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『柄谷行人対話篇 3 1989-2008』 : 最後は 「人」である。

書評:柄谷行人『柄谷行人対話篇 3   1989-2008』(講談社文芸文庫)

柄谷行人の、講談社文芸文庫版「対話篇」の3冊目である。

「目次」は、次のとおり。

覚え書き 柄谷行人

「意識と自然」からの思考 三浦雅士
坂口安吾と文学のふるさと 島田雅彦
畏怖あるいは倫理の普遍性 大西巨人
現代文学をたたかう 高橋源一郎
中上健次・時代と文学 川村二郎
友愛論 夏目漱石・中勘助・中上健次 富岡多惠子
文学の志 後藤明生
世界資本主義に対抗する思考 山城むつみ
時代閉塞の突破口 村上龍
『蟹工船』では文学は復活しない 黒井千次津島佑子

それぞれに、思想哲学、文学、社会運動などをテーマとした対談であり、それぞれに興味深いのだが、当然のことながら、それぞれは別個に独立したものではなく、柄谷行人の中にあって「密接につながっている」というよりも「ひと続きのもの」であると言ったほうがいいだろう。

そして、そうしたことの根底にあるのは、柄谷行人という人の「人間」観であろうし、本集の中でも特にそれがハッキリと出たものとして、富岡多惠子との対談「友愛論 夏目漱石中勘助中上健次はきわめて感動的なもので、不覚にも私は、落涙さえしてしまった。

言うまでもないことだが、柄谷行人の文章を読んでいて、「感心」したり「感動」したことなら何度もある。
「う〜ん、そうか。なるほどなあ…」「流石だなあ」「この人は、やっぱり本物だ」といったような感想にともなう、「感心」や「感動」のことだ。

しかし、富岡多惠子との対談で、私が感動したのは、柄谷行人の、人としての「素」の部分に直接触れ得たからで、それがこの対談もおいて可能だったのは、柄谷の親友であった中上健次が早逝した直後であり、また富岡多惠子という人の「力強い優しさ」があったからに他ならない。

この対談を読んでいた時に、私の脳裏に浮かんがのは、次のような「情景」であった。

「少年」と「年上の(親戚の?)お姉さん」が、テーブルをはさみ、向き合って座っている。「少年」は、うつむき加減だ。
「少年」はつい最近、親友を失って落ち込んでいた。本当なら、誰とも話なんかしたくないのだが、これも浮世の義理で仕方ないから、不承不承「対談」の場に出てきたのだ。それに、この「お姉さん」については、さっぱりした気性の人でもあり、決して嫌いではないから、その意味では、多少なりとも気が楽であったとは言えるだろう。

一方「お姉さん」の方から見れば、「少年」が落ち込んでいるのは、一目瞭然。
「少年」が、これも仕事だからとやむなくこの場に出てきたというのは明らかで、彼としては「普通」にやろうとしているのだろうが、その落ち込んだ様子は隠すべくもない。
やや低い調子で口重く話すその言葉には、いつもの力はまったくない。とてもわかりやすく落ち込んだ様子で、「少年」自身は気づいていないのだろうが、その両手は、何かに堪えるように、ぎゅっと強く握り締められたままである。

「お姉さん」は、「少年」の、その「親友」のことも知らないわけではなかったが、特にどうということはなく、ただ、その「権太くれめいた外見にも似合わず、意外に繊細な神経の持ち主」であることを知っており、だから、けっこう言いたい放題の「少年」とも仲良くできたのだろうと感じていた。
どちらも、少年らしい「純粋さとまっすぐさ」を持っており、それがしばしば「辛辣な言葉」や「荒っぽい行動」となって表現されるのだというのを知っていたから、「お姉さん」にとっての彼らは、所詮、いささかツッパリ気味の「可愛い男の子」という感じだったのだ。

だが、そんな「少年」が、親友を失って落ち込んでいる。泣きたいのを我慢して、必死にこの場をやり過ごそうとしているのが手に取るようにわかるのがあまりにも健気で痛ましく、可哀想である。だから、なんとか励ましてやりたいと思うけれど、しかし、この「頑固な少年」は、決して同情的な言葉など欲っしはしないだろう。自分の最も柔かいところへ、直接手を突っ込んでくるような無神経さを、彼は許さないからである。

