蓮實重彦 『ゴダール革命』 : 〈主人持ち〉の批評
書評:蓮實重彦『ゴダール革命』(リュミエール叢書、ちくま学芸文庫〔増補決定版〕)
私が読んだのは「ちくま学芸文庫」版なのだが、単行本版(リュミエール叢書)についての、Amazonカスタマーレビューがとても参考になったので、両方を挙げておくことにした。
本書を一読して、まず思ったのは「ゴダールというと蓮實重彦」という印象が、映画の門外漢である私にはあったけれど、「ゴダールについて、意外に大した量は書いていないんだな」ということである。
本書を読むまでは、本書が「ゴダールについての長編評論」であり、タイトルからして、蓮實のゴダール論の「中核」をなす本だと思っていたのだが、実際には本書は、蓮實がゴダールについてこれまで書いてきた、いずれにしろ長くはない文章から、めぼしいものを集成したものに過ぎなかったのだ。
中身も、面白いと言えば面白いし、蓮實重彦らしい文章ではあるのだが、いかんせん短いし、その点で、いささか物足りない。
本書には、ゴダールがわからない私のような者を、力でねじ伏せるような迫力が感じられず、「なるほど、蓮實さんはそういう立場なんですね」といった感想を持たせるにとどまっているのである。
これまで、ゴダールの作品を14本観てきて、「これのどこが面白いんだろう? まあ、面白い部分もあるにはあるけれど、文句なしに面白いと言うほどではないし、まして、個性的ではあれ、ゴダールが特別優れた作家だという印象もないけどなあ」と、そんな感じだった私に、「ああ、そういうことだったのか! たしかに私は開きメクラだった…」と言わせるほどのものは、そこには無かった。端的に言って「やっぱり、趣味の違い。映画に求めるものの違いだったんですね」という感じだったのだ。
本書における「ゴダール論」の中心となるのは、前書きにあたる「プロローグ 時限爆弾としてのゴダール」の次に収められた、「破局的スローモーション」(初出・1985年)であろう。
この文章が書かれた時期というのは、ゴダールが「ジガ・ヴェルトフ集団」名義で、政治的な映画を撮っていた時期を終えて、再び商業映画界に復帰し10年余、再生ゴダールとして、
といった、「中期の代表作」とも呼べる作品をつぎつぎと発表していた、言うなれば充実期のゴダールを論じたものであり、私も『パッション』『カルメンという女』『ゴダールのマリア』『ゴダールの探偵』などは観ているから、前記「破局的スローモーション」での蓮實の議論には、一応のところ納得できる。「ああ、そういうふうに見ていたわけですね」という感じだ。
私個人としては「そういう見方」はしなかったし、するつもりもないけれど、人によってはそういう見方をして、それを面白いと感じることもあるだろうな、とは思ったのである。
で、「破局的スローモーション」の内容だが、例えば次のような部分に、ゴダールについての蓮實のスタンスがよく現れていると思う。
難しい話をしているわけではない。ただ、華麗なレトリックによって、即物的、むき出しに書くことを避けているだけだと言えるだろう。上の言葉に「補足注釈」を加えることで解説すると、次のようになる。
「 ところで、ゴダールは、いささかも個性的な作家ではない。「ゴダール現象」が「黒澤明現象」と異質の水準に位置しているのは、(※ ゴダールが、いわゆる「人間的な個性」の魅力で、観客を魅了しようとしているような、ありきたりな作家ではない)そのためである。彼は、個人的な問題の解決のために映画を撮ったりはしない。つまり、(※ 自分の問題意識から、何かを訴えようとか、何かを伝えようなどとは考えていない。)自分の個性を際立たせるための技法を身につけていて、それを題材に応じて駆使することを、独創的(※ であり、そこに価値があるの)だと思ってもいない。彼は、かつて独創的であろうとしたことはないし、こんごもそうあることはないだろう。(※ そもそも彼は、「個性」や「独創性」なんて、ケチなことにはまったく興味がないのだ。)「ゴダール現象」があくまでわれわれ(※ 受け手)の問題(※ であり、ゴダールの主体的な問題ではないの)だという意味もそこにある。われわれ(※ 凡人であり俗物、そして他の映画人)が映画を撮るのは、(※ いつだって)個性的であろうとする(※ 自己表現により承認欲求を満たしたいという)意志(※ つまり、強い意識的な欲望)を放棄しえないからにほかならない。映画を撮る以上は(※ 普通は)、(※あの、お客様に奉仕することしか考えていないような)スピルバーグでさえ、(※ やはり、自身を表現するという欲望を抑えられず、そのせいで否応なく)個性的たらざるをえないのだ。『スワンの恋』のシュレンドルフを見よ、『アマデウス』のミロス・フォアマンを見よ。こうした作家たちの映画の退屈さは、彼らの個性や独創性が(※ 「私の非凡な才能を見よ!」と、にぎにぎしく)画面を彩っているから(※ であり、その暑苦しい俗物性にウンザリさせられるから)にほかならぬ。
