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山田宏一 『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』 : 妬み嫉みのゴダール論

映画評:山田宏一ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』(ワイズ出版)

のっけからカマすようで申し訳ないが、本書は「批評」書ではない。と言うか、著者の山田宏一は、「批評家」ではない。その名に値しない。

「評論家」なら、まあ「面白かった・面白くなかった」と言うだけでも「論評」とは言うから、素人まで含めての「広義の評論家」という意味で、そう呼んでもいいかも知れないが、それだと「評論家」という言葉の無意味な濫用にしかならないだろう。

やはり、「批評家」なり「評論家」と名乗る、あるいは、そう「呼ぶ」のであれば、それだけの「中身」が必要だろう。「中身」の必要を求めるべきなのだ。

だが、実際のところ、有能であろうと無能であろうと、それで食う「映画に関する文筆業者」であれば、「映画評論家」なり「映画ライター」を名乗り、著作でも出したら、中身は変わらなくても「映画評論家」と、ちょっと偉そうな呼び名になる。
本人が、そう名乗る時もあるし、周囲が「先生」扱いするために「映画ライターの誰々さん」とは言いにくいから「映画評論家の誰々さん」などと呼ぶので、いつの間にか「映画評論家」という肩書きが定着してしまったりするのだろう。
だが、そんな「中身の伴わない人」は、「批評家」だとか「評論家」などと呼ぶべきではない。端的にいって、それは、限りなく「嘘」に近い、素人だましの「誇大広告」でしかないからである。

では、なぜ、本書著者の山田宏一が、「批評家」や「評論家」の名に値しないのかと言えば、それは山田が、「批評」をしておらず「評論」を書いていないからだ。

私が、山田の著作を読むのは、これでまだ2冊目で、他で「批評性のある、評論らしい評論」を書いている蓋然性もゼロというわけではないのだが、私が2冊目にしてここまで断言するのは、この2冊をして「批評性がある人なら、こんなものは書かない」と確信できたからだ。

本書に関する、Amazonカスタマーレビューを瞥見してみると、山田の書くものが「批評」や「評論」であり、山田が「批評家」や「評論家」だと疑いもなく信じている人が多いのだが、そういうのは、まともに「批評書」や「評論書」を読んだことがない人か、読んではいても、「批評とは何か?」「評論とは何か?」ということまでは考えたことがなく、ただ「面白かった・面白くなかった」で済ませてきた人たちだと言って良いだろう。
「批評とは何か?」「評論とは何か?」といったことを一度でも考えたことがある人なら、山田の書くものを「批評」だとか「評論」などとは思わないし、おのずとそのようには、呼ばない(呼べない)はずなのだ。

では、山田宏一の書くもの(文章)は何なのかと言えば、本書を読めばわかるように、「注釈プラス感想」である。それだけ。

本書の場合は、主にジャン=リュック・ゴダールの作品を扱い、アンナ・カリーナという女優を扱っているわけだが、ゴダールに関して言えば「ゴダール作品への詳細な注釈プラス感想」でしかなく、アンナ・カリーナに関しては「思い入れだけの主観的な感想」でしかない。
つまり、「ゴダール作品への詳細な注釈」の部分は「研究資料」としてなら役には立つもので、その点で「研究書」と呼んでも、まあかまわない。しかし、そう呼ぶには、素人と大差のない「(主観的な)感想」は、いかにも余計であり、いっそ邪魔なのだ。要は「研究書」だとしても、不純な要素が多すぎて、研究者としての「自己抑制の自覚」に欠けているということにもなる。研究とは、可能なかぎり「客観的に対象に迫ろう」とするものであり、その点で自己抑制が必要で、それが「研究者の倫理」でもあるのだが、山田宏一の著書には、「評論家もどき」の「主観のたれ流し」があるから、その点で「研究書」としての完成度は低い。
「主観的感想」の部分をすべて無視するならば、「ゴダール研究のための資料」にならないことはない、「資料的価値」ならある、というそんなものなのである。

一読してもらえばわかるように、本書において「感想」以外のところとは、要は「ゴダールのこの作品のこのカットは、このシーンは、誰某監督の『○○』という作品の引用だ」とか「挨拶」だとか「目配せ」だとかいった、「うら話的な注釈」ばかりである。
そして、その根拠はというと、ゴダール自身の作品外での発言もあれば、関係者の証言もある。山田が個人的に「似ているから、多分そうだろう」と思っただけ、というものもある。

例えば、『アルファヴィル』を論じた部分だと、こんな具合だ。

『 中性子による人工放射能を実現したという物理学者の名が付けられたエンリコ・フェルミ街の安宿「赤い星」(「赤い星」とは共産主義国家の象徴でもあり、「レッド・スター」つまり「火星」のことでもあり、そしてもちろん一九三八年のオーソン・ウェルズの名高いラジオ・ドラマ「火星人襲来」への目くばせでもあるだろう)に、ヘンリー(アンリ)・ディクソン探偵は廃人同様になってくすぶっていた。α60の洗脳的拷問責めと「誘惑婦」の性的攻撃にあって自殺と恍惚死のあいだを抵抗しつつさまよっている状態である。落ちぶれた無精ひげのディクソン探偵/エイキム・タミロフは、オーソン・ウェルズ監督の『審判』のみじめにおびえる罪人のイメージだ。『審判』の暗い迷宮を貧しく狭くしたような安宿の二階の廊下で再会したレミー・コーションとヘンリー(アンリ)・ディクソンの頭上に、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(一九六〇)の老婆の亡骸の寝室のシーンを想起させる裸電球がゆれる。』(P265〜266)

