『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス8 流血鬼』 : 手がたいオチに隠された、その「本質」
書評:『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス8 流血鬼』(小学館)
本巻は、1976年から1978年かけての、『マンガ少年』誌への発表作7篇と、『週刊少年サンデー』誌への発表作2篇を収録した作品集。
著者がのちに書いた、本巻所収の解説文「漢字の「漫画少年」とカタカナの「マンガ少年」」(1989年)には、次のようにある。
見てのとおりこれは、『マンガ少年』誌に発表した作品に関しての文章だが、『読者の人気投票とかを気にせず、僕自身が好きなものを描きたいと考えていた時期でした。』というとおりで、『週刊少年サンデー』掲載の2作についても、大きな違いは見られない。
ただ、ここで注目すべきは、著者がこの時期に自作について、『ブラックな物が多い。』としている点である。
というのも、本巻を一読してみると、はっきりとした「バッド・エンド」の作品は無く、例えば、Amazonのカスタマーレビューで、レビュアー「akashishiuenomaru」氏は、そのレビューのタイトルを「人生を前向きに生きる情熱を作品から強く感じた‼」として、前記の著者自身の印象とは、ほとんど真逆の理解を示しているからだ。
この人の面白いところは、完全ではないにしろ、今どきわざわざ「旧字旧かな」で書いている点だろう。
『目を瞠(みは)ってゐます。』『人の思ひや氣持が何故分かるやうに。』『感慨を覚えてしまふ物語』などなどだが、もちろん「akashishiuenomaru」氏は、「旧かなづかい」の方が、日本語として「美しい」とか「正しい」とか、あるいは「かっこいい」と思っていらっしゃるのだろうが、本作品集が「新字新かな」であることには抵抗がないようなので、たぶん「旧字旧かな」なのは、「正しいから」というようなことではなく、個人的に、それが「美しい」とか「かっこいい」と思っておられるからなのであろう。つまり同氏の「評価」の本質は、そのあたりにある、ということである。
本巻の収録作品は、次のとおりである。
(※ 「⭐︎」印のあるものが『週刊少年サンデー』掲載作)
私がこの9篇を通読して感じたのは、「意外だが、重くはないオチ」と「人類への諦観」だ。たぶん、藤子・F・不二雄は、この「人類への諦観」を『ブラック』だと表現したのであろう。
ただし、それがそのままでは、あまりにも「救い」のない話になるので、いちおう「救いのあるオチ」をつけているのだが、その「オチ」を本気で信じているわけではないために、いささか「あっけないオチ」になっており、そのせいで「意外だが、重くはない(軽い)オチ」になってしまった、ということなのではないだろうか。
私は、当叢書第1巻に所収の名作「ヒョンヒョロ」について、オチの後の「ラストシーン(カット)」を、次のように評した。
つまり、「ヒョンヒョロ」に比べると、本巻所収の作品はいずれも、人類に対して「醒めて」いて、「ヒョウヒョロ」にはあった「怒り」や「嘆き」が無くなり、「諦観」に移行しているようなのだ。だから、オチが「強い(わかりやすい)批判性」を持つものではなくなったのではないか。
しかし、「ヒョンヒョロ」が1971年作品であり、本巻所収の作品が、それから5〜7年後の作品なのだから、ある意味では当然の、心理的な変化なのではあろう。
以下は個々の作品について、短く論じておこう。
(1)「耳太郎」は、「超能力」という、並はずれた力を持ったが故の「不幸」を描いた作品であり、言うなれば、きわめてオーソドックスな「超能力者もの」である。
つまり、お話としては新味に欠けるのだが、そのぶん細部に読ませるところがある。
主人公は漫画を描くのが好きな少年で、同好の友達を何人も持っているのだが「正直率直な作品評価は、必要なものだとはいえ、たいがいは煙たがられる」という「理想と現実のギャップ」を、生々しくを描いている点などが、そうだ。
作品のラストも「超能力を失って平凡な少年に戻ったが、それで幸せになった」というものなのだが、しかし、作者がこの「オチ」を本気で信じているのかどうかは、疑ってみて然るべきであろう。
なぜなら、作者自身は「天才」であり、嫌われてでも「良い作品が描きたい」という気持ちがあり、『選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり』(ヴェルレーヌ)のはずで、単純に「平凡無難な幸福」を肯定していたわけではないはずだからだ。
