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今千秋監督 『映画ハピネスチャージプリキュア! 人形の国のバレリーナ』 : 「ヒーローの要件」とは。

映画評:今千秋監督『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』2014年)

「2014年2月2日から2015年1月25日」までテレビ放映された『ハピネスチャージプリキュア!』の番外編的な劇場用長編で、テレビシリーズ後半の「2014年10月」に公開されたのが、本作『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』である。
『ハピネスチャージプリキュア!』は、「プリキュアシリーズ」の『通算11作目にして、9代目のプリキュア』(wiki)にあたり、シリーズ10周年作品という位置付けもなされている。

「プリキュアシリーズ」が第1作の『ふたりはプリキュア』で始まった「2004年」当時、すでに私は、読書を優先するために、意識的にテレビアニメからは遠ざかっていたから、基本的に「プリキュアシリーズ」は視ていない。
朝食時にテレビをつけた際、たまたまやっていれば視るという程度なので、シリーズ全体を通してのテーマ的なものには気づかないまま、「女児向けテレビアニメ」だという軽い気持ちで流していた。

だが、「2018年2月4日から2019年1月27日」まで放映された、シリーズ15作目の『HUGっと! プリキュア』の終了後、ネット上に公開されていた同作の評論記事を読んで、どうやら「かなり重いテーマを扱った野心作のようだぞ」と思い、まずは「YouTube」で視うるかぎりの本編映像を視て、おおよその雰囲気を確認した上で、これはかなり期待できそうだと判断し、ついに中古DVDを購入して、シリーズ全編を一気視した。
そして、その興奮も冷めやらぬなか、すぐに同作の劇場版である『映画HUGっと!プリキュア ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』のDVDも入手して鑑賞。さらに参考資料として、コミカライズ作品などもチェックしたうえで、下の2本のレビューを書いて公開した。

そんなわけで、私がシリーズを通して視た「プリキュア」は、いまに至るも『HUGっと! プリキュア』のみである。

テレビアニメに関しては、シリーズが終了した後、それでも優れて評判の高い作品であれば、その時にDVDで鑑賞するという原則を設けているためであり、また『HUGっと! プリキュア』があまりにも素晴らしい作品だったので、同作を超えるような作品は、そう簡単には作れまいという見込みもあったためだろう。
事実その後、「プリキュアシリーズ」を熱心に追っているわけではない私の耳にまで届くような、きわだって高い評判を博するものはなかったので、結局のところ、『HUGっと! プリキュア』以降のシリーズ作品も「たまに視る」という域を出ないまま、今日に至っている。

ところが先日、『HUGっと! プリキュア』のテレビシリーズを論じた私の「note」記事を紹介した人がいるとの通知があったので、そちらを覗いてみると、なんと『僕が愛読している年間読書人氏のnoteでも、本作(※『HUGっと! プリキュア』)を絶賛していた。10回くらいは読み直した』とあったので、嬉しくも恐縮した次第であった。

しかし、それだけなら、それで終わりだったのだが、この「痴Q」氏による記事「え、「プリキュア」みていないのに女児アニ民を名乗っているのですか!?」を読んでみると、氏も「遅れてきたプリキュアファン」であり、すでにその時点でシリーズが20作にもなっていたため「どれから視れば良いのか」と、あちこちの評価をチェックした、その結果を示したものであったため、同様の思いを抱いていた私も、その内容に興味も惹かれたのであった。

しかし、なにしろこの記事で紹介されている5作品については、記事執筆の段階では、同氏自身が未鑑賞であり、あくまでも「評判」に基づく間接的判断だったので、私もこれだけで、すでに鑑賞ずみの『HUGっと! プリキュア』を除く他の4作(『ふたりはプリキュア』『Yes!プリキュア5』『ハートキャッチプリキュア!』『ハピネスチャージプリキュア!』)を、シリーズを通して視ようという気にまではならなかった。

ただ、「痴Q」氏の記事で私の目を惹いたのは、『ハピネスチャージプリキュア!』を紹介した、次の部分だった。

『「プリキュア」シリーズの11作品目!
記念すべきプリキュア10周年作品…なのだが、自分はこのあたりからニチアサを見なくなってしまったので、この作品から完全初見になる。…というわけでもない!
実は、この「ハピネスチャージプリキュア」に関しては、劇場版にあたる「人形の国のバレリーナ」を見たことがあるのだ!本編は見たことないのに…
この映画は、「プリキュア」という存在に対する痛烈なカウンターのような作品だった。救うものと救われるもの、その非対称性をはらんだ構図への告発。ヒーローの欺瞞と宿痾。正直、この映画を見るまでにきちんと「プリキュア」シリーズを履修しておけばよかったと後悔したし、同時にこの映画のおかげで「プリキュア」シリーズをちゃんと見よう!と思えた。』

