自由である。それは、神の真理を証かすための学的探求における〝学説〟としては認めよう。ただし、教会の正統教義を否定して、それが真実だなどと訴えるならば、それは神の真理を蔑ろにする異端の教説でしかなく、その者は異端者となって、神の救いに与ることのできない人間となる」

したがって、本音では「教会の言っていること(正統教義)はおかしい(間違っている)」と思っていても、それをあからさまに言わなければ、「教会のお目こぼし」によって、身に危険の及ぶことはない。だが、それを世間に向けて喧伝するとか、出版しようなどとすれば、それは明らかに「異端」の行いということになり、「異端審問」の対象となって、そこで「改悛の情」を示さなければ、キリスト教会から「破門」となるし、悪くすれば、世俗権力の手に渡されて、悪魔の手先として「火刑」に処せられることにもなる。
また、「破門」になるだけなら「いっそ気楽でいいや」と思う人もいるかもしれないが、そういうことではない。当時の彼の地は「キリスト教徒」であることが自明の前提であり、「まともな人間」であることの要件であった。言い換えれば、キリスト教信仰を持たない者は、神をも恐れぬ不敬の徒であると同時に、いっそ「人外」にも等しい存在だったから、当然のことながら「キリスト教社会」には受け入れてもらえず、つまりは生きていくことができなかった、ということなのである。

したがって、生きていたくば、あるいは、人間としてのまともな生活を続けたければ、心の中でどう思っていようと、ひとまず表向きは「従順な信徒」でなければならなかった。したがって、「地動説」を信じた人たちが、教会の考え方を心の中では否定していたとしても、それをあからさまに批判しなかったとか、批判した記録文書がないとかいうのは、当たり前の話でしかないのである。
例えていうなら、平サラリーマンが、上司を人前で露骨に批判するとか、会社の方針を批判する文章を、会社に提出するなどというのは、ただでは済まないからこそ、ほぼあり得ないというのと、同じことなのである。そんなものを提出したところで、破って捨てられるのが関の山なのだ。
そして、今なら、直接会社に喧嘩を売ることはできなくても、ネットで匿名の書き込みをして世間に訴え、それで会社の不正を暴く、なんてこともできるだろうが、その昔のキリスト教世界では、そもそもそうした「外部」が存在しなかったのだから、その「内部で我慢する」しかなかったのである。

したがって、「Wikipedia」にある、

『迫害とは逆に、地動説を唱えたコペルニクスは領主司祭を務めるなど教会と密着していた。』

などというのも、なんら不思議なことではない。平穏に研究を続けたいと思えば、教会に媚びて見せるのは、当たり前の「処世術」でしかなく、多くの場合それは、彼らにとっては「世を忍ぶ仮の姿」でしかなかったからである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、「Wikipedia」の言う、

『そのため本作品は地動説が迫害される世界を描いたフィクション作品であり、登場する国名も「P王国」などとなっている。 魚豊は「この勘違いも面白く感じて、テーマにしたい! と思った」と語っており、本作で描かれる「地動説へのキリスト教による苛烈な迫害」はあくまで虚構のものとして描かれていると考えられていた。』

というよう『考えられ』方は、明らかに間違いであるし、作者が『この勘違い』と称したものも、単に「迫害などなかったのに、あったかのように思われている」という「勘違い」を指すのではない、と考えるべきだろう。なぜなら、作者はそこまで「キリスト教史」に無知ではないからだ。

では、なぜ作者は、読者に対しこのような「故意に誤解させるような言い方」をしたのだろうか。

それは多分、本作のように「キリスト教」に対し露骨に批判的な内容だと、なにかと「風当たり」も強く、「もう少し、キリスト教の立場を尊重した視点も入れてはどうか」みたいな話が、あちこちからもたらされていたからではないだろうか。
つまり、作者としては「これは、フィクションであり、現実のキリスト教の話ではないのですよ」というふうな、そうした人たち、つまりキリスト教方面向けの「エクスキューズ(言い訳)」として、このような言い方をして、煙幕を張ったのであろう。一一だが、作者には「キリスト教が、ひどいことをやったというのは、歴史的な事実だ」という思いがあるから、「フィクションです」という見せかけのもとで、「十分にあり得た歴史」を描いたのであろう。

私は、本作第1集と第2集を読んだ段階でのレビューに、次のように書いた。

『第1集の開巻早々、違和感を持たされたのは、服装こそ「西洋中世」っぽいものではあるものの、登場人物たちの容姿が「現代日本的」であり、特に「しゃべり」が「今風」であった点だ。私は、もっと本格的な「西欧中世マンガ」かと思っていたので、これは、やや意外であったし「こんなに軽くて大丈夫なのか?」という危惧を覚えた。』

だが、その心配は、あっさりと杞憂に終わった。物語は「時代を超えた、知への情熱」を描く、熱い物語になっていったからだ。
そして、これこそが、このマンガを大ヒットさせた最大の要因であろう。要は、本作は「熱血マンガ」だったのである。

ところが、第59話以降の「最終章」を読むと、そうとも言えない作品として、着地させられていることに気づかざるを得なかった。
どういうことかというと、「熱血」的な「信念に生きる真っ直ぐさ」が、この最終章では「相対化」されてしまっているのである。「それ(熱血の物語)は、所詮フィクションでしかない」と。