だから、「お姉さん」は、いつもと変わらぬ軽い調子で、少年が「胸のうちに溜め込んだ言葉」を吐き出すように仕向けていく。冗談めいた、ちょっとからかうような調子で、悲しみのために頑なになっている「少年」の頬を、指でつつくようにして「ほら、そんなむずかしい顔をしていないで、顔をあげなさい。男の子でしょ」と挑発する。
無論「少年」は、それが、この「お姉さん」特有の優しさの表現であり、彼を励まそうとしてくれているのがわかるから、つい「お姉さん」に甘えてしまう。この人になら、今の弱った自分の「素の顔」を見せてもいいと、そう思えるようになっていくのである。

 ○ ○ ○

富岡多恵子とのこの対談が掲載されたのは『文学界』誌の1993年3月号だから、対談自体はその数ヶ月前に行われたものと思われる。中上健次が癌で亡くなったのが、その前年の1992年8月であったから、中上が亡くなって半年ほどの時期に行われた対談だ。

当対談集には、その前に行われた、文芸評論家・川村二郎との対談も収録されているが、こちらは『群像』誌の1992年10月号掲載だから、まさに中上の死の直後、葬儀が終わって間もない頃のものだが、この対談の冒頭で、柄谷は、いきなり宣言するかのように語り出している。

『 最初に言っておきたいことがあるんです。僕が中上のガンの話を最初に聞いたのは、一月(一九九二年)、アメリカにいたときでした。そのときは、一週間ぐらい眠れなくて、いつも中上の追悼文を頭の中で書いていた。やめようと思っても書いてしまう。昔はああだった、こうだったというようなことをいろいろ頭の中で書いていたんですが、しかし、いざ死んでみると、そんなことは全然言いたくなくなっているわけです。少なくとも今は、昔の中上がどうだった、こうだったというのを喋る気が起こらない。こうやって対談を引き受けたことを後悔しているんです。中上が死んで三日ぐらいしてから、頭を整理するために、とりあえず何か書いてみようと思って書いたんですが、まぁそれ以上のことはちょっと言う気はしないんです。』(P189)

川村二郎も、中上健次とは面識があり、作家として高く評価してはいた。しかしそれは、個人的なつきあいではなく、「文芸評論家と小説家」という関係を一歩も出るものではなかったから、川村の中上評というのは、あくまでも「作品を通しての中上健次」であるか、何度か直接会った際に感じた「好印象」でしかないのは、やむを得ないところであった。

したがって、川村は自身のそんな「中上評」を柄谷に向けて語るのだが、柄谷の反応はパッとしない。
あからさまに否定するわけではないのだが、柄谷の応答には「それが中上健次という男の、すべてではない」というニュアンスがついてまわる。この対談で柄谷が語る中上評とは、「こうである」というものではなく、「そうではない」「それとは違う」「それがすべてではない」という「反語的な肯定」に終始している印象がある。
川村の方も、柄谷が落ち込んでいるというのは、ハッキリとわかっているから、強くは主張せず、この対談自体は、全体に「対話的盛り上がりに欠ける」ものだったと言えるだろう。

つまり、柄谷がこのとき言いたかったのは、結局のところ「作家・中上健次についての評価なんて、つまらない」ということだったのではないだろうか。

中上がガンだと知り、余命が短いものであると知らされた時に、柄谷は親友として、なんとか「作家・中上健次」の偉大さを、世に伝え残したいと考えて、頭の中であれこれと「追悼文」を書かないではいられなかった。
「中上はこんなやつなんだ」「中上文学は、こんなにすごいんだ」ということを語るための、あれこれのエピソードが浮かんできて、それらを「中上健次論」としての「追悼文」へと組み立ていく。どうすれば、その「追悼文」で、中上を「永遠の存在」にすることができるだろうかと、柄谷は、頭の中で必死に「追悼文」を書いていたのであろう。

けれども『いざ死んでみると、そんなことは全然言いたくなくなっている』ことに、柄谷は気づいてしまう。

中上本人がもはや存在しないこの世界に、中上を讃嘆する言葉を残すことなど、実につまらないことであり、虚しいことのように思う。
なんで「世の中に、中上の素晴らしさを、知ってもらわなければならないのか。中上の素晴らしさは、誰よりも俺が知っている。それだけで十分じゃないか」と、そんな感じになったのではないだろうか。

後の富岡多惠子との対談でも出てくるけれども、本当に大切な人を失った時には、人は「この世」的な価値の儚さを実感することになるのではないか。
「この世」が意味を持つのは、愛するあの人やこの人が生きているからであって、抽象的な「この世」になんか、少なくとも自分にとっては何の意味もないということに、柄谷は気づかされたのである。

