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蓮實重彦 『ショットとは何か』 : 蓮實が不得意な アニメから見た 「実写ショット」の意味

書評:蓮實重彦『ショットとは何か』(講談社)

とても面白かった。何が「面白かった」と言って、蓮實重彦が「映画」の「何(どの部分)」を重視していたのかが、ハッキリとわかった点である。
他にもいろいろ面白い部分はあったのだが、あれこれ書いていては長くなりすぎるので、本稿では『蓮實重彦が「映画」の「何(どの部分)」を重視としていたのか』の部分に限定して、以下に論じていこう。

ただ、最初につけ加えておけば、『蓮實重彦が「映画」の「何(どの部分)」を重視としていたのか』というのは、私が一昨年、初めてジャン=リュック・ゴダールを見て以来抱えていた、

(1)この人(ゴダール)は、何がしたいのか?
(2)ゴダール(や蓮實重彦)を高く評価するような映画マニアたちは、ゴダール(や蓮實)の何を高く評価しているのか?
(3)ゴダール(や蓮實重彦)はどうして、映像表現のことばかり問題としたがるのか(なぜ、映画の「中身」そのものを問題にしないのか)?

といった「疑問」に、本書が答えるものになっていた、ということである。

だから、面白かったのであるが、当然、「面白かった(納得した)」ということと「共感した」というのは、話が別だ。
私は、「彼ら」のことがやっと理解でき、その点で本書が「面白かった」のだが、理解できた「彼ら」には、依然として共感はできない。
喩えて言えば、地球を侵略してきた異星人の「侵略の意図」が理解できて腑に落ちたとしても、それに共感はできるわけではない、というのと似たようなことだ。「何を考えているのかわからない」というのは、単純に「気持ち悪い」から、それを理解したいと思うし、それが理解できれば「気持ちいい」。だから、その「説明」を「面白い」とも感じるわけだが、それと、その理解の対象に「共感」できるか否かは、また別の話だ、ということである。

まずは、話を蓮實重彦に限定して書いていこう。

蓮實重彦がなぜ「ゴダールを高く評価するのか?」、それがわからなかった。
無論これは、私がゴダールの「面白さ」がわからなかったからなのだが、蓮實重彦は、ゴダールの「どこ」を見て「面白い」と感じているのか、そこが謎だったのだか、どうやらそれは、「絵」のようだと、やっと腑に落ちたのである。

ところで、私がここで「絵」と表現したものを、蓮實重彦はどうやら「ショット」と呼んでいるようだ、というところまでは、なんとなく理解していた。だが、そこに微妙な「ズレ」も感じていたから、納得はできなかった。
ちなみに、映画用語としての「ショット」とは、次のようなものだ。

『1つのカメラでシャッターを押してから止めるまでに一度に撮影された連続する画面構図的意味も含まれる。1カットと同じ意味に用いられる場合が多い。本来1ショットとして撮影された素材を編集上で2つ、3つに切ってつかえば「1ショットの撮影素材を3カット使った」となる。』

(TMS東京映画映像学校「映画・映像 業界用語辞典 」より「ショット」

私は、もともとアニメの人(愛好者)なので、その言葉で言い換えるならば、「ショット」とは「カットが切り替わるまでの、ひとまとまりの動画(映像)」とでもいうことになるだろうか。その「一定の長さと動きなどを伴う絵」のことである。

そして、ここで重要なのは、この「ショット」が、所詮は「作品そのものの、ごく一部」に過ぎないという事実であり、したがって、「ショット」を評価することは、「作品総体」の評価と同じではない、という事実だ。

蓮實重彦に代表される「映画マニア」たちとは違って、私たち「一般人」が「映画」を評価する場合、普通は、映画「全体」を総合的に評価する。
つまり、「ストーリー」も「演出」も「(俳優の)演技」も「映像(見せ方や美しさ)」など、すべてをひっくるめて総合的に「よく出来ていた」とか「ここが良くなかったので、その点において不完全な作品(欠点のある作品)であった」というような評価をする。

ところが、蓮實重彦(に代表される「映画マニア」)は、明らかに「映像」の部分に重点を置いた、と言うか、もっぱらそこしか問題にしていないかの如き評価を語る。
まるで「優れた映像表現を理解できる者こそが、本物の映画理解者である」と言わんばかりにだ。

そして、そうした態度を代表する物言いとして、よく耳にするのが「あそこのショットが良かった」というような(蓮實重彦かぶれとしか思えない)評価の仕方である。

たしかに、「おっ」と思うような素晴らしい「ショット」というのは存在する。
例えば、ゴダールの『気狂いピエロ』で、アンナ・カリーナが、正面のカメラに向かって、ハサミを構えるように突き出す、パースの効いた「ショット」などがそれだ。
これは、初めてゴダールを見た私でも「面白いな」と思ったのだけれど、しかし、映画全体としては「何がしたいのか、よくわからない」作品だという評価になってしまったのだ。

要は「こんなに面白い絵が撮れる人なのに、どうしてもっと当たり前に意味の通る、当たり前に面白い物語を撮らないのか?(何なのか、この意味不明な前衛気取りは?)」ということだったのである。

