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柄谷行人・ 見田宗介・ 大澤真幸 『戦後思想の到達点』 : 〈限界〉を 切り開くために

書評:柄谷行人・見田宗介・大澤真幸『戦後思想の到達点』(NHK出版)

私はもともと文学趣味の人間なので、柄谷行人については、初期の文芸評論から『探求』三部作あたりまでしか読んでいない。経済とか政治制度の問題を扱っているようなタイトルの本は、どうにも触手が動かなかったからなのだが、先日『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)を読んで、自分が「やっぱり好きなんだよなあ、柄谷さんも浅田さんも」と感じたので、この本を読むことにした。
ちなみに、見田宗介(真木悠介)については、大澤真幸の本で名前だけは知っていたが、まだ読んだことはなかった。

さて、本書であるが、柄谷さんについては、私が読まなくなって以降の著作とその展開が紹介されていたが、やはり「柄谷行人は変わっていないなあ」と感じ、とてもうれしかった。
一方、見田さんについては、今となっては、わりと当たり前なことを言っているようにも感じたが、ともあれ、ご本人の著作も読まずに、解説書だけでわかった気になるというのは、読書家として恥ずべきことなので、近いうちに何冊か読んでみようと思った。大澤真幸が、これほど惚れ込むからには、それなりの魅力があるはずだと思ったからである。

本書において「大澤真幸の視点」から語られた両者の思想のポイントは、やはりその「自由において、現状を切り開いていく」とでも言うべき態度であり、「引き受けの思想」ではないかと思う。
つまり、他人のアラ探しをして「我賢し」とするようなものではもちろんなく、絶望的に見える世界を「なにゆえに絶望的なのか」と解説するだけでもなく、「世界そのものとその限界に対峙する思想」といった点で、両者は共通しているのではないか。
そして、そうした点において両者の思想は共鳴する部分を持っており、そうした意味で両者の思想は「戦後思想の到達点」と呼ばれているのではないだろうか。

無論、「到達点」とは「終点」ではない。それは「到達点」であると同時に、そこから先に踏み出すべき「出発点」でもある。
そして、そこが「出発点」であるためには、その人に「未踏の荒野」へと踏み出す、という「稀有な意志」がなければならないのだが、それが2人に共通してあるからこそ、2人の位置は「戦後思想の到達点」と呼びうるのだと思う。

『《共産主義はわれわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる》
(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳、岩波文庫) 
 (※ と、マルクス自身が語っているように)要するに、共産主義とは、未来に置かれる理念や理想なのではない。現にある状況に抵抗しそれを変えようとする運動である。そして、共産主義が未来にあろうとあるまいと、そのような運動をやめることはしない。マルクスはまた、未来について語ることは反動的である、とも言っています。
 僕はずっとそういう考えでいたのですが、ただ、一九九〇年代になって、状況が変わってきた。ソ連圏が崩壊したからです。そして、社会主義の終焉、「歴史の終わり」というコーラスが世界的に起こった。そのなかで、何かもっと積極的な見方が必要なのではないか、と思うようになったのです。そして、史的唯物論を批判するだけではなく、あらためて検討する必要があるのではないか、と考えていた。そういう気持があったので、一九九八年に、交換様式という考え、特に、交換様式Dという考えが湧いてきたのだと思います。
 たぶん、『探求Ⅲ』を書きながら、カントについて考えたことが大きいと思います。カントは理念について、「構成的理念」と「統整的理念」を区別しています。構成的理念は人がふつう考えるような理念ですが、これは仮象であって、取り除くことができる。一方、統整的理念とは、仮象であるにもかかわらず、必要不可欠であり、不可避であるような仮象です。たとえば、自分の同一性という理念がそうです。これは仮象ですが、この仮象を取り除くと、人は統合失調症になってしまう。ここから見ると、たとえば、カントがいう「世界連邦」あるいは「世界共和国」は、構成的理念ではなくて、統整的理念だということがわかります。こんなものは仮象だ、甘い幻想だといって斥けることはできますが、その結果、また戦争となり、あらためてそれを受け入れることになる。
 共産主義についても同様だ、といえます。人々は今や、共産主義という理念を仮象としてバカにするようになった。しかし、それですむはずがない。たんに別の仮象に飛びついただけです。つまり、新自由主義という仮象に。したがって、共産主義は「統整的理念」であり、そのようなものとして存在し続ける、というべきです。』(P81〜83)

柄谷はここで、「共産主義」というものについて、それを「構成的理念」と考えるから間違えるのであって、じつは「共産主義」とは、人間が人間である続けるための、ひとつの「統整的理念」だ、と言っているのだが、これは「柄谷行人の思想」についても、そのまま言えることであろう。

つまり「柄谷行人の思想」というのは、「世界変革の処方箋」という意味での「構成的理念」ではなく、「世界変革のための姿勢」を示す一種の「統整的理念」だということである。

だから私たちは、「柄谷のあれは使える。これは使いない」などと考えていたとすれば、それは「柄谷行人の思想」を読み違えていた、と考えるべきなのだ。
柄谷行人が与えてくれるものとは、「姿勢(思想の構え)」であって、「誰でも使える、便利な道具」などではない。所詮、「自分の道具」は、自分で生み出さなければ、使い物になどならないのだ。
そして「自分の道具」を生み出せないどころか、生み出そうともしない者ほど、他人の道具にケチをつけることで、自分の方が「上だ(我賢し)」と、虚しい誇示をしたがるものなのである。

何かを「作りたい」「切り開きたい」と思う者ならば必ず、自ずと「自分の道具」を生み出すことだろう。
それは、柄谷行人や見田宗介が生み出したような「誰もが欲しがるほどの道具」ではないだろうが、それでもそれは「自分には最高の道具」であるはずだ。

柄谷や見田が、私たちに教えてくれるのは、「道具を必要とする者の心得」なのである。

初出:2019年12月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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