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いとうせいこう 『小説禁止令に賛同する』 : 小説家〈いとうせいこう〉をめぐる AとBの対話

書評:いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』(集英社文庫)

A 「どうだった、ひさしぶりの、いとうせいこうは?」
B 「やっぱり、期待はずれだったな。『ノー・ライフ・キング』以来のファンとしては、もう数年おきに失望させられてるって感じだよ。彼の小説をぜんぶ読んでいるわけじゃないけど、結局、心から楽しめたのは『ノー・ライフ・キング』『解体屋外伝』『難解な絵本』の3冊だけかな」
A 「初期の作品としては、『ノー・ライフ・キング』から『波の上の甲虫』あたりまで読んでるんだよね。でも、そのあたりで、君としてはついていくのに力尽きたと?」
B 「うん。さっき言った3冊が面白すぎたからね。何冊初版本や文庫を持っているのかわからないくらい、古本屋で見つけるたびに買ったよ。それくらい面白かったし大好きだ。でも、そんなのと比べちゃうからつらい」
A 「いとうさんは、1997年の『去勢訓練』から、2013年『想像ラジオ』まで、小説については長いブランクがあるね。小説家としてはそうとう行き詰まっていたんだろうし、そのあたりはこの小説(『小説禁止令に賛同する』)でも言及されていたよね。それでも、『想像ラジオ』での復活は、華々しかった」
B 「そう。とても評判が良かったから、ひさしぶりに読んだんだけど、評判ほどではなかった。たしかに、3・11の問題を真摯に扱っていて、誠実な作品だとは思うけど、でも小説としては弱い。良いけど弱いんだ。だから、また読まなくなった。で、ひさしぶりに読んだのが、この『小説禁止令に賛同する』の文庫版。単行本の時に買ったかも知れないけど、結局は読んでいない。今回読む気になったのは、薄かったからだろうね」
A 「薄ければ、ダメだったとしても被害が少ないと…。で、どのあたりが弱いと思うの?」
B 「結局、いとうせいこうという人は、かなり観念的なんだよね。批評的と言ってもいいし、頭が良いとも言える。だから、一時期、柄谷行人、浅田彰、渡部直己、絓秀実なんかの『批評空間』にも関係してたんだろうし、いとうの人柄や思想や批評性に不満はないんだけど、小説家としては、やはり肉質に欠けるとでも言うのかな、観念的で物足りないんだよ」
A 「この作品にも、そのあたりの人たちの名前が出てくるね。あと、柄谷行人が強く強く推していた、中上健次も」
B 「僕も『批評空間』関連の人の本はそこそこ読んだし、総じて好きだよ。中上は趣味じゃなかったけど。情念的な部分がイマイチ合わなかったのかな」
A 「その意味では、小説家いとうせいこうとは真逆なのかな?」
B 「いや、でも、この作品でも言及されているとおり、中上健次の小説も、柄谷さんらとの交流の中で、すこしずつ変化していったんじゃないかな。つまり、理論的に考えて書く部分も出てきた。でも、評判からすると、それがあまりうまくいかなかったような気がする。中上健次に理屈は合わなかったんじゃないかな」
A 「その点、いとうせいこうは、もともとかなり頭で書く作家だったんだろう」
B 「そうだと思うよ。いとうせいこうの小説には、必ずどこかしらメタ・フィクション性がある。露骨にそうじゃない場合でも、言葉を語る小説であったり、語りを語る小説であったりと、自己言及的で、自己批評的。それでも、初期の作品には、そうした知性の部分をはみ出して、無意識的に刻み込まれた肉質があったように思う」
A「その〈肉質〉って言葉だけど、君の造語?」
B「うん。さっき思いついただけ。小説の身体性とか言ってもいいんだけど、どうもちょっとニュアンスが違う気がして、勝手な言葉を使わせてもらった。キリスト教には〈受肉〉って言葉があって、神が受肉してイエス・キリストという人間となって地上に降りた、みたいなね。つまり、霊的なもの(霊質)が肉体を持つ、というような意味。同じ意味で、小説も理屈だけじゃなくて受肉が必要だという意味での、肉体にあたる部分が〈肉質〉って感じかな」
A 「なるほど。要は、いとうせいこうの小説作品の多くは、頭で書かれたものの域を出ない、小説としての弱さがある、内圧的な力が足りない、というようなことだね?」
B 「そうだね。ファンとしては、とても残念なんだけど、初期のいくつかのような傑作は、小説を書きはじめた頃だからこそ書けた作品だったのかも知れない」
A 「まあ、それはよくあることだよね。デビュー作かそれに近い時期の作品が、代表作で最高傑作という作家は結構いる」
B 「中上健次もその傾向があるんじゃないかな、あんまり読んでないから、単なる印象論だけど」
A 「で、話を戻すと、『小説禁止令に賛同する』も、そうだということだね?」
B 「そう。言いたいことはわかるし、間違ってもいないと思うけど、小説として迫力がない。あくまでも、頭で書いた小説の域を出ない。これなら、小説ではなく、評論で書いた方がいいけど、評論で書けば、この程度の突っ込み方では、今更だし、ぜんぜん不十分だけどね。『存在しない小説』も、だいたい同じ印象だった。やりたいことはわかるけど、これなら、きっと先行のレムの『完全な真空』の方が面白いだろうね。レムも買ってはあるけど未読なんで、こう言っちゃうのも申し訳ないんだけど」
A 「同じような趣向であった場合、それが面白くなるかならないか、そこで問われるのは、小説家としての力量。頭の良さではなくて。と、そういうことだよね」
B 「そう。例えば、柄谷行人も大絶賛の大西巨人なんか、理屈の権化みたいな人だけど、でも、その理屈がまさに肉質の塊なんだよね。そうした小説家の小説家たる力が、いとうせいこうにはいささか薄い。いい人、頭の良い人、器用な人、才人、なんだけど、小説家としては、いささか弱い、線が細い」
A 「それが、本作にも露だと」
B 「そう」
A 「でも、褒める人は褒めるよね」
B 「理屈の部分で、だと思うよ。つまり、評価が観念的なんだ。良いことを書いてある小説だから良い小説だ、という評価なんだけど、それは小説の評価として間違いだと思う。それも魅力のひとつではあるけれど、小説本来の力とは、あるいは魅力とは、そういうものじゃないはずだ。学のない人が書いても、良い小説は良い小説なんだから」
A 「その意味では、評者の方にも自覚はないだろうけど、多少、知性重視主義的な党派的であったり、イデオロギー的に、これは良い作品だと、すこし無理して褒めてる部分はあるのかも知れないね」
B 「でも、それではダメなんだよ」
A 「倫理や論理だけで、力のある小説は書けないし、そんなものは良い小説ではない、ということだね」
B 「うん。小説はいろんな意味で、自由でなくちゃいけない。そうした意味で〈アンジノソトニデロ ソコニミライガアル〉ってことだ」

初出:2020年11月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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