ここで引き合いに出されている「オーソン・ウェルズ監督の『審判』」や「アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』」というのは、たぶん山田の独自「見解」であろう。
オーソン・ウェルズやアルフレッド・ヒッチコックを高く評価していたゴダールであれば、このカットは、このシーンは「あの作品を踏まえたものに違いない」というアナロジーに基づく連想的推察」である。

勘違いしてもらっては困るのだが、私はここで「アナロジーに基づく連想的推察」が「(物証や傍証に欠けるという意味で)無根拠なものだからダメだ」と言いたいのではない。なぜなら、批評や評論には「アナロジーに基づく連想的推察」は、むしろ不可欠なものだからだ。

どういうことかというと、「読解」という行為においては、「AはAである」と言うだけでは、意味がないためだ。そんなことなら、みんなわかっているからである。
では、批評がすべきこと、評論文として書かれるべきこととは、どういうことかというと、「Aの中には、表面には表れていない、Bという性格がある(かも知れない)」という、人々が気づいていない(洞察しえていない)点について「根拠を示して、指摘する」ことだからである。つまり、具体的に言うと、

「Aは、Cに似ている。Bにも、Cに似たところがある。したがって、AとBはまったく無関係に見えるけれども、Cという共通点において、似ているところがあるかも知れない。したがって、Aの、B的な側面というのは、検討に値するものだ」

というようなことだ。
ここでは「アナロジーに基づく連想的推察」によって、「Aに秘められているかも知れないものとしての、Bの可能性」が指摘されるのである。

これは「AはAである」という、自同律を超えるもの(可能性)であり、「Aは素晴らしい」「Aは美しい」「Aに感動した」などという「AはAである」の域を一歩も出ない「素人の感想」とは「次元を異にしたもの」であり、「批評」とは、この次元を開示するものなのだ。そして「評論」とは、それを「論理的に語ったもの」を言うのである。
また、言い換えれば、自同率の次元を超えた可能性を語っていたとしても、それを「論理的な説明」という形式に落とし込んでいないものは、たとえば「批評的エッセイ」であり「批評」ではありえても、「評論」ではない、ということになるのである。

では、山田宏一の書くものが、どうして「批評」や「評論」ではないのかというと、それは山田のやっていることは「これはあれに似ている」「それにも似ている」といった「アナロジーによる相似性の指摘」に止まって、「それが、何を意味するのか」という、批評的に肝心なところにまでは、まったく届いていないからだ。

子供だって「お父さんは、山のようの大きいとか」といった「アナロジー的発見」をすることはある。というか、「アナロジー」というのは、人間特有の「知的操作」であり、誰もが多少なりとも持ち、使っている能力なのだ。

ただし、優れた「批評家」「評論家」というのは、そうした「アナロジー的なものの見方」というのを、「紋切り型」に囚われることなく、自由に駆使することができる。
先ほどの、子供による「お父さんは、山のようの大きいとか」というアナロジー表現は、その意味では「大人の紋切り型」に染まった(手垢に塗れた)「創造性を欠いたアナロジー」の一例だと言えるだろう。子供だから「自由」だというのも、一種の「紋切り型」であり、思い込みに過ぎないのだ。
だから、そうした「紋切り型」とは違い、優れた「批評家=評論家」は、「型通りの連想」に縛られることなく、それを超えて、対象の中に「新たな特性」を発見するのだが、その際に使われるのが「AはBに似ている」という「アナロジー的発想」による、「ズラし」なのである。

だが、山田宏一の場合は、具体的根拠があったりなかったりはするものの、いずれにしろ彼の「アナロジー」は、誰が考えても「そうだよね」という域に止まるもの、つまり「紋切り型」の域を出ない「当たり前」のものでしかない。
だから「間違ってはいないが、面白くもおかしくもない(当たり前)の指摘」でしかない。また、それに止まるから、蓮實重彦風に言えば「凡庸」であり、「批評家=評論家」の名には値しないのである。

もちろん、山田のこうした「「ゴダールのこの作品のこのカットは、このシーンは、誰某監督の『○○』という作品の引用だ」とか「挨拶」だとか「目配せ」だとかいった「うら話的な注釈」」というのは、作品鑑賞能力は無くても、知ったかぶりをしたいだけの「映画オタク」の役には立つだろう。
「『アルファヴィル』のあのカットには、これこれという意味が秘められているんだよ」などと、まるで自分が発見したかのように語るのに、ちょうどいい「知ったかぶりをするためのネタ帳」になるからだ。

(本書カバー下本体表紙表面の、和田誠による『アルファヴィル』のイラスト。
なお当ページのトップ画像は、本書カバー背面の、著者によるアンナ・カリーナの写真)

だから、この種の「映画」オタク、「ゴダール」オタク、「ヌーヴェル・ヴァーグ」オタクの書いたものを見てみるといい。彼らは、どこからか仕入れてきた「豆知識」を意味ぶかげに披瀝した後にすることと言えば「だから、素晴らしい」「だから、美しい」とかいった、凡庸に主観的な「感想」の付け足しでしかない。彼らには「分析」とか「分析による根拠提示」なんてものは無いのだ。
要は「こんなに知っているのだから、私の感想は、本質を突いている(はずだ)」という「虚仮おどしのペテン」でしかないのである。

