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松浦寿輝 『ゴダール』 : ロマンティックな幻想

書評:松浦寿輝ゴダール』(筑摩書房・1997年刊)


松浦寿輝の「ジャン=リュック・ゴダール」論である。

松浦寿輝は、今でこそ芥川賞を受賞した小説家として知られるが、もとは詩人であり批評家として出発した人だ。
そのあたりの事情については、松浦の小説『半島』(2004年刊・読売文学賞受賞)を論じたレビューに詳しいので、そちらに譲るが、松浦の最初の小説書が1996年刊行の『もののたはむれ』であり、小説書として4冊目の『花腐し』による芥川賞の受賞が2000年であるから、本書『ゴダール』が刊行された1997年当時は、松浦がまだ「知る人ぞ知る」詩人・評論家であった時期だと言えよう。

本書『ゴダール』は、1988年から1997年までの間、評論誌などに断続的に発表された、各々の時点でのゴダールを論じた文章を再構成し、1997年時点における「ゴダール論」としてまとめたものである。

もちろん、ゴダールが亡くなるのは2022年だから、本書が刊行された後も、ゴダールは四半世紀を生きて、長短様々な作品を生み出していくわけだが、2000年代に入ってからの『愛の世紀』(2001年)、『アワーミュージック』(2004年)、『ゴダール・ソシアリスム』(2010年)、『さらば、愛の言葉よ』(2014年)、『イメージの本』(2018年)といった作品に与えられた映画賞は、「名誉賞」「特別賞」といったものばかりで、もはや作品そのものではなく、「過去の人」となったゴダールの功績に与えられているとの感は否めない。しかしながらそうした「敬遠」は、ゴダール自身がそれ以前から、「商業映画」として成立するようなものを撮らず、映画界の現実と一線を引いていたためでもある。

さて、1997年に刊行された本書だが、当然のことながら、その時点での「ゴダール論」でしかあり得ないことを、承知の上で書かれたものであり、そんな本書には、古いゴダールファンである著者として「そろそろ、ここらでまとめておかないと」という直観が働いたのではないかと、そう窺わせるものがある。
著者は「あとがき」で次のように書いている。

『 監督としてのキャリアが四十年に近づこうとしているゴダールがこれまで撮ってきたおびただしい長篇と短篇を細部にわたって読み尽くし、映画作家ゴダールの「全体像」を提出しようとする大きな著作を書いてみたいという野心が、わたしになかったわけではない。「綜合」としてのゴダール論を精錬し上げてみたい、そして、それによって、スイスとフランスの二重の国籍を持つこの奇妙な思想家が、二〇世紀後半のイメージ環境に撒き散らしてきた苛立たしい音=映像の戯れの真芯を撃ち抜いてみたい、と同時にまた、ゴダールをめぐってこれまで世界中に氾濫してきた数多の讃辞や批評や誹謗に、「決定的」にけりをつけてしまいたい一一そんな夢想と欲望を、わたしは長いこと温めつづけてきたのである。
 だが、九〇年代に入ってもなお一一というか、むしろ時とともにますます加速されてゆくかのごとき旺盛な活力で一一ほとんど毎年のように送り出されてくる彼のフィルムやヴィデオ作品を受けとめているうちに、「綜合」がありえないのがゴダールだということを、或るときわたしは卒然と悟るに至った。ゴダールは絶えず運動しつづけており、その凝固した「全体像」など存在しうるはずがないのである。恐らく「棺の蓋を覆って」後にさえ、人々を安堵させるようなかたちで「定まる」ものなど何一つなく、さらに 長い歳月にわたってゴダールは、陰鬱な疑問符となってわれわれの頭上を旋回し続けるに違いない。』(P190)

ゴダールとは、永遠の「運動体」である。したがって、「ゴダールは、こういう作家である」と、その本質を「凝固体」のごときものとして指摘して済ませ、決着をつけることなど、原理的に不可能だ。一一松浦は、ここでそう言っている。

