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渡邉こと乃監督 『金の国 水の国』 : 2023年を代表する 「正統派」傑作アニメの出現

映画評:渡邉こと乃監督『金の国 水の国』

2023年度の劇場用長編アニメの「ナンバーワン作品」だと断言しよう。

まだ、2023年も始まって1ヶ月あまりのこの時期に、ここまで断言するのは、私にだってそれなりの覚悟がいる。だが、なぜここまで言えるのかといえば、それは「昨年観た、どの劇場用長編アニメ」よりも、この作品の方が「優れている」と確信しているからだ。
観客動員数が百数十億円だとか、観客動員数がいくらだとか、海外で映画賞を受賞したとか、そんなことが、いかに下らないことかを、この作品は力強く実感させてくれた。

本作は「2023年度の劇場用長編アニメのナンバーワン作品」であるばかりではなく、日本の長編アニメーション史に名を残す作品になるだろう。
他の大ヒット作が「興行収益などの数字(成績)」のゆえに語られることはあっても、5年後、10年後、20年後に「また観たい」と思わせてくれる作品は、こちら(本作『金の国 水の国』)だと確信することができる。私が、この作品を推す気持ちは、昨年の5月に、ブレイク前だった『ハケンアニメ!』を観て、レビューを書いたときと同様のものだ。

どうか、多くの人に観て欲しい。
恋愛物だからといって、若いアベックに限定する必要はない。親なら、きっと子供に観て欲しい作品だろうし、高齢者ならば自身の人生を顧みて、将来に託すべきものを考えさせられるだろう。

本作は、この世界を「真面目に生きている人」たちのための作品だと言える。
派手な才能などなくても、真摯な思いが人を動かし、世界を動かすものであることを教えてくれるはずだ。

『商業国家で水以外は何でも手に入る金の国と、豊かな水と緑に恵まれているが貧しい水の国は、隣国同士だが長年にわたりいがみ合ってきた。金の国のおっとり王女サーラと、水の国で暮らすお調子者の建築士ナランバヤルは、両国の思惑に巻き込まれて結婚し、偽りの夫婦を演じることに。自分でも気づかぬうちに恋に落ちた2人は、互いへの思いを胸に秘めながらも真実を言い出せない。そんな彼らの優しい嘘は、やがて両国の未来を変えていく。』

(映画.Com、『金の国 水の国』紹介ページより)

 ○ ○ ○

本作は『2017年「このマンガがすごい!」で第1位を獲得した岩本ナオの同名コミックをアニメーション映画化。』作品である。
なお、予告編映像にもあるとおり、岩本ナオは2年連続で『このマンガがすごい!』「オンナ編」の第1位に輝いた、実力派作家だ。

私自身は、このマンガを読んではいないし、絵柄などから「まさに女の子向けだな」と思って興味もなかった。
だが、今回、この映画を観る気になったのは、関係者のこの作品に賭けた熱気と、金儲けは別にしてでもヒットして欲しいという作り手としての強い想いが、事前に聞くともなく聞こえてきたからである。

それに、見てのとおり、この作品の主人公である「金の国の王女サーラ」は、まるぽちゃの女の子で、決して美女ではない。彼女の想い人となる「水の国の平民の青年ナランバヤル」も、やはり美形などではなく、他のアニメならワキ役の顔貌だ。それに、劇場用作品らしく丁寧な作画だとはいっても、いまどきなら、テレビアニメにだって、このクラスの作画がなされた作品は、そう珍しくはない。

つまり、ぱっと見に、特別、人の目を惹くようなところなど無い作品なのに、それでもあえて、その「ドラマ性」で勝負しているらしいところに、もしかするとこの作品は「掘出し物」になるかもという予感が、私にはあったのだ。