(※ しかしながら、例外的にも)ジャン=リュック・ゴダールは解決すべき問題を持たない。(※なぜなら彼は、もとから解放されている、自由な存在だからだ。)天才とは、きまってそうしたものなのだ。その周囲には、「ゴダール現象」というわれわれ(※ 俗物由来)の問題しか存在しておらず、しかも彼はそこから徹底して自由である。もちろん、自由とは、傲岸さをいうのではない。(※生まれながらに惠まれた存在としての貴人が、他人に何かを求めるような、物欲しさを持たないのと同じように、その俗物性からの自由とは)恩寵(※ であり、そ)の同義語であるところの優雅さ(※であり、そうした特権性)こそが自由にほかならぬ(※ ということな)のだ。(※ したがって)ゴダールは、雅やかな寵児である。(※ 神に選ばれて恩寵を賜った、特別な天才なのだ。いっそ、人間の「魂」などもたぬ「天使」と言っても良い。)それ故に、彼は歓ばしき知と戯れる特権を持つ。(※つまり、俗物=人間、としての重力に縛られることなく、彼は自由に非地上的な、特権的な知と、戯れ続けることが許されている。)にもかかわらず、その振る舞いがときとして傲岸無礼なものに映り、傍若無人な映画的身振りとして人をいら立たせたり、それを独創性の名において許容するといった事態が起こるのは、われわれが(※ 重力に縛られた俗物であり、にもかかわらず、ゴダールを同じ人間として理解しよう、彼を地上に引きずりおろそうとする)「ゴダール現象」(※ という俗物性の発露)から逃れえずにいるからなのだ。そして(※ 地上的に愚かなわれわれは)、ゴダールその人が、われわれの問題にほかならぬ「ゴダール現象」を、われわれになり代わって 解決してくれるのではないかなどとつい、期待してしまう。(※ なぜなら、「同じ人間なんだから」と考えるからだ。)だが、恩寵である優雅さ、あるいは優雅であるところの恩寵を期待しながら(※ 物欲しげに)映画を見たりすることほど、(※ 与えられることだけを期待する乞食のごとき)怠惰な振る舞いもまたとあるまい。いずれにせよ、期待とは、(※ 地上性であり、そんなものを持たない天上性に対するものとしては、明らかに)誤った問題(※ 意識)なのである。恩寵とは、優雅さとは、(※ 人間を満足させるための)期待の地平に形成されたりはしないし、期待を充たすという機能などもともと持ってはいないのだ。(※ それは、われわれとは関係なしに、独自に、自由にはたらくものなのだ。)「ゴダール現象」とは(※ 本当は)、解決されることをいささかも求めはしない(※ 何かを与えられることを必要とせず、何も欲しない、そんな)問題である。より正確にいうなら、隠された部分(※ 神秘の領域)が徐々に視界へと浮上したり、未知の領域(天上性)へと(※ 俗人の)視野を誘ったりすること(※そんなストリップのごとき、思わせぶりなところなど一切)がなく、わたくしの、あなたの、あの人の、つまりはわれわれ全員の瞳に(※ なんのこだわりもとらわれもなく、自由奔放に、自然に)おのれを万遍なくさらけ出した記号(※ それが、ゴダールであり、ゴダールという現象)だというべきだろう。だから、それを問題(※ つまり、誰かに対して与えられた問いででもあるかのように「問題」)と呼ぶのは語法の誤りだというに等しく、ほとんど問題ではありえないものこそが「ゴダール現象」なのである。(※ したがって)われわれが(※ 見当違いにも)彼にその解決を依頼したり、(※ 愚かにも、地上的な)自分の手で(※ 「ゴダール現象」という、われわれの側の問題を、勝手に)解決しようとしてはならないのは、そうした理由による。(※ つまり、そんなことは原理的に不可能なのだし、それをやれたつもりになったのだとしたら、それは必ず誤りでしかあり得ないのだ。)
