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『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』(2014)観た


こちら↑のnoteの最後に宣伝していた、私たちのポッドキャスト『映画館が遠い』へのおたよりフォームに、記念すべき初めての投稿がありました! 送って下さった方、ほんとうにありがとうございます! ふたりとも信じられない気持ちでいっぱいです。

その第1通目のおたよりでは、2つのアニメ映画をオススメしてくれました。

・『映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』(2014)
・『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(2016)

の2作品です。

『映画館が遠い』では基本的に、われわれ2人がどちらも観たことのない映画を取り上げることにしています。したがって、どちらか一方でも既に観たことがあった場合、たいへん恐縮ですがポッドキャストで取り上げることはできません。今回でいえば、『ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ』は相方がすでに観たことがあったため(なにせ、筋金入りのプリキュアオタクなので)、こちらはポッドキャストでは扱いませんでした。『キンプリ』のほうはふたりとも未視聴だったため、それぞれに観て、感想トークを収録しました。

わたしはプリキュアを通っていないので、当然『ハピプリ』TVシリーズ本編も、その劇場版である『人形の国のバレリーナ』も未見です。TVシリーズ未視聴でも劇場版の鑑賞に問題はない、ということだったので、せっかくレコメンドして下さったのですから、観させていただきました。初見視聴後に感想を書いて、翌朝、2周目を観ました。

以下、その感想文です。



・じぶんの『人形の国のバレリーナ』評

23/6/24土 深夜
ポッドキャストのおたよりでレコメンドしてくれたのでAmazonレンタルで観た。とうぜんTVシリーズ本編の『ハピネスチャージプリキュア!』はまったく観ておらず、事前知識もない状態でこの劇場版をみた。


ヒーロー(ヒロイン)でもすべての人間を救うことはできない、という不完全性。あるいは、すべてのひとを笑顔に、幸せにしたいというアイドルの押しつけがましさについて。

「みんなが幸せになることは可能か」「他人を不幸にして得る幸せを認めるべきか」という系と、「虚構か現実か」という庵野作品みたいな軸が絶妙に混在している気がして、意外と整理が難しいかもしれない。


・かわいそうな元バレリーナ少女つむぎ

バレエが好きな少女つむぎがある日とつぜん足の機能を奪われて不幸になる。プリキュアは彼女を救うことができないと思われたが、そんなことはなく、たとえ足を治してあげられなくても、友達になってあげることで幸せにすることができた。
これだけだったらまだいいんだけど、ついでに、少女を歩けなくしたのは実はプリキュアと敵対する悪の組織「幻影帝国」の幹部の仕業だったことが明らかになり、突然奪われたものは突然返されもする理論によって、つむぎはかつてのように無事に踊れるようになった。めでたしめでたし。

これが欺瞞でなくてなんだろう。
と、いつものわたしなら言うところであるが──いや実際に "言い" はするが──ここで児童向けアニメに対して「これが欺瞞でなくてなんだろう」としたり顔で批判する成人オタクの客観的な醜悪さ、救いのなさの前に思いとどまってしまうところはどうしてもある。とはいえ、この類の凡庸な葛藤には次のフェイズとして「いやでも子供向け作品だからって思ったことをあえて言わないのは、むしろ作品と子供を舐めてる/馬鹿にしてる最も失礼な態度ではないか?」というテンプレートが用意されていることも周知の通りである。

まぁそんな予防線張りはどうでもいいや。
やっぱ、どうしても「えっ、それでいいの!?」とは思っちゃうなー。つむぎはそれで良かったかもしれないけど、じゃあ、「プリキュアの敵」というファンタジックな悪役の陰謀とはいっさい関係がなく、病気や障碍などで「不幸」な状況にある現実の人々はどうすればいいの?そういう人たちの居場所はこの作品世界には存在しないってことでいいの?と思わざるを得ない。たしかに、プリキュアという作品において「プリキュアでも救えないひとに対してプリキュアは何ができるのか?」という問題系を持ち込んだこと自体はものすごく挑戦的で偉大なのかもしれない(その偉大さはプリキュアをよく知らないわたしには十全には理解できないが……)けど、これでは解答を放棄しているも同然だろう。典型的な「設問はいいけど解答はダメなおはなし」だと思う。設問の時点で絶賛するひとがいることは理解できるが、わたしは少なくとも本作に関してはそちら側にはなれなかった。

