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柄谷行人編 『近代日本の批評』 : 小林秀雄の〈負の遺産〉

書評:柄谷行人編『近代日本の批評』全3巻(講談社文芸文庫)

もうそんなになるのかとも思うが、すでに30年も前に刊行された本である。
本書『近代日本の批評』全3冊(「昭和篇」上下、「明治・大正篇」)を通読しての感想をと考えていたのだが、どうにもこれは私の手に余り、とても全体を総括的に論評することなどできないと思った。

そこで、他のレビュアーはどんなことを書いているのかと調べてみると、3冊合わせても、Amazonのレビューはたったの2本しかない。やはり、本書を論じるのは、容易なことではなかったということなのであろう。
今の若い読者は別にして、柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰といった、人気批評家が名を連ねる討論なんだから、往時以来、読者が少ないということはなかったはずで、レビューを書けるものなら書きたかったけれども書けなかったという読者が、それなりにいたはずである。

では、私と同様に、無理にでも書いたのであろう、前記2本のレビューとは、いったいどのようなものであったか。
簡単に言えば、一方は、「内容紹介」に「勉強になりますよ」程度の感想を付け加えたもの、もう一方は真逆に、ほとんど本書の内容に触れていないまま「当時の批評業界のことなら、ぜんぶお見通しですよ」といった口ぶりの、批評オタクの独り言である。

両者は、一見「真逆」だ。だが、重要な「共通点」がある。それは、本書の中身やその著者たちについて、レビュアーが「理解していますよ」という、自身の「立ち位置」表明だ。言い変えれば「本書で語られていることを、十全に理解できない」とか「彼らの言葉が、よくわからない」というようなニュアンスは、欠片も表明されていないという点である。
一一しかし、これはいかにも無理がある。

というのも、単純な話、本書を十全に理解するためには、本書で扱われる明治から昭和(1970年代くらいまでの昭和)の小説家や批評家や思想家などの本を、そうとう読んでいないと、彼らの議論が正しいのか否かの判断を、読者が読者なりにすることすらできず、ただ「なるほど、そういうもんですか。勉強になります」と、ご高説を拝聴することしかできないはずだからだ。
そして、事実そのとおりだからこそ、多くの読者は、本書について、何ほどかの「個人的な意見表明」も、し難かったのであろう。

したがって、前記2人のレビュアーにレビューが書けたのは、本書の内容については、何も書いていないからに他ならない。
「内容紹介」や「勉強になりますよ」程度のことなら、見出しをチェックしただけでも書けるし、まして本書の内容に言及しないで「彼らのことなら、私はよく理解している」と根拠提示も無く表明するだけのレビューとは、もはやレビューですらないと言えるだろう。
つまり、前記の2本のレビューは、本書の中身のレビューにはなっていないから、書くだけはなんとか書けた、といった類いのものなのである。

ただ、私は何も、先行レビュアーたちを貶すために、これを書いているのではない。
そもそもそれだけであれば、このレビューもまた、本書の中身についてのレビューにはならないからだ。

 ○ ○ ○

『 福本は(※ 自分の頭で)考えたわけですよ。考えるってことは抽象的な議論を好むこととはまったく別の話で、ものを読むことができた上で、しかも分析=記述による健全なイメージ形成能力があるってことです。これは前にも言ったけど、明治政府を資本家による権力と規定した労農派的な見解が「二七年テーゼ」に盛りこまれたら、これはどうしたっておかしい。福本和夫は、知識と分析とによってそれ(※ 明治政府)を「絶対君主制」と考えたわけだけれど、「二七年テーゼ」にそれが盛り込まれていないから、福本が(※ 党の指導的立場から)消えたと思っているような人たちはものを考える資質を欠いているわけでしょう。』(蓮實、文庫版『明治・大正篇』P338〜339)(以下(※)は、引用者註または補足)

『 ものがわかっているという姿勢(※ の誇示)は批評ではないと思う。わからなくても論を立てないかぎり批評はないわけで、分析=記述が必要なのはそのためです。ものがわかっている人は、文学以外にもたくさんいるわけで、(※ わざわざ、それについて批評文を)書く人がわかっているというニュアンスをちらつかせたってしようがない。』(蓮實、前同 P343)

つまり、「批評」であるためには『ものを読むことができた上で、しかも分析=記述による健全なイメージ形成能力がある』必要があり、特に形式的には『分析=記述』の無い批評は、小林秀雄的にダメだ、ということになるのだ。

「小林秀雄的にダメ」とは、どういう意味か。
それは、「直観的理解とその結論の表明だけ」しかなく「分析=記述」を欠いた小林秀雄の批評形式は、批評として「不誠実」であり「逃げ」であり「退廃」だということである。