しかし、蓮實重彦(に代表される「映画マニア」)や、たぶんゴダールも、なぜか「絵=ショット」ばかりを問題にして、「ストーリー」を含めた「映画全体」を問題にしようとはしない。これが、常識人たる私には「謎」だったのだ。

だが、本書を読んで、その「謎」が、ほとんど氷解した。

蓮實重彦自身は、それが「当たり前のこと」だと自明視しているから、私の感じていた「謎」について、本書で直接的に説明してくれているわけではない。
また、蓮實重彦が言うところの「ショット」、つまり、上に引用した「定義」には収まりきらない、蓮實重彦の考える「ショットの意味(重要さ)」というものは、映画マニアの間でさえ、よく理解できないものであるからこそ、『ショットとは何か』と題して、その「謎」をテーマにした本書が作られもしたわけでもある。

そんな本書では、質問に答えるというかたちで、蓮實は「映画におけるショットの、決定的な重要性」を語っており、その結果として、なぜ彼らが「ストーリー(物語)を重視しない」のかという「私の疑問」についても、その回答が、問わず語りになされていた、とこういう次第であった。

つまり、「彼ら映画マニアは、なぜ絵(ショット)ばかりを問題にして、映画全体で評価しようとはしないのか?(ストーリーを蔑ろにするのか?)」という疑問に、期せずして蓮實は答えていた。だから「面白かった」のだ。

 ○ ○ ○

「なぜ彼ら映画マニアは、絵(ショット)ばかりを問題にして、映画を総体として評価しようとはしないのか?(ストーリーなどを蔑ろにするのか?)」という疑問に対する回答として、私が蓮實重彦の「ショット論」に何を見出したのかを語る前に、その前提として、私たちが「当たり前」だと思っている「映画の享受姿勢」を確認しておこう。

普通、私たちが「映画」を「よく出来ている」とか「失敗作だ」と評価する場合、そこで問題となるのは、前記のとおりで、「ストーリー」「演出」「(俳優の)演技」「映像(見せ方や美しさ)」など、それこそ「すべて構成要素」を対象とする総合得点、というようなことになるだろう。

「ストーリー」は良くても、それを的確に「映像化」できていない「演出力不足」の作品であれば、その映画は駄作だということになるし、「ストーリー」と「演出」は悪くなくても、「俳優」が大根(演技が下手)では、見ていられない作品になるから、やっぱりそれも駄作だということになる。

また、ひと口に「映像」と言っても、「物語の的確な表現(映像化)」という意味なら「演出」の一部だが、単純に「美しい絵が撮れる」という意味なら、それはまた「作品演出」とは別に独自の技能による能力だとも言え、これのある無しも大きいはずだ。
例えば、山の景色を撮る場合、まずは「ストーリー」から導き出される「その場面に、最も適した、山の風景」が撮られなければならない。H・P・ラヴクラフトクトゥルフものであれば「不穏な山の風景」が必要となって、ただ「美しい山の風景」を撮ればいい(見せれば良い)ということにはならないだろう。
だが、そうした「特別な意味を持たせる」必要のないシーンの「山」ならば、ただ「べたーっと平凡に撮られている」よりは「ハッとするくらい美しく撮られている」に越したことはないのである。

で、こうした考え方からすれば、たしかに「絵は、美しく撮られているに越したことはない」とか「面白い絵であるに越したことはない」となる一方で、「絵は、映画の一部(構成要素の一つ)」であると、私のように考えるならば、「あのショットが良かった」とかいったような評価の仕方は、「部分に偏した(全体観を欠いた)」評価のように感じられた、ということなのだ。

「どうして、絵の話ばかりして、肝心なストーリー(的な中身・物語の意味)を問題にしないのか?」と、そう苛立たされもすれば、疑問にも思い、「こいつらは、映像表現の部分に特化された評価の仕方さえしていれば、それで映画通ぶれるとでも思っているのではないか」と疑ったのである。

そして、この疑いは、なかば当たってはいたのだが、さすがに蓮實重彦やゴダールが、そのレベルで「ショット(の重要性)」を言挙げしているとまでは思わなかったので、世間の蓮實重彦ファンやゴダールファンが、ことさらに「映像表現」の「部分」を言挙げするのは、「意味もわからず」蓮實やゴダールの「猿真似」をしているだけだろうとは思ったものの、この二人あるいは、今どきの「映画評論家」の多くは、映画を論じるのに、どうして「映像表現」の部分を最重要視するのか、という部分については、長らく「疑問」だったのである(長らくと言っても、こうした疑問を持ったのは、一昨年、初めてゴダールを見て、映画そのものに興味を持ってからのことにすぎないが)。

だが、本書を読んで、なぜ蓮實重彦が(そしてゴダールや多くの映画評論家が、私たち一般人とは違って)「ショットを重視する」のか、その「理由」がわかった。

私たち「一般人」が映画を見る場合、まず問題にするのは「ストーリー」だろう。要は「面白いお話だったか否か」というのが最重要ポイントであり、あとの要素、例えば「演出」や「演技」や「映像美」といったことは、あくまでも「ストーリー」を最も効果的に映像化するための「従たる要素」だと考えているのだ。それが「当たり前」であると。