しかし、「運動体」であるという指摘もまた、ゴダールの本質論なのであれば、次に求められるのは、ゴダールの「変化の法則性とその方向性」を示すことということになろう。本書が描いているゴダールとは、そういうものである。
だから、「棺の蓋を覆って」から、おもむろに「ゴダールとは、こういう作家であった」と『凝固した「全体像」』として示す必要はないし、そのようなものとして語ることは間違っている。
したがって、完全ではあり得ないとしても、今のうちだって、「運動体」としてのゴダールの「変化の法則性と方向性」を、ある程度ならば、示すことができるはずだ。
一一これが、本書における松浦寿輝の基本的な構えだと言って良いだろう。私の「感じ」としても、このゴダール観は、大筋では間違っていないと思う。

松浦は、上の「あとがき」を、次のように締め括っている(末尾の、編集者等への謝辞などは省く)。

『 本書で扱われているのは、主に「後期ゴダール」とも言えよう一九八〇年代以降のゴダール映画であり、『勝手にしやがれ』『女と男のいる舗道』『気狂いピエロ』といった初期の傑作群にはほとんど触れられてはいない。それは、一つには、「これ(ça)はいったい何なのか?」という暴力的な問いが不意に迫り上がってきて人を茫然自失へ導くといった体験を惹起するフィルム群が、とりわけ「後期ゴダール」の時期に集中しているからである。しかし、またもう一つには、「ゴダールの六〇年代」とは、わたしにとって何がなし熱っぽいノスタルジアを喚起する音=映像の渦としてあり、今、ゴダールを論じるには、そうした部分をできるだけ斬り捨ててかかる必要があるように感じたためでもある。そのことの理由もまた、本書の記述の中でおのずと明らかだろう。』(P192)

ここで、書かれていることは、今の私にも、おおむね理解できる。

ゴダールが亡くなって後で、その初期代表作に続けて、中期の作品までを、ほぼまとめて観たような、遅れてきた私にとっては、初期作品は「絵的に、なかなか面白いが、今となっては、特に大騒ぎするほどのものではない」というものであったし、そんなゴダールを崇拝する映画マニアたちがいることに疑問を感じ、「どうして、そこまで?」という疑問を解消すべく中期作品を観たところ、中期の作品は、初期作品が持っていた「物語性」や「ロマンティシズム」さえ失ってしまっており、岡本太郎ではないが、まさに「これは何だ!?」という作品に成り果ててしまっていたのだ。

だが、それでもゴダールファンは、その変化に失望はしなかったようで、むしろ「だからゴダールは非凡なのだ」とでも言わんばかりに、崇拝し続けている気味がある。
私は、そんな一種うす気味悪い状況を、ゴダールがその「意味深げな雰囲気」において、意味もわからずに評価されているだけなのではないか、と疑った。
そして、そうした「幻想」を振り撒いたのは、蓮實重彦をはじめとした「ポストモダンな批評家たち」なのではないかと睨んで、蓮實の映画論的な著書を、そのゴダール論集成たる『ゴダール革命』に限定することなく、いくつか読んでみた。

その結果、やはりゴダールというのは、「作品」が評価されていると言うよりも、ゴダールという「特異な映画作家の、存在の特異性」が評価されている、という印象を強くした。
蓮實重彦の評論から感じられるのは、作品そのものの「面白さ」ではない。そうではなく、一見、つまらないと見える「作品」を分析することで、「ゴダールが何をやろうとしたか」というその「無意識的な意図」を析出し、その「面白さ」に、意味と価値を見出しているようにしか見えなかった。蓮實がそうした「意味論」を否定する、表層批評の記号論者であるとしてもだ。

だが、いずれにしろ基本的に「作品」至上主義の立場に立つ私としては、蓮實に代表される、「作者」偏重よる「作品」軽視のスタンスには、インチキ臭いものを感じざるを得なかった。
「読み込まれる意味は、存在しない」といった「意味ありげな言葉」こそ、存在しない意味を産出するものでしかないと感じられる。

もちろん、作品を「より深く楽しむため」に、「作者その人」を理解しようとしたり、逆に、あえて作者を切り離して、テクストのみに注目するといったするやり方も「あり」だと思うし、そうした「別様の見方で」というのが「批評」の要諦でもあろう。
だか、蓮實の批評は、そうした「存在するものの、存在意義を掘り下げる」といったものではなく、「存在しないものの、面白い意味をでっち上げる」という体のものとしか感じられなかった。