 ○ ○ ○

富岡多惠子との対談は、「中勘助と夏目漱石の関係」というところから始まる。

代表作のタイトルが『銀の匙』ということからもわかるとおり、もともと「甘やかされて育ったお坊ちゃん」の中勘助は、経済的に逼迫したギリギリの状態で、自分の幼年時代を描いた自伝的小説『銀の匙』を書き上げて、当時すでに人気作家であり、多くの弟子を持っていた夏目漱石を頼って、この作品を持ち込んだ。

漱石とは縁もゆかりもなかった中勘助だったのだが、漱石は若い作家たちに対して面倒見の良い先輩であり、だからこそ、漱石の作家としての力量は無論、その人柄を慕って若い作家が集まっていたのだから、漱石は自身を頼ってきた中勘助に対しても親切であり、わざわざ、この無名の人の作品を読んでやった。そして、これは素晴らしいと思ったから、出版の労までとってやった。その結果として、中勘助という作家は誕生したのである。

しかし、漱石が死んだ後、中勘助が、恩人・漱石について書いた文章は、必ずしも好意的なものではなかった。
漱石の弟子たちが、しばしば師の人格を熱心に讃嘆し、懐古するのとは違って、中勘助のそれは、愛想がないと思えるほどに、つれないものであった。世間的な言い方でいえば、それはいささか「恩知らず」なものであり、客観的な評価とすら呼べないものであったのだ。

こうした、漱石と中勘助の関係について、柄谷と富岡は、結局、漱石は、自身の不遇な幼少時代のこともあって、それとは真逆の中勘助の幼少期を描いた作品に、深く惹かれることがあたため、やや過大評価の気味があったのだろう、と推測している。
漱石にとっては、中勘助その人には、さほどの興味がなく、ただ、若い人に対して公平に親切であった漱石は、中勘助に対しても同じように接しただけであり、『銀の匙』については、自分には無かったもの、そして、自分では書けないものとして絶賛したのであろう、ということだ。

一方、中勘助にとっての漱石は、「人気作家」ということではあっても、個人的な「尊敬の的」ということでは無かったのだろう。ただ、漱石が認めてくれれば、自分の作品を世に出せるし、自分の作品は、漱石だって認めざるを得ない傑作であるはずだから、漱石に認めてもらうんだ、くらいの感覚だったのではないだろうか。

だから、中勘助にとっては、言うなれば漱石は「当たり前のことを、当たり前にしただけ」であって、特別なことをしたわけではない、くらいの感覚だったのではないいだろうか。
自尊心の強い「ナルシスト」であった中勘助にとっては、本音のところでは「夏目漱石が、どれほどのものだというのか」というくらいの自尊心もあったのだが、経済的に行き詰まっていたため、やむなく「世評の高い夏目漱石」に、方便的に頭を下げて、作品を読んでもらっただけだと、そんな感覚ではなかったか、というのが、柄谷と富岡の「中勘助」評価である。

(中勘助)

だから、夏目漱石という人に「共感」する柄谷行人としては、中勘助なんてやつは、じつにくだらない勘違い野郎の俗物であり、その代表作である『銀の匙』も、「ナルシストが喜ぶナルシスト小説」でしかなく、「文学的な深みに欠けた小説」である、といった評価のようだ。
それが、夏目漱石が評価した作品であったとしても、そうした評価は譲れない。さすがの漱石の、不遇な育ちの呪縛からは、生涯、完全に自由になることはできなかったからだと、柄谷は、そのように判断したのである。

そして、この時、柄谷は、夏目漱石の「人の良さ」に、腹を立てていた。
「どうして、あんな奴に、そこまでしてやるのか」「あんな、ナルシスト野郎、相手にしなければよかったのに、誰彼かまわず、いや、たぶん中勘助があんな奴だと勘づいていながら、しかし、あなた(漱石)は、それでも同じように分け隔てなくかまってやったのだろう。なんて、お人良しなんだ」と。

『 だから要するに、中勘助は不快なんです(笑)。漱石が若い人のものを一生懸命褒めても、別に何か見返りを求めているわけじゃないでしょう。たとえば、尊敬とか崇拝とか。漱石は単に機縁があったから、そうしただけのことであって、たしかに漱石の弟子たちは、漱石を「則天去私」の悟達者みたいに描いたけれども、むしろ中勘助の『夏目先生と私』の方が、漱石の(※ 人間としての、当たり前の親切さや優しさといった)偉さを感じさせますね。』(P237)