ところが、ここで考えて欲しいのは、同じ「原作小説」を映像化したとしても、別の「映画監督」が映像化した場合には、それはまったく違った作品になってしまう。「歴史的名作」にもなれば「とんでもない駄作」になることもあるのだ。

だから、いくら「ストーリー(的な中身)」が大切だとはいっても、それを「映像化」する場合には、その「映像化力」とでも呼ぶべきものが問題となるだろう。つまり「描くべきものを、的確に絵にできる力」である。
そして、「映画」の場合これは、単に「ストーリーを、最も的確に〝絵〟に移す能力」というだけではなく、「俳優に的確に演技させる(演技指導)能力」や「そのシーンにあったBGMを付ける(選定する)能力」といったことも含まれるはずだ。

そして、このように考えた場合、蓮實重彦の言う「良いショット」とは、単に「美しい絵」とか「的確な絵」といった限定的なものを指しているのではなく、「俳優の演技」も「BGM選択」も含めた総合的なものとしての「ショット」だというようなことだったと、やっと理解できたのだ。

(蓮實重彦絶賛の、マックス・オフュルス監督『たそがれの女心』のダンスシーンのショット)

(二次元)アニメにおける「良い絵」というのが、まさに「動かなくても、すべてを表現してしまう絵」なのに対して、「実写映画」における「ショット」というのは「俳優の演技」も「BGM選択」も、すべてひっくるめた「ひとまとまりの映像(の最小単位)」のことであって、写真に撮られた「ワンシーン(絵)」のようなことを言っているのではないのだ。一一要は「総合的に的確な、映像(演出)表現」をして「良いショット」と呼んでいるのである。

そして、「ここ」に、私の、蓮實重彦(あるいはゴダール)に対する、「すれ違い」なり「誤解」があったのだと言えるだろう。
私が想定していた「絵」と、蓮實重彦が言う「ショット」とは、「似て非なるもの」と言うよりも、明らかに「中身が違っていた」のである。

では、どうして、こうした齟齬が生まれたのかと言うと、それは、「映像」作品を考える場合、私は無意識に「アニメ」を基準にして考えていたのに対し、蓮實重彦らの場合は「実写映画」を大前提として、「映画」というものを考えていたからだ。この両者の違いは、本質的かつ決定的なものだったのである。

具体的に言えば、「(二次元)アニメ」の場合は、「本来は動いていない絵を動かすことで、実写映画に似たドラマ表現をする」のに対し、「実写映画」の場合は「もともと現実に存在しているもののなからから、必要なものを限定的に撮影し、フィルム上に移し替えることでショットを作る」。
つまり、「アニメ」の場合は、「フィクションが現実を真似る」という方向性であり、「実写映画」の場合は「現実の中から、必要なものだけを取り出すことで、フィクションを作る」のであり、両者は、「映画」と呼ばれる点では「似たようなものであり、ただ、その表現媒体が、二次元の絵か、実写かの違いだけ」だと考えられがちだが、両者は、「映画」を作るに当たっての「原理的な方向性」が、まさに「真逆」なのである。
この点を、「アニメ」には詳しくない蓮實重彦は、本書で、次のように「漠然」と指摘している。

『君の名は。』も評判がよいようですが、わたくしは、アニメは原則として映画の範疇に加えていません。あれは映画によく似た何ものかではあると思いますが、よく似ているという点で、映画とは本質的に異なる何ものかなのです。ですから、『君の名は。』は見ていませんし、見る気もありません。アニメに興味を惹かれたことはありますが、真の意味で感動したことは一度もない。
 それは、いま、生きた被写体を撮っていることの緊張感というものが、アニメの画面に欠けているからです。』(P47)

蓮實重彦がここで「アニメの何に不満を感じているのか」は、私の先の説明を理解できた人には、もはや明白であろう。

蓮實重彦の「アニメ」に対する「物足りなさ」とは、要は「アニメというのは、描きたいものを描きたいように描けば良いだけ」という点にあるのだ。
だが「実写映画」の場合は、「現実に見えるものを、現実の素材を用いて捏造しなければならない」から「難しい」し、逆にそれに成功した場合には「不可能を可能にした」時のような「感動」がある、ということなのだ。蓮實が、そしてゴダールらが求めた「実写映画」の「特権性」とは、まさにここにあったのである。

あの蓮實重彦でさえ、よくわかっていなかったことなのだから、ここまでの説明では、まだよくわからない人も少なくないと思うので、もう少し「アニメと実写映画の違い」ということを説明しておこう。

例えば、(二次元)アニメは「漫画」由来なので、例えば「焦っている」というのを表現するのに「こめかみのあたりに、汗を一粒描く」ということで済ませることができるが、実写映画では、そうした「省略表現」は基本的に不可能であり、実際に汗をかくか、「偽の汗」をかかせるにしても、それなりに手間がかかる。これは「涙」もそうで、アニメや漫画なら「涙の輪郭線を描くだけ」の「簡略な抽象表現」で済むけれども、実写映画の場合は「目薬を指す」とか「俳優の特殊能力で、実際に涙を流す」(これは無論、すべての俳優にできることではない)といった手間が必要になる。
あるいは、格闘シーンなどでのド派手なアクションは、アニメの場合だと、登場人物は基本的に「無重力」だし「関節も仮のもの」でしかないから、とんでもない(非人間的な)「動き」だって、簡単に表現できる。しかし、こうした非現実的なアクションを実写映画で表現しようと思えば、俳優にはオリンピック選手か世界的なバレリーナほどの人間離れした運動能力が必要となるし、それでも限界があるため、「ワイヤーアクション」だの「映像合成」だの「CG」だのといった手間が必要になるのである。