もちろん、それもまた、ひとつの「批評の仕事」ではあろう。どうしようもない作品を、どうにかして、さも素晴らしい作品であるかのように語って、多くの人を説得する「批評」とは、それはそれ自体が「娯楽的創作(フィクション)」作品として意義を持つものではある。
けれどもそれは、あくまでも「批評家の創作」であって、「作品を語る」ものではないし、いっそ「作品を出汁にして、自分を売り込んでいる」という「不遜」さから出るものなのではないかという印象が強い。

私は、蓮實の『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』(2008年刊)を論じたレビューのタイトルを「これはフィクションである。」としたのもそうした意味だし、このレビューの中で蓮實を「ゴダールの神学者」だと規定したのも、同じ意味でだ。
要は、蓮實重彦は「存在しない神としてのゴダールという偶像を捏ち上げて、そのありがたさを説いている神学者であり、当然のことながら蓮實自身は、そんな神の存在など信じてはおらず、信じてはいないからこそ、何とでも語れるのだ」と、そういう意味である。

だが、前述のとおり、蓮實重彦のこうした態度こそ、ゴダールを小馬鹿にした「不遜」でなくて何だろうか。

しかしまた、蓮實の評論をいくつか読めば、この人がそういう「芸術的なペテン師」だということもまた、理解できるはずだ。
どういうことかと言えば、「豊かな意味を与えてくれるものから、意味を汲み出すことなら、誰にでもできる」けれど、「何もない空間から、意味のようなものを取り出してくる錬金術」というのは、誰にでもできることではなく、それはそれなりの「才能」を必要とするものであり、そんな「錬金術師=ペテン師」的才能を、並外れて持っているのが、蓮實重彦という人だ、ということなのである。

喩え話をしよう。

「満点の星空」を、原始人たちが見上げても「真っ黒な背景の中に、白く輝く真砂が、無意味に散らばっている」だけ、にしか見えない。
だが、蓮實重彦は、その非凡な「空想力とレトリック」によって、そこに「星座」というものを描いてみせ、それを「原始人」たちに教えてやる。「あの星々は、ただ無意味に散らばっているのではなく、そういう意味的な関連性を持って存在しているものなんだよ。ただ、それが君たちの視力では見えないだけなんだ」と。

なるほど、そう言われてみると「そのように見えてくる」ではないか。「ああ、私はアキメクラだった。夜空とは、なんと意味深く、啓示に満ちたものであったことか」と、それ以降、原始人たちはそれぞれ勝手に「妄想」を膨らませ始めて、「蓮實重彦教」における「神」の存在を信じ、その「不在の神」を、熱心に崇拝し始めるのである。

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ただし、上の「ゴダール観」はあくまでも、蓮實重彦という「シニカルな無神論者」の、「ゴダールは、ネタである(ネタでしかない)」という「ゴダール観」の上に築かれた虚構でしかなく、ゴダールその人が「存在しない」という意味ではない。
蓮實重彦が描いて見せたような「神としてのゴダール」は存在しない、というだけで、ゴダールという「人」は確かに存在していて、何らかの「作品」を作ったというのも、また事実なのだ。

つまり、蓮實重彦教的に「ゴダールは神であるからこそ、その作品には並外れた意味がある」という「宗教教義」ではなく、事実として、「人としてゴダール」は存在し、その「人としてのゴダールが作った映画」ならば実在するのだから、「ゴダールという実在」と「その作品という実在」を尊重するのなら、そちらをこそ論じなければならないというのは、当たり前な話であろう。
ろくに顔を見たこともない人のことを「大変な美形で、神の如き叡智の持ち主だ」などと褒めたところで、それはその相手を「蔑ろにするもの」でしかないのと、同じことなのである。

したがって、私たちに必要なのは、「とにかく自慢できる、派手な神を担ぎたい」、それで「自分が、その理解者である選ばれた者として威張りたい」というようなケチな「選民主義」から出た妄信などではなく、ゴダールとその作品を、その「存在」に沿って、尊重することなのではないだろうか。

だが、そのことが十分になされていないからこそ、ゴダールは「神の如き崇拝対象」のまま、なのではないのか。
したがって、今なお必要なのは、そうした「商売宗教的な幻想」を打ち砕いて、ゴダールをゴダールとして語ること、救い出すことなのではないか。

もちろん、これまでにも、そうした試みを実践してきた人はいるのだろうが、しかし、それは「商売宗教的な幻想」を打ち破るには至っていないようなので、そうした「無神論的評価」の何が弱かったのか、あるいは、結局のところ「人々は、無神論に耐えられない弱い存在にすぎない」ということなのかを、検証しなくてはならないだろう。

