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映画 『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』 : 触れてはいけない「本当の話」

映画評:古賀豪監督『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023年)

はじめは観る気などなかったのだが、大阪梅田まで出かけなければならない用事があったので、いつものように映画を観ることにした。用事そのものは30分で片付いてしまうものだったからで、わざわざ電車に乗って出かけるからには、映画くらい観ないとな、ということである。

だが、観たい映画はほぼ観ていたので、さて、どれにしようかと上映中の作品をチェックしてみて、まず『窓ぎわのトットちゃん』が決まった。以前に予告編を見ており、それがなかなか良かったので、ダメ元で観ることにしたのだ。
大ベストセラーになった原作の方は読んでいない。良い子らしからぬとは言え、いかにもリベラル系の「良い子のお話」にはあまり触手が動かなかったからなのだが、まあアニメはまた別物だと考えたのである。

しかしまた、最近は出かけて映画を観る時は、最低2本は観たいという感じになっているので、もう1本と考えて、何やら「右肩上がりに大ヒット」しているらしい、劇場版「ゲゲゲの鬼太郎」の最新作を観ることにした。
正直、こちらもあまり期待していなかったけれど、「右肩上がりに大ヒット」というのなら、存外よくできているのかもしれないと期待したのである。

(本作では、鬼太郎はメインではない)

で、結果からいうと、世評とは違い、私の評価は「凡作」というものである。

私は、本作の内容をほとんど知らずに観に行ったのだが、ニュース記事などでは、大ヒット中の『ゴジラ−1.0』になぞらえる評価がいくつか目に入ったので、「大人向け」作品でもあるようだし「原点回帰」ということなのだろうかとそう思ったのだが、一一そうではなかった。

(「原点」とか「最恐」とか言うほどのものではない)

本作が、『鬼太郎−1.0』的な作品であるとすれば、それは文字どおり『ゲゲゲの鬼太郎(墓場鬼太郎)』の「前日譚」ということであり、「鬼太郎は、どのようにして生まれたのか(それまでの経緯)」を描いた「オリジナルストーリー」である。

(原作『墓場鬼太郎』より鬼太郎誕生のシーン。母の墓から這い出す鬼太郎)

したがって、主人公となるのは、のちの「目玉おやじ」で、本作中では「ゲゲ郎」と呼ばれることになる「幽霊族の男」。それに、のちに鬼太郎を墓場から拾って帰って、育ての親となる人間「水木」の、二人だ。本作は、この二人が活躍する物語である。

ちなみに、この「水木」は、もちろん『ゲゲゲの鬼太郎』の原作者「水木しげる」を思わせるように名付けられたキャラクターだが、漫画家でもなんでもない「会社員」だがら、「水木しげる」その人ではない(隻腕でもない)。
「水木」は、「水木しげる」と同世代だから「戦争体験」があり、「水木しげる」と同様に「理不尽な軍隊経験」をしたという設定になっている。
だが、その後の方向性は、真逆と言っても良い。要は、戦後復興とそれに続く高度経済成長期のサラリーマンらしく、「水木」は「仕事バカ」の「出世バカ」になったのだ。軍隊体験に学んだ「弱い者が食い物にされる現実」に対し、自分が「食う側」に回ろうと考えた。そしてその意味において、世の流れから少し外れたところで、売れない漫画家になった「水木しげる」とは、決定的に違っていたのである。

この「水木」が、どうして「仕事バカ」の「出世バカ」であることを止め、「鬼太郎の育ての親」になったのかの理由が、本作で描かれている。したがって、このあたりも当然のことながら「オリジナル設定」ということになるわけだが、こうした「オリジナル設定」の「妥当性」が、作品評価のポイントとして、問われなければならない。

また、本作が『鬼太郎−1.0』的な作品であるとすれば、それは昨今の「昭和レトロブーム」に竿差す作品だという点もあろう。
『ゲゲゲの鬼太郎』の「前日譚」を描こうとすれば、おのずと「昭和」を描かずにはいられない。とは言え、本作は「今の時代」に竿差して、積極的に「昭和感」を出そうとしているのは明らかだ。
だが、それで「昭和」が「描けているか」と言えば、昭和の人間としては「描けていない」という感じが強い。もちろん、こうした評価は人それぞれで、私と同年代の人でも「昭和感が出ている」と評価する人もあるだろう。だが問題は、そうした「印象」の根拠が奈辺にあるのか、ということになろう。

