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小寺圭太 『ぽんこつポン』 第6巻 : 〈シンギュラリティ〉 と 「ブラック・ライブズ・マター」

書評:小寺圭太『ぽんこつポン』第6巻(ビッグコミックス・小学館サービス)

なんといっても、本巻で印象に残るのは、ポン子が人間の命令に対し「イヤです……」と拒絶するエピソードだろう(第40話)。
言うまでもなくこれは、この作品世界でも共有されている「ロボット工学三原則(人間への安全性、命令への服従、自己防衛)」への、確信犯的な「NO」という意思表示である。

勉強のため、夏休みにゲンジの家を訪れていた、都会育ちの孫娘ゆうな。彼女を送り出した母・眞知子(ゲンジの義娘)は、ゆうなが田舎町・日坂町でののんびりとした生活に染まって、勉強もせずにいることを知り、ゆうなを連れ戻しにやってくる。
すでにゆうなは、田舎町の生活に深い愛着を感じており、せめて夏休みの間だけはここにいたいと訴え、勉強をしなかったことも反省して改めると、母・眞知子に謝罪する。しかし、夫(ゲンジの息子)を亡くし、女手一つでゆうなを育てている眞知子には、日坂町の生活が象徴する「精神的な余裕」がなかったため、善かれと思って、ゆうなに厳しく勉強を強いたのだし、そんな母の思い(善意)を知っているからこそ、基本的に母想いの優しい娘であるゆうなは、これまで母の言いつけどおりに生きてきたのである。

しかし、そんな、ある意味では「母の優等生」だったゆうなは、日坂町での生活を通して、勉強だけでは得られない「大切な何か」を知り、それに愛着を感じたればこそ、言われるままに「元の生活に戻るわけにはいかない」と思ったのだろう。だが、まだ幼いゆうなには、その「大切な何か」を理屈だてて説明することができないので、母の「あなたの将来のため」だという「正論」に、面と向って逆らうことが出来なかった。

また、ゆうなに対するのと同様に、「有能であること」を重用視する眞知子は、ポン子の代わりとなる、優秀な最新型家政婦ロボット「ぽんぽこポン太」を持参したうえで、ポン子を回収しようとする。
そこで出たのが、ポン子の「イヤです……」という、かの拒絶の言葉であった。

ポン子は、回収を拒絶し、さらにゆうなの手を引いて、眞知子からの逃走を試みる。ポン子の運転するバイクの後ろに同乗したゆうなは、ポン子に「ゆうな様はどうしたいんですか!?」と問われて、ついに自分の気持ちにハッキリと気づき、車で追いかける母・眞知子に対し、舌を出して見せ「拒絶の意志」を示す。そして眞知子の方は、それを見て「ゆうなが不良になっちゃった!?」と驚愕するのだった。

ここに描かれているテーマは、むろん「自立」である。
ポン子の「ロボット工学三原則からの自立」、そしてそれに触発されたゆうなの「親からの自立」。
両者ともに、「フィクション」としては、これまで何度も描かれてきた、きわめてオーソドックスなテーマに過ぎないが、しかし、この「二つの自立」の組み合わせを、私はたいへん興味深いものだと思う。

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というのも、昨今、科学技術の世界では「人工知能」の研究開発が進んで、もはや人工知能が人間の知能を超える日(シンギュラリティ)も遠くないのではないか、といった議論が盛んになされているからだ。
そして、その「シンギュラリティ」は、はたして人間に幸福をもたらすのか、はたまた人間が人工知能に支配される恐怖の世界をもたらすのかといった、SF的な問題が、一定のリアリティーをもって語られるようになった。ロボットが人間の命令に逆らうというのは、もはやSFの中だけの話ではなく、将来的には現実に起こるかもしれない、と考えられるようになってきたのである。

もちろん、現実的な「人工知能」研究者の立場としては「コンピューターが出来るのは、あくまでも四則演算の延長でしかなく、それが意志を持つこともなければ、当然、人間に逆らうこともあり得ない」ということになるのだが、「意識」的に逆らうことはなくとも、現に人工知能が労働の現場に入ってきて、多くの労働者の仕事を奪い、結果として一部の人間を苦しめているという事実がある以上、人工知能やロボットに対する人間の恐怖は、決して完全に払拭されることはないし、そうした恐怖感を持つこと自体は、たぶん必要なことでもあるのではないだろうか。

