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天使的: 浅田彰論序説 一一『柄谷行人 浅田彰 全対話』

書評:『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)

「柄谷行人論」なら数多く書かれているだろうが、「浅田彰論」は、あまり見当たらないようだ。浅田彰ほどの華々しいデビューと活躍をしながら、どうして浅田の場合には、作家論があまり書かれないのだろうと、私はそう考えた。

思うに、浅田彰の才能は「巨大すぎる」のだ。巨大すぎて、多くの人の視野にその全貌が収まりきらないのではないか。その一部しか見えず、またその一部を、すべてと思い違えているのではないだろうか。
例えば、本書のあとがきにあたる「浅田彰と私」で、柄谷行人は浅田について、こう語る。

『(※ 編集兼執筆者として『季刊 思潮』誌を任された)私は最初、自分の仕事は書くことだから、寄稿さえしていれば何とかなるだろうと思っていたが、編集人としては、すぐに行き詰まってしまった。それで、その第三号の企画で、座談会に浅田彰氏を招いた。そして、そのあと、私は彼に実情を訴えて、編集同人に入ってくれるように頼んだ。その判断は正しかった。彼は経済学や哲学だけではなく、音楽・美術・建築などすべての芸術方面に通じていた。機敏で、周到で、精確であった。私はいっぺんに楽になり、誌面は充実した。』(P242〜243)

当時、浅田彰は三十そこそこの若者だった。にもかかわらず、これだけの幅広いジャンルに通じており、しかも『機敏で、周到で、精確であった』のだ。

「幅広いジャンルに通じている」人を、よく「博覧強記」と呼ぶが、浅田彰がそう呼ばれることはない。
なぜならば、浅田の場合は、単なる「物知り」なのではなく、それほど幅広い事象に対して「精確に通じていた」からである。それぞれのジャンルで、その専門家たちと議論しても、まったく見劣りがしない「周到で、精確な理解」を持っていたからこそ、浅田彰には「博覧強記」などという浅薄な呼称は、まったくそぐわないものだったのである。

「柄谷行人論」が数多く書かれたのは、無論、柄谷が「時代を画する知の巨人」であったからだろう。そうした巨人たちは、それまで「当たり前」であった風景を一変させてしまうような「知の一撃」を世界に加え得た稀有な存在であり、それ故に目立ちもした。その、時代を越えゆく「異彩」に、誰もが目を見張らざるを得なかったのだ。

ところが、浅田彰はそういうタイプでなかった。
浅田彰は、幅広い事象に対して、つねに「機敏で、周到で、精確」な理解を示した。それはどれもこれも「非凡」であり「本質的」であった。浅田彰の「非凡」は、わかりやすい「単色」ではなく、「七色」に変幻する態のものであり、だからこそ凡人の目では、それを断片的にしか捉えることが出来なかった。

本書所収の最後の対談「再びマルクスの可能性の中心を問う」で、二人はマルクスの「常に移動しながら、その差異の中で状況を批判し続ける」という身振りの重要性を強調している。

柄谷  マルクスの批判は、どこかに最終的な立場があって、そこから批判しているというのではなくて、たえず場所も移動しながらやっていくわけです。
 ベルギーに亡命して、ドイツの哲学を批判する『ドイツ・イデオロギー』を書く。ドイツ観念論に対して、マルクスはほとんど実証主義的なことを持ってきて、経験的なことが重要だという形で批判する。そこだけを読むと、マルクスはまるっきり実証主義的な唯物論者だと思ってしまうほどです。それからマルクスはイギリスへ行き、直前にフランスで起きたクー・デターを分析・批判する『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を書いた。そしてさらに、イギリスで本格的な経済学批判に向かうわけですが、かつてドイツ観念論を批判したときとは違って、今度は経験論を批判したくなり、私はヘーゲルの弟子である、と言い出す。それもまた本気にとってはいけない。それが批評なんですね。つまり、マルクスはそのつどドイツの哲学やフランスの政治やイギリスの経済の「外」に立っています。しかし、その「外」は決して超越的な「外」ではない。たえず、自分自身がそこに属していたものの「外」に辛うじて立った、直前までそこにいたその人が書いている、そういう感じなんです。マルクスの立場というのはそのような批判をおいて(※ 他には)ない。そしてその批判は必ず移動を伴っている。一つの現実の中に属している限り、いくら批判的になろうとしてもその中に属してしまう。ヘーゲル体系ならヘーゲル体系の中に属してしまうわけです。言い変えれば、マルクスの批判は必ず現実との差異においてしかない。それが具体的に場所の移動を伴っていたということです。』(P203〜204)

