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『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス8 流血鬼』 : 手がたいオチに隠された、その「本質」

書評:『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス8 流血鬼』(小学館)

本巻は、1976年から1978年かけての、『マンガ少年』誌への発表作7篇と、『週刊少年サンデー』誌への発表作2篇を収録した作品集。
著者がのちに書いた、本巻所収の解説文「漢字の「漫画少年」とカタカナの「マンガ少年」」(1989年)には、次のようにある。

『 当時は、なまじっか「オバケのQ太郎」がヒットしたせいか、新作依頼のほとんどが、生活ギャグ路線という注文つきでした。その反動というわけでもないでしょうが、読者の人気投票とかを気にせず、僕自身が好きなものを描きたいと考えていた時期でした。
 好きなものを描かせてもらえるということで始めたシリーズですが、具体的にこんなものを、という構想が固まっていたわけではありません。でも、気ままに描きつづけてきた作品をまとめて読んでみると、何か屈折したブラックな物が多い。いつも「明るく健康的なまんが」ばかり量産していた反動でしょうか。』(P324)

見てのとおりこれは、『マンガ少年』誌に発表した作品に関しての文章だが、『読者の人気投票とかを気にせず、僕自身が好きなものを描きたいと考えていた時期でした。』というとおりで、『週刊少年サンデー』掲載の2作についても、大きな違いは見られない。

ただ、ここで注目すべきは、著者がこの時期に自作について、『ブラックな物が多い。』としている点である。

というのも、本巻を一読してみると、はっきりとした「バッド・エンド」の作品は無く、例えば、Amazonのカスタマーレビューで、レビュアー「akashishiuenomaru」氏は、そのレビューのタイトルを「人生を前向きに生きる情熱を作品から強く感じた‼」として、前記の著者自身の印象とは、ほとんど真逆の理解を示しているからだ。

『不思議な、そして重厚な名作群に出逢った氣分であります。一作一作が新鮮であり、展開テーマの深さに目を瞠(みは)ってゐます。これ程多様で、且つ、深い内容の作品を二年の間(昭和51年12月〜53年12月)にすべて作成して発表されてゐます事実を知るにつけ、その筆力と才能の豊かさは将に驚嘆に値します。本当にじっくりゆっくり読むに値する名作揃ひなのであります。
 どれも甲乙つけがたいものばかりなのですが、敢へて私が選ぶベスト3を決めようと思ひます。「未来ドロボウ」「宇宙人」「老年期の終り」の三篇でせうか。他の作品もそれぞれ味はひが深かったのですが、何故神のやうな力が突如与へられるのか?人の思ひや氣持が何故分かるやうになるのか?といった基本的な疑問さへ湧いて来なければ、別の作品を選んだかも知れません。何と言ってもベスト3作品は、前向きな意志で格闘する情景が好ましく共感しました。そして、出て来ます女性キャラクターも可愛いらしく潤ひを感じられて来るのです。
 宇宙を巡るSF物語は、薔薇色オンリーではなくてどういふ局面かによって全く見えて来る世界が全く違って来てしまふんだなと様々な感慨を覚えてしまふ物語でした。丁寧、緻密に考察されて描かれた物語は、大人の領域に達してゐます。時間を置いて再読、三読に耐へ得る深みがあり、又の機会に味はひ直したく存じます。』(全文)

この人の面白いところは、完全ではないにしろ、今どきわざわざ「旧字旧かな」で書いている点だろう。
『目を瞠(みは)ってます。』『人の思持が何故分かるやうに。』『感慨を覚えてしま物語』などなどだが、もちろん「akashishiuenomaru」氏は、「旧かなづかい」の方が、日本語として「美しい」とか「正しい」とか、あるいは「かっこいい」と思っていらっしゃるのだろうが、本作品集が「新字新かな」であることには抵抗がないようなので、たぶん「旧字旧かな」なのは、「正しいから」というようなことではなく、個人的に、それが「美しい」とか「かっこいい」と思っておられるからなのであろう。つまり同氏の「評価」の本質は、そのあたりにある、ということである。

本巻の収録作品は、次のとおりである。
(※ 「⭐︎」印のあるものが『週刊少年サンデー』掲載作)

(1)耳太郎
(2)ユメカゲロウ
(3)考える足
(4)未来ドロボウ ⭐︎
(5)ぼくは神様
(6)宇宙人
(7)老年期の終り
(8)うちの石炭期
(9)流血鬼 ⭐︎

私がこの9篇を通読して感じたのは、「意外だが、重くはないオチ」と「人類への諦観」だ。たぶん、藤子・F・不二雄は、この「人類への諦観」を『ブラック』だと表現したのであろう。

ただし、それがそのままでは、あまりにも「救い」のない話になるので、いちおう「救いのあるオチ」をつけているのだが、その「オチ」を本気で信じているわけではないために、いささか「あっけないオチ」になっており、そのせいで「意外だが、重くはない(軽い)オチ」になってしまった、ということなのではないだろうか。

私は、当叢書第1巻に所収の名作「ヒョンヒョロ」について、オチの後の「ラストシーン(カット)」を、次のように評した。

『ラストシーンの「静かな詩情を帯びた恐怖」も深い余韻を残すものとして、この作品を「完璧な名作」に仕上げている』

つまり、「ヒョンヒョロ」に比べると、本巻所収の作品はいずれも、人類に対して「醒めて」いて、「ヒョウヒョロ」にはあった「怒り」や「嘆き」が無くなり、「諦観」に移行しているようなのだ。だから、オチが「強い(わかりやすい)批判性」を持つものではなくなったのではないか。
しかし、「ヒョンヒョロ」が1971年作品であり、本巻所収の作品が、それから5〜7年後の作品なのだから、ある意味では当然の、心理的な変化なのではあろう。