なかなかテレビシリーズを通して視ようとまでは思えなかったが、劇場版だけだったら容易なことだし、見てのとおり「痴Q」氏は『この映画は、「プリキュア」という存在に対する痛烈なカウンターのような作品だった。』と書いて、そのテーマ性の強さを指摘している。さらに『この映画のおかげで「プリキュア」シリーズをちゃんと見よう!と思えた。』とまで書かれていたので、この劇場版を視ることにしたのである。

ちなみに、こう決めたので、「痴Q」氏の上の記事のコメント欄に、その旨コメントしたところ、同氏から、

『なんと、「人形の国のバレリーナ」に興味を示してもらえるとは…
本作は、年間読書人氏の孤高のヒーロー像とは多少ずれますが(というかプリキュアは”連帯”のヒーロー?)、それでも刺さるものは多いと思います。

以下に、私お気に入りの「人形の国のバレリーナ」評も載せておきます。
興味があれば、是非ご一読を…(当然ネタバレ全開です!)

kqck氏
・『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』(2014)観た
https://note.com/kksk/n/n3a10209720e4

ティッシュ専用ゴミ箱2氏
・プリキュアで描かれた「障害」と介入について。あるいは、「理解できない他者」と共にあること。
https://note.com/siteki_meigen/n/n30021f3ebedd 』

ということで、同映画版についてのオススメ記事もご紹介していただいたので、映画本編を鑑賞した後、この2本の記事についても一読させていただいた。

つまり、下の「作品評」については、作品そのものから感じたことや私個人の評価は無論のこと、2本の記事の執筆者であるお二方の問題意識に対する「応答」という部分も多々あるものになると思うので、あらかじめ記して、感謝申し上げておきたいと思う。この2本の記事を読むことで、私の読解は、確実に深まっただろうからである。

 ○ ○ ○

さて、本作『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』だが、あらすじは次のようなものである。

『めぐみたちが保育園で人形劇を披露していたときのこと。突然その中にあったバレリーナの人形がしゃべりだし、「王国を救ってほしい」と告げる。つむぎというその人形の少女に連れられて、めぐみたちは人形たちが住むドール王国へと向かい、そこにいた王子のジークに招待され、城での舞踏会を楽しむことになる。

そうしたなか、めぐみはつむぎの様子がおかしいことに気づき、何があったのか聞こうとする。一方ジークに一目惚れしたひめは、ジークとの恋の予感を感じていたのだが、その最中にサイアークが襲撃、謎の男・ブラックファングによってつむぎは囚われの身となってしまう。そして王国に隠された悲しい秘密を知っためぐみたちプリキュアはつむぎを、王国を救うためブラックファングに立ち向かう。』

以上は、ほとんど「導入部の紹介」に過ぎす、これだけでは本作の中身はまったく窺い知れないので、本作のテーマに関わる部分を、以下に紹介したいと思う。

【※ 当「劇場版」未鑑賞の方は、筋を明かしますので、ご注意ください。】

上に紹介した「導入部」というのは、オープニングタイトルが出た後の、実質的な物語の「導入部」なのだが、タイトル以前には、次のような、重要な挿話が描かれている。

プリキュアの活躍を報じるテレビニュース。一一『ハピネスチャージプリキュア!』の世界では、悪の地球外国家「幻影帝国」が地球の征服をたくらんで、世界各国に攻勢をかけ、それに対して、世界各国に存在するプリキュアたちがこれに対抗している、というものである。
つまり、「幻影帝国」は「宇宙からの侵略者」であって、他のシリーズのような「地球内の秘密組織」というわけではない。したがって、プリキュアの活躍は、「戦争報道」と同様に、日々報じられており、「幻影帝国」の存在は無論、プリキュアたちの存在も、全世界の人々に周知の事実であった(もちろん、プリキュアの正体だけは秘密だが)。

(下は、プリキュアの活躍を報ずるテレビニュース。右上は、バレエをするつむぎの写真)

で、日本では、キュアラブリーこと愛乃めぐみらの4人が、日本を守って戦っており、それがテレビ報道されていた。
この4人の中心人物であるキュアラブリーの口癖は「しあわせハピネス!」で、彼女は『自分がハピネスなら周りもハピネスという思考を持つ』(wiki)明朗快活な少女であった。

ところが、ぬいぐるみなどの人形に囲まれたベッドの横で、そのテレビ報道を視ていた寝巻き姿の少女つむぎ(織原つむぎ)は、テレビを切ると「みんな、幸せ…? わたしは…ぜんぜん幸せなんかじゃない…」と、人形を抱きしめて、涙をこぼす。
そして、そんな彼女の部屋あった姿見(鏡)に不思議な男の姿が映り、「幸せになりたいか、つむぎ? おまえの願いをかなえてやろう」と言い、誘うように手が差し伸べられると、つむぎはその手を取ってしまうのであった。

じつは、彼女はバレリーナを目指していたのだが、ある日、原因不明の両脚の痺れによって、バレリーナの夢が絶たれて絶望し、家に引き篭もるようになっていたのだ。
だから、いくらプリキュアが頑張って「幻影帝国」を倒したところで、彼女の病を癒す能力がない以上、プリキュアでも彼女を救い、幸せにすることはできないと、つむぎは、そう言いたかったのである。