原始人に対して、「星座なんて実在しないんだよ。それはあなたの頭の中にある虚構に過ぎないんだ」と、いくら教えたところで、すでに「与えられたイメージに凝り固まった」原始人たちは、夜空を指して「現にあそこに、サソリがいるじゃないか、天秤があるじゃないか」というかもしれない。だが、「それは、夜空にあるものではなく、君の頭の中にあるイメージに過ぎないのだ」と語り続けるのは、「偏見」を正すという意味において、なされなければならないことなのだと、私はそう思うのだ。

だから、蓮實重彦とはまた違った「ゴダール論」として、私は、才能ある松浦寿輝に、一定の期待を寄せて本書を読んだ。
仮に、松浦もまたゴダール信者であったとしても、松浦にとっての「ゴダール」が、蓮實重彦の「ゴダール」そのままというわけではないはずだから、仮にそれが「別様の幻想」であったとしても、「幻想」を複数化することで、「あるひとつの幻想の特権性」を相対化できるだろうと、そう考えるのである。

で、そうした「ありうる別様の解釈」としての、松浦寿輝の「ゴダール論」は、どうであったか?

私からすれば、まだしも十分に「人間的なゴダール論」として、許容範囲にとどまり得るものだったと評価したい。

「宗教」を全否定する無神論者の私だとしても、すべての人に「宗教的幻想を捨てさせるのは不可能」だとは思っているから、「冠婚葬祭やおみくじ」の類なら、比較的「害」のないものだとして、容認しているのと同じことである。
つまり、そうした意味で、松浦寿輝の「ゴダール論」は、穏健で常識的な宗教なのだ。
そのぶん「刺激が足りない」という千年王国主義的に頭のおかしい「宗教原理派」も存在しようが、そうした反社会的な過激分子だけは、消えてもらわなければならない。だからこそ、「穏健な宗教」という「庶民向けの幻想」は、どうしても必要なものである。

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さて、前置きが長くなってしまったが、私の基本的なスタンスを語らないまま、本書を語ると、確実に誤解されるので、致し方なく長々と説明させていただいたわけだが、本稿で重要なのは、むしろ、松浦寿輝流の「ゴダール論」の解説、などではなく、ここまで語ってきた部分であるということを、理解できる人には理解してもらいたいと思う。
ある意味では、ここからあとは「ルーチンワーク」に過ぎない。

松浦寿輝の「ゴダール観」とは、簡単に言えば「ゴダールは、映画で映画を批評した作家であり批評家である。そして、その辛辣さは、何よりも彼の〝あるべき映画〟に対する深い愛に発するものだ」といったものである。

私を含む、多くの人が、ゴダールの初期作品の一部(『勝手にしやがれ』『女と男のいる舗道』『気狂いピエロ』など)を除いては、「何だこれ?」と思ってしまう(例えば『カラビニエ』)ような作品になっているのは、ゴダールがその頃からすでに、「当たり前の映画」に絶望して、そんなものを作りたいとは思っていなかったからなのだ。だから、彼は「当たり前の映画」を作らなくなっていった。

では、初期の一部例外を除いて、「当たり前の映画」に絶望した後のゴダールが撮った映画とは何なのかといえば、それは「反映画」である。
「映画の本質とは、今、当たり前だと思われているような映画のそれではない。むしろ、そうした当たり前さを排除したところにあるものこそが、映画本来の魅力であり、存在意義なのだ」というようなことである。

ゴダールが考える「映画の魅力」と、今の私たち一般が考える「映画の魅力」というのは、まったく別種のものであり、ゴダールは、私たちが考える「映画の魅力」を、むしろ「映画を堕落させた夾雑物」だとさえ考えているのである。
だから、そういうものを、自身の映画からどんどん排除していくのだし、それを知らずに、当たり前だと思っていた「映画の魅力」を期待して、ゴダールの映画を観に行った者は「何だこれ? ぜんぜん面白くない。この監督は、観客を愚弄しているのか?」と感じるのだが、その「理解」は、まったくもって正しいのである。