同様に、もしも山田宏一に「洞察眼」があるのであれば、彼はその「洞察眼」を本書でも示したはずだし、彼に「分析能力」があるのであれば、それを示したはずだ。
だが、彼がそうした根拠を示しえず、もっぱら「注釈書的な注釈」に終始し、おまけのように「感想」を付け加えるだけ、というのは、彼には、そうした洞察・分析能力が無いからにほかならない。「批評家=評論家」としての能力があるのであれば、求められずとも、それを示したはずだという、これは単純な話なのだ。

例えば、「この映画は、素晴らしい」とか「このシーンは、感動的だ」と言うのであれば、本来であれば「何がどう素晴らしいのか。その根拠は奈辺にあるのか」というところまで語らなければならない。「感動的だ」と言うのならば「何をどのように感動したのか。その感動の意味するものは何なのか」というところまで語らなければ、そんなものは「無意味」である。
なぜならば、そう語っている当人が、映画の「素晴らしさ」や「感動」の意味を「わかっていない」かも知れないからだ。単に「感情が動いた」ということを語っているだけで、その中身がないかも知れない。
中身の無い感動で良いのなら、感動すればそれで良いと言うのなら、脳の快楽中枢に電極を差し込んでもらったり、ドーパミン注射でもしてもらえば、どんなにクソな映画でも「感動」できるし、感動の対象が存在しなくても感動できるだろう。だが、そんな「感動」は、文字どおり「無内容」であり「無意味」なのだ。

以上、原理的かつ常識的な議論はここまでにして、この後は本書『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』の内容に即して語ることにしよう。

 ○ ○ ○

本書『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』で、著者の山田宏一が語っているのは、極めて初歩的な「感想」にすぎない。
無論、最初にも書いたとおり、本書は「ゴダール映画の注釈書」としては「よく調べている」という点では評価できるし、役にも立つだろう。
だが、山田の「感想」だの「意見」だのは、素人の域を一歩も出ない、無内容なものにすぎない。何も「新しい」ものが無いのだ。ただ、注釈し、他人の意見を紹介した上で、その尻馬に乗って、自身の「凡庸な意見」を付け足しているだけなのである。

だから、山田宏一の著書として、本書の持つ「オリジナリティ」というものは、何もない。
繰り返すが「よく調べましたね。個人的な感想の部分は、つまらないけど」といったものにすぎない。「表面的」に読めば、ただそれだけの本である。

しかし、こんな「当たり前」のことを指摘するだけなら、特別「批評眼」などなくても、「肩書きに対する権威主義的偏見」がなく「正直に語れる」人であれば、誰にでもできることだ。
そんな人は、案外すくないとしてもである。

だから、本書のレビューとして、私が批評的に語らなけれえばならないのは、以上のようなことではない。以上のことは、「批評」というものを考えたことのある人には「当たり前のこと=自明の前提」でしかないのだ。
ただし、Amazonカスタマーレビューなどを見ると、山田宏一の読者には、こうした「批評」というものに対する「自明の前提」すら無いようだから、そこから語らなければならなかっただけなのだ。「ジャンケン」をしようとしても、相手がそのルールを知らなければ「ジャンケン」すらできないので、そのルールから、懇切丁寧に教えなければならない、というのと、まったく同じ話なのである。

では、議論の前提となる、「批評とは、こういうもの」だということを簡単に説明し、本書が「批評」書、「評論」書の名に値しないという事実を解説した上で、私が批評的な「読解」として指摘し得る本書の特性とは、次のような諸点である。

(1)山田は、アンナ・カリーナに、文字どおり惚れていた。また、その彼女をものにした男、ゴダールに嫉妬の感情を抱いていた。
(2)その「嫉妬」に暗んだ目で、ゴダールという作家と、作品を評価して、陰険な意趣返しを、批評めかして提示した。
(3)だから、山田のゴダール評価は、基本的にゴダールの人格評価に依拠したものでしかなく、作品の読解的評価を示したものではない。そもそも、山田は、ゴダールの「ゴダール・アンナ時代」の作品以外は「理解できない」し、それは仕方ないとしても、そもそも「理解しようともしていない」という点が、問題なのだ。

と、大筋このようなことである。

(1)については、おおかたの人が認めてくれることだろう。ただ、私のように、あからさまには書かないだけで、山田宏一の中に「憧れのアンナを、一度はその胸に抱いた、イケすかない天才野郎ゴダール」という感情があるというのは、読めば誰にもわかるほどに、あからさまなものだ(あるいは、ここにも「本読みなら」と、条件を付するべきか?)。

中には稀に「まさか、そんな」と思う人もいるかも知れないが、それは、山田宏一の、ゴダールやアンナ・カリーナに対する「立ち位置」がわかっていないからだと言えるだろう。
山田が、ゴダールやアンナに会ったことがなく、ただ、映画作品を通して両者の存在を知っただけの人ならば、つまり、私たちと同じような、「映画ファン」としてゴダールやアンナを知っただけの人なら、山田がゴダールに嫉妬することなどなかっただろう。