柄谷行人は言う。

『(※ たしかに)例の「国民は黙って事変に処した」という(※ 戦争肯定的と批判されることの多い、小林秀雄の有名な)言葉さえ、(※ じつは)関東軍あるいは植民地主義者に対する(※ 暗になされた)批判です。しかし、ぼくが思うのは、「事変の新しさ(※ 故に、根拠を語り得ない)」というだけで、何が新しいのかを少しも言わないことがだめだということ(※ つまり、根拠提示の無い批評批判ではダメだということ)です。ぼくはちゃんと分析すべきだと思うんですよ。近い例で言えば、三島(※ 由紀夫)が死んだ時、小林秀雄はたしか「ここには解釈や分析では理解できないような問題があるのだ」とか、そういうことだけを言う。そんなことは、ぼくだって言える。というより、分析しようとする人間だけが、(※ 語ろうとしても、語りがたいものが残るという)そういう(※ 忸怩たる)思いを持っているんだ。それを、最初から分析を超えた何かがある、などと言ってしまうのは、分析すること自体の拒否です。要するに、大和心みたいなもの(※ 反批評的な、悪しき癒着融合的一体化状態)だ。』(柄谷、前同 P340〜341)

この柄谷の発言を受けて、蓮實の曰く、

『 小林が近代批評をつくったというのは、ぼくもそうだと思うんだけれども、それにはいろいろな意味があって、よくない側面としては、「分析はしない」という姿勢が近代批評になっちゃったことです。分析はくだらないものだ、それを超えたところに批評はあるというんだから。それでいまの「事変の新しさ」ってことだって、本質的には(※ 小林による)道頓堀のモーツァルト(※ 『大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴っ』て、『僕は、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動で慄えた。』というような、説明になっていないハッタリ的説明)とほとんど変わらないと思う。』(蓮實、前同 P341)

つまり、本書の先行レビュアーの2人は、その自覚は無くとも「小林秀雄の負の遺産」としての批評観を受け継いだ人たちなのである。

そして、話を「福本和夫」に戻すと、蓮實が紹介したように、誤ったかたちで福本を葬ってしまうと、

『 そのあとは、みんな(※ 福本の凄さを理解できない、見てくれだけのパフォーマーたる)三木清になっちゃったんです。いまでは、三木ほどの才能(※ や教養)もない人たちが三木をやろうとしているわけでしょ。さっきの話で言うと、三木が福本の隆盛を見てあのぐらいならできると思ったんだけど、柄谷程度ならできると思ってやっているわけでしょう、いまの批評家たちは。』(蓮實、前同 P339)

という具合に「勘違い」が横行することになる。
普通に見て、柄谷行人や蓮實重彦や浅田彰らを云々できるような実力など無く、当然、自身の実力を実作において示すことなどできない、凡庸に利口ぶった勘違いの人たちが、「分析=記述」の排除された小林秀雄的な批評形式を無自覚に踏襲して、なにやら上から目線で、柄谷たちを(論じるのではなく)語ったりするのである。

柄谷行人は「外部性」の必要を、こんなふうに説いている。

『 西田自身、仏教的な認識をけっして仏教用語を用いずに、西洋哲学の言葉でやろうとしたからね。鈴木大拙なんかは、アメリカに行ったせいもあって、禅を表に出してやりましたが。ただ、こういう中性的な表現のなかで、仏教とキリスト教の差異が消されていったことはたしかです。仏教のキリスト教化と、キリスト教の仏教化は同じことだったと思うんです。西田幾多郎はそれをうまくつないじゃったんじゃないのかな。内在即超越として。つまり、神は超越的なんだけども、同時に内在的である、と。しかし、これはすでに(※ キリスト教ではなく)仏教(※ そのもの)ですね。(※ 仏教の場合)仏は実は空無だけど、大衆にわかりやすいように仏として表象するんだと、親鸞も『歎異抄』のなかで言っている。つまり、超越=内在、内在=超越となっている。しかし、キリスト教では、この超越は、(※ イエス・)キリストという歴史的事実性があるから、内在化しえない外部性として、跳躍して信仰するほかない超越性としてとどまる。内村(※ 鑑三)の場合がそうですね。』(柄谷、前同 P291〜292)

つまり、私たちが本書を読む場合には、柄谷たちを安易に「私たち化」してはならない、ということなのだ。

私たち読者にとって、実際問題として柄谷たちは「外部」であるし、また「外部性」が皆無であれば、私たちは本書を読みながら真剣に考えるという契機を得ることができない。
なのに多くの読者は、柄谷たちを「私たち化」し、「柄谷行人くらい(だいたい)わかる」という気持ちで柄谷たちに向き合った結果、予想に反して「よくわからない」ので、その「よくわからないもの=外部性」と真剣に向き合うことをせずに目を逸らし、小林秀雄に倣って、不都合な部分については「沈黙」したり、「分析=記述」のない単なる「決めつけ」を、批評のつもりで得々と語ったりという誤ちを犯すことになる。

「見栄」を張らずに「彼我の違い」を率直に認めて、その「違い=外部性」に向き合うならば、私たちが本書から学ぶべきことは、いくらでも見つけられるし、それについて語ることもできるはずだ。

しかしまた「外部性」の存在を直視するためには、自身の現実(弱さ)を直視する「謙虚さ」が、何より必要なのだ。
ちょうどそれは、柄谷行人ほどの人が『そんなことは、ぼくだって言える。』と言える、そんな身についた謙虚さが、である。

初出:2020年9月4日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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