(アニメーター金田伊功によるOPアニメだけが、あまりにも有名な『銀河旋風ブライガー』。現実の人間ではあり得ない誇張と歪みの中にこそ、二次元アニメの醍醐味と可能性がある。そしてそれは、絵がうまければ描けるというものではない)

また、例えば、主人公が雑踏の中を歩きながら考え事をしているというカットにおいて、それを強調するためには、「背景」に映り込んでしまう「雑踏」が邪魔だとしても、「実写」の場合は、それを単純に「消してしまう」ということはできない。なぜなら、実際に「映り込んでしまう」からだ。
だからこの場合は、「背景をボカせる(アウトフォーカスする)」とか、主人公のアップにして「背景を排除する」とか、あるいは特殊な演出として、そのカットだけ別撮りの「背景なし」で撮影して、それを挿入するといったことをしなければならない。しかし、最後の「背景なし」は、その前後の「雑踏カット」とうまく繋がないと「いかにも不自然」で 「浮いた表現(失敗)」になってしまうから、そこは慎重にやらなければならない。何しろ「実写映画」というのは、基本「自然の現実」を撮っていると、観客に感じさせなければいけないもの(建前のもの)だからだ。

(実写映画ではほとんどなく、アニメではよくある「画面分割」は、アニメの場合、不必要な情報は入れなくて済むため、画面が情報過多でうるさくなったりしないためだとも考えうる。『真ゲッターロボ 地球最後の日』より )

だが、アニメはぜんぜん違う。
漫画由来のアニメでは、主人公が雑踏の中で考え事をしている場合、主人公のバストアップの背景が「雑踏」ではなく、「真っ黒」とかそれに類したものになっても、なんら違和感はない。なにしろ「漫画」や「アニメ」は、「何もないところに、すべてを描き込む」ことから成り立っているために、言うなれば「必要なものだけを描けば良い」のであって、実写映画のように「邪魔な現実要素を排除する」という手間は必要なく、むしろ「邪魔な要素」は「描かれていないのが当たり前(自然)」だからである。

つまり、「実写映画」の場合は、「物語」が要請する「一つのシーン」を過不足なく表現するためには、「不必要な現実的要素」を「いかに排除するか」ということが問題となる。「不必要な要素」が「残っている」と、観客の目を、意図せぬところへ逸らしてしまう可能性が高まるからだ。「見せたいもの」を、見てもらえない蓋然性が高まるのである。

しかし、だからこそ、「現実には困難な、過不足のない映像」を巧みに取り出せた場合には、それは「奇跡的なショット」ということになる。
「実写映画」の場合には「適切な背景」「適切な俳優」を揃えただけでは「良いショット」は撮れず、その「演技」だの「構図」だのが問題となるし、そのほかにも「俳優の体調」だの「天候」だのといった要素まで問題となる。また、そうやって撮った映像も、「カットの繋ぎ方」を誤れば「死んでしまう」し、おかしなBGMをつけても「死んでしまう」だろう。
つまり「優れたショット」を撮るには、様々な「現実要素」との格闘(必要なものを持ってきて有効に活用すると同時に、不必要な現実要素をいかに排除するかといったこと)が必要となる。
ところが、「漫画」由来の「アニメ」の場合は、もともと「すべては、ゼロから作った作り物(フィクション)」なのだから、こうした「苦労」は一切ない。「必要なものを必要なだけ描けば(作り上げれば)、それでいいだけ」と感じられるから、蓮實重彦のような「実写映画」好きにしてみれば、「アニメ」は「実写映画とは、似て非なるもの」であり、「現実との関わりのなさ」における、その「容易さ」において、「つまらない」と感じられるのであろう。

だが、これは「事の一面」にすぎない。
というのも、アニメファンなら誰でも知っていることだが、「(二次元)アニメ」の「難しさ」というのは、「なんでもできるからこそ、何をやっても、できて当たり前」としか見られないということであったり、「リアルな表現を求めて、いかに現実に寄せたところで、二次元の絵が現実(リアル)そのものになることはない」といった困難があるのだ。
例えば「主人公が朝日の差し込む窓辺に腰掛けて、ぼんやりと考え事をしている」というシーンで、実写ならば、うまく撮れば、その朝日の斜光線の中にふわふわと漂う微細な「ホコリ」を撮ることができる。
だが、「アニメ」の場合だと、それをわざわざ描き込まなければ、その「ホコリ」は金輪際「存在し得ない」。けれども「ホコリ」を描くというのは、(CG処理でなければ)途方もなく手間なことであり、コストパフォーマンスという現実問題としては、「うっすらとしたホコリが舞っている」方が絵的に効果的な場合であっても、そこまではやれず、断念せざるを得ない。つまり、アニメはアニメで、実写には無い、表現の制限があるのだ。