にもかかわらず、(※ 本質的には、幻想であり誤認でしかない)「ゴダール現象」が問題としてわれわれの前に提供されているかにみえるところに、「ゴダール現象」の微妙な 難解さが存している。問題は、問題と呼べないはずのものを問題だと勘違いさせ、その解決に専念することがゴダールにふさわしい振る舞いだと思わせてしまう何かが、その(※ 人、ゴダールの)まわりに絶えず交錯しあっているからだ。ゴダールが厄介な作家であるのはそのためであり、彼が難解な問題を提起するからでも、それを独創的に解決してみせるからでもないことは、いまや明らかだろう。(彼は、何かのために、何かを求めて、何かをしようとしているのではない。ただ、恩寵による天命によって定められたところを、ただ、している、だけなのだ。)」
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私は以前、蓮實の著書『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』のレビュー「これは フィクションである。」において、蓮實にとっては、ゴダールは「神」であり、蓮實は、その神の存在と正当性を弁証するための「神学者」であると指摘した。
しかし、そこでも論じたとおり、ゴダールは「神」ではないし、蓮實も本気で、ゴダールを「神そのもの」だと思っているわけではない。あくまでもレトリックとしての「神のよう(に自由)な人」であり、その意味でゴダールは「稀有な才能の持ち主(天才的な、人間)」なのだから「彼を擁護しなければならない」と蓮實は考えて、ゴダールをあえて「神格化」して見せているにすぎないのだ。
だから、本書単行本版のAmazonカスタマーレビューにおいて、レビュアー「本という物」氏が、そのレビュー「何も、、、、」において、
と言うのは、まったく正しい。
ここで言う『ただただ映画に仕えるために書かれた』というのは、蓮實重彦が、「映画」はもとより、「ゴダール」について書いた文章において、「映画」の、そして「ゴダール」の価値を弁証するための、(ためにする)「神学者」の立場をすすんで引き受けているという意味であり、要は、蓮實は「客観的な評価者」ではなく、「党派理論家(イデオローグ)」でしかない、ということなのだ。
だから、蓮實重彦は、ゴダールの魅力が「わからない人」に対して、それがわかるように説明することができない。
「わからない人」の地平に、いったん立ってしまえば、それはもう「好み」に規定された上での「能力」の問題でしかないから、そうした人を説得するというのは原理的に不可能だからで、例えて言うならば、「生まれついての盲人に、絵をイメージさせるのが不可能」だというのと同じことであり、言い換えれば「いわゆる健常者には、盲人が見ている繊細かつ豊かな世界が見えない」というのと同じことなのである。つまり、住んでいる世界が、そもそも違うということなのだ。
したがって、蓮實自身も「ゴダールがわからない人」を説得することなどできないというのは、よくわかっている。だから、説得しようとはせずに、「断言」することで、それがさも「自明な事実であるかのように」語るという戦略を採るのである。
だから「ゴダールがわからない人」の一人なのであろう、レビュアー「kppyz」氏が、そのレビュー「ゴダールの斜め読み」で、次のように書いていることも、おおよそ正しい。
蓮實が、「kppyz」氏の指摘するような「高圧的な決めつけ」によってゴダールを論じているに過ぎない、というのは、まったく正しい。
ただし、蓮實が、なぜこのようなスタンスを採るのかということについては、「kppyz」氏は、まったく理解が及んでいないのである。
本書も、後の方の文章を読めばわかるとおり、蓮實重彦だって、ゴダールが徐々に変わっていっているという事実は了解しているし、それがしばしば「人間的な方向への変化」であることも理解している。その上で、蓮實はそれを否定するのではなく、肯定的「追認」しているのだ。
しかし、ゴダールが「人間的」な方向に変化しているのであれば、先に引用した蓮實の「ゴダール寵児論」からすれば、その変化は「堕落」あるいは「失寵」ということにならなくてはおかしい。つまり、ゴダールの変化を「批判」しなければならないはずなのだが、蓮實がそれをせずに「追認」していくのは、結局のところ、当初からの方針として、ユニークな映画作家であるゴダールを「擁護」するというのがあり、その基本方針に沿って、理解されにくいゴダールの「人間としての個性」を「恩寵的(天上的)」というレトリックで「擁護」し、地上的な、つまりは当たり前の立場からの「批判」を、あらかじめ封じようとしたためなのであろう。