で、結果としては、まさにそのとおりだったのである。

観終わった後も、この映画の「どこが凄かった」などという感想は持たなかった。
他の大ヒット劇場用アニメのように、「作画が美しい」「壮大な物語」「アクションシーンがすごい」「歌が素晴らしい」とかいった、切り出し可能な「売り」など無かった。
そうしたパーツの悪目立ちがなく、1本の「映画」として「完成」しているのだ。
映画を観終わった後、「その世界に引き込まれていた」ことに気づき、そして「ああ、いい映画を観たなあ」という静かな感動にとらわれた。本作は、そういう作品なのである。

私は昨年、ある大ヒット劇場用アニメを論じたレビューで「パンフレットを読むと、キャストのほとんどが、まず最初に監督の名前を挙げて褒め称え、それから作品にコメントする、というパターンになっていたのが、なんとも気持ち悪かった」という趣旨の批判をした。
これは「成功者に取り入っておいて損はない」という、あまりにも露骨な処世術が見え透いて、心底うんざりさせられたからである。

だが、本作『金の国 水の国』については、そのコメントで、監督の名前を挙げていたキャストは一人もおらず、誰もが「作品そのもの」と自分の演じた役について語っていた。

それもそのはず、監督である「渡邉こと乃」は、本作が劇場用アニメの初監督作品であり、私自身、初めてその名を耳にした「若手アニメ演出家のホープ」だったのである。
そのため、一般にはまったく無名ではあったが、業界内では「できるやつ」だと注目されていた人物だったのであろう。

本作の「強み」は、なんと言っても、その世界観とキャラクターの魅力にあり、無論そこは原作に負うところが大きいのだが、しかし原作が良くて「それをそのままアニメにすれば、傑作アニメになる」というほど、マンガの「映像化」というのは、お易いことではない。
同じ原作マンガを映像化しても、傑作にもなれば、凡作駄作になることも珍しくないという事実は、ある程度、原作ものの映像化作品を、注意ぶかく観てきた者なら、誰だって気づける程度の事実である。

だから、映画『金の国 水の国』が「傑作」になりえたのは、原作の素晴らしさはもとより、その魅力を損なうことなく、魅力的な映像作品として完成させた、渡邉こと乃監督の力が大きいという事実は、何度強調しておいても、強調しすぎることにはならないだろう。

そして、そんな「渡邉演出」の素晴らしいところは、「ハッタリが無いこと」「すべての要素を、映画としての完成に奉仕させて、見事にまとめ上げている」点だと言えるだろう。

前述のとおり、この作品は「ここがすごい」と、ある「部分」を採り上げて褒めることの難しい作品だ。とにかく「映画として素晴らしかった」「感動した」としか言えないような、評論家泣かせの作品なのである。

無論、テーマ的なことをいろいろと「解説」することはできるだろう。例えば「戦争」の問題などは、偶然にも、この作品の制作期間中に、戦争が起こったことが、制作現場にある種の緊張感をもたらしたようだ。下手な表現はできない、誤解されるような作品にしてはならないと、スタッフは良い意味での緊張感を持って、この作品を作り上げていったという。

だが、そんなことは、この作品の「非凡さ」を語るにおいては、枝葉末節の問題に過ぎない。本作の素晴らしさとは、その「オーソドックスな作り」の中にこそ、あるからである。

前述のとおり、キャストたちは、そのコメントにおいて、一人も監督の名前を挙げていない。
しかしこれは、この作品が「監督のキャラクター」や「監督の名前の商品価値」とは関係のないところで作られた作品であり、褒める時には「誰それの作品」としてではなく、ただ「この作品」として褒められるような作品だった、ということを示している。

(脇役がみんな生きている。特にこのライララには注目だ)

例えば、主役の一人、ナランバヤルの声を当てた俳優の賀来賢人は、『完成した映画をご覧になった時の感想をお聞かせいただけますか?』という質問に対して、次のように答えている。