だが、周知のとおり、山田は若い頃にフランスに渡って、ゴダールやトリュフォーらの所属した映画批評同人誌『カイエ・デュ・シネマ』の同人になった人で、作家的な「能力差」はあるにせよ、少なくともその当時は、立場的には「対等の仲間」であり「友達」でもあった人なのだ。

だが、その彼の見ている前で、ゴダールやトリュフォーをはじめとした同人たちは、次々と映画作家として有名になっていった。彼も、その波に乗って映画を作ったが、ものにはならなかった。
つまり、山田にはその点で「悔しさ」や「劣等感」があったし、あって当然なのだ。

山田が、私たちと同じように、ゴダールやアンナ・カリーナを、スクリーンを通して知っただけならば、彼らを「別世界の人間」と感じて、自身とひき比べることもなかっただろう。
だが、例えば、大学の同じ演劇サークルに所属していた仲間が、次々と俳優デビューしてスターになりチヤホヤされたのに対し、自分は俳優として物にならず、田舎に帰って「俺は、あいつらと一緒に演劇をやってたんだぜ」という話で「田舎の人気者」になれたとしても、それで満足できるわけがない。
ましてや、そうした仲間の一人で、見栄えはしないが、人とは違った才気を持っていたせいで、自分も近くにいて内心憧れてもいたマドンナと結婚したと知ったら「なんで、あの野郎が…。そりゃ、確かにあいつには才能があるよ。でも、あんなの、変わり者の嫌なやつじゃないか」と、そう思うのは、ごく自然なことであろう。

同様に、山田にとっては、ゴダールもアンナ・カリーナも、「別世界」の人間ではなく、いくら出世した世界的な有名人だとは言っても、所詮は、「友達」的な「リアリティを持った存在」にすぎないのだ。
たしかに、ゴダールには才能がある、アンナには美貌と非常な魅力がある。けれども、それでも「同じ人間じゃないか」という「実感」は消せないのである。
だから、何も結果を残すことなくフランスを離れ、祖国日本に戻ってからは「ゴダールやトリュフォーを直接知っている人」という「二次的な存在」として生きてくれば、その「劣等感」は内攻せざるを得ない。
たしかに自分の今があるのは「彼らのおかげ」なのだが、「でも、同じ人間ではないか」。なのにどうして「彼らは書かれる側で、自分は彼らのことを書くだけの側」なのだ。「俺の俺としての独自の価値を、彼らも認めなかったし、日本に帰っても、誰も認めない。でも、俺には俺の価値があるはずだ」という悔しさは、決して拭えはしないだろう。

だから、憧れのマドンナを一度は手にした「あの野郎」が、不愉快でならない。
「あいつが、良い奴だったなら、俺も我慢できただろう。あんな良い奴だから、彼女も惚れたんだ」と納得もできる。だが、そうではないじゃないか。たしかに才能はあったけれど、それは一時期までのことであり、それ以降は、あの傲慢な性格が災いして、自滅していったも同然なのに、それでもあいつを神格化して崇めるバカが後を絶たないというのは、なんと理不尽なことだろうか」と、そのように山田が考えても、なんらおかしくない位置に山田はいたのだし、事実、本書には、山田のそうした気分が、問わず語りに横溢しているのである。

一一要はこれが、山田にはできない、批評的に「行間を読む」ということなのだ。

(2)の『「嫉妬」に暗んだ目で、ゴダールという作家と、作品を評価して、陰険な意趣返しを、批評めかして提示した。』というのは、山田が「他人の言葉」を借りるかたちで「ゴダールの嫌な性格」を繰り返し強調しはしても、一度も「私はゴダールが嫌いだ」とは書いていない点に明らかだ。

言うまでもないことだが、「批評」は「好き嫌いだけで書くものではない」のだけれど、しかし、人間誰しも「好き嫌い」からは自由にはなれないのだから、「嫌いなものは嫌い」「好きなものは好き」と書けは良いのだ。ただし、「批評家」なのであれば、「なぜ嫌いなのか」「なぜ好きなのか」、その「根拠を論理的に提示しなければならない」。
しかし、山田には、それができない。なぜならば、山田がゴダールを嫌う理由は、「ゴダールの性格」ではなく、ゴダールが「世界的な評価を受け、アンナ・カリーナを物にした」という事実にあり、それは取りもなおさず、山田がゴダールを「嫌う理由」とは、「妬み」でしかないからである。

実際、山田は本書で、「ゴダールの嫌な性格」については、「他人の言葉」を借りて、縷々紹介している。
まるで「自分がゴダールを嫌うのは、みんなもそう言っているように、奴があんな性格だからで、奴を嫌うのは当然のことだし、ゴダールが政治に走った後の作品を評価しないのも、結局は、ゴダールのあの性格に由来する、独り相撲の迷走の産物でしかないんだから、私の否定的評価もまた当然のものだろう」と言わんばかりなのだが、しかしこれは「私の酷評の根拠は、私の妬みにあるのではなく、ゴダールの性格にあるのだ」という「誤魔化し」にすぎない。
「ゴダールの性格」を論うというのは、「根拠を示している」のではなく、本当の「動機」を隠す、煙幕でしかないのだ。

