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今井哲也 『ぼくらのよあけ』 : 11年前の傑作SFマンガの 「夢見る力と信じる力」

書評:今井哲也『ぼくらのよあけ』全2巻(アフターヌーンKC・講談社)

本作は、2011年に全2巻で刊行された、きわめて完成度の高いSFマンガの傑作である。

私は刊行当時に読んで感動し、本作は愛着ある作品となったのだが、それが本年(2022年)10月に、劇場用長編アニメとして公開され、原作ファンでありアニメファンでもある私の期待は、否応なく高まった。

だが、結果としては、このアニメ版に、私はどうにも満足できなかった。
ストーリー的には、原作をほぼ忠実になぞっており、ビジュアル面では、現在の劇場用アニメらしいディティールアップがなされていたが、問題はそうしたところではなく、もっと本質的なところで、原作にはあった何かが、このアニメ版には「欠けている」と感じられたのだ。

しかし、原作マンガを読んだのは、何しろ10年あまりも前だから、細部は憶えておらず、とにかく、もっと「痛快」だったという印象だけが残っていた。
ただ、「感動的」なだけではなく、もっと「突き抜けた爽やかさ」みたいなものがあって、それが「好感」として残っていたように思うのだ。

そこで、アニメ版のレビューにも書いたことだが、もういちど原作を読んで「何が違っているのか」を確認することにした。
それが本稿である。

 ○ ○ ○

まずは、ストーリーから確認していただこう。

『人類が地球から宇宙を見上げている、それぐらいの未来。宇宙大好き小学生、沢渡ゆうまは、謎にみちたモノと出会う。人工知能を搭載した家庭用オートボット・ナナコの体を乗っ取るように出現したそいつは、2010年に地球に降下したとき大気圏突入時のトラブルで故障し、団地に擬態して休眠していた人工知能なのだという。「私が宇宙に帰るのを手伝ってもらえないだろうか?」団地経由の宇宙行き、極秘ミッションが始まった!』

この物語は、少年たちの「ひと夏の冒険」を描いた物語だと言えるだろう。当然、そこに描かれるのは「成長」だ。

それぞれの生活の中で、それぞれに「うまくいかない」部分を抱えながら生きている子供たちが、惑星「虹の根」から飛来して、地球で遭難していた人工知能搭載の宇宙探査船「二月の黎明号」を、母星に帰してやろうと駆け回る。

その過程で、彼ら自身の抱える問題だけではなく、二十数年前、最初に「二月の黎明号」の存在を知って、彼を母星に帰らせようとした、子供時代の親たちの抱えた屈折も明らかになる。
「二月の黎明号」を母星に帰してやるというプロジェクトは壮大なものだが、彼らには彼らなりに、その日常生活における「小さな不全感」を抱えていたのである。

そして、本作のテーマは、たぶん、このあたりの対比にあると見ていいだろう。どちらか一方が、大切だとかいう話ではなく、どちらもある人生の中で、どのような選択をすべきなのか。
今回、この原作を読み返して思ったのは、本作は、そんなテーマを描いた作品だったのではないかということだった。

私は、前述のアニメ版のレビューで、アニメ版の「物足りなさ」について、次のように書いた。

『原作マンガが手元にないので、詳しく比較して論評することはできないが、内容については、大筋で変わっていないと思う。それなのに、どうしてこのアニメ版は、パッとしないのか。
それは、端的に言って、演出の不味さであり、監督の力量不足が原因であろう。

原作との、わかりやすい違いといえば、原作がおよそ10年前の作品だから、このアニメ版では、SF的な小道具のデザインが洗練されたものになっている点だろう。
例えば、本作で重要な役どころを担う、主人公の家のオートボット(要は、人工知能を搭載した、家庭用ロボット)の「ナナコ」のデザインが、いかにも家電製品らしく洗練されている点だ。

他にも、子供たちの乗る自転車だとか、そうした小道具も、全体に洗練されていたはずだ。また、キャラクターデザインも、原作がわりあい硬質でシンプルな漫画らしい絵柄なのに対し、本作のそれは、いかにも劇場用アニメらしい、凝ったリアルさが加えられている。