というのも、「Wikipedia」がいうように、この「最終章」は、これまでの「フィクションとしてのパラレルワールド」とは違って、必ずしも「信念が、善に働くとは限らない」という「現実」を描いているのだ。そして、それを象徴するのが、こちらの「現実の世界では生きていたラファウ」なのである。

「最終章」の登場するラファウは、「真実を知りたい」という純粋な信念を貫くために、嘘をついてでも生き延びた「目的は手段を正当化する」と考える人である。
だが、「最終章」の主人公であるアルベルトの父親は、そうした「信念」すら、一種の「信仰」であるかもしれず、すべては「疑われなければならない」とする「懐疑派」であったのだか、そのせいでラファウは、アルベルトと父を、迷いもなく殺してしまう。これは「信念のための殺人」であり、ラファウにとっては「合理的な殺人=正当化される殺人」だということである。

(第1集の少年ラファウは、馬鹿正直に信念を公言して死んでいった)

しかし、私たちは、左翼学生運動のひとつの成れの果てである「連合赤軍山岳ベース事件」や、新左翼セクトによる「内ゲバ事件」などの悲惨な結果を知っているから、いくら「善意」に基づく「信念」から出たものであっても、だからと言ってそれを必ずしも肯定できるわけではない、ということをよく知っている。その意味で、この「生き残ったラファウの強き信念」もまた、とうてい肯定することができないのだ(最近の例では、パレスチナ武装闘争組織であるハマスが、イスラエル人植民者を人質にとったテロ行為などがある)。

つまり、フィクションでなら「信念に生きる主人公」は、シンプルに「正義」を体現する存在であり得るけれど、現実の世界では「善としての信念」は、必ずしも絶対的な「善」ではあり得ず、むしろその「無条件に自己肯定的な信念」によって、より「残虐な悪」となる場合のあることも、私たちは知っているのである。

したがって、この「最終章」を読むと、多くの人は「何も悪いのはキリスト教だけではない。善としての信念というものはおおむね、それに徹するならば、しばしば悪の面をも露呈するものであって、フィクションの世界のように、善悪二元論のわかりやすい世界観に収まるものではない。しかしながら、私たちは、何も信じないというわけにはいかず、次善としての、ある種の信念を持って生きざるを得ないのだが、だとしても、自己懐疑だけは絶対に忘れてはいけない」といった、ある種の「折衷案的相対主義」を採らざるを得ない、ということになるだろう。

これも確かに間違いではない。たしかに「現実」とはそういうものなのだが、しかし、こうした「現実主義=リアリズム」というのは、ある意味では「フィクションとは、所詮、非現実である」と言っていることにもなって、そこに問題が生じる。

というのも、「フィクション」は「非現実」ではあっても、「嘘」ではないからだ。
言うなれば、「もう一つの真実」を描くのが「フィクション」の役目なのだが、本作は、最終的に「フィクション」を「現実」に接続することによって「リアリズム」を選んだために、結果として「フィクションの有する価値」を不当に貶めていると、私には感じられたのだ。

私がここで言いたいのは、要は、私たちが「マンガの主人公のように生きたい」と願うことは、決して間違いではない、ということなのだ。
たしかに、実際には「マンガの主人公」のようには生きられないという「現実」を、私たちは徐々に学び、各種の妥協を強いられながら、その人生を歩むことだろう。
だが、その歩みの出発点において「このマンガの主人公のように生きたい」という想いがあるのと無いのとでは、大違いなのではないだろうか。いや、大違いなのである。

「理想」は、そのまま実現するものではなく、その意味で「現実」そのものではない。しかし「現実」ではないから「嘘」だというのもまた、間違いであろう。
人間は、「理想」や「夢」を持つからこそ、そのままを生きられないとしても、「現実」ベッタリの生きがいのない人生を生きずとも済むし、人間社会も、多少なりとも「まとも」である得るのである。

だから、本作が、当初は、ある種の「理想」像を描き、最後の最後で「でも、現実は、そう簡単ではないよね」と付け加えたのは、「言わずもがな」な「蛇足」だったのではないだろうか。そんなことを言えば、多くの「マンガ」や「フィクション」作品は「嘘の綺麗事を描いた作品」ということになるし、「ノンフィクションには劣る、絵空事の娯楽作品」ということにもなってしまうのではないだろうか。

では、なぜ、作者は「フィクションであること」「マンガであること」に徹し切らず、最後の最後で、このいかにも賢しらな「蛇足」を付してしまったのだろうか。

私が思うには、たぶん作者は「C教といった、誤魔化し表現」で、この物語を終えたくはなかったからではないだろうか。つまり「キリスト教史」を知っている作者は、この物語を「現実」へと接続することで、現実のキリスト教会の歴史を批判したかった。

だが、そうしたために、それに迫害された側についても「無垢で罪なき善人」だとか「純粋な被害者」というふうには描けなくなって、第1集の主人公である「ラファウ」を「信念に生きた、一種の狂人」として描き直さなければならなかったのではないだろうか。

だが私は、この「どっちもどっち」という「現実的相対主義」は、「娯楽作品」としては「無難」にまとめたものと評価はできても、人の心を打つ「フィクション」の原理からは外れた「残念な作品」となってしまったのではないかと思う。

「現実」は、どっちが正義でどっちが悪か、などと単純には言えないだろう。だが、それでもそれを精一杯考えて、その選択を生きるのが人間の「理想的現実」であろうし、そうした「理想」を指し示すのが「マンガ」の、ひとつの務めだったのではなかっただろうか。


(2023年11月26日)

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