さて、ここで「種明かし」をしてしまうと、プリキュアたちが助けを求められて向かった異世界の「人形の国・ドール国」とは、じつは、つむぎを誘惑した「幻影帝国」の幹部ブラックファング(鏡に現れた男)の作ったものであり、これはプリキュアたちを捕えるための罠だったのである。
プリキュアたちに救援を求めたきた女の子の人形の正体はつむぎであり、ブラックファングの指示に従った彼女が、プリキュアたちを騙して誘い出したのだ。

では、なぜつむぎはブラックファングの言いなりになってプリキュアたちを騙したのかというと、ブラックファングが作った「人形の国」では、つむぎの脚は自由に動き、好きな踊りを踊ることができたばかりか、この「人形の国」では、つむぎが大切にしていた人形たちも意志を持って生きており、自分たちを愛してくれたつむぎの親友として仲良く暮らしていたからである。引きこもりのために友人を失い、孤独になっていたつむぎには、友情を持って話しかけてくれる人形たちが、さらに大切な存在となっていたのだ。だから、つむぎは、自分のために作られた、この「人形の国」を、どうしても失うことができず、ブラックファングの指示に従うしかなかったのである。

一一このあと、お話としては、「罠に嵌められたプリキュアたちは窮地に立たされ危機一髪になるものの、キュアラブリーや人形たちの励ましによって、つむぎは「他人を犠牲にしてまで、自分が幸せになろうとしても、幸せにはなれない」ということに深く気づいて、その意識の覚醒のよって形勢が逆転し、ブラックファングを倒すことになる。

そして、プリキュアたちと共に現実の世界に戻ったつむぎは、じつはブラックファングが彼女にかけていた魔法から解放されたため、脚も動くようになり、めでたくバレリーナを目指すのであった」ということになる。

つまり、本作のテーマは、「ヒーローは、すべての人を救えるわけではない」ということであり、それが従来の子供向け番組では「誤魔化されていた」という事実の、批評的な指摘である。
はたして、プリキュアは、この「現実」にどのように立ち向かうのか、ということなのだ。

本作の主人公であるキュアラブリーは、「前向きで明るい性格」なので、基本的には「救われない境遇にある人々」の「絶望の深さ」というものを、さほど深くは理解していないし、そもそも彼女たち自身が、まだ「14歳」の子供なのだから、そんなことに気づかないのは、当然であろう。

だから彼女は、ある意味で「能天気」に「しあわせハピネス!」なんて言葉を口癖にし、『自分がハピネスなら周りもハピネスという思考』を持っているのだが、そんな彼女は、つむぎから「プリキュアにも救えないものがあるという事実」を知らされると同時に、そんなことにも気づかないまま「みんな幸せになれる」などと確信し、そんな言葉を無闇に口にするということが、いかに「救われない境遇にある人」たちを傷つけるものなのかということを「告発」的に告げられて、深く落ち込むのだ。

したがって、キュアラブリーが、この「現実的な問題」をどのように考え、どのように対処するのかが、本作で問われている部分なのだが、その回答は、じつのところ、いささか曖昧なものとなってしまっている。

(1)他人を犠牲にして、幸せを求めても、幸せにはなれない。(※ この問題については、別稿[でも論じている)
(2)一人では無理でも、仲間と力を合わせれば、打開できない問題はない。

と言ったようなことが語られ、最終的にはそれに、つむぎが同意することで、この難問が解決されたかのような印象を与えるのだが、結局のところそれは「気の持ちよう」ということでしかなく、「現実問題」そのものが解決されるわけではないのだ。

そのためか、「痴Q」氏が紹介してくださったレビューで、「kqck」氏も指摘なさっていたとおり、結局のところ本作は、最後には「呪い」も解けて、つむぎの脚が動くようになって「めでたしめでたし」という、あまり褒められない解決をつけてしまっている。
子供むけの作品としては、つむぎの脚は治らないままで、「しかし、つむぎは新たな希望を持って生きるようになれた」というような「抽象的な解決」では済ませられなかったようだ。それでは、子供には「解決」には見えず、説得力がないと危惧されたからかもしれない。やはり「目に見えるかたち」で幸せにならないと、問題が解決したとは思ってもらえないと考えたのかもしれない。

しかし、どう考えても、この「脚が治った」という「ハッピーエンド」は、「ヒーローは、すべての人を救えるわけではない」し、当然のことながら「プリキュアにも救えないものがある」という「難問」への回答にはなっていない。
実際のところ、脚の動かない人が、めでたく動くようになるなどという「幸運な奇跡」は、単なる「幸運」であって、積極的に意志された「能動的解決」ではないからである。

したがって、本作は、「子供向けヒーロー番組」が隠し持っていた「難問」に挑戦したという意味では、意義のある作品だったとは言えるのだが、その「結末」は、本質的な「解決」からは遠く、あまり褒められたものにはなっていないため、点数をつければ、せいぜい「80点」といったところだろう。