以下は個々の作品について、短く論じておこう。

(1)「耳太郎」は、「超能力」という、並はずれた力を持ったが故の「不幸」を描いた作品であり、言うなれば、きわめてオーソドックスな「超能力者もの」である。
つまり、お話としては新味に欠けるのだが、そのぶん細部に読ませるところがある。
主人公は漫画を描くのが好きな少年で、同好の友達を何人も持っているのだが「正直率直な作品評価は、必要なものだとはいえ、たいがいは煙たがられる」という「理想と現実のギャップ」を、生々しくを描いている点などが、そうだ。

作品のラストも「超能力を失って平凡な少年に戻ったが、それで幸せになった」というものなのだが、しかし、作者がこの「オチ」を本気で信じているのかどうかは、疑ってみて然るべきであろう。
なぜなら、作者自身は「天才」であり、嫌われてでも「良い作品が描きたい」という気持ちがあり、『選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり』ヴェルレーヌ)のはずで、単純に「平凡無難な幸福」を肯定していたわけではないはずだからだ。

(2)「ユメカゲロウ」は、「夢を追う人」を肯定的に描いた「ハッピーエンドの作品」ということができるだろうが、しかし、このオチは、その当人にとっては「夢が叶った」という意味でのハッピーエンドだが、世間からはそれを認めてもらえるわけではないという点で、単純な「ハッピーエンド」ではない。
つまりこのラストには、「本当の幸せ」とは「世間に認められることなどではない」という、作者の思想が感じられる。「もっと大切なものを忘れるな」という強い想いだ。

(3)「考える足」は、片足が知性を持ってしまい、反乱を起こすという「ナンセンスコメディ」だが、オチがきわめて「日常的なもの」になっていて、このギャップが素晴らしい。
「そこへ落とすか」という、軽いが意外性のある落とし方で、もちろん、伏線も張られていた。物語の展開の奇天烈さに、すっかり目眩しされていたのである。きわめてテクニカルな作品だと言えるだろう。

(4)「未来ドロボウ」は、大金持ちの成功者の老人が、未来に絶望した少年の身体を、騙して乗っとる(交換する)というお話だが、最後は老人が少年に身体を返し、少年は「健やかな日々を暮らせるだけでも、いかに素晴らしいことかを知って、前向きに生きるようになった」という、ハッピーエンドの物語である。一一しかし、普通なら、老人は少年に身体を返したりはしないだろう。
つまり、このお話の場合は、「教訓的な良い話」にするために、作者が自身が信じてもいないオチをつけた、ということである。
だから、いささか「ありがちなお話」という印象にもなるわけだが、そんなオチのつけ方に、むしろ著者の「諦観」や「ニヒリズム」を見るべきなのだ。「教訓」を、そのまま受け取るのは、子供の読者だけで良い。

(5)「ぼくは神様」も、(1)と同じパターンで、神様と同様の「万能の力」を持ってしまった少年が、それ故に苦しまなければならないというお話だが、最後は「夢オチ」。
芥川龍之介杜子春と同じ構造ではあるが、いささか掘り下げが浅く、これも「型どおり」の教育的作品という印象は否めない。

(6)「宇宙人」は、著者の「諦観」がストレートに表れた作品だと言えるだろう。「人類に期待はする(が、たぶんダメだろう)」という思いである。
なお、最後に登場する古代の壁画は実在のものであり、そこから発想された作品であろう。

(エルサルバドルに遺る壁画「宇宙人の恋人」)

(7)「老年期の終り」は、もちろん、アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』を踏まえ、その逆をいって、人類の老年期を描いた作品。
本質的には、タイトルどおりで、「静かな諦観」に満ちた、決して「前向き」とは言いがたい作品なのだが、しかし、現実の私たちは、こうした「老境」や「老衰」すら迎えられそうにないという点で、現実の方が、ずっと惨めなものである。

(8)「うちの石炭期」は、家のゴキブリが突然変異によって急激に知性を持ち始め、人間に対し自分たちを尊重するよう訴えはじめたため、主人公の少年は、人類存亡の危機を感じる。しかし、ゴキブリたちは、地球での人類との共存可能性をあっさりと諦めて、宇宙に旅立ってしまう。
あっけない「オチ」ではあるものの、これが意味するのは、きっと「人類との対等な共存の、絶対的な不可能性」ということなのであろう。なにしろ人類は、「パレスチナ問題」などを見てもわかるように、人類同士の共存すらできないのだから、ゴキブリとの共存など、できるわけがない。
つまり、「高度な知性を持つゴキブリ」として、人類を「皆殺し」にしたくないと考えるのなら、自分たちの方が出て行くほかないという選択だ。それができないと、今の「ウクライナ戦争みたいなことになるのである。

(9)「流血鬼」は、本集の表題作。本作は、何度か映画にもなった、リチャード・マシスン『地球最後の男』をそのまま踏まえた、変奏的なオマージュ作品。

「実は自分の方が●●だった」というオチの「どんでん返し」は、マシスンの作と同じなのだが、しかし、本作のオリジナリティは、単なる「意外性」にはなく、そもそも、その「意外性」が、私たちの「偏見」に由来するものであることを、静かに語り、告発している点にあろう。
客観的に考えれば、「吸血鬼」を「悪」だとする根拠など、どこにも無い。少なくとも、人類にそれを言う資格など無いのである。


(2023年8月11日)

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