(2)「ユメカゲロウ」は、「夢を追う人」を肯定的に描いた「ハッピーエンドの作品」ということができるだろうが、しかし、このオチは、その当人にとっては「夢が叶った」という意味でのハッピーエンドだが、世間からはそれを認めてもらえるわけではないという点で、単純な「ハッピーエンド」ではない。
つまりこのラストには、「本当の幸せ」とは「世間に認められることなどではない」という、作者の思想が感じられる。「もっと大切なものを忘れるな」という強い想いだ。
(3)「考える足」は、片足が知性を持ってしまい、反乱を起こすという「ナンセンスコメディ」だが、オチがきわめて「日常的なもの」になっていて、このギャップが素晴らしい。
「そこへ落とすか」という、軽いが意外性のある落とし方で、もちろん、伏線も張られていた。物語の展開の奇天烈さに、すっかり目眩しされていたのである。きわめてテクニカルな作品だと言えるだろう。
(4)「未来ドロボウ」は、大金持ちの成功者の老人が、未来に絶望した少年の身体を、騙して乗っとる(交換する)というお話だが、最後は老人が少年に身体を返し、少年は「健やかな日々を暮らせるだけでも、いかに素晴らしいことかを知って、前向きに生きるようになった」という、ハッピーエンドの物語である。一一しかし、普通なら、老人は少年に身体を返したりはしないだろう。
つまり、このお話の場合は、「教訓的な良い話」にするために、作者が自身が信じてもいないオチをつけた、ということである。
だから、いささか「ありがちなお話」という印象にもなるわけだが、そんなオチのつけ方に、むしろ著者の「諦観」や「ニヒリズム」を見るべきなのだ。「教訓」を、そのまま受け取るのは、子供の読者だけで良い。
(5)「ぼくは神様」も、(1)と同じパターンで、神様と同様の「万能の力」を持ってしまった少年が、それ故に苦しまなければならないというお話だが、最後は「夢オチ」。
芥川龍之介の「杜子春」と同じ構造ではあるが、いささか掘り下げが浅く、これも「型どおり」の教育的作品という印象は否めない。
(6)「宇宙人」は、著者の「諦観」がストレートに表れた作品だと言えるだろう。「人類に期待はする(が、たぶんダメだろう)」という思いである。
なお、最後に登場する古代の壁画は実在のものであり、そこから発想された作品であろう。
(7)「老年期の終り」は、もちろん、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を踏まえ、その逆をいって、人類の老年期を描いた作品。
本質的には、タイトルどおりで、「静かな諦観」に満ちた、決して「前向き」とは言いがたい作品なのだが、しかし、現実の私たちは、こうした「老境」や「老衰」すら迎えられそうにないという点で、現実の方が、ずっと惨めなものである。
(8)「うちの石炭期」は、家のゴキブリが突然変異によって急激に知性を持ち始め、人間に対し自分たちを尊重するよう訴えはじめたため、主人公の少年は、人類存亡の危機を感じる。しかし、ゴキブリたちは、地球での人類との共存可能性をあっさりと諦めて、宇宙に旅立ってしまう。
あっけない「オチ」ではあるものの、これが意味するのは、きっと「人類との対等な共存の、絶対的な不可能性」ということなのであろう。なにしろ人類は、「パレスチナ問題」などを見てもわかるように、人類同士の共存すらできないのだから、ゴキブリとの共存など、できるわけがない。
つまり、「高度な知性を持つゴキブリ」として、人類を「皆殺し」にしたくないと考えるのなら、自分たちの方が出て行くほかないという選択だ。それができないと、今の「ウクライナ戦争」みたいなことになるのである。
(9)「流血鬼」は、本集の表題作。本作は、何度か映画にもなった、リチャード・マシスンの『地球最後の男』をそのまま踏まえた、変奏的なオマージュ作品。
「実は自分の方が●●だった」というオチの「どんでん返し」は、マシスンの作と同じなのだが、しかし、本作のオリジナリティは、単なる「意外性」にはなく、そもそも、その「意外性」が、私たちの「偏見」に由来するものであることを、静かに語り、告発している点にあろう。
客観的に考えれば、「吸血鬼」を「悪」だとする根拠など、どこにも無い。少なくとも、人類にそれを言う資格など無いのである。
(2023年8月11日)
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