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『HUGっと!プリキュア』論 : 未来をあきらめない!

作品論:『HUGっと! プリキュア』(東映アニメーション)

『HUGっと!プリキュア』は、テレビアニメ「プリキュアシリーズ」の通算15作目にして、13代目のプリキュアに当たる作品で、2018年(平成30年)2月4日から2019年(平成31年)1月27日まで放映された、全49話の東映アニメーション制作作品である。
本作に、15周年記念作品という特別な意味が、どの程度込められていたのかは詳らかではないけれど、結果的に見れば、相当に力のこもった、意欲的傑作となった。

※ 本論考は、『HUGっと!プリキュア』が終了し、さらに次の16作目『スター☆トゥインクルプリキュア』の1年間の放映がまもなく終了しようとしている時点に書かれたものであり、『HUGっと!プリキュア』の「ネタばらし」となる記述もなされているので、未視聴の方は、くれぐれもご注意願いたい。

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テレビアニメである「プリキュアシリーズ」は、『主に3歳から8歳までの女子を中心に人気のシリーズとなっている。』と「Wikipedia」にもあるように、小学校低学年までの女児を主なターゲットとして製作されている作品である。
そのために、大人向け作品であれば許されるような描写(エログロ)などは意識的に排除されているし、主人公たちの考え方も基本的には「前向き」なものとなっている。

もちろん、悪役たちが「悪」あるいは「後ろ向きの感情や思想」を持ち、主人公であるプリキュアたちがそれらと対峙することで、「善と悪」「光と影(=陽と陰)」の物語が成立するとは言え、単独のヒーローではないプリキュアたちが、一様に「真面目で有能な優等生」であるわけではない。
それでは、人間的な彩りのある物語や葛藤を描き出すことができないというのはもちろん、作品中のプリキュアの人数が多くなればなるほど、それぞれの性格的な描き分けのための個性化や差異化が必要となるので、一見したところ、あるいは過渡的に「後ろ向き」っぽい性格のプリキュアも、いないわけではないのだ(例えば、優等生タイプではない、あるいは、自分に自信が持てない性格など)。つまり、このようなメリハリをつけた性格設定が、物語にダイナミックさと多彩さ、それに「テーマ性」をももたらしている。

なお、6作目の『フレッシュプリキュア!』からは9作目の『スマイルプリキュア!』までのプロデュースを担当した、梅澤淳稔は、「プリキュアシリーズ」の基本方針を、次のように語っている。

『「幸せや悪とは何か?というようなテーマを盛り込み、何か感じてもらえるようにしている」と梅澤が語るように、(※ 同シリーズは)親子で楽しめる作品を目指しており、こうしたテーマ性が、大人の鑑賞に耐える内容につながり、親や大人の視聴者が熱心なファンになることもある。こうした大人からの人気があるものの、大人向けのプリキュアを作ることに関しては否定的で、梅澤は大人層からの人気をありがたいとしながらも、これまでと違う視聴者に向けたものを作った場合「子供がこれ(プリキュア)は自分達のものじゃないと気づいてしまう」という危惧が生まれることをあげている。』
 (Wikipedia「プリキュア」)

プロデューサーとしては、バランス感覚に長けた、真っ当な判断であると言えるだろう。

しかし、本稿で論じられる15作目『HUGっと!プリキュア』は、そうした慎重な「自主規制」について、その限界ギリギリの線まで挑んだ作品だとも言える。

と言うのも、例えば、本作の終盤では「男の子もプリキュアになれる」し「老若男女の誰もがプリキュアになれる」という破格の描写がなされるだけではなく、最終回では、大人になった主人公の「出産シーン」が、比較的リアルに描かれたりもするからだ(それ以上のものとして「ある婚姻」が暗示される)。
つまり「プリキュアの理想と思想を語るために必要な描写なのであれば、必ずしも前例の枠内には止まらない」という製作者サイドの意志が、この作品からはハッキリと窺えたのである。

さて、本稿で特に注目したいのは、前記のような、わかりやすい「冒険的な試み」の方ではなく、むしろ意外に見落とされやすい「冒険」の方である。
それは「悪役の論理」の「掘り下げ」だ。

『HUGっと!プリキュア』は、一種の「タイムスリップ」もので、「悪の組織によって時間が止められてしまった世界(未来)を救うために、一縷の希望を抱いて現代(過去)に逃避してきた未来人が、現代の少女たちにプリキュアの能力を与え、その闘いの結果として、絶望的な未来を変えて、未来に希望をもたらそうとする物語」だと要約することができるだろう。

そこで問題となるのが、「未来」の世界(と言っても、十数年ほど先の「未来」だが)において、「時間を止めて、未来を奪った」悪役の設定である。なぜ、彼は「未来を奪った」のか?