(アニメーターとして最盛期の庵野秀明が描いた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のロケット発射シーン。舞い落ちる膨大な氷片を、すべて手描きでリアルに動かしてみせた、発狂ものの作画。こうしたシーンは、今やその効率性において、味も素っ気もないCGに取って代わられている。)

また、それと同様、二次元のキャラクターに、どんなにリアルなお芝居をさせても、あるいは「実写映像」をなぞったとしても、キャラクターが「二次元」である以上、その「リアルな動き」は「違和感」を生むことになり、ただ「現実そっくりな動き」を描きさえすれば、それで「リアルな動き」になるというような単純な話にはならない、という難問を抱えてもいる。
つまり、アニメの場合は「どこまでいっても、作り物(フィクション)」であることが「見た目にも明白」であるからこそ、「現実的なリアル」をリアリズム的に求めても、それは決して「到達し得ない理想」とならざるを得ないという、「実写映画」にはない、「アニメ」独自の「宿命的な弱点」を抱えているのである(その実例の一つとして、押井守のリアリズム系アニメの「無理」を考えてみるべきであろう)。

 ○ ○ ○

ともあれ、蓮實重彦やゴダールの場合は、基本的に「アニメ」には興味がないから、こうした「アニメ独自の困難」ということも、十分には理解できていない。
彼らが問題とするのは、「実写映画ゆえの困難」であり、「その困難を乗り越えた先にある、稀有な達成」なのである。
その「達成」を見た時に、彼らはそれに「感動する」のであり、そうした「達成」を蓮實重彦は「見事なショット」と呼ぶのだ。

以上のようなわけで、本書『ショットとは何か』を読んだ私は、なぜ蓮實重彦が「ショット」を問題にするのかということは理解できた。
要は、蓮實は「良いショット」という「奇跡的な達成」に感動し、それを見るために「映画」を見ているからこそ、「ストーリー」など「どうでもいい」、ということになるのだ。

「ストーリー」が「素晴らしかろうが陳腐であろうが」、そこはさしたる問題ではなく、重要なのは、その「ストーリー」が求めているものを、「最大限に効果的に映像化したショット」を撮ることであり、さらに言えば「ストーリーなんて、どうでもいい」と思わせるほどの「ショット」を撮って見せてくれることこそが、蓮實重彦にとっての重要事であり、「映画」に求める「第一の要素」なのである。一一したがって、蓮實重彦の場合は、「映画総体」よりも「見事なカット」がどれくらいあるかが重要なのであり、それによって「映画の価値」が決まり、また「その点(ショット)において、映画は評価されるべき」だとまで主張するのである。

しかし、映画の骨格をなす「ストーリー」さえ差し置いて「見事なショットこそが大事」だという、ある意味「倒錯的な価値観」は、どこから生まれてくるのだろうか。

それはたぶん、「ストーリー」ならば、「小説」にも「漫画」にも「絵本」にも「アニメ」にもあるけれど、「見事なショット」というのは「実写映画にしかあり得ないもの」だから、といったところからであろう。
だからこそ、「実写映画」最大の評価基準は「ショット」にあり、ということになっているのだ。

だが、これは前述のとおり、「倒錯的」な考え方だと思う。
もともとは「物語を最大限、的確かつ効果的に映像化する」ための「優れたショット」だったのが、「物語自体は、他ジャンルにもあるけれど、ショットは実写映画にしかないから、実写映画において最も大切なのは、優れたショットなのだ」と、こういう発想は、「手段が目的に取って代わった」ような、転倒した価値観、なのではないだろうか。

例えば、「好きな異性とセックスがしたい」けれど、それができないから「マスターベーションをする」のだが、それが気持ちよかったからといって「結局は、セックスだって気持ちよくなるためにするのだから、気持ちよくなれるのなら、セックスである必要はない。むしろ、マスターベーションの気持ちよさを知ったならば、それを極めた方が良いのではないか(例えば、オカズは容易に手を替え品を替えられるし、いろんな小道具も使用可能だ)」といったような考え方である。

いささか卑近(?)な喩えになってしまったが、要は「それしかできないから、やむなく、その範囲内でベストを尽くす」というのと「その限定があるからこそ、それが達成された時の快楽は大きなものになる」というのは、「話が別」だと思うのだ。
これは「どっちが正しい」ということではなく、「どっちに快感を覚えるか」という話なのである。

また「卑近な例」で申し訳ないが、「異性と当たり前にセックスするのが気持ちいい」という人と「鞭でしばかれブタ呼ばわりされる方が気持ちいい」という人では、どっちが「正しい」とか「どっちが上」だとかいった話ではなく、所詮は「趣味」の問題であり、「好きにすれば良い」というだけの話なのではないだろうか。

つまり、私の言う「倒錯的」というのは、だから「間違っている」とか「ダメだ」ということ(価値判断)ではなく、「例外的だ」とか「少数例だ」という事実の指摘に過ぎない。

これを「実写映画」の話に言い換えれば、「面白い(あるいは、深い)お話の映画が見たい」という人は「ノーマル(多数派)」であり、「優れたショットが見たい(ストーリーなどオマケだ)」という人は、感覚の先鋭化した「アブノーマル(少数派)」なのではないか、ということになる。