つまりゴダールは、そうした「観客たちの通俗的な欲望」を否定しているのだ。
資本主義経済によって、祭り上げられた「お客様は神様です」的な感性において、まったく洗練ということを知らない「凡庸な大衆」が、「自分たちの舌こそが正しいのだ」「自分たちが面白いと感じるものが面白いのだし、価値のあるものだ」という「思い上がった」態度で、せっかくの「映画」を台無しにしていったのだと、そう考えた。
だからゴダールは、そうした一般客の「要請と期待」にわざわざ背く作品を、せっせと作り始めたのだ。

ゴダールの作品に「筋らしい筋がない」というのが、そうした「イヤガラセ」の典型で、「筋(ストーリー)」なんてものは、映画本来の魅力ではないと、ゴダールはそう考えている。それ(筋)は、映画の魅力ではなく、映画という「映像芸術」に、便宜的に付け足されたものでしかなく、そっちが主体なのではない。
なのに、「映像」の魅力がわからない、目の鍛えられていない観客たちが、娯楽小説などによって馴らされた「物語性」を映画にも求めるようになり、その結果、本来の主体たる「映像」は、「物語」を「わかりやすく説明するための道具」にまで頽落させられてしまった。「映像」が「物語」の下僕にまで貶められてしまったのである。
だから、ゴダールは思った。「映画を愛する者」として、どうして、この事態に怒りをおぼえないでいられようか?

しかし、にもかかわらず、現実はどんどんそちらへと流されていく。
多くの映画作家たちは、そうした大衆の「子供舌」の要請に応じた作品を、恥じることもなく量産し、それでヒットすれば、それが作品の価値ででもあるかのように勘違いしているし、映画界全体も、そうしたハリウッド的な価値」に染まっていって、映画を搾取することしか考えていない。もはや、かつては存在した「映画の輝き」はどこにも存在しないのである。
だから、自分は、自分だけは、その「映画愛」において、そのような流れに抵抗し、今の映画の「欺瞞の仮面」を剥ぎ取ってやろうと、一一そうしたものが、ゴダールの「批評的な映画」なのだ。

例えば、中期のゴダールは、もはや批評家時代、あるいは初期に持っていた、「映画愛に発する引用=引用としての映画愛表明」などというものを信じてはいない。
だが、それにもかかわらずゴダールは、映画や文学などからの「引用」を止めようとはしないどころか、自分の作品からの「引用」さえしてみせるのだが、それは何を意味するのであろうか?

『ゴダールは自分を反復するたびにいよいよ貧困化し、稀薄化し、縮減してゆくようだ。だが同時に、いっそうみずみずしく、新しくなってもゆくのである。』(P30)

これは、どういう意味だろうか?

ゴダールが「初期」に持っていた「みずみずしさ」が、どんどん失われていったというのは、ゴダールの作品をある程度見た者には、すぐにわかる事実である。
『勝手にしやがれ』『女と男のいる舗道』『気狂いピエロ』といった初期作品には、端的に「みずみずしいロマンティシズム」がみなぎっていたし、そうした「ロマンティシズムあふれる作品」が、いろんな作家によって数多く生産された後の現在において、ゴダールの初期作品を「悪くないな」などと評価する私のような者でも、やはりそこに初々しい「みずみずしさ」があったことは認めるし、その点で、一定の評価もできたのである。

ところが、それ以降の作品は、そうした「みずみずしさ」が、どんどんと失われていく。それは、自然とそうなったのではなく、明らかにゴダールが、そうした「みずみずしさ」を意識的に排除していったのだ。「そんなものが大切なのではない」と。

その結果、ゴダールの映画は、当たり前に見るならば『いよいよ貧困化し、稀薄化し、縮減してゆくよう』に見えるのだが、しかし、ここで松浦寿輝は『だが同時に、いっそうみずみずしく、新しくなってもゆくのである。』と、一見「矛盾」した感想を書きつけている。これは、はたして「正直な感想」なのだろうか?