通常の子供向け「勧善懲悪の物語」であれば、「悪の組織の首領」の思想というのは、「悪は素晴らしい」「人類の絶望は素晴らしい」というような、およそ「人間の倫理観」とはかけ離れて真逆なものであり、彼は「悪魔的な存在」として設定されることが多い。要は「悪は、理屈抜きに悪」なのである。
ところが、本作に描かれる、悪の(会社)組織「クライアス社」を支配する謎の中年男性(社内での肩書きは代表取締役社長)である「ジョージ・クライ」は、決してそうした「非人間的な悪=人間的価値観に反する悪」を体現する人物ではなかった。

物語の後半で「種明かし」的に説明されるのだが、彼はむしろ「人間を愛するが故に人間に絶望し、人間から未来を奪うことこそが、最良の選択肢だと信じた人物」なのだ。
「人類の将来に待っているものが、不幸な破局でしかないのであれば、今の比較的幸福な時期のうちに、時間を止めてしまったほうが、むしろ人類にとっての幸せである」という「安楽死」是認にも似たものが、彼の思想なのである。

そして、私たち「現実を生きる大人」は、彼のこの「思想」に、並々ならぬ「痛切なリアリズム」を感じることだろう。

『HUGっと!プリキュア』が製作され放映された、2017年(平成29年)から2019年(平成31年)という時期の世界を、あるいは日本の「現実」(例えば、「負の遺産としての核廃棄物」問題、日本の少子高齢化と経済的行き詰まりの問題、あるいは世界的な一国主義の台頭、あるいはまた、地球温暖化による自然災害の多発など)を知っている大人にとって、プリキュアたちが口にする「未来を信じる」というのは、決して容易なことではないはずだし、むしろそんな言葉は「キレイゴト」に過ぎず、所詮は「子供向け番組の教育的タテマエ」に過ぎない、とさえ考えしまうのではないだろうか。

しかし、この作品の素晴らしさは、それが「キレイゴト」や「子供向け番組の教育的タテマエ」に過ぎないものだとしても、それでもそれは「決して捨ててはならないもの」だということを、渾身の想いを込めて語っていた点である。

前述の現実的困難(「負の遺産としての核廃棄物」問題、日本の少子高齢化と経済的行き詰まりの問題、あるいは世界的な一国主義の台頭、あるいはまた、地球温暖化による自然災害の多発など)を考えた場合、プリキュアたちの「輝く未来を抱きしめて」とか「プリキュアは、未来をあきらめない」といった言葉は、どう考えても「非現実」的であり、その意味で「キレイゴト」や「タテマエ」でしかなく、悪く言えば「欺瞞的な空言」だとも言えるだろう。そのような批判の方が、むしろ容易なのではないだろうか。

では、そうした「ジョージ・クライ」的な(プリキュア)批判に対し、「未来」を信じるプリキュア、特に主人公であるキュア・エール(=野々はな)は、どう反論しているだろうか。
彼女の答えは、当然のことながら「具体性を欠く」ものとならざるを得ない。つまり、結論的にまとめるならば「やってみないとわからない」「未来は変えられる」という理屈に行き着くわけだが、私たちはこの反論に満足できるだろうか?

たぶん、出来ないはずだ。なぜなら、たしかに「やってみないとわからない」「未来は変えられる」というのは事実だとしても、例えば、物理的なものとしての地球はいずれ消滅するし、その前に人類は何らかのかたちで死滅するだろう。これを否定することは出来ないはずだ。
つまり、人間が「今のままで、永遠に生き続けること」すらできないのである。したがって、「未来」には「やってみても変えられない」側面があり、「未来は変えられる」と言っても、それは「全面的なものでも本質的なものでもない」ということになってしまい、基本的には、ジョージ・クライの「暗い予想」の方が、むしろ正しいとも言えるのである。

では、「プリキュアシリーズ」、中でも『HUGっと!プリキュア』で強く訴えられている「未来は変えられる」「やってみないとわからない」という言葉は、「嘘」なのであろうか。「嘘」という言葉が強すぎるなら、それは「子供向けのキレイゴトやタテマエ」に過ぎないのだろうか。