だが、問題は、それらの手間が「だからどうだ」というほどの効果をあげていない点で、いまどきのアニメなら、作画的に凝っていることなど、よほど突き抜けた表現でも出来ているのでないかぎり、わざわざ論ずるには当たらず、本作の場合は、まさにそのレベルに止まっている。
喩えて言うならば、それなりに小ぎれいな絵柄で描かれているが、内容的な魅力のない「絵本」、という感じだ。

ストーリーが基本的には変わっていないはずのに、どうしてこうもパッとしないのか。
それは、ドラマの展開や「絵」の見せ方に「メリハリ」がなく、すべてをベターッと丁寧に説明している、という感じで、焦点の定まらない作品だからだろう。そのせいで、欠点らしい欠点というのも、目にはつかないものの、観る者の心に食い入ってくる力がない。ドラマの見せ方に工夫がなく、丁寧なだけなのだ。』

原作マンガを読み返した今となって気づくのは、原作マンガには「突き抜けた」部分があったということだ。
そしてそれは、主に、主人公の少年「沢渡悠真」の、いかにも男の子らしい「ガキっぽさ」に象徴される部分であった、と言えるだろう。

本作には、「悠真」の友達の「岸真悟」の姉「岸わこ」と、その同級生で、後から「二月の黎明号」の母星帰還プロジェクトに加わる「河合花香」の二人をめぐる、学校(小学校)での「イジメ」問題が描かれる。

「わこ」の方は、自分が「仲間はずれ」という「イジメ」の標的にならないように、仲間に対して気を使い、自分の気持ちを偽ってまで、みんなに「良い顔」を見せる、息苦しい学校生活しており、その反動からか、友達の少ないゲームオタクの弟「真悟」をバカにし、からかうことが習慣化していた。
だが、そんな「わこ」も、ちょっとしたミスで、仲間はずれのいじめられる立場に立たされてしまう。

一方、「花香」の方は、父親が著名な作家であることをからかわれて以来、クラスの中で浮いた存在になることも承知の上で、仲間はずれに耐えながら、自分らしく生きようと独りで頑張っていたが、それも限界に達しようとしていた。

そんな「学校生活の負の面」が背景的に描かれる中、今回、原作マンガを読んで、特に印象に残ったのが、「花香」が、悠真の子供っぽい「一直線」ぶりを見て、何度か漏らす「男子って、バカだよね」という、好意的な苦笑の伴った言葉である。

これは無論、女子が「身近な人間関係」の中で悩み苦しんでいるというのに、ひとつ年下とはいえ、悠馬は「宇宙だ」「人工知能だ」と大騒ぎして、一心に駆け回っている。その「無邪気」な姿が、大人に差し掛かった少女たちには、「子供だなあ」という呆れを伴いながらも、やはり「羨ましい」ものだったのだ。

そして、アニメ版に欠けていたのは、この「子供っぽさへの憧れ」ではなかったろうか。

たしかに、アニメ版の悠真も、原作とほとんど同じセリフを喋り、ほとんど同じ行動をするのだけれど、その合間合間に見せる、どうしようもなく、あっけらかんとした「ガキっぽさ」が、アニメ版には無い。
どこまでも一貫した「少年らしさ」への肯定性はあっても、「バカだなあ」と苦笑したくなるような、あっけらかんとした「ガキっぽさ」が描かれていないのだ。一一だから、アニメ版は、全体に丁寧に作られていても、どこか、

『「メリハリ」がなく、すべてをベターッと丁寧に説明している、という感じで、焦点の定まらない作品』

になってしまったのではないだろうか。

つまり、素朴に「宇宙」や「未来」に憧れる、あっけらかんとした「ガキっぽさ」と、日常の人間関係の中で苦しむ「大人のリアリズム」という対比的な「二極」の中でこの物語は進行し、最後はそれが止揚されてひとつになる。
一一原作『ぼくらのよあけ』は、そんな物語だと、私は思うのだ。

その証拠に、原作マンガでもアニメ版でも、最後に語られるのは、「二月の黎明号」の次のようなセリフだ。

ひとつの
生命の種(しゅ)が一一
あるいは
ひとつの文明が

あるいは
個々の生命の
一個体でもいいが

私たちが 宇宙の中で
強く しなやかに
生き続けるためには
何が必要だろうか?