もっとも、こうした「辛い評価」は、同作の5年後の作品である『HUGっと! プリキュア』などで、そのテーマがさらに深められているため、それに比べれば「見劣りする」といったことだとも言えよう。言い換えれば「当時としては、挑戦しただけでも大したもの」だと、その歴史的意義を高く評価されて然るべき作品なのかもしれない。
しかしながら、『HUGっと! プリキュア』を知っている者の目には、「詰めが甘い」という印象は、どうにも否み難いのであった。

 ○ ○ ○

しかし、ならば「ヒーローは、すべての人を救えるわけではない」し、当然のことながら「プリキュアにも救えないものがある」という「難問」を、どう考えればいいのだろうか。

村枝賢一 (著)・石ノ森章太郎 (原著)『仮面ライダーSPIRITS』第1巻より)

それを真正面から考えるためには、このテーマから「ヒーローは」「プリキュアは」といった「主語」を外して、問題を「私たち」自身のものとして考える必要があるのではないか。

つまり、「私たち」の誰にも「すべての人を救えるわけではない」し、当然のことながら、誰にも「救えないものがある」という「難問」として、これを原理的に考えるのだ。
この問題は、単に「子供向け番組」の問題でも「ヒーローものフィクション」の問題でもなく、優れて「現実的」かつ「普遍的」な問題であるからこそ、これは「子供向け番組」の中でも「娯楽フィクション」の中でも、問われる価値のあるテーマなのだと、そう逆転させてみてはどうだろう。

したがって、私はここで、この「テーマ」を、ごく現実的に考えてみたいし、現時点での「私の考え」を明確に語りたい。

私はこれまで、「アニメ」を見てきただけではなく、「文学作品」も読めば「思想・哲学」などの本も読んできたから、当然のことながら、この難問についても、「現実問題」であり「私自身の問題」として、それなりに考え続けてきた。したがって、それなりの「現時点での解答」は持っているのである。
それが「完全正解」ではないとしても、それなりに納得のいく回答として、私は、現にそれに沿って生きている。決して、本作を観て、初めて「考えさせられた=考えた」ことではないのだ。

この「難問」から、あえて目を逸らしているのではないかぎり、これは当然のことなのではないだろうか。この「難問」について、考えたことのなかった人など、一人もいないはずなのだ。
ただ、あまりにも重い「難問」であるがゆえに、多くの人は、そこから目を逸らして、目先の「娯楽」に走り、「現実逃避」してきたということなのではないだろうか? 一一「人形の国」へ逃避した、つむぎのようにである。

あなたが、今いる「そこ」は、はたして「現実の世界」だと、そう胸を張って言えるだろうか?
私たちの「現実」の中には、「ウクライナ戦争」や「パレスチナ問題」や「令和6年能登半島地震」などがあるだけではなく、かねてから飢餓に苦しむ世界中の人々や、障害や難病に苦しむ人々が、ずーっと存在しているのだけれど、私たちは、そんな「現実」を生きていると言えるだろうか?

たぶん、人は「24時間」そんな「現実」と向き合い続けて生きていくことができるほど、強くはできていないはずだ。つまり、多かれ少なかれ「現実逃避」をしているし、しないでは生きられないのではないかと思う。

しかし、問題なのは、私たち個々が、そんな「逃避的現実に生きているという事実」に、どこまで自覚的であるのか、ということだと思う。

つまり、「アニメ」や「オリンピック」や「大谷翔平」に現実逃避するのも、生きるためには必要なことなのだろうが、それが「現実逃避」だという自覚を、どこかで保ち得ているのか否かが問題なのだ。
その意識さえあれば、時に私たちは「現実」に舞い戻ってきて、その「現実」に立ち向かうこともできる。相手を倒すことまではできなくても、「不幸な現実」に対して、自身の実力相応に、パンチや蹴りの一発くらいなら放つこともできるだろう。それだけで、すぐに力尽きて、また「現実逃避」するにしても、その「現実逃避」は、「現実」と闘うための燃料補給でありえるだろう。
つまり、「プリキュア」を視ることで、単に「現実逃避」するのではなく、それを燃料補給とすることで、曲がりなりにも「現実」に「抵抗する」ことくらいはできるようになるのである。

だから、「ヒーロー」ならざる私たちが考えるべきことは、「ヒーロー」や「プリキュア」の姿を通して、「私たち」が「何をすべきなのか」「何ができるのか」という、優れて「現実的な問題」なのだと、私は考える。
だから、ここでは「私の(現時点での)考え」を語ろうと思う。それが、本作『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』への、私の評価ともなりえるはずだからだ。