『素晴らしかったですね。自分が関わっていたかどうかに関係なく、とても素敵なお話だったし、アフレコ当時はまだ絵が完璧に完成している状態ではなかったので、正直どんな仕上がりになるか全然わかっていなかったんですが、オープニングから引き込まれてしまいました。美術も音楽も良かったし、自分の声が気にならないくらい没入感のある絵とストーリーだったと観終わったあとに実感しました。』

もちろん、大切なのは『自分が関わっていたかどうかに関係なく』という部分だ。
役者なら、自分の出演した作品の公開時に、その作品を褒め上げるのは当然のことだけれども、言い換えれば、彼らだって、自分の出演作品でなければ、とても褒める気にはならないような作品にも、これまで何度も、無理をして賛辞を贈っているのである。
だが、だからこそ賀来はここで、思わず『自分が関わっていたかどうかに関係なく』という言葉を入れてしまったのであろうし、実感として『自分の声が気にならないくらい没入感のある絵とストーリーだった』と評したのであろう。この作品は、出演者にさえ「自分が出演した作品」という強固な意識を忘れさせてしまうほどに、「完結した独立世界」となっていたのである。

そんなわけで、本作に対する「私の実感を代弁してくれた言葉」として、サーラの父親であるラスタバン三世を演じた、ベテラン声優・銀河万丈のコメントを紹介したい。

『この作品を観終わって、ジーンと心に残るのは、優しい優しい気持ちです。
そして、心が少し(とっても?)キレイになったかな、と思うはずです。
世界で起こっているバカバカしい諍いに思いが至り、登場人物の全員とハグしたり、隣の誰かさんと、そっと手を繋ぎたくなってしまうはずです。
素敵な作品に出会えて、シアワセなラスタバン三世でした。』

このコメントには、「決してお世辞などではない」という、真摯な想いが込められている。

例えば、『優しい優しい気持ちです。』部分での「繰り返しにより強調」は、この作品が、インフレを起こした「優しい」という言葉では不十分だ、という意識から出たものだろう。

『心が少し(とっても?)キレイになったかな、と思うはずです。』は、「俺のような、くたびれ薄汚れて、多くのものに諦めを持ってしまったような男の心でも、少しはキレイになったかなと、そう思わせる力のある作品だった」ということだ。

また『キレイ』『シアワセ』というカタカナ書きのよる強調も、すでに手垢に汚れてしまった言葉から、その垢を落としてフラットに語ろうとするものだったと言えるだろう。
つまり「これはお世辞なんかではない。不覚ながら、こんなオジサンでも、感動しちゃったんだよ」という、照れ隠しの表現なのである。

さらに『素敵な作品に出会えて、シアワセなラスタバン三世でした。』の部分では、「素敵な作品に出演できて、シアワセ」なのではなく『素敵な作品に出会えて、シアワセ』だという意味であるという点にも注意すべきだろう。

銀河万丈が、今の芸名(この芸名は、富野喜幸監督のテレビアニメ『無敵鋼人ダイターン3』の主人公・破嵐万丈に由来するものだが、銀河万丈が演じたわけではない)になる以前から、彼を知っている古いアニメファンとしては、彼のようなベテラン声優をして、このように、そしてここまで言わしめる本作の素晴らしさはもとより、一人の役者としてではなく、その前に、一人の人間であり一人の観客として、彼にこのような言葉を書きつけさせた、本作の「力」の非凡性を、私は強調せずにはいられない。

この映画を観終わったって、ホッと優しいため息をつき、充実感に満たされて劇場を後にした瞬間から、私たちはまた、この薄汚れた世界に生きることになる。
だが、この映画を観て『登場人物の全員とハグしたり、隣の誰かさん、そっと手を繋ぎたく』なるような感情を持ったことは、決して無意味ではないと私は思う。

いや、このように「思いたい」と思うこと自体が、この作品の力によるものであり、ささやかながらも、この世界をより良く支える力なのだと思う。

少なくとも私は、この作品によって『心が少し(とっても?)キレイになったかな』と、そう思ったのだ。


(2023年2月21日)

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