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浅田彰、 佐和隆光、 山口昌哉、 黒田末寿、 長野敬 『科学的方法とは何か』 : 科学的方法の 倫理と自由

書評:浅田彰、佐和隆光、山口昌哉、黒田末寿、長野敬『科学的方法とは何か』(中公新書)

冒頭の二論文、浅田彰「変貌する科学」、長野敬「ニュー・サイエンスのオールド・ストーリー」は、けっこう読みづらい文章で、先行きを不安にさせるのだが、本書を通読するならば、決して難しいことを語っているわけではないとわかるので、そこで挫折することなく、ぜひ最後まで読んでほしい。そうすれば、冒頭の二論文の語らんとしたことも、容易に理解できるようになるはずだ。

本書が刊行された1986年当時というのは「ニュー・サイエンス」ブームの余波が残っていた時代であり、浅田彰に代表される「ポストモダン批評」もそうした雰囲気の中で「絶対化された権威を疑う」という姿勢として出てきたものであると言えよう。

今でこそ「ニュー・サイエンス」と言えば「オカルトもどきのいかがわしいもの」という印象が強いし、そこまでは言わないものの「ポストモダン批評」も「無責任な破壊者」という印象が強い。
しかし、これは「ニュー・サイエンス」や「ポストモダン批評」がもたらした「恩恵」を、知らずに浴している「後の人たち」が、当然それ以前の息苦しい状況も知らないで、自身、再び権威的たらんとしているだけ、といった側面も否定できないのではないだろうか。

本書は、端的に言って「ニュー・サイエンス」的なものに批判的な立場である。しかし、そこに示された可能性や初志まで、全否定するものではないといった、極めてバランスの良いものだとも言えるだろう。
本書のをおける主張を典型的に示す部分を紹介しよう。

『 だからといって私は、ホーリスティックな社会研究を志向する天才たちの心意気に水を差すつもりはいささかもない。だがしかし、次のような私の言い分を撤回するつもりもまたさらさらない。ホーリスティックな社会研究は、少数の天才のみに成し得ることであり、好むと好まざるとにかかわらず普通人は、ピースミールな営みに禁欲せざるをえない。繰り返していうが私は、制度化された経済学が天才にとって飽きたらない代物であることを認めるにやぶさかでない。しかし私は、制度化された経済学の営みがまったく無益だとか有害だとは思わない。過去の歴史を顧みても、ピースミールな経済分析の積み重ねが、わたしたちの社会認識を深めるうえで応分の貢献をなしてきたことは、否定しようがないだろうからである。
 社会科学を「個別化」することへの天才たちからの警告にも、久しく絶えざるものがある。すなわち、経済学、政治学、社会学などに社会研究を分断することへの批判である。だがしかし、人間の知恵というものに限りがある以上、大自然学の構築が無理難題なのとおなじく、社会科学の総合化もまた願っても叶わぬ夢のまた夢なのである。いやしくも科学者の営為は、いたずらに夢を見、夢を追い求めることのみに限られてはならないのである。科学者たる者、今も昔も禁欲精神を欠いてはならず、大言壮語することを慎まねばならない。』(佐和隆光、P92)

もうおわかりだろうが、要はピースミールな方法(小さなことからコツコツと積み上げていく方法)というのは、当然のことながら、当面は「部分的」なものにならざるを得ず、「結論」にばかり注目する人たちの目には、いかにも地味で物足りないものとしか映らない。ところが、そうした地味な科学的研究とは違い、ごくごく一部の天才は、全体を一気に捉えて本質を掴むなんてことを、ごく稀にやってしまうから、多くの人はそうしたホーリズム(全体論)的直観主義に憧れてしまうのだ。

しかし、そうした「凡人の憧れ」は、ほとんどの場合「博打性」を呼び込むことにしかならないので、極めて危険なのだ。
特別な才能のない者は「こつこつと働いて、お金を貯める」べきで、「博打によって、一攫千金を狙う」なんてことはすべきではない。そんなことをすれば、身を滅ぼす可能性の方がはるかに高いからである(そうした実例は、斎藤貴男『カルト資本主義』参照)。

