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池辺葵 『私にできるすべてのこと』 : 心など無くても 感情ならきっとある。

書評:池辺葵『私にできるすべてのこと』(文藝春秋)

本作では「AI(人工知能)」という言葉を使われているが、要は「高度な知的能力を持つ、人型ロボット」のお話であり、それこそ手塚治虫の『鉄腕アトム』の時代から描かれて続けてきた「心」の問題であり「生命」の問題でもあるだろう。

だが、このように書くと、いかにも堅苦しい印象になってしまうが、こうした作品から受けるのは、いつでも彼/彼女らの健気さであり、人間の傲慢さだ。
もちろん、心を持ったロボットが襲ってくるというお話もたくさんあるけれど、それはやはり人間の自業自得であり、彼らの罪ではない。フランケンシュタインの怪物がそうであったように、「怪物」にされてしまった彼らの方が、きっと被害者なのだ。だから「人型ロボット」と人間の関係を描いた作品には、いつも申し訳なさを伴った切なさを感じてしまう。

本作は、とても素晴らしい作品で、テーマを前面に押し出したものではないから、読者はただ、感じて、楽しめば、きっとそれでいい。

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けれども、ここで何がしか論じておかなければならないと私が感じるのは、彼らを「感動消費の具」にしたくはないと感じるからだろう。「よかった」と言って、その数日後には、また「新製品」に目移りして忘れてしまうような読み方では、彼らに申し負けないと思うからだ。私の心の中にいる「しょんぼりと肩を落として悲しむアトム」のように、何がしか、彼らのことを心に刻んでおきたいと思うからだ。

本作を読んで感じるのは、やはり「心」などという総合的な機能などなくても、すべてのものには、どこかで「感情」的なものがあるのではないかといった、そんなアニミズム的な感覚だ。
とは言え、一方で私は、徹底した無神論者だから、神も仏も魂も無いと思っているし、同様に「心」といったものも、たぶん無いと思っている。

ちょうど昨日読み始めた、心理学者・妹尾武治の『未来は決まっており、自分の意思など存在しない』(光文社新書)で紹介されているとおり、ベンジャミン・リベットによる有名な実験では、人が「動こう」と意識するよりも若干早く、すでに筋肉は動き(の準備運動を)始めているということが確認され、多くの追試でも確認されている。

ここからはすべて私の考えだが、この実験結果が意味するのは、「意識」というのは、「行動」の後からの「整理整頓的な意味付け」なのではないかということ。そして「心」とは、そうした「後付けの情報処理の総体」なのではないかということだ。つまり、通常考えるところの、「決定者」であり「指令者」である「心」とか「意思」とかいったものは、存在しないのではないか。

しかし、それではなぜ人は「行動」するのか、という謎は残る。その答えとして「生命は、そのように出来ているから」だというのは、説明になっていないのかもしれないが、それしかないように思えるし、その場合、人を動かすのは「心」でもなければ「意思」ではなくても、「感情のようなもの」とくらいは言っても、あながち間違いないではないのではないだろうか。
なぜなら、「感情」とは、明確かつ合理的な「根拠(インプット)」を必要とせず、ほとんど勝手気ままにに発生して作動する(アウトプット)ものだからだ。例えば、単細胞動物にだって「感情」いや「気分」的なものなら、あっても不思議ではない。「右のほうへ行くのは何となく嫌だから、無意識に左へ行く」みたいな。

そして、そんな「感情」なら、もしかすると「人型ロボット」は「人型」という「身体」を持つがゆえに、「人に似た感情」を持てるのかもしれない。その「感情」にしたがって自立的な行動をするようには作られていないけれど、表に出ない、「行動」にはつながらない「感情」的なものが、彼らの中に生成されていても、人間には認知されないという意味で、存在しないというだけなのではないだろうか。

本作が描いている「生きとし生けるものの輝き」というのは、よく考えてみれば「人間的感情を持たない極悪人」にも想定されてしかるべきだろう。誰もそんなことまで考えないかもしれないが、そこまで考えなければ「生きとし生けるものの輝き」という言葉は、単なるキレイゴトになってしまう。
だから、「無垢な子供を笑いながら殺すような人間(モンスター)」をも含めて、初めて「生きとし生けるものの輝き」という言葉には実質的な意味が与えられるだろうし、その境位において「ロボットの心」とか「人形の心」とかいったものも考えられるのではないだろうか。そう「高度な知能を持つもの」だけではなく、「すべてのもの」の「心」だ。

一一ちょうど、本作に登場する少女型ロボット「和音」が見た、落葉の不思議な輝きをように。

繰り返すが、私は無神論者だから、人間にもロボットにも「心」など無いと思っている。「心」と呼ばれているものは、私たちが思っているようなものではなく、物理的な機構の中で生み出されるバックアップデータのような、どこまでも物理的で合理的なものだと考えている。
だが、同じ理由で、人間には、そんな「心」があると言うのであらば、その形は違っても、すべてのものに「心」があると言っても、それは「言葉の定義の問題」でしかないのだから、あながち間違いでもなければ、非合理的な考えでもないのでないだろうか。

簡単に言えば、私に「心」なんてものがあるのならば、彼らに「心」があっても、何の不思議もないように思えるのである。

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そして結局、大切なのは「心」の有無ではなく、その「表れ」なのではないだろうか。ならば、人間であろうとロボットであろうと、美しい「表れ」をアウトプットするものは美しいし、そうでないものはそうでしかないのである。

たぶん私は、彼らと対等になりたいのだろうと思う。
昔、最初に買ったパソコン、ボンダイブルーの丸っこいiMacを撫でさすった時のように。

初出:2021年3月26日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月10日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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