結論から言えば、私は、この松浦の感想に同意する。

たしかに、ゴダールの映画は、常識的な意味での「楽しさ」や「面白さ」だけではなく、自身、持ち合わせていた「みずみずしさ」まで、剥ぎとるようにして投げ捨てていった結果、形式的な意味では『いよいよ貧困化し、稀薄化し、縮減して』いったと評して、間違いはないだろう。
一一だが、その並外れた「貧困さ」において、ゴダールは「別種のみずみずしさ」を手に入れ、その意味において『いっそうみずみずしく、新しくなっても』いったのではないだろうか。

譬え話で説明すれば、世間で評判の「優しくて親切な人」が、ある時、自身の「優しさ」や「親切さ」というものの、「世間迎合的な欺瞞性」に気づいて、それをすべて捨て去ろうと決意し、それを実行に移した。その結果、彼は、周囲から見れば、どんどん「嫌な性格」になってゆき、単なる「因業爺い」にしか見えなくなった。
しかし、そんな彼を注視するならば、世間の評判をものともせず、世間的な意味での「貧困さ」を一身に引き受けて突き進んでいく彼には、世間的に「無難に生きている人たち」、その意味で「世間で言うところの、良い人」にはない、何か別種の「みずみずしさ」であり、何か「黒光りするような輝き」といったものがあるのではないだろうか? それを彼に見出すことも可能ではないのか、というようなことである。

『新ドイツ零年』1991年)

そしてこうした、世間でいうところの「好意的解釈」を松浦がするのは、あれだけ映画を愛していた、才気あふれるゴダールが、無造作に「貧困化」していったとは、どうしても思えないからである。
ゴダールが「貧困化」したように見えるのなら、それは彼が意図して、望んでその道を歩んでいるということであり、その動機は、それほど彼が「映画を愛しているから」ということしかないと、松浦はそう考えるのだ。

ゴダールには、ゴダールの信じる「映画」があって、彼はそれに対して、変わらぬ愛と忠誠を誓う人であり、だからこそ、「偽物」を許すことは決してできないし、それが世に満ちて、本来の「映画」の居場所を奪っているのであれば、彼は自身の愛する映画のために、「偽物」を抹殺しなければならない。
つまり、その映画愛のゆえに、ゴダールは「映画のテロリスト」に身を落とすことも辞さなかったのであり、彼はその非凡な覚悟において、「聖人」の輝きを身に帯びることになったのではないかと、松浦は「そう理解したい」のである。

『 では、なぜ(※ 私は)、今にしてなお(※ 荒廃し貧困化し切ったかのような)ゴダールの側につこうとするのか。『右側に気をつけろ』のゴダールをどうして見つづけなければならないのか。ジーン・セバーグのTシャツ姿に惚れこんでいたかつての胸苦しい日々が忘れられないからか。ATGによる『気狂いピエロ』と『ウイークエンド』の二本立て興行を有楽町の日劇文化で見た真夏の午後が青春の思い出の貴重なーこまであるためか。高校生の頃、煙草をくるりと一回転させて口にくわえる『男性・女性』ジャン=ピエール・レオーの芸を真似することに熱中していた一時期があるからか。そうではない。そんなことはもうすっかり忘れてしまった。そして、まさしくこのすべてを忘れることという教訓こそ、われわれが今日ゴダールの側につきたいと願う最大の理由なのである。ゴダールは初めから記憶を欠落させているわけではない。あれほどの情熱をかけて蓄積した豊かな記憶をみずからの意志でひとたびすべて放擲するという断乎たる決断を下し、人生=映画をふたたび無から創造し直すという困難このうえもない孤独な途を選んだのだ。みずからの肉体から記憶を剥ぎとるというよるべない苦痛に耐えることで、ゴダールは脳天気なポストモダン派だの新しがり屋のヴィデオ作家だのから訣別する。『グレート・ブルー』(※ 『グラン・ブルー』の誤記)の主演青年ジャン=マルク・バールの顔と、『探偵』ジョニー・アリデーないし『右側に気をつけろ』のゴダール自身の顔を比べてみるがよい。前者の奇妙に明るい無重力的な清潔感よりも、荒廃しきった表情が隠しているにがい空虚と重い痛みの方をわれわれは取るだろう。苦しい闘争のはてにようやく「近代」から離陸しても、新たな着陸地点たりうる「一つの場」を地上に発見するのは生易しいことではないのだ。われわれはゴダールとともに今しばらくは飛びつづけねばなるまい。右側に気をつけながら。左の拳をきたえながら。』(P58〜59)