つまり、蓮實重彦やゴダールなどの、特別に「映像的感受性に優れた人」は、それゆえに「映像的快楽への傾きが先鋭化」するのであり、そうでない者(一般人)は、その興味を「映像」に集中させるのではなく、当たり前に「全部」を求める、ということなのではないだろうか。

蓮實重彦やゴダールは「映像的感受性に優れて、常識的な線を逸脱した、映像的変態」であり、そうではあり得ない私たち一般人は、「映像的変態」にはなれない「平凡な(凡庸な)人々」という、だけのことなのではないか。

では、なぜ、どう見ても、蓮實重彦やゴダールほどの「映像的感受性」を持っているとは思えない「凡庸な映画ファン」が、蓮實やゴダールの真似をして、「ショット」がどうの「映像」がどうのと言いたがるのかと言えば、無論、彼らは、誰よりも凡庸であり、「特別な存在になりたい」という凡庸な承認欲求が強いからこそ、「変態(少数例外)を気取って見せたがる」のである。
「私はみなさんとは、ちょっと違って、感性が鋭いから」と、そんなポーズをつけたがるのだが、しかし彼らは、実態としては「凡庸」であり「頭が悪い」から、自分たちのやっていることが「先鋭な変態の猿マネ」だということにすら気づいていないのである。

ではなぜ、そんな凡庸な人たちでも、曲がりなりにも「先鋭な変態」の猿真似ができるのかと言えば、「文芸評論」的な「物語分析」というのは、凡庸な馬鹿には不可能だけれど、「このカットは素晴らしい」というくらいのことなら、「凡庸な馬鹿」にだって感じられるし、言えもするからだ。

特別に「映画ファン」でもなければ「ゴダールファン」でもなかった私ですら、『気狂いピエロ』のあれこれのカットが「素晴らしい」とか「美しい」とは感じたのだから、その程度のことなら「誰にだってわかるし、言える」のである。
なにしろ映画作家は、可能な限り多くの人が「美しい」「素晴らしい」と感じるようなショットなりカットなりを目指し、それを達成しようとした成果が「見事なショット」なのだから、それは「わかって当然」なものでしかなく、それがわかること自体は、別に自慢できることでもなんでもないのである(お花がきれい、太陽が眩しい、というのと同じレベルのことでしかない、ということ)。

では、蓮實重彦やゴダールという「本物の映像的変態」と、それ以外の「エセ映像的変態」の違いは何かといえば、それはそのショットの「素晴らしさ」が何に由来するものなのかを「説明する」あるいは「実際に表現してみせる」能力の有無にある、と言えよう。

蓮實重彦なら「なぜ、そのショットが素晴らしいのか」の「説明ができる」し、ゴダールなら、自分の思う「素晴らしいショットを実際に撮ってみせることができる」わけだが、彼らの猿真似でしかない「エセ映像的変態」たちは「あれがすごい。これがすごい」とは言うけれど、それを、他人の口真似(コピペ)ではなく、自分の目と頭と言葉によるものとして(オリジナルなものとして)「説明する」ことはできないし、ましてやそれを自分で撮って示してみせることなどできない。
そうした「現実的な裏付け(証拠)」が示し得ない者は、「エセ映像的変態」だということなのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、映画評論家を含む「映画マニア」たちが、ゴダールや蓮實重彦などにひきずられて「映像重視主義」に偏っている現実とは、じつのところ「アブノーマルなエリート趣味」でしかない。
単なる「エリート」ではなく、少数例外である「本物の変態」以外は、「エリート趣味=変態趣味」でしかない「偽物」であり「猿真似」でしかないのだから、そうした特殊であったり、逆に通俗的であったりする極端な態度を、「映画鑑賞の王道」だなどと考える必要は、さらさらない。

忌憚なく言ってしまえば、蓮實重彦やゴダールを含む、本物の「映像的変態」というのは、「物語の快楽に酔う能力」が欠けているカタワなのだ。
「映像に関する感受性が並外れているために、物語の快楽に対する感受性が、相対的に小さくなっている」とも言えるのだけれど、結局はそれも同じことに過ぎない。主観的には、彼らは、私たち「一般人」が感じているほどの「物語の快楽」を感じていない、ということだからである。
これも喩えて言うなら、貧しい私たちは「たまご飯」の美味しさをよく知っているけれども、口の肥えた彼らは、他に「もっと美味しいもの」を知っているが故に、相対的に「たまご飯」を美味しいとは感じられない、ということなのだ。
また、言い換えれば、私たちは「ノーマルなセックス」でしか快感を感んじられないけれど、あらゆる「アブノーマルな快感」を味わえる感受性の鋭い彼らからすれば、「ノーマルなセックス(の快楽)」なんて「つまらん」としか感じられない、というのと同様のことなのである。

したがって、私たち「凡庸な一般人」は、彼らの「先鋭な映像的感性」を尊重しつつも、しかし、それが故に「物語の快楽」を享受できない彼らの「不幸」をも理解するならば、何も劣等感を感じて、彼らの「猿真似」などしなくても良いのである。