そして、こうした「夏目漱石と中勘助」論議のあとに、「中上健次と柄谷行人」の関係へと、話はずれ込んでいく。

富岡 で、中上さんの亡くなられたあと、あなたは直後の対談(「中上健次・時代と文学」本書所収)(※ 前記、川村対談のこと)の中で、今は何も言いたくないみたいなことをおっしゃった。でも、これから何も言わないわけにはいかないでしょ。
柄谷 いやあ、すでに言いすぎてますよ。たとえば、葬儀委員長としても言っている。僕は何と言われても構わんけど、葬儀を批判するとかいう人たちもいてね、追悼文批判とか……。
富岡 いや、私はそんなレベルで言ったんじゃないんです。ただ、今おっしゃったように、ほかの近似的に近い人でも代入できないということでしょ、中上さんの存在というのは。絶対存在みたいなことでしょ。相対的な存在じゃないわけでしょ。
柄谷 ええ。
富岡 だから、そこまで深くあなたに感じさせる中上さんとの現実の関係というのはどういうものか、とても興味があるということなんです。
柄谷 特別には何もないですよ、普通の意味では。
富岡 通俗的な意味で言っているんじゃないんですよ。たとえば……まあ通俗的になるのかな……やはり中上さんは実作者だから、方程式にするような感じで物を捉えてない、混沌とした中で、どちらかと言えば直観的に物を捉えて考えたと思うのね。たとえば、あなたが浅田彰さんのことを褒めたら、すごく中上さんが嫉妬した、ということもあのときおっしゃった。
 そうすると私は、浅田さんの頭の良さと中上さんの頭の良さとは全然質が違うのに、嫉妬することないじゃないかと客観的に思うわけです。だけど、中上さんに言わせたら、やはり自分にないものは欲しいでしょ。で、そういうことに関して、あなたもおそらく自分が持ってなかったものを中上さんに依存してた部分があると思うんです。
柄谷 もちろん、ありますよ。(ちょっと声を落として)それは最近感じてることですが、今日の話の文脈では、どちらかと言うと、僕は中勘助の立場なんですよね。
富岡 急に何ですか、その低い声は(笑)。
柄谷 それでつくづく思うのは、浅田彰についても、今あまり頭のレベルでは考えてなくて……もちろん頭が良くないとありえないことかもしれないけど、彼は人格として、ほとんど信じ難いような人間ですね。ほとんど「無私の人」ですね。
富岡 そうか、浅田さんも中上さんも……。
柄谷 中上はちょっと違うんですけど……いや、中上もそうだったかもしれない。僕は自分の仕事に対するナルシスティックなこだわりがあるけど、彼らはそうではない。ひたすら私が悪い。
富岡 なんで、そんな昔の女みたいなこと言うの、「みんな、あたしが悪いのよ」って(笑)。
柄谷 そういうふうに最近は思う。中上はやはり誰に対しても愛情深かったし、文壇のことでも、僕はいろいろ巻き込まれるかたちでやってて、結局は僕が責任を取らされるみたいなかたちに外から見えるけれども、ほんとは中上がいなかったら何もやってないわけね。 書いてないけど、海外も含めて中上に巻き込まれてやったことは、ものすごくあるんですよ。自分一人だったら何もしないに決まってるんです。僕は、だから中上がいなくなると、あれはえらい人格者だったのではないかって、自覚せざるをえない。』(P240〜242)

