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『映画 HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』 : 〈想い出〉を抱きしめて

映画評:『映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』(東映アニメーション)

「プリキュアシリーズ」15周年記念作品。放映中だったシリーズ第15作『HUGっと!プリキュア』と、シリーズ第1作『ふたりはプリキュア』を中心としたクロスオーバー作品であり、テレビシリーズの歴代プリキュア55人全員が出演した、文字どおり「オールスターズ」の「メモリーズ(想い出)」をテーマとした作品である(Wikipedia)。

『HUGっと!プリキュア』テレビシリーズ本編のテーマが「未来への希望」ということに集約されるとすれば、本作は、それとは対をなす「今を支える過去(想い出)」ということになるだろう。その意味で、本作はテレビシリーズ本編と対応した、テーマ性のしっかりした作品だと言えるだろう。

本編での敵役であるミデンは、歴代プリキュアたちの「想い出(記憶)」を盗み、その能力を身につけてしまうという、とんでもない化物だ。
『HUGっと!プリキュア』の主人公はな(キュアエール)の前に現れた段階で、ミデンはすでに、『ふたりはプリキュア』の二人以外のすべてのプリキュアたちの記憶を奪い、そのことで記憶を失った彼女たちを子供に戻してしまっていた。
ミデンの襲撃を受けた はなたちも、初代プリキュアの二人(キュアブラック、キュアホワイト)の救援もむなしく、はなとキュアブラックだけが、なんとか難を逃れて、仲間たちの「記憶」を取り戻すべく、ミデンとの闘いに挑むことになる。

さて、『HUGっと!プリキュア』テレビシリーズ本編の眼目が、言わば「未来への希望を失った敵役(ジョージ・クライ)の絶望」をいかにして乗り越えるか(癒すか)にあったとすれば、本編の眼目も「想い出を持たないが故の絶望にもがき苦しむ敵役ミデンの絶望」をいかにして癒すか、にあったと言ってよいだろう。
そう。ミデンもまた、ジョージ・クライと同様に、単なる「悪の権化」ではなく、「心に痛みを抱えた存在」だったのである。

ここで、ミデンの正体を明かしてしまうと、彼は「一度も撮影することのないまま打ち捨てられた高性能カメラ」の化身である。カメラは、多くの人々の記憶をとどめることをその使命とし、そんな想い出の数々が、そのまま彼自身の生きた記憶だとも言えるのだ。
だが、ミデンの場合は、そうした記憶を刻むことのない孤独の中にうち捨てられてきた結果、他人の「キラキラした記憶」を奪い、自分のものにすることで幸せになろうとする「孤独な怪物」と化したのだった。

だから、そうした事情に気づいた はなは、寄り添い応援するキュアエールとして、最後はミデンに寄り添い抱きしめて「人の記憶を奪ったって、幸せになんかなれない。だから、これから私たちとたくさんの想い出を作っていこう」と励まして、ミデンを「不幸な過去」から解放することに成功する。
カメラに戻ったミデンは、はなの手の中でたくさんの想い出を刻みつづける存在となったのである。

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私は、『HUGっと!プリキュア』テレビシリーズ本編についてのレビュー「未来をあきらめない!:『HUGっと!プリキュア』論」で、この本編シリーズが、世相を的確に反映した、極めて優れた作品だと指摘した。

『『HUGっと!プリキュア』が製作され放映された、2017年(平成29年)から2019年(平成31年)という時期の世界を、あるいは日本の「現実」(例えば、「負の遺産としての核廃棄物」問題、日本の少子高齢化と経済的行き詰まりの問題、あるいは世界的な一国主義の台頭、あるいはまた、地球温暖化による自然災害の多発など)を知っている大人にとって、プリキュアたちが口にする「未来を信じる」というのは、決して容易なことではないはずだし、むしろそんな言葉は「キレイゴト」に過ぎず、所詮は「子供向け番組の教育的タテマエ」に過ぎない、とさえ考えしまうのではないだろうか。

しかし、この作品の素晴らしさは、それが「キレイゴト」や「子供向け番組の教育的タテマエ」に過ぎないものだとしても、それでもそれは「決して捨ててはならないもの」だということを、渾身の想いを込めて語っていた点である。』