浅田  強調しておくべきことは、マルクスという人は常に地理的にも領域的にもどんどん移動していただけに、まとまった本をほとんど残していないということです。さっきから『ドイツ・イデオロギー』とか『経済学批判要綱』とか言っていますけれども、そんなものを彼は本として刊行していないわけで、今世紀になって初めて刊行されるわけですね。それで突然、初期マルクスの疎外論が復活してみたりする。マルクス自身は、そういうものを乗り越えつつ、最終的に『資本論』にいたるわけだけれど、それさえも第一巻以後はエンゲルスの手で編集されている。さらに言えば、エンゲルスが、いわゆる弁証法的唯物論、自然弁証法、史的唯物論という、後にソヴェト連邦で聖典化されるような一貫性を持った体系を捏造したわけでしょう。

柄谷  エンゲルスはヘーゲル哲学を完全に移しかえたわけです。ヘーゲルの論理学であれば唯物論的弁証法だし、自然哲学であれば自然弁証法だし、歴史哲学であれば史的唯物論だし。そういう形でマルクスが批判としてやってきたものを一つの哲学体系にしてしまおうというのがエンゲルスです。その意味で、「マルクス主義」をつくったのはエンゲルスです。それは全然だめなものだと思います。』(P223〜224)

「移動」と「体系化への欲望の拒絶」。
「移動」ということを「固定化・権威化からの逃走」というふうに理解し、さらにそこへ「体系化への欲望の拒絶」ということを加えれば、これはまさに、浅田彰のことではないだろうか。

上で語っているとおり、柄谷自身、「固定化・権威化からの逃走(拒絶)」ということを強く意識しているのだけれど、しかし先にも指摘したとおり、柄谷行人という人は「時代を画する知の巨人」として、私たちに一定の「固定したイメージ」を与えている。いかに柄谷自身が、それを嫌おうと「時代に批判的に立ち向かう人」としての柄谷行人には、まさにそうした「イメージの固定化・権威化」がなされており、だからこそ私たちにも、柄谷行人の偉大さが理解しやすいのである。

しかし、そうした「イメージの固定化・権威化」が、浅田彰には希薄なのだ。
浅田には「とにかく賢い人」というイメージはあっても、「個性的なイメージ」というものが希薄で、言うなれば「無性的」だ。
つまり、浅田彰は、「人間的」なもの「肉体的」なもの(つまり、固定的なイメージ)から、まんまと「逃走」しうせたのである。

こうした、浅田彰の「とらえどころのなさ」あるいは「非凡な自由さ」を、私は「天使的」と呼びたい。
人間の「肉体」的な欲望に縛られない彼は、初期の代表作『構造と力』や『逃走論』のイメージにとどまる(自己模倣的再生産によるイメージの強化にとどまる)ことなく、悠々と浮遊し移動しすり抜けて、私たちの目では充分に捉えることの出来ない存在なのだ。

しかし、そういう存在であるからこそ、彼は「地上の巨人」たる柄谷行人の「導きの天使」たることも出来たのではないか。
あくまでも「主人公」は、柄谷行人である。だが、浅田彰という稀有な「道を照らす、導きの天使」がいたからこそ、柄谷は「縦横無尽の活躍」をすることも出来たのではないだろうか。

柄谷は「浅田彰と私」の末尾を、こう締めくくる。

『 彼は私にとって最高のパートナーであった。漫才でいえば、私はボケで、彼はツッコミである。あらゆる面で助けられた。私が思いついた、いい加減な、あやふやでしかない考えが、彼の整理によって、見違えるようになったことも何度もある。また、アメリカでもフランスでも、彼の言語能力と当意即妙の判断力にどれだけ助けられたことだろう。
「批評空間」をやめて以後、私はまた、対談や座談会が苦手になった。その意味では、元の自分に戻ったといえるかもしれない。』(P234)

その天使は、彼のもとにさえとどまらなかった。
これは「去りにし天使」へのラブレターなのかもしれない。

初出:2019年10月25日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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