まず、結論から言ってしまえば、「幸せになる」のは当人なのだから、他人が人を「幸せにする」ことはできない、と思う。
幸せになれるような「環境」を含めた「要素」を提供したり、準備したりすることはできても、当事者がそれを受け取らなければ、その人は幸せにはなれないし、また、受け取ったとしても、それを得た状態が「幸せだと思わなければ、幸せではない」のだ。一一つまり、「幸せ」とは、最終的には「当人(本人)」が自らつかむしかなく、他人は、その手伝いをできるだけで、「幸せを与えてあげられる」などと考えるのは、むしろ傲慢な「勘違い」なのではないだろうか。

もちろん、だからと言って、私はここで「自己責任論」を語りたいのではない。

そうではなく、人が幸せになるには、他人の介入だけではダメであり、なにより本人の「幸せになる」という「意志」が大切であり、それなしには、他人はその人を、決して幸せにすることはできないと、そういうことなのだ。

よく、スポーツ選手などが、自分の活躍を通じて、他の人にも「勇気を与えたい」などと言うが、私は、あの言葉が大嫌いである。「何様のつもりだ」と思うし、より現実的には、それで、他でもない自らが社会的承認を獲、金儲けをしているという、そんな人たちの口にする「綺麗事に過ぎない」とも思う。

それを、わかって言っている者もいれば、脳味噌まで筋肉であるために、自分の言葉の欺瞞性に気づくことができず、テレビなどで垂れ流される「資本主義経済の要請から来る、綺麗事の慣用句」を、「真実」だと思い込んでいるだけなのかもしれないが、いずれにしろ「専門バカ」的に「手前味噌な言葉=自己正当化的な言葉」でしかないと思う。

上の記事「〈勇気〉なんか貰えない。やすい「感動」など無用だ。」で書いたとおりで、「勇気」や「感動」というものは、そんなお安い(易い)ものではない。
この記事の冒頭で私は、

『いまだに、オリンピックのメダリストなんかが「勇気を与えたい」などと言ったりするが、いかにもスポーツ馬鹿らしい、烏滸がましい物言いだ。

また、それを聞いて「勇気をもらった」などと、何も考えずに、条件反射的な言葉を口にする人も少なくないが、それであなたは、どんな勇気を持った人間になったんですか、とお尋ねしたい。』

と書いたが、この気持ちは、今もまったく変わっていない。

一一こう書くと「しかし、現に私は、あの人の活躍に(あの歌の歌詞に)励まされて、頑張ることができた」と言う人もいるだろう。たしかにそうだ。

しかし、この場合、じつのところ「あの人の活躍に(あの歌の歌詞に)励まされ」たと言うよりも、「有名人や有力者といった権威ある存在」に、「自分の中にある願望」を追認された、ということなのではないだろうか。
つまり、「勇気」が、あの人から私に「与えられた」とか「受け取った」ということではなく、「私の中にあるもの」を、権威ある他人の中にも認めて、初めて「自己承認」できた、ということなのではないか。
言い換えれば、もともと自分の中にあったものの自己承認であり、無いものを他人からもらったりすることなど、できないのではないか。それは「与えたりもらったりするもの」ではなく、他人の言動によって、「自分の中にあるものを、自ら作動させた」ということなのではないのか。

だが、こう書いても「どっちだっていいじゃないか。結果さえ良ければ」という人も少なくないだろう。

しかし、この「勇気」や「愛」といったものが、「他人から与えてもらえるものだ」という考え方は、本来、自分の中にあるものを見失わせることにもなってしまい、その結果、常に「他人から与えられること」を期待したり、それがなければ、自分ひとりでは何もできない人間になってしまう恐れだってある。つまり、「主体性」が失われて、自分が「不幸」なのは「必要なものが与えられない」からだと、そう即物的に考えるようになってしまいがちなのだ。

しかし、お釈迦さまであれ、イエス・キリストであれ、そうした人たちが「真の平和」とは、私の「心」の中にある、といった趣旨の「悟り」を語ったというのは、決して伊達ではない。
最終的には、人間は、他人からの「愛」や「勇気」をはじめとした、いかなるものを与えられようとも、それだけでは幸せにはなれない。それが「嬉しい」「ありがたい」と感じる「心」を持っていないかぎり、どんな「莫大な財産」「高い地位」「美貌」「理想的な伴侶」を得たところで、やはり幸せにはなれないのだ。

例えば、あなたは、大金持ちのイーロン・マスクが、並外れて「幸福」に見えるだろうか?
たしかに彼は「恵まれている」。できれば「あんな身分になりたい」とも思う。けれども、彼が「現状に満足している」ようには、とうてい見えない。それはなぜなのか? 少なくとも彼は「満足していない」「足りないと感じている」「充実感に飢えている」ということなのではないだろうか?