柄谷 僕は、テクストしかないという考えが、今ものすごくいやなんですよ。作品なんかどうでもいい。まあ作品がなかったらだめなんだけど……。
富岡 商売あがったりじゃないですか(笑)。
柄谷 しかし、そのレベルで言ってるんじゃなくて、作者なり人間なりがあらためて重要なんだというふうに思うんですよ。それはやはり理論的には言えないですよ。今、僕はほとんど反動的なことを言っているわけですからね。
富岡 柄谷さんの言おうとしておられること、わかるんですよ。でも柄谷さんがそれを理論的に言えないと言われるのに、私がそれをできるわけがない。
柄谷 でも僕が感じていることは、世の中より十年ぐらい早いですから、たぶんカントのことも、そういうことを考えるようになると思うけどけども。
富岡 でも、羨ましいといえば羨ましい。誰かが死んで、そういうことを考える人いるかなぁというと、私にはおそらくいませんから。
柄谷 僕が死んだら考えてください。
富岡 考えよう(笑)。ふつう、作家と批評家の関係といいますと、テクストを通じてというのが普通なんだけどねえ。そうじゃないからすごく面白い。
 もう中上さんの話よそう、気の毒だから。憂鬱そうね。
柄谷 フーコーが晩年、友情ということを言い出してるんですね。フロイト以降の心理学では、友情というのは、ホモセクシュアリティの側から見るわけです。だけど友愛というのは(※ 「人格」的なものであって)、そういう心理的な、あるいは感情的な基盤から見てはいけないのではないか、とフーコーは言ったんじゃないかと思う。だから、男女の間には友情がないとかいう話があるけれども……。
富岡 そんなことないと思います。
柄谷 それなら同性の愛も同じことになるんです、ホモセクシュアリティになっちゃうわけですから。だから僕は、友情という人格のレベルがあると思うんですね。それを言うと、ほとんど反動的なんだけれども、密かに思っているわけです。
富岡 密かに?
柄谷 密かに。フーコーは古典時代に遡行をして、それを示そうとしたけれども、考えていたのは今の話だと思うんですね。性的でない同性の愛というのはあるんであって、それが友情であるということだと思う。そうしたら、男女だって同じじゃないかと言えると思うんですね。
 なんでそういうことを考えるようになったかというと、精神分析以降は、 どれも経験的なもの以外のレベルを認めないわけです。すべてを、何らかの倒錯というかたちで読み替えますからね。ただ、すでにカントは、それ以外のレベルがあるということは理論的には言えないと言っているわけです。しかし実践にだけある、というふうに。僕は、それを実感してるんだけど……。』(P246〜247)