そう考える大人は、少なくあるまい。実際のところ「現実逃避的」に考えないかぎり、そうとしか思えないという現実に、私たち大人はさらされ続けており、そのような「夢」や「希望」や「理想」が「現実化」されるとは、とうてい信じられなくなっている。

しかし、それが「未来」において「現実化」されない言葉だからと言って、その「夢や希望や理想」が無意味だと断ずることが出来るのだろうか。
そのように断じて「それならば、不幸な未来など失われてしまった方がマシだ」という「ジョージ・クライ」的な思想の方が「よりマシ」なものとして、支持されるべきなのだろうか。

そうではあるまい。なぜならば、私たちは「未来」を目指して生きつつも、生きているのは「現在」だからで、「現在」を犠牲にしてまで、「暗い未来」に義理立てする必要など、微塵もないからである。
私たちが義理立てすべきなのは、まず「現在」であり、その次に「明るい未来」なのだ。つまり、「明るい未来」のためにならば、「未来の因となる現在」を生きる者の責任として、多少なりとも「現在」の利便を犠牲にすることも必要だろうが、「暗い未来」を予想して「現在」にまで絶望し、「自暴自棄」になるというのは、明らかに誤りだからである。

たとえ、「未来」が「暗い」ものになる蓋然性が高いとしても、私たちは、それに「絶望」して、「現在」をも放棄するということであってはならない。むしろ、「未来」が「暗い」ものと予想されるのならば、私たちはその「因」となっている「現在」を改めなけれなならないし、「未来」の人たち(具体的には、子や孫や、その先の世代の人たち)に対し、その責任を負わなければならない立場なのである。

では、私たちがその困難な責め(責任)を負うために、必要なものとは何か。
一一それが「夢」や「希望」や「理想」の堅持であり、それを具体的な言葉にすれば「未来は変えられる」「やってみないとわからない」「輝く未来を抱きしめて」「絶対にあきらめない」という、プリキュアたちの言葉なのである。

こうした思想は、それでも「甘い」ものなのだろうか。
「甘いよ」と、そう批判するリアリストは、決して少なくはないと思う。

しかし、それならば、そういう人はどのように「現在」を生きると言うのだろうか。
ジョージ・クライのように、「暗い未来」が来る前に、いっそ「未来を消してしまった方が、徒労による苦しみが少なくなる」と考えて、(時間を止めることは出来ないので)「世界の滅亡」を目指すだろうか。

そういう人も、歴史を見れば、幾人かは実在した。いわゆる「黙示録的終末論者」たちであり、それはキリスト教の聖典である聖書に含まれる「黙示録」に描かれた未来を、真に受けた人々だ。
彼らは「終末において再臨した、人類の審判者であるキリストによって、人間は善人と悪人に二分され、神にしたがった善人は天国に、神に背いた悪人は地獄へ、という最後の審判の到来」を信じた、主にキリスト教信者である。
彼らにすれば「自分たち敬虔なキリスト教信者は絶対に救われるのだから、早くその時が訪れてほしい」と考えるのは当然だし、そう考える人の中には、少しでもその日の到来を早めようとする者もいるだろう。そうした者の中には、まさに「神の国が到来して、今のこの世界が滅亡する」ことを本気で望み、行動する人もいたのである。

しかし、そうした宗教的狂信者というのは決して多くはなく、大半の者は「どうせ、暗い未来しか待っていないのであれば、今を楽しく生きればいいじゃないか。あとは野となれ山となれだ」という「現世享楽主義」に陥るだろう。
それでは「子や孫や、未来の人たち」への責任はどうするのか、という問いについては、あえてそんな嫌なことを考えるのは避けるだろうし、他人から、その「無責任さ」を難詰されれば「そんなこと考えても仕方がない。所詮、なるようにしかならないし、先のことまで責任は持てない」というふうな「逃げ」をうつのではないだろうか。

しかし、プリキュアたちが批判し反対するのは、そうした「絶望」に由来する「ニヒリズム」や「シニシズム」であり、それこそが「ジョージ・クライの思想」なのである。

だから、「プリキュアの思想」というのは、何も「テレビアニメ」の中だけにあるものではなく、じつは、この「リアルな現実」の場においても、つねに提示されてきた思想であり、課題なのだ。