例えば、私がこのように、山田宏一を厳しく批判するのは、もちろん、山田の批評姿勢に問題と思うがあるからであり、私はその根拠をこのように縷々説明しているわけだが、しかし、他の人が誰も書かないことを、なぜ私が書くのかといえば、それは私が、山田について「こういう陰険な奴は、大嫌いだ」と、そう思っているからであり、私の場合は、自身の「好き嫌い」を「隠す」つもりもないからだ。
一般には、こんな「身も蓋もないことを書く」というのは「大人気ない」とか「不遜」だとか言われるものだというのは私自身承知しているが、しかし「別にそう思われてもかまわない。良心に恥じるようなことではない」と、そう思ってもいるから、私はこのように、あけすけに書けるのである。

だが、山田の場合は、そうではない。
山田の場合、自身の「ゴダール評価」の根底にあるのは「妬み」だと、そう認めるわけにはいかない。
それを認めてしまえば、自分の「ゴダール評価」自体が信憑性を失うばかりではなく、自身の「評論家」としての肩書きにも傷がつくのは明らかだからだ。
一一つまり、山田の場合は、公言できない理由で、ゴダールを評価を歪めている、ということなのである。
そしてそこが、私とは違う。私は「私怨」のために評価を歪めてなどいない。そもそも、山田に私怨など無いのだし、逆に、私怨があったら「あいつが嫌いだ」などと、正直には書かないのである。

したがって、(3)について言うならば、山田の「ゴダール評価」というのは、「嫌な性格の持ち主だから、それが災いして、ろくな作品しか撮れなくなった。初期作品が良かったのは、アンナ・カリーナがいて、彼女に恋していたからだ」という、言うなれば「アンナ・カリーナのお陰」という、いかにも「底の浅い」指摘でしかない。
その一方でこれは、妬みぶかい「才能のない人たち」には歓迎されることを意図した、言うなれば「俗情との結託」を狙った評価なのである。

だか、言うまでもなく、芸術的才能であれ、スポーツの才能であれ、そうしたものは、基本的には、その「人格」とは、分けて考えるべきものである。

もちろん、「人格と才能が無関係」だとは言わないが、例えば「嫌な性格が、表現行為においてプラスに働く」ことなどままある。「完全主義」などが、まさにそうだ。俳優やスタッフがどんなに苦しもうと、作品のためには、そんなものは、まったく意に介さないというような「非情さ」というのは、「人間としては」褒められたものではないけれども、「芸術家としては」、それは「非凡な徹底性」として肯定的に評価されることも珍しくない(例えば、シュトロハイム監督の完全主義)し、芸術やスポーツには、そうした「常識を超える徹底性」というものが、どうしてもつきまとうだろう。
逆に、「良い人柄」がマイナスの働く場合も、「芸術家」や「スポーツマン」などでは珍しくないはずだ。例えば、表現において「無理のないところで妥協する」とか「事情を察して、勝ちを譲ってやる」とかいったことだ。

つまり、山田のゴダールに対する否定的評価の根拠となっている「ゴダールの人間性(思いやりに欠ける嫌な性格)」という見方は、きわめて「一面的」かつ「皮層的」かつ「恣意的」なものにすぎない。

じつは山田だって、ゴダール後期の「難解さ」というのを、「ゴダールの、嫌な性格に由来する、独りよがり」という一言で、すべて片付けるには「無理がある」というくらいのことはわかっている。わかっているからこそ、彼は、ゴダールの後期をも肯定する蓮實重彦などの批評家たちを、批判しはしないのだ。自身の「ゴダール批判(否定)」の根拠が薄弱なものであり、かつ、そもそも山田には「ゴダール後期の作品がわからない」という自覚もあるだろう。だから、自分よりも「批評家として有能な(読みの深い)」蓮實重彦らと事をかまえて、わざわざ恥をかくつもりなどないのである。

ただ、だからと言って、黙って「ゴダール礼讃」に倣う気にもなれないから、「批評」が読めない「映画オタク」向けに、「ネタ本」的に「小ネタ」を大量に提供して満足させ、その一方で「批評が読めない読者」でも「共感」できる「凡才の妬み嫉み」を込めた「ゴダール批判」を展開した、というわけである。
しかも、そんな批判ですら、自分一個の責任でやるのではなく、「他人の言葉」を借り、さらにゴダールと決別したもう一人の「ヌーヴェル・ヴァーグ」のスターである、フランソワ・トリュフォーの「権威を嵩に着て」だ。

だから私は、山田宏一が「嫌い」なのだ。
「ゴダールを否定するのなら、自分の言葉で、自分の責任においてそれをやれ。それが物書きの倫理というものだろう」と、私は、そう言いたいのである。

(※ ちなみに、蓮實重彦は、自分が三島由紀夫賞をもらった際には「迷惑だ」と言って見せたが、以前は自分が、単独選考者として、山田にドゥマゴ文学賞を与えている。その意味するところを考えてみるべきであろう)

 ○ ○ ○

とは言え、山田宏一の「物書きの姿勢」がどうであろうと、本書の情報そのものは「役にたつ」というのは事実であり、私もそれを否定するつもりはない。
ただ、こうした「小ネタ」情報を、そのまま「くちコピペ」して、知ったかぶりするような「映画オタク」は「嫌い」だし、「そんなみっともないことは止せ」と言いたいだけなのだ。