蓮實重彦は、映画監督を、「撮影」の映画監督と「演出」の映画監督に、便宜的に二分して、当然のことながら前者を重視している。

『一一でも、人びとは、なぜ、人工的な装置によって撮られた映画に、「現実」感などを求めてしまうのでしょうか。

蓮實 そうした「現実」があると考えておいたほうが、安心できるからでしょう。文学においても、映画においても、「現実主義(リアリズム)」という語ばかりがひとり歩きしていますが、それはそうしておいたほうが便利だからでしょう。「表象」されるもの、すなわち被写体の迫真的な「現実」性というものと、表象しつつあること、すなわち「撮る」ことの「現実」性とがたやすく混同されてしまうのです。まともな映画作家であれば、フィクションであろうとドキュメンタリーであろうと、「撮る」ことの「現実=現在」性にすべてを賭けているものです。そして、優れた批評家たちもまた、被写体の「現実」性より、「撮る」ことの「現実=現在」性に賭けた作家たちの真剣さが提供してくれる画面を見ることの「現実」性に賭けているのです。わたくしの批評が、しばしば作家たちへの「恋文」のように見えてしまうのは、そのためかもしれません。
ここで、「I 物語を超えて」で述べておいたことを思いだして頂きたいと思います。そこでのわたくしは、エリア・カザン『エデンの東』(1955)を「演出」の映画、ニコラス・レイ『理由なき反抗』(1955)を「撮影」の映画だといっておきましたが、それはいま述べておいたことを踏まえての発言にほかなりません。「Ⅲ 映画崩壊前夜とショットの誕生」で引用しておいたジャン゠マリー・ストローブの言葉もまた、そのように読めます。そこに肯定的に引かれていた「リュミエールグリフィスフォードラングムルナウルノワール溝口スタンバーグ、そしてロッセリーニ」などは、いずれも「撮影」の監督であり、否定的に引かれていた「エイゼンシュテイン黒澤ウェルズレネ」などは「演出」の監督ということができるかと思います。』(P190〜191)

ここで重要なのは、もちろん、最後の部分の、

『「Ⅲ(※ 本書第3章)映画崩壊前夜とショットの誕生」で引用しておいたジャン゠マリー・ストローブの言葉もまた、そのように読めます。そこに肯定的に引かれていた「リュミエール、グリフィス、フォード、ラング、ムルナウ、ルノワール、溝口、スタンバーグ、そしてロッセリーニ」などは、いずれも「撮影」の監督であり、否定的に引かれていた「エイゼンシュテイン、黒澤、ウェルズ、レネ」などは「演出」の監督ということができるかと思います。』

の部分である。

この「区分」の意味を説明しているのが引用文の前半部分で、要は「実写映画には、現実など無い(写っていない)」という蓮實重彦の主張だ。

映画には、それがフィクションの劇映画だろうと、現実に取材したドキュメンタリー映画であろうと、カメラによって切り取られた段階で、その映像は「現実の恣意的な断片」であり「現実の影」でしかなく、その意味で「現実そのもの」では、あり得ない。
「現実」には、「区切り」というものはなく、どのようにも区切れる「規定(限定)不可能性」こそが「現実」の現実たる所以なのだから、「撮影された現実(としての映像)」は、すでに「恣意的なフィクション」であり「非現実としてのフィクション」に過ぎない(ましてやそれを切り貼りして編集したものなど、現実でなどあり得ようはずがない)という主張なのだ。

(「映画には現実など映ってはいない」という自明の現実)

そして、ここまでは、今や多くの映画監督が口を揃えて語っている「凡庸な見解」でしかないし、私も、特に反対しようとは思わない。一一だが、ここからが問題となる。

蓮實重彦は「映画とは、例外なく映像的なフィクションなのだから、リアルを再現しよう、できるなどという発想は、映画の本質に反している」と言うのだ。
言い換えれば、「映画作家」が目指すべきことは「最良のフィクションとしてのショットを撮ること」であって、「物語を、リアルに映像化しよう」という発想は「映画というものの本質がわかっていない者の、誤った考え方だ」ということになるのである。

だから「良いショットを撮ろう」とする「撮影」の映画監督は「正しく」、「物語」をリアルに再現しようとする「演出」の映画監督は、方法論的に「間違っている」から、彼らは滅多に「優れたショット」が撮れない(撮らない)のだと、こう主張する。

言い換えれば「映画作家は、物語に従属したショットを撮るべきではなく、優れたショットによって構成された映画を撮るべきなのだ」というのが、蓮實重彦の考え方であり、ゴダールも、それに近い考え方の持ち主なのであろう。だからこそ、映像先行の、「変なお話」の映画を、好んで撮るのである。

だが、前にも書いたとおり、これは所詮「趣味」の問題に過ぎないし、そのことは、じつは蓮實自身、十分に気づいている。
しかし、自分たちが「少数派」だという自覚もあれば、その少数派の持つ「鋭い感受性」が蔑ろにされては、映画のためにならないと考えて、あえて「ショットこそが映画の本質だ」と「強弁して見せている」のだ。
言い換えれば、蓮實重彦のこうした「強弁」を真に受けているような「映画評論家」や「映画マニア(気取り)」たちは、基本的に「頭が悪い」のである。