たしかに本作は、冒頭から「紫煙にくもる会社のオフィス」から始まって、「戦後の経済的復興」至上価値とする「会社人間」の「出世主義」が描かれ、まだ残っていた「汽車の旅」で、同じくまだ残っていた「田舎の素封家一族」などが描かれて、レトロな「昭和感」を出してはいる。
だが、これらの「昭和的要素」は、「昭和レトロブーム」が基本的には「ノスタルジー」に彩られた「幻想」でしかないのと同様に、本作では、それとは真逆に(風景などは別にして)「昭和の美しくない部分」だけが強調的に採り上げられており、その意味では本作の「昭和感」もまた「偏頗な幻想」でしかなく、しかも「昭和レトロ」よりもさらに「自覚的な幻想」である。

では、なぜ「昭和の美しくない部分」だけが、自覚的かつ強調的に採り出されたのかといえば、それはそうした「人間的欲望」を、本作では「悪役」に配したからである。
「金銭欲」に塗れ「権勢欲」にとり憑かれた人間が、幽霊族や妖怪を「暴力的に搾取している事実」を知り、「ゲゲ郎と水木」は、それと闘う。それが本作の基本線である。

なお、「ゲゲ郎」は、失踪した妻を探しているという設定で本作に登場し、その「ゲゲ郎の妻」も、囚われの「幽霊族」の一人であることが判明して、その解放のために「ゲゲ郎と水木」は「悪の人間一族・龍賀一族」と闘うということになっているのだ。

龍賀本家の家族・例外的に善人もいる)

 ○ ○ ○

さて、ここで本作の「あらすじ」を紹介しておこう。

『昭和31年。鬼太郎の父であるかつての目玉おやじは、行方不明の妻を捜して哭倉村へやって来る。その村は、日本の政財界を裏で牛耳る龍賀一族が支配していた。血液銀行に勤める水木は、一族の当主の死の弔いを建前に密命を背負って村を訪れ、鬼太郎の父と出会う。当主の後継をめぐって醜い争いが繰り広げられる中、村の神社で一族の者が惨殺される事件が発生。それは恐ろしい怪奇の連鎖の始まりだった。』

「映画.com」・『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

簡単にいうと、本作は「会社員」として成り上がろうとしていた「水木」が、自社の大きな取引先企業「龍賀製薬」の、龍賀一族の当主が死んだと聞いて、次期当主に取り入ろうと、一族の住む僻村での葬儀へと赴くところから始まる。そこへ謎の人物「ゲゲ郎」が絡んだところで、「龍賀一族」の跡目争いと見られる「連続殺人事件」が発生する。
そうした中で、龍賀製薬の「謎の血液製剤」の秘密が徐々に明らかになってゆき、その真相のあまりのおぞましさに、「水木」は出世主義の考えを改め、「ゲゲ郎」と協力して、監禁され搾取されている、「ゲゲ郎の妻」を含む「幽霊族」の解放に奮闘する、というお話である。

(「ゲゲ郎」こと鬼太郎の父と、酒を酌み交わす「水木」)

なお、「龍賀一族」が、「幽霊族」を支配できたのは、彼らが「裏鬼道」と呼ばれる「(道を誤った)霊能力者集団」を使役していたからで、この「裏鬼道」が、妖怪「狂骨」を封じてその力を利用し、「幽霊族」を閉じ込め搾取していた、という構図である。

「鬼道」がどういうものを指すのかは諸説はあるものの、ひとまず「鬼=霊」を操る術だと考えていいだろう。その意味では「(日本)仏教」の多くが「鬼道」の一種だし、「悪魔祓い」をするカトリック(キリスト教)もまた「鬼道」の一種だと考えて良い。
ただ、いずれにしろ「鬼道」というのは、「霊の平安」のためのものであり、その意味で「世の平安」のための「霊術」であって、「霊=鬼」を支配し利用するためのものではない。「私利私欲」のためのものではないのだが、その本来の「道」から外れた一派だからこそ「裏・鬼道」と呼ばれているのである。
彼らの正装は、基本的には「山伏(修験道)」的であり、そこに「陰陽術」的なもの、あるいは「真言密教」的な「超能力」性が加わったものだと考えればいいだろう。
つまり、元来は「世の平和と調和」を希求するための「術」だったものが、人間の欲によって道を踏み外し、暴力的になったものが「裏鬼道」と呼ばれる邪悪な「術者」たちだと、大筋このような設定である。

 ○ ○ ○

さて、本作の「あらすじ」と「設定」をおおむね紹介したところで、本論の要となる点について指摘してしまおう。

本作の弱点は、「昭和もどき」だとか、「『犬神家の一族』もどき=横溝正史もどき」だとか、とって付けたような「『呪術廻戦』もどき(のアクションシーンがある)」だとかいった、寄せ集め的な要素のあれこれにあるのではない。
そこに、目を奪われると、本作が隠している「昭和史の重大問題」から目を逸らされることになる。

評論家などならそれに気づいていても、しかしそこに触れるのは「なにかと不都合」だからと「忖度」した結果として、誰も指摘していない点について、私はここで、あえて指摘しよう。