したがって、ゴダールを高く評価する人というのは、蓮實重彦と同様に「地上的なもの」にウンザリして「天上的なもの」を求めている人たちであり、それを「ゴダールという人間」に仮託し、幻視している人たちだと言えるだろう。つまりは「信仰者」である。
彼らは、実在しない「神」を、「書物」や「絵画」の中に発見し、それに憧れて、それが実在していると思い込もうとしている「現実逃避者」に過ぎない。言い換えれば、ゴダールは「神として祭り上げられた人間」に過ぎない。要は「ひとつの偶像」に過ぎないのである。無論、「よくできた偶像」とは言えるのかもしれないが、所詮「偶像」は「偶像」であって、「神」ではないのだ。
ただ、こうした「信仰者」の中にも、本気でゴダールを「神」だと信じているような「素朴盲信者」もいれば、蓮實重彦のように「この世に神が実在しない以上、われわれは、それをでっち上げるしかない」と考えているような「虚無主義者」もいる。だから、その違いは、しっかりと区別すべきだろうが、いずれにしろ、ゴダールが「神」ではなく「(ひとりの)人間」であるという事実だけは揺らがないのだ。
言い換えればこれは、「ゴダール現象」が「黒澤明現象」(あるいは「スピルバーグ現象」「シュテンドルフ現象」「ミロス・ファオマン現象」)などとは、たしかに「異質」な「部分」があるとはいえ、しかし、その「異質」性というのも、所詮は、この地上性という「地平」を逃れうるものではない、ということなのだ。
なるほど、ゴダールは、「寵児」ではあるかもしれない。しかし「寵児」とは「神の恩寵を受けた人間」のことであって、「神」や「天使」のことではない。「神」や「天使」は、もともと「恩寵」を必要としない超越的な存在だからである。
したがって、ゴダールは「ひとりの寵児」ではあろうが、「寵児」は、この地上において「大勢いる」ということになる。したがって、蓮實重彦個人としては認めたくなくても、他の者から見れば、黒澤明も、スピルバーグも、シュレンドルフも、ミロス・ファオマンも、それぞれに「ひとりの寵児」に他ならない、ということなろう。
蓮實が、本書を『ゴダール革命』と題したのは、「ゴダールが映画に革命を起こした、などという言い古された意味ではない」と、いつもの調子で断った上で、自身の意味するところは「ゴダールを超えていくという方向で更新されなければ、映画はダメになる」という意味においてである、という。
たしかに、今の映画は「視聴者中心」のテレビの影響のもとに、かつての「映画芸術」的な独自性を失っており、そこに古い映画ファンである蓮實が、危機感を募らせているというのは、ほぼ間違いのない事実だろう。
だが、だから「ゴダールを超えていく方向でしか」という言い方は、ある種の「ショック・ドクトリン」であり、要は「危機便乗政治」でしかないのではないだろうか。
つまり、たしかに「映画の危機」は訪れているし、その危機はなんとかして乗り越えられるべきではあろうが、その方向性が「ゴダールを乗り越える」という方向だというのは、なんら具体的な裏付けのない話、いつもの「断言」にすぎないのではないか。
もちろん、そうした方向も考えられて然るべきではあろうけれども、しかしそれが「ゴダールを乗り越える方向で」と特定された時に、それは「映画の危機」に便乗して、「抱き合わせ」で「売れ残り商品」を売り込こうとするような身振りなのではないか。
以上のような私の批判が、間違い、あるいは誤解であるというのであれば、蓮實重彦は「断言で切り捨てて排除する」という権威主義的な態度ではなく、「地上の言葉」で私を反駁すべきであろう。
そして、それができないのだとしたら、蓮實重彦の、「映画についての言葉」あるいは「ゴダールについてに言葉」は、やはり「護教的」な「神学者の言葉」でしかないと、厳しく批判されるべきであろう。
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ちなみに、私はこれで、ゴダールや蓮實重彦を「片づけた」というつもりはない。
たぶん、基本的な方向性が覆ることはないとしても、もっともっと、しっかりと裏付けをとって、ゴダールなり、蓮實重彦なりの「地上的な真相」を確かめたいと考えている。
なぜなら、それが「無神論者」である私の務めだからであり、同時に私が、シモーヌ・ヴェイユ的な信仰者でもあるからなのであろう。
(2023年9月13日)
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