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柄谷行人 『世界共和国へ 資本=ネーション=国家を超えて』 : 利口ぶった 〈シニシズム〉を超えて

書評:柄谷行人『世界共和国へ 資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書)

本書の評価が分かれるのは、いわば、当然である。
なぜなら、今の「世界の有り様」は、歴史的必然だからだ。しかし「このままで良いのか」ということである。

「このままで良い」と思っている人には、柄谷の議論は「非現実的」だとしか思えないし、事実、柄谷の目指しているものは、この「現実を超えていくこと」なのだから、そう感じられるのも当然なのである。

しかし、「このままで良いわけがない」と思う人にとっては、柄谷の「知的で地道な挑戦」が「模範」的なものと映るだろうから、これを高く評価するのもまた当然なのだ。

本書の大半は、現在の「国家」の有り様の分析に当てられている。まずはそれを理解しないことには、現状を超えていくことなどできないからだ。
しかしまた、「国家」への理解は、「国家」という制度だけを個別にとりだして考えるようなやりかたでは間違ってしまう。なぜなら、現在の「国家」は、「資本」や「ネーション」と密接に結びついたものであるからで、それらを度外視して「国家」だけを考えるのでは、まったく不十分だからなのだ。

しかし、当たり前の話なのだが、この三つの問題の本質を取り出し、さらにそれらの相互の結びつきの必然性を理解するというのは、決して容易なことではない。
それに、三つの問題の内の、いずれか一つに深くコミットしている人にとっては、その問題があまりにも重要であり巨大なものであるから、他の二つについての考察はどうしても不十分なものとなってしまう。そして、そのために、最後は脚を掬われてしまうことになるのである。
したがって、この三つの問題は、どうしてもそれぞれが「必然性」をもった重い現実としてとらえておく必要があるし、その上で、それぞれを結びつけ「三位一体の問題」として理解しておく必要がある。
一一これが「国家を超えて」いくための下拵えである。

柄谷は、こうして今の「世界の有り様」を分析した上で、これを超えていく「可能性」を「アソシエーション」に見いだしていく。
ここでポイントとなるのは、それが「これまでに無かったもの=新しいもの」ではなく、「かつて在ったものの回帰」として考えられている点だ。だから「可能性」はある、のである。

では、この「かつて在ったもの」としての「アソシエーション」とは、現在において「何か」ということだが、それを一言で言い表すことは困難だ。と言うのも、それは現在においては不在だからである。
しかし「現在において不在」であるということは、「回帰し得るもの」であるということを否定するものではない。
だから、「現状のままで良いとは思わない」私たちがなすべきことは、かつて「世界宗教」が担っていた「それ」、いまでは「世界宗教」が失ってしまった「力」としての「それ」を、取り戻さなくてはならない。
そして、そうした「それ」こそが、カントがいうところの「統整的理念」としての「世界共和国」であり、「アソシエーション」の「力」である。

ここで、誤解してはならないのは、それは「構成的理念」ではない、ということだ。つまり、それは「設計図」的なものではないからこそ、このとおりにやれば完成しますよというたぐいの処方箋ではない、ということである。
むしろ、「それ」は「現状的現実」の中に措いてこそ「機能」する、「世界変革のための触媒」のようなものだと考えるべきなのだ。

たとえば、子供が「夢」や「理想」を持つことについて、「どうせ現実にはそうならず、挫折するんだから、夢なんか持たない方がいい」と助言する大人は、そう多くはないはずだ。
この「大人の助言」は、その蓋然性の高さにおいては、決して「間違いではない」のだけれども、しかし「正答」でもない、というのは明らかだろう。
「夢」や「理想」を持たない子供(というのが考えられるとすれば、それ)に「明るい未来」が開けることはない。と言うか、その子供にとっての今現在さえ「薄暗い」ものでしかあり得ないだろう。
子供に「夢」や「理想」を持つことが必要なのは、子供には「可能態としての未来」が開かれているからで、それをわざわざ閉ざすような愚をおかすのは、まったく不合理だからである。

もちろん「夢」や「理想」が「そのままのかたち(完全態)」で実現することはない。例えば「アイドルになりたい」とか「ノーベル賞科学者になりたい」という「夢」を実現したとしても、「実現した夢」とは「現実」にほかならず、それは決して、彼がかつて持っていた「夢そのもの」や「理想そのもの」ではなく、それは「夢」や「理想」の「零落的現実形態」でしかないだろう。つまりそれは、それで「万事ハッピー」なものではありえない。
しかし、意外につまらない「夢や理想の実現」であったとしても、あるいは、圧倒的多数事例である「夢や理想の挫折」であったとしても、そこからも人は何らかの「積極的な価値」を得て、必ず成長しているだろう。それが「成長する=大人になる」ということなのだ。
同様に、そうした「挫折」を超えていくことで、人や社会は「成長する」ことが出来るし、そこにこそ「成長的変革の可能性」も開示されるのである。

だからこそ、この「世界の有り様」についても、その中で機能させるべき「統制的理念」が、是非とも必要なのだ。
そして、この「世界の有り様」についての分析から、柄谷行人の示したものが、「アソシエーション」の回帰であり、その先に遠望される「夢や理想」としての「世界共和国」なのである。

もうひとつ譬え話をしよう。
アメリカにおける黒人差別撤廃の公民権運動で知られるキング牧師。そのあまりにも有名な演説がある。1963年8月28日におこなわれた、あの「私には夢がある」(I Have a Dream)である。
この演説を「非現実的だ」「夢物語だ」と冷笑した人は、白人ばかりではなく、黒人の中にも少なからずいたはずである。
では、キング牧師の「夢」は、実現したのか?

無論、今でも黒人差別はあるのだから「完全実現」はしていないとは言えるだろう。しかし、かなりの程度、実現したというのもまた、否定できない事実である。

そしてこれは「統整的理念」としての「人種差別の撤廃」という「夢や理想」を、賢しらに冷笑して利口ぶるに済ませず、それを「現実」の中に持ち込んだからこそ、それは実現し得たものなのである。

同様に「世界共和国」と言うと、それはいかにも「非現実的な夢や理想」の類いだと思えるだろう。
しかし、それが「黒人差別の撤廃」という「夢や理想」よりも、さらに「非現実的」だということはあるまい。

私たちは、「黒人差別」があるていど是正された「現実(今)」に生きているから、それを「今の目」で見て「まだ可能性のあった夢(理想)」だと考えるのだが、キング牧師が生きた時代や、それ以前のアメリカ人にとっては、それはきっと「世界共和国」という「夢」よりも、さらに「非現実的」なものだったというのは、容易に理解できるはずだ。

だから、「夢や理想」は、それが「夢や理想」だからと、冷笑していてはならないし、断念してもならない。それが、そのまま完全に実現することはなくとも、それが「統整的理念」として現実の中に在るかぎり、それは常にこの世界をより良くものに変えていく推進力となるのである。

柄谷行人が示したのは、「構成的理念=当面の処方箋」ではなく、「統整的理念=現状への抵抗変革原理」であるということを、私たちは取り違えてはならないのだ。

初出:2020年1月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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