おそらく
その答えのひとつが
〝変化できること〟だ

未知なるものと
出会うこと

外の世界を知ること

そして出会った
みずからとは隔絶した
他者を一一一一

どれだけ
自分の中に
受け入れることが
できるか ということ

つまり……
わかりやすく
言えば こうだ

私は きみたちと
友達になるために
来たんだよ

(下巻P240〜241)

また、このセリフの後半部分に、宇宙へと帰っていく「二月の黎明号」を見上げる、「わこ」と「花香」の次のようなやりとりが重ねられる。

わこ 何あれ 何が飛んでるの?

花香 宇宙船。
   1万2000年もかけて、地球に来たんだって。

わこ …………は?

花香 ……笑っちゃうよね。
   地球の中だって、こんなに難しいのに。

(同上、適宜句読点等を加えた)

つまり、この作品では、「わこ」たちに関わる「仲間内のイジメ」に象徴される、人間社会の「タコツボ化」が否定されている。
そしてそれは、地球の中だけで相争う、私たちのこの世界の象徴でもあるだろう。人間同士、国家同士で、「友敵」関係を作って、相争っているうちに、人類は滅びてしまう。そんな「愚かさ」に対する、「外部からの批判」だ。

「そんなこと言ったって、仕方がないじゃないか」というのはわかる。でも、その人間的な限界を乗り越えるためには、やはり「変わる」しかないのだ。自分とは違った存在、つまり「他者」に開かれた存在にならないかぎり、人類に救われる道はないだろう。
だから、私たちが救われるためには、「目の前のしがらみ」を踏み越えていく「ガキっぽさ」が必要なのだと、そういうことなのではないだろうか。

だが、この作品は、そう単純なことを言っているのではない。
単に「ガキっぽさ」の蛮勇を肯定しているのではなく、「他者と出会い、変わっていく」ことの「勇気」を求めているのではないだろうか。

これまでどおりの「枠内」で生きていくのは、それは無難であろうし、安心感もあろう。
だが、それで済まないのが、この世界の現実であり、やがて私たちは、その「タコツボ」の中で茹だってしまう、熱的死を迎えなければならない危機にさらされている。ならば、勇気を持って、一歩「踏み出す」こと、変わる「勇気」を持たなけれなばらない。

たしかに、そのリスクはあるだろう。だが、それを引き受けずに「変わる」ことはできない。

オートボットの「ナナコ」は、『特異点』つまり「シンギュラリティ」を超えることによって、「自我」を持った。そのことで、彼女は「ウソ」がつけるようになると同時に、自分の「人格」への愛着を持ち、「二月の黎明号」を助けるために、共に、遥かな外宇宙へと旅立つことを決意する。

しかしそれには、兄のようでもあれば、弟のような存在でもあった「悠真」との別れを伴うことになる。
それでも彼女は、彼女との別れを惜しんで、「二月の黎明号」の帰還のチャンスを先送りにしようと提案する「悠真」に、それはダメだと「自分の意思」を強く表明するのだ。

「ナナコ」だって、「悠真」との別れはつらい。でも、いったん決めたことは、やり抜きたい。
二度と会えないと決まったわけではないのだから、自分はその可能性に賭けて、自分の生き方を貫きたい。

自我を持たない「家庭用オートボット」でしかなかったはずの「ナナコ」は、このように「成長」して「外への一歩」「新たな出会いへの一歩」「さらなる成長への一歩」を、リスクを引き受けて、踏み出したのである。

 ○ ○ ○

このように、原作マンガには、ただ「前向きに頑張った」というのではない、「成長への賭け」のようなものが描かれており、それを可能にするのは「悠真のガキっぽさ」に象徴されるものではないかと、私には感じられた。本当の「成長」のためには、やはり「いまの利口さ」だけでは十分ではない、という意味における、「必要なガキっぽさ」。

それが、アニメ版には無かったのではないか、足りなかったのではないかと思う。
単に「丁寧に誠実に作る」だけでは足りない、「大切な何か」。

それはたぶん、「夢や理想」を信じる力。「夢見る力」なのではないだろうか。

「夢」は実現しないかもしれない。しかし、「本気の夢」が込められた作品、本気で信じられた作品は、やはり「特異点」を超えて、「魂が宿る」ということなのではないだろうか。

(2022年12月14日)

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