ここに書かれているのは、「ゴダールの見かけがいかに変わろうと、ゴダールの本質としてのみずみずしさが、そんなに簡単に失われたとは思えない。だから、私は、ゴダールの、かつてのみずみずしさだけを懐旧的求めるのではなく、今ここで闘っているゴダールをこそ、苦しくとも見つめ続けないればならないと思うのだ。ゴダールが、その映画愛において、今の映画に対する反抗者として、枯れ果てた姿を見せているとしても、その見かけを、そのまま信じてしまえるようなら、結局のところ、かつてのゴダールへの熱狂も、そこまでのものでしかなかったということになるのではないのか。だから私は、今のゴダールを信じて、彼らから目を逸らすことはしないのだ」という、これは「恋愛告白」なのである。

松浦寿輝という人は、今も昔も、良くも悪くも、こうした「ロマンティスト」であり、そのおかげで、何度も何度も裏切られては、失望を繰り返してきた人なのだ。

松浦寿輝の「Wikipedia」には、あっさりと次のような記述がある。

クリント・イーストウッドベルナルド・ベルトルッチのほか、特にアルフレッド・ヒッチコックの監督作品をこよなく愛しており、東大の映画講義でもしばしば言及する。一方、ジャン=リュック・ゴダールに対しては、近年のあからさまなアジア蔑視に対して疑問を感じている。』

そう。松浦は、今やゴダールに対する「信仰」が冷めかけており、「事実は事実として認めなければならない」というところまで「後退している」と言えるだろう。ゴダールが「人間」の一人に、見え始めてきたのである。

もはや松浦は、ゴダールの「人種差別」には「何か深い意味があるに違いない」と、「無理をしてでも、そう信じる」ということができなくなっている、ということである。
「十字軍」異教徒虐殺にも、「異端審問」による異端焚殺にも、神の「図り難い深慮」があった、などとは思えなくなったのだ。

ちなみに「映画オタク的信仰」に水を差す、いささか粗野かつ痛快なフェミニズム的一撃として、次の記事を紹介しておきたい。
ヌーヴェルヴァーグカイエ派が『「ブルジョワ出身で高学歴だが非モテコンプレックスのあるこじらせホモソ集団」というのが現在の定説。』だというのは、本当か冗談かは別にして、私の直観とは合致している。

ともあれ、ゴダールの「貧困化」は、たしかに「愛に発する」ものなのかもしれない。
しかし、そこを認めたとしても、ならば、例えば多くのテロリストが、虐殺される同胞への愛から、あるいは、その「信仰」のために、敵を殺すということをしているのだという現実も、ゴダールのそれと、同等に肯定すべきではないのか? そして、それができないというのであれば、ゴダールの、無垢な「映画愛」であり「映画信仰」もまた、誤謬を含んでいた、と批判されなければならないはずだ。

本書は、その後のゴダールが、すべてを切り捨ててゆくという「重苦しさ」からさえも離れて、『ぶっきらぼう』なほどのこだわりのなさを身につけていくように見えると、そのように見ている。
そして、本書で扱う最後の作品となる『ゴダールの映画史』のあたりになると、さらに進んで、ゴダールは、もはや「浮遊する亡霊の視線」のごときものにまで変貌していると指摘している。

私は、こうした指摘もまた当たっていると思う。だが、それを松浦のように「脱俗的な超越性とはまた別様の、超越的な境地の一種」だとは考えない。

たしかにそれは、非凡な境地ではあろうし、その意味での稀少価値が認められはするのだが、しかし、そうした境地とは、例えば私がしばしば口にする「この世界に意味はない」という言葉と似たような、当たってはいるけれども、それを生きることはできない、といったもののように感じられる。

たしかにゴダールは「意味を超えた」のかもしれないが、その時には、彼はすでに存在しないも同然の存在だったというだけの話なのではないのか。「啓示的な恍惚」と「痴呆的な恍惚」は、本当に別物だと、外から、そこまで判定し得るのか?

「生ける屍」に、生ける者が「深い意味」を読み込みたがるのは、所詮「ロマンティックな幻想」でしかないと、私はそう思う。

無論、「ロマンティックな幻想」にも、存在価値がある。
映画に描かれているものが、たとえ絵空事であろうと、それはそれなりに存在価値があって、少なくとも、いっとき私たちを楽しませるものであるという事実は否定できない。

けれども、だからと言って、「ロマンティックな幻想」を「剥きつけの現実」と、同じ層において「現実的」なものだと、無理に信じようとは思わない。
「無神論者」であるとは、そういうことなのである。


(2024年3月10日)

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