戦争に絡んだ商売で、巨万の富を築いた「龍賀一族」によって囚われの身となり、文字どおり、その「血」を搾取されていた「ゲゲ郎の妻」を含む「幽霊族」とは、現実においては、「強制連行」によって働かされた「朝鮮人徴用工」「従軍慰安婦」の「暗喩」と理解すべきだということである。

(韓国最高裁に向かう朝鮮半島出身の元労働者ら)
(水木しげるの描いた「従軍慰安婦」)

「龍賀一族」が「日清日露戦争」で財を築いた「死の商人」であり、その意味でこの一族は「悪しき日本」としての「帝国主義日本」を象徴するものだと考えるならば、太平洋戦争(第二次世界大戦)時、日本の「占領統治下」にあった「朝鮮」や「朝鮮人」というのは、「龍賀一族」によって「血液製剤」を作るために拘束され、その「生き血」を搾り取られた「幽霊族」と、完全に重なる存在だと言えるだろう。

だが、本作の制作関係者は、誰もそんな「機微にふれる話」などしないし、まして本作を絶賛するお客さんの方は、そんな連想も働かないほど「歴史に無知・無関心」である。

しかし、ここにこそ「封印された者たちの怨嗟の声」を聞かないでいて、「水木しげるの戦争体験」を、そして「水木しげる」その人を、理解したとは言えないのではないだろうか。

ところが、本作では「汚い人間的欲望と汚れない幽霊族」という、わかりやすい「善悪の二項対立」が前面に押し出され、観客は「幽霊族」の側に同情することで、「人間」であるはずの「お見物衆」が、無難に免責されてしまう。
「金儲け一辺倒の欲の皮をつっぱらすのは良くないよね」などと、犠牲者である「幽霊族」に同情して見せたところで、そんなものは「資本主義的な貪欲」の手のひらで、いいように転がされているだけの、無自覚な「現実逃避」でしかない。
本作を絶賛して「それでおしまい」であったり、それで「良き理解者」になったつもりの人々というのは、先の戦争時に南京陥落提灯行列に加わった「愚かな大衆」を、一歩も出ることのない人たちなのである。

(日中戦争時の国内状況を報じた記事 ・『防長新聞』昭和12年12月12日)

彼らこそが、映画やオリンピックなどの「娯楽作品」に、「勇気をもらった」とか「感動した」などと、安易に言える人たちなのだが、彼らはそれらの作品が、「弱者からの搾取によって作られた、魔法の血液製剤」みたいなものだというのが、ぜんぜん理解できないし、その痛みを理解しようともしない人たちなのだ。

今や「権威」となった「水木しげる」を、そんな調子で称賛していれば、オマージュを捧げてさえいれば、それで「水木しげるの魂」をうけ継いだことになるとでも思うのか?

水木しげるを殊更に「偶像視」するつもりはないけれども、しかし、「水木しげる」ファンだとか、『ゲゲゲの鬼太郎』ファンだとかいうのであれば、少しは「虐げられた者たち=闇に葬られた者たち」のことにこそ、想いを致すべきなのではないのか。

だが、「昭和史」について、ろくに興味もない人間が、本作を観て「昭和」がどうだとか知ったかぶりで語るというのは、いかにも片腹痛い。

なぜ、何度もテレビアニメ化された『ゲゲゲの鬼太郎』の主人公・鬼太郎が、最初の頃は「理想主義」的で、ある意味「熱血的正義漢」であり、かつ「人間的なユーモア」を持っていたのか。
それがどうして、徐々に「クール」な性格へと変わっていったのか。なぜ、人間との距離を取る存在になっていったのか。

それは無論、「人間への信頼」が薄れていく一方の世相を、そのまま反映しているからである。
その昔、特撮テレビドラマ『ウルトラセブン』「人間とは、守るに値する存在なのか?」と厳しく問われたことが、『ゲゲゲの鬼太郎』でも、問われざるを得なくなってきたために他ならない。

ならば、私たちが「今ここ」で取り戻すべきは、「戦争の裏側」を見て人間に絶望した「水木しげるの原点」や、その反動としてではあれ、「人間性」を信じようとした「昭和の理想主義」なのではないだろうか。

そうした「理想主義」は、本作において「平和主義の幽霊族」が、「人間的な貪欲」を象徴する「龍賀一族」によって、蹂躙され支配されていたように、あるいは「勝ち目のない戦い」なのかも知れない。
けれど、それでも「妖怪あるいは幽霊族と人間の間に立って=理想と現実の間に立って」、その「矛盾」を引き受けて闘うのが、「鬼太郎」ファンの採るべき立場なのではないのか。

勝ち馬に乗りたがる「人間的な欲望」という「バケモノ」に、疑いもなく追随して支配されるような醜態は、そろそろやめにしようではないか。


(2023年12月13日)

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