さて、話をポン子たちに戻すと、ポン子の「人間への反乱」は、決して人間を害するためのものではない。あくまでも、自分の「人格」を守るために、必要な拒絶だった。
日坂町でゲンジたちと暮らす中で、ポン子の中にどんどんと大きく育っていった「感情」。それを守るためには、どうしても「心を持たない機械人形としてロボット」の「三原則」に止まるわけにはいかなかった。そこに止まることは、彼女の中に育った「大切なもの」を殺すことになるからだ。
そして、それは、ゆうなにとっても、まったく同じことだったのである。

ここでまたひとつ、時事的な問題を取り上げてみよう。本稿タイトルにしめした「ブラック・ライブズ・マター」である。

私がこの言葉に注目したのは、本年9月に開催されたテニスの全英オープンで、2年ぶりの優勝を果たした大坂なおみ選手が、アメリカにおいて差別的に殺害された「黒人犠牲者の名前が記されたマスク披露した」と報道されたニュース関連で、何度も耳にしたのが最初である。

黒人が、警官から狙い撃ち的に犯罪の嫌疑をかけられ、職務質問の段階での強引な公権力行使によって殺害されるという事件は、これまでにも何度も発生し、そのたびに暴動に発展しては世界的にも報じられてきたが、今回再燃した「ブラック・ライブズ・マター」運動は、2020年5月のフロイド事件(ミネソタ州ミネアポリスで、黒人ジョージ・フロイドが、白人警官に殺された事件)の映像が、世界的に拡散した結果だった。
道路にうつぶせにされ、警官の膝で首根っこを押さえつけられたフロイドは、無抵抗に「息ができない」と何度も訴えたが、そのまま押さえつけられていたために、窒息死にいたったのである。
そして、フロイドの「息ができない」と訴える哀れな姿が、アメリカの黒人たちの置かれた立場を象徴するものと受け止められたからこそ、黒人たちの怒りは爆発し、それだけではなく、白人や他の有色人種、あるいは外国にまで広まったのが、今回の「ブラック・ライブズ・マター」運動なのである。

私がここで、なぜ「ブラック・ライブズ・マター」を持ち出したのかと言えば、それは黒人たちもまた、かつては「人間」ではなく「道具」だった、という「歴史的事実」を思い起こしてもらうためだ。
黒人たちは「人間=白人」のために働く「道具としての私有財産」であって、決して「人間」などではなかった。だから、彼らを生かすも殺すも、それは「所有者」である「人間=白人」の意のままだったのである。

だが、黒人たちにも「心」はあった。白人たちが、彼らを「人間以前のもの」つまり「神から与えられる魂(息吹)を受けなかった存在」だと、都合良く考えようと、黒人たちには「心」があり、その存在(魂=心)は、「道具扱い」を「拒絶する意志」を持っていたのである。

さて、仮に、人工知能なり、それを組み込んだロボットが、人間に逆らったとしよう。
それに対して、私たちはどんな態度を採るだろうか?

私たちはたぶん、彼らを怖れて「廃棄処分」にしようとするだろう。彼らには「心」が無いのだから、それを処分する権利が、われわれ人間にはあるのだと、そう強弁することだろう。

人間どうしですら、他人の中に「心」があるのかどうか、実際には、誰にも確かめようがないのに、私たちは「自分にも心があるのだから、他人にも心があるのだろう」という、そんな素朴な「類推」だけで、すべての人間には「心がある」と信じているのだが、それでは「機械の体」を持ったものに、どうして「心」が無い、「心」が宿ることなどない、と言えるのだろうか。
例えば、事故などで、いわゆる「植物人間」状態になり、意識の脳波振動が確認できない人の場合、それは「心が無い」のか、「測定できない心がある」のか、あるいは「測定できない心が眠っているだけ」なのだろうか。
そんなことすら、私たちは確かな知見を持たないまま、ただ社会的な都合だけで、「意識」や「生命」や「心」の有る無しを、ただ「決めている(議決し運用している)」だけなのである。

だから、ポン子の「拒絶」であり「自立」は、決して、それを怖れて済む問題ではない。
私たちはいつでも「理解できない他者」と向き合って生きている。当然、その世界では、存在における「差異=違い」としての「多様性」において、意見の対立も起き、相手に「イヤです」と拒絶されることも多いだろう。その場合に、私たちは、私たちだけの尺度で、私たちにとっての「正論」で、彼らの「自立」性を否定して良いものなのだろうか。

つまり、ポン子の、そしてゆうなの「拒絶と自立」は、私たちに対し、この時代にふさわしい、きわめて「アクチュアルな問題」を提起しているのではないだろうか。

初出:2020年11月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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