本書著者の山田宏一は、こうした「情報」を、ここまて豊富に持ちながら、しかし、それを活かして「ゴダールを分析する」ということが出来なかった。
だが、読者は、本書で与えられた情報を、そちら方向(ゴダール読解)へこそ生かすべきなのだ。つまり「情報を情報で終わらさるのではなく、情報を対象理解のために活用せよ」ということなのである。

そこで、では私自身はどうなのかというと、幸いにして、本書で得た情報によって、ゴダール理解の深まった部分があった。
それは何かというと、「ゴダールは、意外に頭が悪い」という事実である。

こう書くと、「また、ことさらに挑発めいたことを書いて」と思う人も少なくないだろうが、そうではない。
私が、これまで、ずっと疑問に思ってきたことが、本書で紹介されていた情報によって、その謎が解け、その結果として「ゴダールは、意外に頭が悪い」という結論とならざるを得なかっただけなのだ。

どういうことか説明しよう。

私が、ゴダール映画の評価において、最も疑問(謎)だったのは、「先行映画作品のオマージュ的な引用の、常習的多用」ということであり、そうした「引用のコラージュ」ということであった。
その何が疑問だったのかといえば、それは「そんなことに、どれほどの価値があるのか?」ということだったのである。

例えば、文学でも、アニメでも、先行作品への「オマージュ的な引用」というのは、決して珍しいものではない。
しかし、それがあるからといって、その作品の価値が上がるとは、誰も思っていない。

そもそも、本書でも指摘されているとおり、「文学」の世界では、「すべての作品は、引用の織物である」というのは、もう随分まえから言われていることだし、もはや常識的な議論だと言って良いだろう。
実際、常識的に考えても、いまや「完全にオリジナルな、前例のない作品。誰も見たことのいない、まったく新しい作品」などというものが「存在し得ない」ことくらいは、少し考えれば明らかなことだからだ。そんなものを見たことのある人は、1人もいないのだ。ただ、一部なりとも「新しい」と感じるのは、すべての「読者」の知識が、きわめて限定されているからであり、要は「全部知っている人など、1人もいない」からにすぎない。

(これは日本での一例。1975年刊、宮川淳『引用の織物』)

また、人間の発想には物理的な限界があるし、既存のアイデアの組み合わせにも限界がある。
なぜなら、ただ組み合わせれば良いというものではないからで、普通は、意味のある、面白い組み合わせにしか、新しく生み出す価値がないからだ。

無論、一部の実験的・前衛的な作品では、あえて「無意味」を追求したりするのだけれど、しかしそれだって「無意味」の中に「面白さ」を見出すからであって、その意味では、そうした「面白い無意味」は、実のところ「無意味」ではないのである。
そしてまた、このようにして「無意味」の可能性まで開拓されてしまうと、人間の表現には、いよいよ「フロンティアは存在しない」ということになるから、あとは、人間の記憶力や認知能力の限界に期待して、できるかぎり「今の常識にはない新しさ」を交えつつ、「ちょっと目先の変わった作品」を作るしかない。原理的には「それしかできない」ということになるのだ。
それが世にいう「日の下には新しいものはなし」ということなのだ。しかもこれは「旧約聖書」の言葉で、そんな昔から「新しいものなんて、実はない」というくらいのことは、少し知恵の働く人にはわかりきった話でしかなかったのである。

だから、文学の世界では「引用の織物」であることは「斬新な技法」などではなく、むしろ「避けられない宿命」のようなものと考えられた。
だからこそ、「引用」というのは、芸術制作においては、せいぜい「補強情報の提示」や「お遊び」いっだ、言うなれば、副次的な技法でしかなかったのである。

ところが、ゴダールの作品は「先行作品の引用」というのが、さも「教養に裏付けられた新しい技法」ででもあるかの如く持ち上げられているので、もともと「文学畑」の人間である私は「なんで?」となった。
そして「もしかすると、言語的な引用は、宿命でしかないけれど、映像的な引用は、何か新しい可能性を開くという根拠でもあるのだろうか?」と、そんなふうに考えて、あれこれ映画評論書を読んでみたのだが、この点については、どの本も「ゴダール作品の特徴」である「ゴダールの実験的な手法」だと肯定的に認めるばかりで、「なぜ、引用に高い価値を認めるのか」の説明 はなされていなかったのである。

例えば、アニメの世界だと、アニメオタク出身のアニメ監督・庵野秀明は、自作『新世紀エヴァンゲリオン』において、実相寺昭雄監督の『ウルトラセブン』などから、その特徴的な構図(画面レイアウト)をパクっている(学んでいる)と、そんな説明がなされても、それを聞かされたアニメファンは「なるほどね。庵野が天才だと言っても、すべてをゼロから生んだわけではないんだ」と「納得」はしても、「引用」だから「すごい」とは、誰も言わない
まして、「あれも引用、これも引用」みたいな説明がなされたら、多くの人は「庵野は、よく勉強しているね。でも、では、彼のオリジナルって、どこにあるの?」とは思っても「引用の織物」であることが「新しい」とは、誰も評価しないだろう。「えっ、引用しかないの?」と、むしろ物足りなく感じるはずだ。

だが、「映画」オタク、特に「ゴダール」オタクや「ヌーヴェル・ヴァーグ」オタクというのは、そういう疑問を持たないようなのだ。
「ここはあれの引用。そこはあれの引用」だと言われて、それで素直に「すごい」と感心できるというのは、一体どういう心理構造に由来するものなのか? 単に、子供が列車の名称を誦じて喜ぶのと似たようなことなのか? それともここには「映像作品特有の合理的な理由」といったものがあるのか? 一一と、それが私には謎だったのである。