柄谷 (略)それと中上とは外国で会うことが多かった。さっき言った「人格」というのは、国内では出てこないもんだと思うんです。
富岡 なぜ?
柄谷 共同体の中では、感情的な結合と反発だから、その中では(※ 素の)人格は出てこないんですよ。僕は自分で友人だと思う人は、ほとんど外国人か外国で会った人ですね。大正時代の哲学者は全然わかっていなかったと思いますが、そういうときにしか「人格」というものは出てこないということが、漱石にはわかってたと思うんですね。漱石は、わざわざ(※ 弟子たちとの面接日とは)別の日に中勘助と会った。それは、中勘助がどう思ってたかなんて関係ないんですよ。やはり漱石自身に(※ 従来の社会的な力関係などから切り離されて)ほっとするようなところがあったんでしょう。漱石門下という仲良しの共同体があって、そこで繋がっているような(※ 先生と弟子といったような)雰囲気は、漱石は実は嫌いなんですよ。
富岡 そうだと思います。
柄谷 中上は、外国で会うと清らかですよ。
富岡 何が清らか? 気分が?
柄谷 中上という人格が、(※ 日本社会の中でのしがらみから切り離されて)日本で会うときとは違うんですね。僕も清らかですね。
富岡 うーん、どう清らかなのか 見たかったわ(笑)。いろんな穢れを落としたところで、スーッと抜けたように会えるんでしょ。
柄谷 そうそう。でも、若いときもそうだったんですね。中上と会ったときには。
富岡 わかってきた、少しずつ。
柄谷 だから、中上が(※ 日本社会の中の)人間関係で(※ しばしば)いやらしいということは、僕自身よくわかってたことだから、そんなことで擁護する気なんか全然ないけど、彼は(※ その本質的な人格の部分においては)ものすごい純粋なわけですよ。それは、こっちも純粋でないとわからない。
富岡 それはそうです。
柄谷 作家論というようなことは、僕はもういいという感じがありましてね。人が死ぬって、そういうことじゃないかと思いますね。ま、他の文学者が死んだら、やはり代入できる(※ 代わりがいる)というか…… (笑)。
富岡 そうでしょうね。いやだな、変な人に代入されたくないな(笑)。
 私、中上さんとは、ベルリンの作家会議へ一緒に行きましたね。飛行機では隣じゃないから喋れなくて、行った途端にあの人は病気でシンポジウムに出ないで、翌日かに帰っちゃった。だからほとんど喋ってないですね。そのあと、「こんにちは」って言ったのがか一回か二回だけで。
柄谷 読むだけでは、わからないですよね。読むだけが正しい理解だっていう立場もあるでしょうけど。
富岡 でも、誤解されるんじゃないですか? 批評家が、読むだけではわからないと言うと。私は中上さんみたいに純粋じゃないかもしれないから。
柄谷 いやいや、そんなことないですよ。あなたは純粋ですよ。
富岡 どう、後光が射してない?(笑)
 私は、中上さんとはそのくらいしか知らないけど、しんどい気がした。純真さはよくわかるんですよ。私は他人の噂とか、いろいろなことにごまかされませんよ。だけど、やっぱり 深く付き合うのはしんどい感じ。
柄谷 そりゃしんどいでしょうね。
富岡 男女を別にしてですよ。
柄谷 僕は、しんどいと言っても、中勘助だからね(笑)。
富岡 新説ね、柄谷行人が中勘助だっていうの。
柄谷 きょうの文脈だけで、あれぐらいしか読んでなくて言ってるんだけどね。まあ、中上とは距離があるから……。
富岡 だけど距離とれる?
柄谷 距離が人格性なんですよ。
富岡 そうなんですけど、距離がとれますか。
柄谷 とれますね、僕は。むしろ、しょっちゅうアタマにきてましたよ。
富岡 だけど中上さんのほうが、距離をとらせないタイプじゃない? それがしんどそうで。
柄谷 そりゃしんどいでしょうね。普通の人は長く付き合えませんね。
富岡 直感したのよね、そういうの。
 (※ 章題省略)
柄谷 僕がいわば漱石で、中上が中勘助というポジションにあると思っている人がいると思うけど、そうではないですね。中上は、僕のことをいつも庇護しようとしていたからね。「あいつは放っといたらどうしようもない。俺が庇護をする」といつも言ってました。だから漱石みたいに、勝手に推薦してくれたりするわけよ(笑)。
富岡 困るよね(笑)。
柄谷 でもまぁ、友人というのはある年齢を過ぎてから以降には不可能でしょう。だから、中上への友情といっても、本当は僕の歴史なんでしょうけどね。
富岡 私は、中上さんが亡くなられたと聞いたときは、柄谷さんがこたえただろうなとまず思ったんですよ。
柄谷 なんで思った?
富岡 何か直感したのね。あんまりよく知らないけど、こたえただろうなと。
柄谷 うん、あなたが言ったようなことだけでもないと思うけど、やはり今起こっている(※ 世の中の変化や)出来事というのは、十九世紀以降そうざらにないものですよ。それを引き受けていくというとき、直観的であれ、どこか中上を頼りにしてたんですね。 だから僕は今五十一歳だけど、ほとんど最年長の意識ですよ。
富岡 個人的に?
柄谷 ええ。 中上がいるお陰でまだ若いという気分になってたけど、もう誰も引っぱってくれないという感じはありますね。今は、気が弱くなってるのかもしれない。人に対する感謝の気持ちが出てきたということは、ある意味では気が弱くなっていることの……。
富岡 いや、気が弱くなっているんじゃないですよ。人の死というものは、そういうもんなんですよ。
柄谷 いや、中上に対してだけじゃなくて、いろんな人に。
富岡 もちろんそうですよ。中上さんの死がそれをもたらしたわけだから。そういうこと今まで今までなかったわけでしょ。
柄谷 ないですね。
富岡 感謝どころか、攻撃してたから(笑)。感謝っていうのは人に感謝? 生きていることがありがたい?
柄谷 いや、人です。生きてることなんかは、ありがたくないです。
富岡 人っていうのは、つまり誰かが存在していることに感謝?
柄谷 ええ、さまざまにね。漱石の「則天去私」に関して言うと、あれは弟子が作った神話だと言われている。しかし、あれは「理念」でしょう。やはり漱石は本気でそう(※ ありたいと)思っていたと思う。そんなものは別に実現できるわけでも何でもない。
富岡 そこへ行きつつあるんじゃないですか、中上さんの死によって。
柄谷 そうとは言えないけど、そういうことを言う気持ちはわかる。考えてみたら、漱石が死んだ年より俺は上なんですよね。
富岡 そうですよ。だから 中上さんは、死を持ってあなたにそれを悟らせたのだと、坊さんだったら言いそうですね。
柄谷 坊さんみたいな話は、これぐらいにしましょう(笑)。
  [『文学界』一九九三年三月号]』(P249〜254)

「少年」と「お姉さん」は、にっこりと笑い合って、この対談を終えたのである。


(2023年6月16日)

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