これは、例えば、大谷翔平だって同じだ。彼は現状に「満足している」だろうか? 無論、そんなことはない。
私たちにとっては、途方もない「成果」を挙げているにもかかわらず、彼にとってはそれさえ「通過点」でしかなく、すでに「ありがたみのないもの」でしかない。
彼もまた、「彼方にあるもの」に「飢えており」、その意味で決して「満足していない」。そんな「幸せ」とは、本当に「幸せ」と呼ぶべきなのであろうか?
たしかに「理想」が高いというのは素晴らしいことだ。だが、その「理想」とは「縄跳びのギネス記録」「ゲームの対戦記録」等と同等のものだ。ただ、資本主義経済下での「商品価値」が違うだけである。そんな「商品価値」があるからこそ、たしかに「満足はある」という程度の話ではないのか(アボリジニの世界では、野球のうまさと縄跳びのうまさに、さしたる逕庭はないだろう)。

ともあれ彼・大谷翔平も、イーロン・マスクと同様に「現状に満足ができない」からこそ、次の目標に向かって走り続けることができ、その結果として多くの賞賛を得ることもできるのだが、彼が、凡人よりも「幸せ」だと、そう断じることができるだろうか?
彼は、たしかに「羨まれる存在」である。だが、「羨まれる存在」であることが、そんなに重要なことなのであろうか? 貧しくても大過なく平穏な日々を送る無名の凡人よりも、彼の人生は「当人にとって、価値のあるもの」なのだろうか? それは「他人にとっての価値(商品価値的な価値)」を「自分にとっての価値」と思い違いして、それをありがたがっているだけなのではないだろうか?
私の言っていることは「負け惜しみ」なのだろうか? 一一しかし、だとしたら、釈迦やイエスの言ったことも「負け組の自己正当化」だということにはならないだろうか?

例えば、大谷翔平も、いつかは年老いて、野球選手を引退する日が来る。今ほど注目されることも賞賛されることも稼ぐこともできなくなるし、「より高い目標」というのも設定し得なくなる。そのとき彼は、はたして「幸福」なのだろうか?
「歳をとったから、これからは内面の充実を目標としたい」と考えるなら、それがどうして「今」であってはいけないのだろうか? それは「他人の期待に背くこと」だからだろうか? だとすれば、彼はいったい「誰のために生きている」つもりなのだろうか?

例えば、競技選手としての現役を引退したフィギュアスケートの羽生結弦は、かつての大活躍時は、誰にも増して「幸せ」だったのだろうか? また、現役を引退した今は、その当時と比較して「幸せ」だろうか? それとも「体が動かなくなった」分だけ「不幸せ」なのだろうか? 彼の目指したものは、本当に彼本人を「幸福にした」と言えるのだろうか?

例えば、オリンピックで大活躍した橋本聖子は、現役引退後に「政治家」に転身して、女性差別発言で東京五輪組織委員会理事の座を下りた失言政治家森喜朗の子飼いとして、委員会理事の座を引き継ぎ、大臣にもなり、そして「自民党の裏金問題」に連座して恥をかいたのだが、そんな彼女の「アスリート時代の栄光の歴史(過去)」、多くの人々に「勇気を与えた」とされているその活躍は、彼女の人生に、何をもたらしたのであろうか?

このように考えていけば、「勇気を与えたい」だとか「勇気をもらった」とかいった言葉が、いかにも胡散くさいものだと思えてはこないだろうか?

だが、誰もそこまでは考えずに、他人から見た場合の「(自由主義経済下の)社会的な成功」を「幸福」だと信じ、その「社会的な権威」を根拠として、「勇気を与えたい」だとか「勇気をもらった」といった「慣用句」を、ただ「鵜呑みにして信じている=盲信している」だけなのではないか?
しかしながら、そこに、信じるべき「神」は存在するのだろうか? そこに「勇気」はあったのか? そこに「愛」はあるんか?

このように考えていくなら、「勇気」であれ「愛」であれ「幸せ」であれ、それは「受け渡し」のできるようなものではない、と言えるのではないだろうか?
言い換えれば、他者が与えてくれなくても、自分の中に見つけることのできるものであり、自分の中に見つけるという努力のないところでは、他人の力ぞえも、所詮は無力なのではないか。
つまり、私たちにできるのは、「他人を救う」ことではなく、「他人を応援すること」だけなのではないか。そして「友人・仲間」とは、恐れることなく「助けの手を差し伸べる」ことのできる存在のことなのではないだろうか。

『何でもできる!何でもなれる! フレフレみんな!フレフレ私! これが私のなりたい 野々はなだ!』

『HUGっと! プリキュア』第48話より)

だから、「ヒーローは、すべての人を救えるわけではない」とか「プリキュアにも救えないものがある」などというのは、「当たり前の話」でしかなく、なにも彼らの「弱点」や「難点」ではないのではないだろうか?
そもそも、他人が他人を「救う」とか「幸せにする」などという言い方が「傲慢」な勘違いなのではないだろうか? そんなこと、結局は当人次第であり、当人のスタンスにも色々あるのだから、うまくいかないことがあっても、むしろその方が当然なのではないだろうか?