だから、私もまた、山田宏一でもわかるような「ゴダール作品の中では、当たり前に美しい作品」しかわからないのは、「引用の織物」であることが「価値」を持つような「映像作品特有の論理」を、私が理解しえていないからではないか、と考えた。

あきらかに、私より頭が悪いとしか思えない「映画オタク」たちが、ゴダールを「わかったような顔」をしているのは、どんな世界にでもいる「馬鹿の見栄坊ぶり」でしかないとしても、少なくともゴダール本人は、何か深いところでの「映像作品理解」があるから、本書でも示されているように、尋常ではない量の「映像的引用」をするし、蓮實重彦のような賢い人でも、わざわざその意味を解析するのだろうとか、先例提示型の評論文を書いたりするのだろうと、そう「謙虚に」考えていたのである。

ところがだ、それが「買いかぶり」でしかなかったことを、ゴダール自身が、すでに語っていたのである。

ゴダールが、これまでの「商業映画」的なものを捨てて、「思想表現としての映画」へ踏み出さんとしていた時期の、それは「自己総括」の言葉であった。

『 すべては新しい無垢な眼で再発見されなければならない。映画は生まれ変わるべきときなのである。そのためには、ただひとつの解決法しかない一一それはアメリカ映画との決別である。わたしたちはこれまで映画というあまりにも狭少な世界のなかで生きてきたと思う。映画は映画によってのみ育ってきた。映画は自ら映画を模倣して成長してきただけなのである。これはわたし自身の初期の作品に対する自己批評でもある。たとえば、わたしの映画のなかで刑事がポケットから拳銃をだして射つところを描いたのは、わたし自身が描こうとしている状況の論理から必然的に生まれてきたアイデアではなくて、要するに、それまで見てきたほかの映画一一アメリカ映画一一のなかで同じような状況でやはり刑事が拳銃をそんなふうにして射ったシーンの記憶があったからにほかならないのだ。
 絵画においても同じことが起こった。模倣の時代があり、次いで決別の時代があった。いま、映画は決別の時代に来ているのである。澄みきった新しい眼で現代社会のなかへ、実人生のなかへ、突入してゆくべきときである。』(P363〜364)

要は、ゴダール自身も「映画オタク」として「過去の作品を(喜んで)模倣」することで映画を発展させてきたつもりであったのだけれど、それは所詮「井の中の蛙」による「マスターベーション」に過ぎなかった。だが、そろそろ、映画も、一皮剥けて大人になるべき時が来たのだ。映画も、現実と向き合って現実の中で成長していかなければならない。いつまでも「夢を売る=夢を商売にする」ハリウッドの真似をしていてはいけない。映画を、真に「現実を生きる表現」にしていかなければならないのだ。一一というようなことを、ここでゴダールは語っているのである。

つまり、言い換えれば、彼の「引用」というのは、何も「映像作品特有の深い意味」があったわけではなく、「オタク」がやりたがる「猿真似」的な「二次創作」に過ぎなかった、ということなのだ。
ただ、ゴダールの場合は、やはり特別な表現的才能があったから、その「引用」さえもが、何か意味深いものだと「誤解された」ということだったのである。

したがって、本書『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』がそうであるように、「ゴダールのこの作品の、ここの部分は、あの監督の『○○』という作品の引用であり、この部分は、別のあの監督の『××』という作品への目配せであり」とかいったようなことは、それ自体としては「オタクの喜ぶ、元ネタ明かし」以上の意味を持ちはしないのだ。
「へえ、そうなのか。さすがはゴダール。映画的教養が深いね。まあ、僕も見てる作品けどね」みたいな、幼稚な満足に寄与するものでしかないのである。

(増補文庫版)

だが、本来、こうした「元ネタ情報」というのは、それを知って満足するためのものではなく、「なぜ、その作品を引用したのか? その必然性は?」「そのことによって、この作品は、どれほど、作品としての芸術的な価値を高め得たのか?」といったことを分析して、それを作品評価へと「昇華」させなければ意味がない。カルタでもあるまいし、ただ「ここはあれ、そこはあれ」とか言っているだけでは、「オタクのマスターベーション」でしかないのである。

だからこそ、本書は「オタクのマスターベーション」プラス「私怨晴らし」にしかなっていないので、「くだらない本だ」ということにしかならないのである。

すでにゴダール自身が、一度は総括した映画(界)の問題点について、その問題提起と一度として向き合うことをせず、「豆知識」販売が商売になるからと、批判しているはずのゴダールの「昔の考え方=引用には価値がある」に倣って、相変わらず「オタク的な豆知識」販売を続けているというのは、物書きとして、読者に対して誠実な態度ではあり得ない。
また、そうした自身の無反省を「結局、ゴダールだって、政治的な方向性に挫折して、映画に帰ってきたんだ。だから映画は、現実となど対峙せず、ありもしない夢を売って大衆を慰撫する、愚民化装置でいいんだよ。それでみんな満足してるんだから」という、現状肯定的な自己正当化で済ませることも許されない。