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例えば、日本を代表する評論家である柄谷行人は、「ニヒリズム」や「シニシズム」に傾きがちな現代世界において、それを打開するものとして、互酬的な「アソシエーション」の回帰を通した「世界共和国」の実現、という「目標」を掲げてみせる。
「世界共和国」とは、ドイツの哲学者であるカントが提示した政治形態であるが、簡単に言えばこれは「各国が、それぞれに主権を主張するのではなく、各国を超越した上部機関(例えば、国連のような国際機関)に主権を委託し、その調整の下に相互補完的に国家を営んでいく」というような政治形態である。

このように聞くと「そんなの夢物語だよ」と言う人が多いと思う。たしかに、この提案は、きわめて実現化の困難な政治形態だと言えよう。
しかし、それはカントや柄谷とて、重々承知の上で「それでも、その実現を目指すべきだ」と訴えているのである。なぜならば、それをしなければ、早晩、世界は悲惨な破滅に瀕するしかないからであり、何もしないというわけにはいかないから、何かするのであれば、その最良の「目標」として、この政治形態を提案しているのである。

だから柄谷行人は、カントの「構成的理念と統整的理念」という言葉を紹介し、「アソシエーションの回帰を目指す」とか「世界共和国の樹立を目指す」というのは、「構成的理念ではなく、統整的理念なのだ」と説明する。
では、「構成的理念と統整的理念」とは何なのか。

『カントは理念について、「構成的理念」と「統整的理念」を区別しています。構成的理念は人がふつう考えるような理念ですが、これは仮象であって、取り除くことができる。一方、統整的理念とは、仮象であるにもかかわらず、必要不可欠であり、不可避であるような仮象です。たとえば、自分の同一性という理念がそうです。これは仮象ですが、この仮象を取り除くと、人は統合失調症になってしまう。ここから見ると、たとえば、カントがいう「世界連邦」あるいは「世界共和国」は、構成的理念ではなくて、統整的理念だということがわかります。こんなものは仮象だ、甘い幻想だといって斥けることはできますが、その結果、また戦争となり、あらためてそれを受け入れることになる。
 共産主義についても同様だ、といえます。人々は今や、共産主義という理念を仮象としてバカにするようになった。しかし、それですむはずがない。たんに別の仮象に飛びついただけです。つまり、新自由主義という仮象に。したがって、共産主義は「統整的理念」であり、そのようなものとして存在し続ける、というべきです。』
 (『戦後思想の到達点: 柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』P81〜83より)

思想・哲学に詳しくない人には、この説明ではわかりにくいと思うので、私がひらたく言い直すと、「構成的理念」とは『普通に考えるような理念』つまり「マルクス・レーニン主義」とか「民主主義」とか「資本主義」とかいったような「イデオロギー(信念)」のことであり「こうすれば、世の中がうまく回りますよ(理想的な社会だ実現できますよ)」といった「方法論的な理念」だと言えるだろう。一方の「統整的理念」とは、そういう「あれがダメなら、こっちでいこう」というような「選択可能な理念」ではなく、そういう考えを持っていないと、世の中がうまくいかないという「人の言動を統整する、基本的な理念」というわけである。
柄谷が挙げた「統整的理念」の実例である「私という心の存在」は、科学的に言えば、そんなものは存在せず「そう錯覚しているだけ」なのだけれど、「そう考えないことには、人間はうまく生きていくことのできない」理念だ、ということだ。

で、柄谷はここで、次のように提案する。
「共産主義」というのを、「政治経済的イデオロギー」としての「マルクス・レーニン主義」と同一視し、「構成的理念」だと考えるから、それが頓挫すれば、次は「資本主義」や「新自由主義」などを交換的に採用すればいいし、それが可能だと私たちは考えてしまいがちだけれども、マルクスが語った「共産主義」というのは、そういうものではなく、「人間とは、相互に支え合って生きていかなければ、破綻してしまう存在なのだ」という、何時の時代にも決して捨て去ることの許されない「統整的理念」だと捉え直すべきである、と。
つまり、マルクスの思想の中にも「構成的理念」の部分と「統整的理念」の部分があったのだけれども、多くの人は、その実効性にばかり目が向いてしまったために、マルクスの思想を「構成的理念」としか見なかったし、それがうまくいかないと「マルクスの思想は間違っていた」と全否定して捨ててしまった。
しかし、マルクスの思想の中にも、決して捨ててはならない「統整的理念」の部分があったのであり、それを取り戻さないかぎり、いまの世の中はいずれ破綻を免れないと、柄谷はそう語っているのだ。