手助けはできるし、すべきであろう。だが、それが結果に結びつくかどうかは、「援助者」だけの問題ではないのである。

私は一昨日、映画評論家の蓮實重彦を批判して、次のように書いた。

『私の場合は、「大半の者は馬鹿だ」と思っていることを隠さず、あいつもこいつも「馬鹿だ」と、根拠を示した上で、そう正直に書くし、(※ シオドア・スタージョンの言葉を引いて)『あらゆるものの9割がクズである。』と書く以上は、自分の友人知人だって、9割はクズだと思っていることを隠さない。だから、「それは違うだろう」と思えば、友人知人でも遠慮なく「批判」する。
例えば、ショートメッセージなどによる個人的なやりとりであっても、「それは違う」と思えばガンガン批判するし、それが非公開のやりとりだからというので、相手がのらくらと誤魔化して、うやむやのうちに引き分けのかたちに持ち込もうなどとしたら「なんなら、このやりとりをぜんぶ公開して、白黒つけようじゃないか」などとやったことも、一度や二度ではないから、私にそのように責められた友人は、私と議論になりそうになったら、さっさと撤退するようになった。
それほど、私は「態度の一貫性」にこだわる人間だということなのだが、蓮實重彦の場合は、それとは「真逆」なのだ。だから、心底、嫌いなのである。

どう「真逆」なのかというと、蓮實の場合、「馬鹿だ」と言っているに等しい相手に対しても、決してそう明確には言わないで、いつでも誤魔化すし、それに止まらず、まるで肯定的に評価しているかの如き、欺瞞的なレトリックを弄することもしばしばなのだ。

つまり、私は、人を「馬鹿だ」と評価しても、その相手を同じ人間だと尊重して、可能なかぎり、正直に自分の評価を表明するのだが、蓮實重彦の場合は、相手を「同じ人間」だとすら見ておらず、相手に対して「誠実であろう」とする気など、毛ほどもない。だから平気で、そういう相手を「騙す」ことができるのである。

で、私はこういう「陰険」さが、大嫌いなのだ。
評価していないのならいないで、正直のそう言えよ、それが相手への最低限の「誠実」であり、人としての倫理だろうと、そう思うから、ニヤけヅラで、平気で「頭の悪い人たち」を騙している蓮實重彦が、ペテン師同様の人種として、嫌悪を禁じ得ないのである。』

また一昨昨日は、黒澤明監督の『蜘蛛巣城』のレビューに、次のように書いた。

『例えば、私がここで「本作を観て、あなたは、この程度のことも分からなかったのか」と言えば、多くの人は「なにを!」と反発を覚えることだろう。それが人間心理というものである。

実際のところ、そんなふうに言われて反発するのは、この程度のことが理解できなかった人である。
理解できていた人は「私のことではないな」と考えるから、感情を乱すことも反発することもなく、私の「挑発的な言葉」をスルーしてお終い。
ではどうして私は、わざわざそんな反発を招くようなことを言うのかと言えば、それは私の言葉を、多くの人に刷り込んで、コントロールするためである。
通り一遍の理解で満足せず、物事をよく考えなければならない、今のままでは馬鹿にされるぞと、そういう強迫観念を持たせて、少しでも頭を使う人を増やそうというのが、私の「狙い」なのだ。

言い換えれば、「本作を観て、あなたは、この程度のことも分からなかったのか」という言葉は、「今日のあなたの運勢は最悪です。だから、行動はくれぐれも慎重に」という「予言」と同じ、「心理学的な呪い」なのだ。
その人が、その言葉を肯定しようと否定して反発しようと、人というのは「言葉」に影響を受けざるを得ない。
特に、反発・否定の場合は、より強く影響を受けているわけだから、表面的にその言葉に従うか反抗するかは別にして、いずれにしろ、その言葉に強く縛られざるを得ない。
「ああしなさい、こうしなさい」と言わなくても、「あなたはこうする」とか「しない」といった「予言」的な言葉は、相手の行動に影響を与える力能を現に持っており、すべての人間は、そうした「言葉の呪い」に縛られざるを得ないのだ。』

これは、どういうことなのかというと、私は、自分にできることとしての「批評の言葉」は、たとえ相手に拒まれたとしても発し続ける覚悟でいる、ということだ。

「痴Q」氏が紹介してくださった2本のレビューの後者の方、「ティッシュ専用ゴミ箱2」氏による「プリキュアで描かれた「障害」と介入について。あるいは、「理解できない他者」と共にあること。」の中で、同氏は、「介入」を喜んでくれるかどうかわからない他人、つまり「理解できない他者」への「介入」について、躊躇しながらも、それが必要だというようなことを書かれているのだが、その点、私には「ほとんど躊躇がない」ということである。

良かれと思って助言しても、誰もが喜んでくれるとは限らない。「余計なお世話だ」と言われるならまだマシで、中には「セカンドレイプだ」などとさえ言われかねないのが、「傷つきやすい」人の多い、今の社会であるならば、同氏の書かれているとおり、多くの人は「介入」を躊躇し、平たく言えば、無難に「関わらないようにする」だろう。

(「障がい者雇用の難しさは「情報不足」と「遠慮」から生まれる。」)

だが、私は、そうではない。私は、自分にできる範囲において、できることをやるだけで、他人がそれをどう受け止めるかなどということを、過剰に「忖度」したりはしない。つまり「ウケ」は狙わないし、読者に「媚び」もしない。
なぜなら、私にとっての「他者」とは、もともと「理解できないもの」であり、「理解できない他者」というのは「同語反復の誤認」だと考えるからだ。一一そもそも「他人」のことなんか、わからないのである。

考えてもみてほしい。他人が「私はこういう人間だ。だから」と言った際に、その「私はこういう人間だ」という「自己規定(認識)」が「正しい」という保証など、あるのだろうか? 単に、その時は「そうなんだ」と思っているだけ、なのではないだろうか?