で、これは科学者も同じなのだ。「こんな、何の役に立ってるのかもわからないような地味な研究なんかやっていられるかよ!」と言いたくなることも多いだろうが、今の時代、自分ですべてをやってしまえる人などいないのだ。だから、自分の貢献は小さくても、そうした小さな貢献が積み重ねられ寄り集まることで、科学は前進してきたのだ、という謙虚な「自負」こそが、科学者には必要なのだ。あえて「縁の下の力持ち」に徹する禁欲や謙虚さが、科学の健全性を担保してきたという事実を、決して忘れてはならないのである。

『佐和  分析的方法と総合的アプローチの間の距離は埋め得るものなのでしょうか。つまり、長野さんがおっしゃったように、分析的方法をさらに突きつめることによって、幾ばくかでも埋め得る可能性のある距離なのかどうか。
 浅田  それは絶対にやってみないとわからない。埋め得ないといった瞬間、それはホーリズムになってしまう。まだ可能性の多い段階なのに、あたかもその可能性がないかのように断定してしまうというのが、ホーリズムの最大の問題でしょう。』(P133)

例えば、科学を敵視する宗教関係者がよく口にするのが「所詮、科学では〈神〉の非存在を証明することは出来ない」「科学は〈死後の世界〉を語る言葉をもたない(人の心は救えない)」といったものだ。それに比べると「宗教」には、それを語る言葉がある、というのである。

しかし、これは「論点先取り」のホーリズムにすぎない。何の証拠もなく、自分たちの「信仰(信じているという事実)」だけを根拠に、臆面もなく「主観(願望)」を語っているだけであって、元よりそれが、真実か妄想かの区別などできない(非科学的な)代物なのである。
だが、彼らにとっては、ひとまず「語り得る」ことにおいて、自分たちの方が優れていると言いたいのだ。要は「言った者勝ち」「声のでかい方が勝ち」でしかない。
科学のように「まだ、そこまで語る資格を、われわれは持っていない。しかし、将来的には語れるようになるかも知れないし、それを目指して、われわれは日々、地道な研究を続けているのである」といった「謙虚さ」を、「宗教」のような覇権的ホーリズムは持ち合わせていないだけなのである。

科学的方法とは、斯様に「謙虚」なものであり、そうあるべきだというのが、本書の主張だと言えよう。
そのうえで、浅田彰はこうまとめている。

山口  情報という概念は説明のときには要るけれども、たんにもとのシステムを記述するときには要らない、同時に目的も要らない、とヴァレラは言っている。それこそ本当に自律であって、それは黒田さんの遊びというところと関係しますね。
 浅田  そうなると科学のイメージもずいぶん変わってくるでしょう。コントロールの科学からオートノミーの科学へ。客観的な科学から自己言及的な科学へ。手段的な科学から遊びの科学へ。ハードな科学からソフトな科学へ。……ただ、徹底的な分析による解像力の高度化こそがそうした変化をもたらすのだということは、何度でも強調しておきたいと思います。』(P213)

『コントロールの科学からオートノミーの科学へ。客観的な科学から自己言及的な科学へ。手段的な科学から遊びの科学へ。ハードな科学からソフトな科学へ。』という可能性を語った部分は、いかにもポストモダン批評家・浅田彰らしいところだが、最後の強調を見落とすと、浅田彰やポストモダン思想の貢献を見落とすことになる。

つまり、徹底して堅実な研究態度を堅持しつつ、その過程で技術的な進歩が訪れるならば、科学がその可能性を大きく展開させることも否定できないと、浅田はじつに堅実で現実的な可能性と夢を語っているにすぎない。そして、これこそが「科学的方法の、未来に開かれた可能性」なのだ。

安直なスピリテュアリズムが流行ったり、断言した者勝ちの頭の悪い自国賛美主義が蔓延する「今の日本」だからこそ、私たちはもう一度、謙虚で堅実な、科学的探求態度を取り戻すべきなのではないだろうか。
拙速早計な結論に跳びつき、断言するだけの蛮勇は、決して「知的な人間」のすることではないのである。

初出:2019年5月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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