このように、「統整的理念」の重要性を語っているものとしては、例えば他に、私がいま読んでいる、アメリカのユダヤ人思想家ジュディス・バトラーの著書『分かれ道』での、「パレスチナ問題」における、イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人による「一国家解決や二国民主義」の検討、というようなことも含まれよう。

中東のパレスチナ地区は、キリスト教発祥の時代には多くのユダヤ人が居住したのだが、その後、ユダヤ人はこの地を追われて世界に散らばることになる。ところが、ユダヤ人は「イエス・キリストを殺した民族」というレッテルのために、長らく西欧の各地で過酷な差別に遭遇した。
こうしたことから「ユダヤ人がこのような目に遭うのは、国を持たないからだ。だから、聖書に記された約束の地であるパレスチナに、国を再建しよう」という運動がおこった。この思想を「シオニズム」と呼ぶ。一方、第一次世界大戦の連合国であるイギリスは、膨大な戦費をユダヤ人の富豪ロスチャイルドから引き出すことに成功。その見返りとして、イギリスの委任統治下に置かれたとパレスチナの地に、ユダヤ人を植民させた。

しかし、第二次世界大戦において、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺が行われたこともあり、パレスチナに流入するユダヤ人が激増した。さらに、同地がイギリスの委任統治からはずれ、ユダヤ人国家「イスラエル」が建国されることになると、もともと同地に住んでいたパレスチナ人との確執が激化し、それが周辺国を巻き込んだ戦争(中東戦争)にまで発展した結果、多くのパレスチナ人が故郷の土地を追われることになった。「ここはもともと我々の国だから、お前たちは出ていけ」というのが、イスラエルの論理だったのである。
アメリカを始めとした戦勝国の支援をうけたイスラエルは、近代的な戦力によって、パレスチナの多くの国家を圧倒して、最初の戦争に勝った。しかし、その後も、その戦力にものを言わせて、たゆむことなくその版図を拡大することになり、またその勝利が「神の祝福」であり「正義の証」だと言いつのることになって、いまだに暴力的な方法によって、残り少ないパレスチナ人の居住区を奪い取る政策を続けているのである。

当然、世界に散らばって存在するユダヤ人知識人の少なくない人たちが、イスラエルのこうした「非人道的な政策」を批難した。しかしイスラエルは、その信仰(ユダヤ教)と「ユダヤ人の不幸な歴史」を盾にとって、イスラエルの政策を批難する者は、イスラエルに仇なす意図を秘めた「反ユダヤ」の手先であり、それがユダヤ人であれば、裏切り者だと批難して「もう、おまえはユダヤ人ではないし、ユダヤ教徒ではない」と、そのアイデンティティを否定するというやり方で、批判者たちの口を封じようとしたのである。

そんな「既成事実追認による権威化」というイスラエルのやり方に対し、ジュディス・バトラーは、次のように、その抵抗の意志を表明する。

『 一国家解決案や二国民主義の理想とは非現実的な目標であると一般に語られる。それも、そうした考え方を好意的にとらえている人びとからもそのように語られるとはいえまた疑問の余地なく、真実であるのは、一国家解決案を提唱する者が誰もいないような世界、そして二国民主義について考える者がもはや誰もいなくなる世界など、根本的に貧しい世界であろうということだ。同じことは平和主義について語ることができるかもしれないと私など思ってしまう。平和主義の提唱は〈現実政治〉感覚を欠落させているとして信用を失うかもしれないのだが、平和運動家がもはや存在しなくなるような世界に、私たちのなかで誰が暮らそうと思うのだろう。』
 (『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』P58)

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「未来は変えられる」「やってみないとわからない」あるいは「(未来や人間を)絶対にあきらめない」という、プリキュアたちの叫びが、どこからも聞けなくなった世界に、はたして私たちは生きていたいだろうか。