例えば、私が「若い頃の私は、泣き虫だったが、これは私が人一倍、負けん気が強かったからだろう」という「自己認識」を語った場合、それは本当に「当時の私」のことだと言えるだろうか? 「当時の私」自身がわかっていなかった私のことを、何十年も後の、もはや他人に等しい私が、今の立場から解釈した「過去の私」など、所詮は「解釈学的フィクション」なのではないのか。

だとすれば、「私のことは、私が一番よくわかっている」などと言えるものなのだろうか。
また、当人でさえ、本当のところ「自分がわからない」のに、どうしてそれが他人にわかるというのだろう?
「他者」とは、そもそもそういう意味において「わからない存在」を指していう言葉なのである。

だから私は、他人がどう受け取るかはわからないが、自分が善かれと思ったことを言うのである。「言葉」で(祓詞のごとく)、人を揺り動かすのだ。
それで、相手が「傷ついた」とか言ったところで、それはその人次第なのだから、そこまでこちらが、あらかじめ気にしたところで始まらない。気に入らないのであれば、無視してくれれば良いだけの話なのである。

「物理的な暴力」行使を完全否定し、さらに「言葉による働きかけ」までは否定すれば、それはもうコニュケーションの全否定であり、社会生活の否定だろう。
つまり、かけてくれる言葉の判定権が「言葉をかけられる側」だけにあるとすれば、他人の考えることなど基本的にはわからない以上、恐ろしくて他人に言葉を投げかけることなど、誰にもできないのではないか。

「おはよう」の一言さえ、時と場合によっては「暴力」認定されかねないし、すでに「頑張れ」という言葉は、一部で「暴力」認定されている。
ならば「祓詞」の「振るえ振るえ(震え震え)」も、語源を異にしながらも、「激励」の言葉として使用されている「フレーフレー」も、断りなく口にしてはならない言葉になってしまう。

(『HUGっと! プリキュア』の、キュアエールこと野々はな)

だが、そうした「言葉の受け手による、言葉の独占的な判定権」など、とうてい認められるものではない。それは、言葉を発する側の「配慮」ではあり得ても、他者の言葉を禁ずる資格など、誰にも無いのである。

もちろん、時に「言葉の暴力」と言われるように、言葉には「力」があるからこそ、人を傷つけることもあるだろう。だが、だからこそ、人を励ますこともできるのだ。
したがって、その言葉が「善かれと思って発せられるもの」ならば、それを禁ずる資格は誰にも無いはずだ。なぜなら、「禁ずる」ということや、そんな言葉こそが、何より「暴力」そのものだからである。

一一だから私は、遠慮なく「批判する」し、「助言する」し、「コントロールしようとする」のである。
「批判」や「助言」を受け入れるか否か、他人の善かれと望んだとおりに「コントロール」されるか否かは、所詮、そのひと次第でしかないと考えるからなのだ。

「あなたは馬鹿だ」という言葉と同様で、「コントロールする」といった言葉も、意図的に「刺激的なもの(感化力の強い呪詞・祓詞)」として、私は「憑き物落とし」の意図を持って使っている。
それは、それが嫌なら「あなたが動け(あたな自身が主体的に対応せよ)」ということなのである。
私にしてあげられるのは、そうした「きっかけ」を与えることだけ、揺り動かすだけで、目を覚まして起きあがるのはあなたであり、結局のところ「あなたを救うのは、あなた自身」なのだ。
もちろん、ケガ人を激しく揺さぶったりするのは無知にすぎない。だが、その一方で、車道で寝ている泥酔者に対して「もしもし、起きてください」などと声をかけても、決して目を覚ますことはない。

だからこそ、「ヒーロー」や「プリキュア」は、ただ「善かれ」と判断した上での、「無私の働きかけ」をするのならば、それでもう十分なのである。
その場合の「結果」とは、持ちたくても責任の持てない、「他者の専権事項」だからである。

また、だから「ヒーロー」に必要なものは、他人をどうこうすることではなく、その人が自身を救うために動くであろうという「希望を捨てない」こと、つまり「あきらめない」ということなのだ。「結果」が問題なのではない。

「プリキュアはあきらめない!」

一一これこそが「ヒーローの要件」なのである。



(2024年2月2日)

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