テレビシリーズ本編がこのような作品だったとすれば、それと対をなす本作『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』とは、どのような「アクチュアリティ」を持った作品なのであろうか。

一一 端的に言えば、本作は「歴史の捏造と美化」あるいは「歴史修正主義」の問題を扱った作品だと言えるのである。

ミデンは「自分のものではない記憶=人から奪った記憶」、つまり自分にとっては「偽の記憶=想い出=歴史」によって、自分を偽ることで幸せになろうとした。しかし、偽物は所詮、偽物。

プリキュアたちの記憶でさえそうであるように、たしかに「自分の記憶=経験=過去」というものは、かならずしも「キラキラした記憶=楽しい記憶=他人に誇り得る記憶」ばかりではない。人には語りたくない、自分の中の「弱さ」や「狡さ」や「失敗」の記憶だって少なからずあるだろう。
しかし、そうした「良いも悪いも含めた、すべての記憶」の上で人は成長し、「今の自分」がある。決して「楽しい記憶」「きれいな記憶」「他人に誇るべき記憶」だけで、人は出来ているのではない。

ところが、「良いも悪いも含めた、すべての記憶」に恵まれなかった人は、得てしてそこに「偽の記憶=想い出=歴史」を充填することで、自分が「豊かな想い出を持つ、豊かな人間」であるかのように思い込もうとする。だが、偽物は所詮、偽物なのだ。

「不幸な過去」の隠蔽と「偽の記憶=歴史」による上塗りでは、人は本当の幸せをつかむことはできない。なぜなら、その「記憶=過去=想い出」が「偽物」でしかないことを、誰よりも当人がよく知っているからであり、だからこそ「偽の記憶=過去」にしがみつく者は、「嘘に嘘をかさねる無間地獄」に生きなければならなくなるのである。

だから、それがたとえ「不幸な過去」であったとしても、私たちはその「自分の過去=歴史=想い出」を抱きしめて、むしろそれを力に変えることで、前に向かって生きていかなければならない。そうしなければ、いつまで経っても「不幸な過去」に縛られつづけることになるからである。

「自分の記憶を、未来に向けて生きる力に変える」ということは、「不幸な過去」に縛られ「偽の記憶=歴史」に逃避する人たちにとっては、けっして容易なことではないだろう。
しかし、「前向きになれない=偽の記憶に逃避しつづける」彼らの「弱さ」を受け入れることもまた、決して容易なことではない。私たちはつい「どうしてあなたは、前向きになれないんだ」「逃げてるだけじゃダメだ」と、苛立ちに任せて声を荒げ、彼らを批難することに終始してしまいがちになる。しかし、はたしてそれで、彼らが「救える」だろうか。

本作でも描かれたように、不安に泣き叫ぶ子供たちに手を焼いて、つい怒鳴ったり泣きたくなったりすることもあるだろう。しかし、それでは「不安な子供たち」を救うことはできない。
たしかに、「前向きになれない=偽の記憶に逃避しつづける」彼らの「弱さ」を受け入れることは、容易なことではないのだけれども、しかし私たちがここで忘れてはならないのは、彼らは言わば「幸福な過去=想い出=歴史」を持たない「不安な子供」なのだ、という「他者理解」なのではないだろうか。

現実は「きれいごと」だけでは済まない。しかし、「きれいごと」を失った私たちには「未来」は来ない。
たとえ「不幸な過去=記憶=歴史」しか持たなかったとしても、それでもそれは「未来」にむかって「変えていくことができる」。つまり「輝く未来」を抱きしめて離さなければ、時間はかかろうとも、私たちは必ず「なんでもできる! なんでもなれる!」のである。

本作でも、はな(キュアエール)は、私たちにそのことを教えてくれた。
本当の闘いとは、自分に都合の良い「想い出=記憶=歴史」をでっち上げることではない。「すべての記憶」を抱きしめて、「未来」に立ち向かうことなのだと、彼女はそう語っていたのではないだろうか。

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【補記】
本レビュー中でも言及しているとおり、私はすでに、『HUGっと!プリキュア』テレビシリーズ本編を論じたレビュー「未来をあきらめない!:『HUGっと!プリキュア』論」を公開しているので、併せてご笑読いただければ幸いである。

・ DVD『HUGっと!プリキュア』Vol.1 および Vol.16 のレビュー欄参照

初出:2020年1月25日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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