ゴダールが挫折しようとしまいと、ゴダールの提示した「理想」は、真剣に考えられなければならないことだし、なぜゴダールは挫折したのか、挫折したのは、どこに「力不足」や「認識不足」があったのか、といったことを考えなければならない。
ゴダール個人が挫折したからといって、ゴダールの一度は目指した「理想」が「間違っていた」とすることは出来ないのだ。
また、ゴダールの挫折を盾にして、自分たちの「ぬるま湯」や「不作為」を正当化するのは、問題のすり替えであり、誤魔化しでしかないのである。

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ともあれ、私個人の問題としては、「映画マニア」や「映画評論家」が、予想以上に馬鹿だったというのは仕方ないとして、ゴダールを買い被っていたという事実は、反省せねばならないだろう。

たしかに、彼には「映像的な鋭い感性」という「芸術的才能がある」というのは、私も『気狂いピエロ』の映像的側面)や『軽蔑』を高く評価していたことからも、すでに認めていたことだが、彼の作品の「内容的な訳のわからなさ」というのは、じつのところ、さほど深い意味はなかったということが、本書に引用されていたゴダール自身の言葉を読んだことで、おおむね判明した。先に引用したとおり、なにしろゴダール自身が「決して深いことを考えていたわけではない」と認めていたのである。

つまり、ゴダールの凄さとは、その「映像感覚」と「形式破壊という革新性」なのであって、「内容的な深さ」には無い、ということなのだ。

だからこそ、基本的には、「文学的」あるいは「哲学的」に深い内容を求める嗜好を持つ私には、ゴダールの作品の「映像感覚」や「挑戦的姿勢」は認めることができても、「内容的な深さ」を認めることができなかったということになる。

つまり、それは「理解できなかった」のではなく、「もともと無かった」のである
ゴダールという作家の作品に、「文学的」あるいは「哲学的」な意味を求めても、それは無駄なことだったのだ。

これは何も、ゴダールという作家を、否定しているのではない。ただ彼は、当然のことながら万能ではないし、すべてを持っているわけではなかったと、それだけの話なのだ。

芸術家は、人格者である必要はない。人格者であるに越したことはないけれど、芸術家であるのなら、まず大切なのは芸術的才能であって、人格ではない(だから私は、蓮實重彦が「嫌い」だと言いながらも、その批評家としての力量は高く評価した)。
実際、困った性格の芸術家など珍しくはないし、そんな芸術家とは、人として付き合わなければいいだけの話である。

言い換えれば、芸術家に「すべて」を求めても、それは無理な注文なのだ。
すべての人間には、それぞれに長所と短所があって、それをすべてひっくるめて「その人」であり、「完璧」じゃないからダメだなどと言っていたら、誰一人認めることなどできなくなってしまう(だから、欠点や難点を指摘しなくても良い、ということではない。事実確認は、必要なのだ)。

だから、私の場合、今後はゴダールに対して、「文学的」「哲学的」な深さは求めないでおこう。そういう人ではないとわかったからである。
彼を理解するというのは、そんな「無いもの」を追い求めることではなく、「あるもの」をより深く理解するということであるべきなのだ。

彼がなまじ、文学者や哲学者の著作を引用してみせたりするから、彼には、それがわかっているのかと「誤解」していたのだが、先に引用したような程度ことを(まだ三十代半ばだったとはいえ)言っているようでは、さして深い理解があったわけではなく、ただ、文学や哲学についても、その「好み」に応じて「引用癖」を働かせていた、ということでしかなかったのだろう。

私は、先ごろ日本でも公開された、ゴダールの遺作『ジャン=リュック・ゴダール/遺書 奇妙な戦争』(2022年)について、

『本作に登場するゴダールの絵(コラージュ作品)は、ゴダールだと知らされなければ、誰の作品だか、まったくわからないような代物だし、ちょっと小洒落た喫茶店に飾ってあっても、なんら違和感のないようなものでしかない。

私も昔は、よく画廊に行って、自分の好みだけで新作の絵を買ったりしたけれど、ゴダールの絵が、無記名で飾られていたら、鼻もひっかけなかっただろうし、それはたぶん、画廊に入ったこともないような映画ファンなら、なおさらなのではないかと思う。』

と、身も蓋もないことを書いたのだが、今なら、なぜゴダールが「(コラージュ)画家」にならなかったのか、その理由がわかる。

その理由とは(無論、彼は「映画が好きだった」というのはあるのだけれど、それだけではなく)、彼が「映像」を捨てれば「ただの人」だったからだ、とまでは言わないが、少なくとも、「一流のコラージュ画家」にはなれなかったからなのだ。

件の遺作だって、あくまでも映画作品としてのコラージュ作品であったから、映画の世界の中で一定の評価されはしたけれども、映像を介さず、オブジェとしてのコラージュ作品を、美術の世界で発表していたら、天下のゴダールだって、映画の世界でそうであったほどの評価を受けられないことくらいは、彼自身が自覚していたからではないだろうか。

彼は「商業映画」に抵抗した。しかしだからといって「映像」を捨てることまではできなかった。
そしてそこにこそ、彼の「芸術家としての限界」があったと言うべきなのではないだろうか。彼は、画家にも文筆家にもなれなかったのだ。ならなかったのではなく、「一流の」それになれないことがわかっていたから、ならなかったのである。

ゴダールは、あくまでも「映画作家のゴダール」としてしか、十全な価値を持ち得なかったのである。



(2024年6月30日)

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