言うまでもなく、通常の「映画」というものは「物語と映像の複合体」であって、どちらか一方ではない。
蓮實重彦が見続けている「映画」とは、決して「映像が面白いだけ」の「実験映画」や「前衛映画」的なものに限定されるわけではない。そういうものも見るけれど、物語を完全に排した「前衛的映像作品」を「これこそが、これだけが映画であり、映画の真髄だ」とまでは言っていない。
ゴダールだって、最晩年は「前衛映画」みたいな、ほとんど「物語(筋)」の無いような作品を撮っているけれども、それは好んでそうなったと言うよりは、金のかかる「物語映画」を作るために、大資本に従うことを潔しとせず、それをしないでも撮れる範囲での理想的な映画を模索した結果、晩年の「前衛映画」もどきになったと、そう考えるべきだろう。ゴダールだって、好きに撮らせてくれるのならば、金のかかった大作映画だって、撮りたかったはずなのだ。

したがって、私たち「物語の快楽」を味わうことのできる「一般人」は、エイゼンシュテイン黒澤ウェルズレネといった、「演出」の監督の作品を楽しめることを、恥じる必要など、まったくない。

(黒澤明の「痛快な娯楽性」の楽しさが、蓮實重彦にはわからない。上は、黒澤作品『用心棒』

彼らは、私たちが楽しめる「物語の快楽を尊重した映画」を撮ってくれているのだから、それを楽しむのは、なんら間違ったことではないし、「物語を楽しめる映画」を撮ること自体は、なんら間違いではないのだ。

要は、「好み」に基づく「志(目標)」の違いに応じて、「物語と映像の、どちらに比重を置くか」の問題でしかないのだ。
言うまでもなく、「物語」を尊重する「演出」の映画監督たちだって、「優れたショット」を撮ろうという意思は持っている。ただ、それが「第1番の価値」だとか「唯一の価値」だなどとまでは、考えていないだけなのである。

よって、蓮實重彦が事挙げする「撮影主義=ショット主義」とは、多分に政治的な「イデオロギー」であると考えて良い。
「それが唯一正しいと信じているわけではないけれど、状勢論的にそちらを強調した方が、全体の利益に適う」だろうと考えて、あえて「話半分の断言」をしているだけなのだ。

例えば、その「証拠」として、先に引用した蓮實に言葉から、次の部分に注目していただきたい。

『「現実」があると考えておいたほうが、安心できるからでしょう。文学においても、映画においても、「現実主義」という語ばかりがひとり歩きしていますが、それはそうしておいたほうが便利だからでしょう。「表象」されるもの、すなわち被写体の迫真的な「現実」性というものと、表象しつつあること、すなわち「撮る」ことの「現実」性とがたやすく混同されてしまうのです。まともな映画作家であれば、フィクションであろうとドキュメンタリーであろうと、「撮る」ことの「現実=現在」性にすべてを賭けているものです。そして、優れた批評家たちもまた、被写体の「現実」性より、「撮る」ことの「現実=現在」性に賭けた作家たちの真剣さが提供してくれる画面を見ることの「現実」性に賭けているのです。わたくしの批評が、しばしば作家たちへの「恋文」のように見えてしまうのは、そのためかもしれません。』

これが何を意味しているのかと言えば、要は「評論もまた、半分はフィクションである」ということであり、しかし評論家は(あるいは、文章家は)、「現実」そのものを書く(書ける)などと思っているのではなく、「書く」という行為自体の「現実=現在」性に『すべてを賭けて』書いている、ということなのだ。
つまり、いわゆる「客観的事実=現実」を書いているのではなく、「私の書くことが、私のとってはまぎれもなく真実であり現実だ」という確信に『すべてを賭けて』、その文章を書いている、という意味である。

したがって、蓮實重彦が「自信ありげに書いたり」「心から道義的な憤りを感じて書いたり」しているようなものも、決して「他人のとっての現実=真実」などではなく、所詮は「蓮實重彦個人の真実=現実」でしかない、ということなのだ。
「私の真実=現実」を力いっぱい語ることで、「他人の真実=現実」は変えることができ、それがやがって「客観的」と言われる「真実=現実」にもなるという「書くことの賭け」という「信念(イデオロギー)」を、蓮實重彦はここで語っているのである。

だから、私は、蓮實重彦のそうした「信念」自体は否定しない。「そういう考え方もあり」だと思うし、私自身も「似たようなこと」を考えている、と言うか、「まともな文章家」であれば、誰だって「書くことで現実は変えられる」し「変える」つもりで書いているはずだからだ。

しかし、その「物書きとしての信念」の部分では共感できるし支持していいとも思うけれど、「個別案件」としての「映画においては、ショットこそがすべてだ」という、政治的に誇張された「物言い(プロパガンダ)」には、立場的に賛同しかねるのである。

なぜなら、私の場合は、映画は「物語」を楽しむものであってもいい、と考える立場だからだ。
「映像オタク」もそれはその人の趣味として否定はしないけれども、自分たちの趣味的「権益」を守るための、誇張された主張は、他人の権益を侵害するものとして賛同しかねるのである。

要は「声のデカいやつ」に流されるつもりはない。こっちはこっちで、無名ながら「怒鳴り返させてもらうぜ」ということなのである。


(2024年5月25日)

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