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大沼保昭 『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』 : バランスにおける 〈支点の問題〉

書評:大沼保昭『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』(中公新書)

本書では、

・第1章「東京裁判」
・第2章「サンフランシスコ平和条約と日韓・日中の「正常化」」
・第3章「戦争責任と戦後責任」
・第4章「慰安婦問題と新たな状況」

において、十五年戦争とその後をめぐる、個々の「責任の取り方」の問題を具体的に扱い、

・第5章「二十一世紀世界と「歴史認識」」

で、著者の考えのまとめと、今後の世界における同種の問題についての展望が語られている。
それぞれの問題に関する著者の見識は確かであり、たいへん密度の濃い一書になっていると高く評価できよう。
その上で一点、本書の特筆すべき特徴をあげるならば、それは著者の「バランス感覚」であろう。

本書のサブタイトルが「対立の構図を超えて」となっていることからもわかるように、「理想と現実」「理念と行動」における、その「バランス感覚の重視」において、著者の自覚は際立っており、そのために多くの読者の共感を得ることにもなっている。

しかし、それにもかかわらず、著者自身「語り手のあとがき」などでも触れているとおり、著者のこうした「バランス感覚」に対し、本質的な疑義を表明する立場の人も、すくなからず存在するようなのだが、それはいったい、なぜなのであろうか。

著者は長年、その学問的研究と社会的実践(運動)において「戦争責任と戦後責任」の問題に取り組んできた人物なのだが、そうした過程で、しばしば煮え湯を吞まされる思いをさせられた相手として、「イデオロギー優先の左翼運動家」を強く意識するようになったようだ。

著者はもともと「左翼リベラル」と言ってよい人物であり、その「敵」として、当初、意識されていたのは、当然のことながら、歴史的事実を直視せず、自国の戦争責任を回避することしか考えていないような「一部の保守派」や「歴史修正主義者」の類いであったと言えよう。
著者にとって、こうした人たちは、初手から「論外な存在」として、心理的には切り捨てやすい存在だった。

ところが、著者と同じように「被害者の側に立って、過去の過ちを正そうとしている」はずの「左翼」が、例えば、著者が参加した「アジア女性基金」などの「具体的な弱者救済活動」の脚を引っぱるという、想定外の現実に直面して、著者は我慢ならない苛立ちを覚えたようである。
無論これは、人間の心理として理解しやすいところで、「愚かな敵」よりも「愚かな身内」の方が、足手まといで扱いに困るし、気持ちとしては「獅子身中の虫」のようにさえ思えるから、苛立ちもひとしおなのだ。
そして、その結果、著者の立場は、「右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の絡み合い」だとしか思えない、「中庸」的なものと自覚されるようになったのであろう。

著者のこうした気持ちは、決してわからないものではない。だが、こうした問題に、元来「中庸」など無いのではないだろうか。

著者は、「理想と現実」「理念と行動」の両立が大切だと考え、それを実行に移した結果、今のような立場にある。
しかしながら、「理想と現実」にしろ、「理念と行動」にしろ、それらはもともと「別物」であり、もとより両立などできない「両極的」なものなのだから、それでもそれを一体的に両立させようとすれば、左右の角を矯めたような「中途半端」なものとならざるを得ないというのは、言わば自明の理であろう。事実、著者自身もなんどか「すべての人が満足いく方法や答などない」という趣旨のことを語ってもいる。

しかし、それならばなぜ「いろいろな立場がある」と考えてはいけないのだろうか。なぜ「両立」が必要であり、その結果としての「中庸」を、誰もが引き受けなくてはならないのだろうか。

たしかに「両立」できれば、それに越したことはないし、それができると思う人は、その道を選べばいい。その結果として、不本意な「中庸」的立場となろうが、それはそれでしかたがない。
しかし、すべての人がそうした立場や方法論を選ばなければならないという道理はないだろう。つまり、事柄の本質を問うて突き詰める「理念的立場」に徹するのも良ければ、また「弱者の実利」に重きをおく現実主義的行動主義の立場に徹するのもそれはそれで良いし、必要なことでもあるのではないだろうか。

というのも、人には、いろんな価値観や世界観があって、その立場がある。その結果、それぞれに重きをおくところも、おのずと変わってくるのだから、それを『「理想と現実」「理念と行動」の両立が大切』だという理由で、一律に「両立」主義的立場を求めることが、はたして正しいと言えるのか。著者の言葉でいえば、「俗人」における事の進め方として、はたしてそこに無理は無いのだろうか。

私が思うには、もちろん「両立」が理想ではあるけれども、その一方でそれは、「中途半端」や「共倒れ」の危険性を孕むものでもあろうから、そうした危機を回避するための安全装置としても、「理想主義」的な立場と、「実利」的な立場という、「両極」もまた必要なのではないか。この三者が綱引きをしてバランスを取り合う中で、人間社会は健全に働くのではないだろうか。

しかし、著者の場合は、自分の立場が、これらの三者を一人で兼ねているような感覚にとらわれているのではないか。
まただからこそ、三者の鼎立を尊重するのではなく、左右の二者を切り捨てるかたちとなり、結局は「理想を語りながらの現実追認的な立場(「口は理想、行動は実利」というダブルスタンダード的折衷)」に落ち着いてしまうのではなかろうか。

著者が、現在のような立場に立つことになったのは、たぶん、著者の昔の立場が、極端に「理念的」なものであり、そうでありながら、そのことに無自覚なまま「実利を求める行動」に手を染めたからではないだろうか。
「こうした理想を掲げての行動が、素晴らしい結果を生まないはずがない」という、ある種の「ナイーブな理想主義」が、現実の前に頓挫した時、自己の「ナイーブな理想主義」という無自覚な内面を「他者」に投影して、そこに自身の失敗の責めを転嫁することで、自身を救出し、免責してしまった、ということなのではなかろうか。

人が「理想的な立場において行動する」ことを目指すというのは、まったく正しいことではあるのだけれども、しかし、現実には人は、それを十全に実現できない「不完全」な存在であるという自覚もまた、その一方で必要であろう。
自分が「理想的な立場」に立っていると思えば、右も左も、前も後ろも、多かれ少なかれ「間違った立場」に見えるだろう。しかし、もともと人は「完全に正しい立場」になど立ち得ないのだという意識があれば、左右や前後に「違った立場の人」のいる必要性も認められよう。
もちろん、著者の言うとおり、物事の是非善悪は、忌憚なく論じられ、相互に修正し合わなくてはならない。つまり、無条件に「何でもあり」だというわけでは無論ない。だが、それは「お互い様」という大前提あっての話なのである。

著者も書いているとおり、誇りある人間であるならば、認めたくない過ちでも、勇気を持って認め、謝罪すべきは謝罪しなければならない。と同時に、それをするからこそ、一個の尊厳ある人間として、誰に対しても「対等の立場」で発言ができ、批判反論もできるのである。

だが、何を「正しい」とするかは、人それぞれである、ということだけは忘れてはならない。
もちろん、実際の場面では、そんな原理的なレベルの話ではないことの方が多いとしても、突き詰めて「正邪善悪」を考えれば、そう簡単に「正解」など出し得ないのは明らかなのだから、著者のように「自身を、自明の支点としてバランスをとる」というのではなく、いろんな「支点」の存在を認識し、その上で、いろんな立場が担保されなくてはならない。
著者には「極端」に見える人でも、その人の中にも「支点」があって、その人なりにバランスがとられているのだという事実を、見落としてはならないのではないだろうか。

初出:2020年2月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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