誰もが、ジョージ・クライのように「全員がそうだとは言わない。だが、人間とは多くの場合、度しがたい存在であり、所詮は自分の欲望のために他人を犠牲にし、そのあげく、世界を不幸な滅びへと導いてしまう悪しき存在なのだ。ならば、まだ人々にささやかな幸福と希望や夢が残っているうちに、それが完全に潰えて絶望の闇に沈んでしまわないうちに、すべてを終らせることこそが、せめてもの救いなのではないか」と考えるような「リアリスト」になってしまったとしたら、私たちはそんな世界に生きていることができるだろうか。未来に何の夢も希望もなく、ただ絶望しか見ることのできない世界に、生き続ける価値など見いだせるだろうか。

私たちは、「夢や希望」を、あるいは「互酬的なアソシエーション」が機能する社会制度としての『世界共和国』という理想や、『一国家解決案や二国民主義』という理想、あるいは『平和主義』といった理想を語ってくれる人が、まだまだ大勢いる世界に生きているから、自分では何もしないし出来もしないのに、ただ利口ぶって「あいつらの言っていることは甘いよ」などと、多寡をくくり、評論家ぶってもいられるのである。だが、しかし、本当にそんな余裕が、私たちには残されているのだろうか。
例えば、「地球温暖化」を食い止めるのは、この先十年が勝負であり、十年後に二酸化炭素の排出量を半減させられなければ、世界に破局的な気候変動をまねく怖れがあると、国連は最新研究をもとづいた警告を発しているのだけれども、私たちはそれにも「そんなの心配のし過ぎだよ。そうならないという研究結果も出されてるし」などと、現状に甘えていて、それで済むのだろうか。

だからこそ、私たちには「統整的理念」が、是非とも必要なのである。
「未来は変えられる」「絶対にあきらめない」、あるいは(「何をやっても無駄だ」という、ジョージ・クライ的なニヒリズムに対して)「やってみないとわからない」と抵抗する言葉が必要なのだ。

今やそれらは、単なる「キレイゴト」だとか、所詮は「子供向け番組の教育的タテマエ」だとか「(脳内)お花畑のご意見」だと言って、嘲笑って済ませることなど出来ないはしない。
なぜなら、それらの言葉は、「構成的理念」にはならなくとも、少なくとも、人類が生きていく上で捨ててはならない、誰かが、その胸に『抱きしめて』いかなければならない、絶対に必要な「統整的理念」だからである。

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キュア・エールが、そして野々はなが語った言葉とは、だから、決して単なる「キレイゴト」や「子供向け番組の教育的タテマエ」などではなく、私たち大人にとっても、決して捨ててはならない「統整的理念」なのである。

もちろん、それを捨てて「今だけ利口ぶって見せられれば、未来に破滅や不幸が待っていようと、自分には関係ないから、それでかまわない」というような、小狡い人間として生きていくこともできるだろう。
しかし、「そんな大人に、あなたはなりたかったのか?」と、野々はなは、そう問うているのではないだろうか。

ジョージ・クライは、キュア・エール(野々はな)との最終決戦で、むしろ彼女に同情して、次のように問う。

「(※ 君の言うことは、すべて)きれいごとだ! まっすぐに理想を語る君のことを人は冷笑する。あざ笑う。馬鹿にする。(※ そんな世界に、どうして君は希望が持てると言うのか)」(第48話より)

キュア・エール(野々はな)は、応えて言う。

「それでも、たとえばかにされたって、そんなの夢だって笑われたって、傷ついたって、私は何度だって立ち上がる! 立ち上がって、みんなを応援する!
何でもできる!何でもなれる! フレフレみんな!フレフレ私!
これが私のなりたい 野々はなだ!」(前同)

あなたは「どんな大人になりたかった」のだろう。
そして、野々はなのこの言葉は、今のあなたの胸に、どのように響くのだろうか。
はたして、彼女の声は、あなたに届くだろうか。

彼女のこの言葉は、少なくとも私の胸には、真っすぐに突き刺さってきて、深く反省を促すものであった。
だからこそ私は、この作品を「真の成長とは何か」を描いたものとして、高く評価したのである。

初出:2020年1月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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【補記】(20202.01.25)

『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』(DVD)のAmazonレビューをアップしたので、併せてご笑読いただければ幸いである。

本編テレビシリーズのテーマが「未来への希望」であるとすれば、劇場版のテーマは「今を支える過去(想い出)」であると言えるだろう。つまり、両者はみごとに「対」をなした作品となっている。
その点を論じたのが、劇場版のレビュー「想い出を抱きしめて」である。

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【補記2】(20202.02.01)

レビュー本文に記した「パレスチナの歴史」に、誤った記述がありましたので、訂正させていただきました。

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