自分の野心のために少女の夢を壊して悦ぶブラックファングはたしかに極悪非道に思えるけど、わたしからすれば、「愛と友情のキズナ」とかいうプリキュアの正義の尊さを表現するためにブラックファングという悪役が存在させられているわけだから、要するにマッチポンプ以外の何物でもないというか、根本的にはプリキュアのせいじゃん、茶番じゃん、って思ってしまう。ヒーローものと陰謀論(じぶんが不幸なのは悪の組織のせいだ!)の相性の良さは普遍的だな~~と再確認した。

とはいえ、「救うことの暴力性」「ヒーローやアイドルの押しつけがましさ」といったテーマは(ヒーローもの・アイドルものが嫌いな反作用として)ひじょうに自分好みではあるので、問いを立てるところまでは良かったし、やはりそれをプリキュアというシリーズ作品で、しかも「ハピネスチャージプリキュア」という「みんなを幸せにするために戦います!」がキャッチフレーズ?の作品においてやった、という点に偉大さがあるのは間違いないだろう。ただ、問いに対する解答が提出された時点で、問い自体の意義も破壊されるタイプの悪解答であったので、上記のような感想となってしまった。「解答は0点だけど設問が200点だから合計200点!」みたいな単純な加算式の評価システムではないのだった、物語鑑賞というのは。


・ぬいぐるみと持ち主のドラマ

つむぎのために、彼女の大量のぬいぐるみ(人形)達が健気に献身的に行動する様子も描かれ、特に王子ジークの自己犠牲は今作いちばんの泣きどころのひとつとなっている。わたしにも小学時代から現在までずっと一緒に寝ている抱き枕のぬいぐるみがいるので、こういうぬいぐるみと持ち主の関係を扱った話には弱い。ふつうに泣いた。
とはいえ、涙を流しながらも同時に思うのだ。持ち主のわたしがぬいぐるみを愛するのはいい。けど、同じように、ぬいぐるみ側も持ち主であるわたしに対して同量・同質の愛情を持ってくれているのだとフィクションにおいて描くのは、単に願望充足的であるばかりか、「ぬいぐるみ」との関係の、なにかもっとも大切なぶぶんをないがしろにしてしまうのではないか、と。
つまり、わたしがぬいぐるみを好きなのは、自分のこの愛情が本質的に一方通行のものであり、相手から何も返ってこないから、なのではないか。自分と同じように愛情を返してもらいたいならば、ぬいぐるみではなくて生身の人間とか、あるいは愛玩動物だとかを愛せばよい。人間相手ならば、たとえ好意ではなかったとしても、悪意でも無関心でも狂気でも、必ず何かしらの反応はあるだろう。でも、ぬいぐるみからは本当に何も見返りがないのである。「無関心」ですらない。だって生きてないから。──君が生きてなくてよかった。わたしはピノキオピーの『東京マヌカン』を初めて聴いたとき、これはぬいぐるみと人間についての曲だ!と思った。(すなわち、上記の話はぬいぐるみ以外、例えばボカロキャラクターへの愛などにも適用できるということだ。)


相手は自分のことを本当に何とも思っていない。それでも/だからこそじぶんは相手(ぬいぐるみ)を愛する。この究極の一方向で身勝手な関係が安心できるし、一種の尊さを生んでいるのだと思っている。それなのに、ぬいぐるみが喋って動き出して、これまで大切にしてきたぶんの愛情を返してくれる……あまつさえ自己犠牲を払って助けようとしてくれるなんて、お前のぬいぐるみとの関係はそんなんでいいのか!と思ってしまう。

昨年観たアニメ映画『雨を告げる漂流団地』でも、似たようなモヤモヤは感じた。(あれはぬいぐるみではなく団地という土地・住宅への愛情が、擬人化された団地によって返ってくる話だった。)


とはいえ、『人形の国のバレリーナ』では、ブラックファングによって作られたドール王国という世界が、つむぎの願望をすべて叶える理想の楽園としてそもそも設定されている節はあり、じぶんの足が動かない現実から逃避して踊れるよろこびに耽溺したように、本当は無反応の人形達がじぶんを愛してくれるという夢想を現前させた結果なのであると考えることはできる。つまり、やはり人形が持ち主であるじぶん(つむぎ)を大切に思ってくれているなどというのは不健全な、脱却すべき夢想であり、悪役もろともプリキュアにぶち壊してもらって然るべき観念なのだと作品側で相対化していると読むことも不可能ではないだろう。そこまでやれば、自分好みというか、以上の批判は取り下げることができる。


・「不幸なひと」と社会的弱者

「プリキュアでも救うことが難しい不幸なひと」として、(雑に括れば)病身の人間を持ち出してきたわけだけど、このテーマを本気で突き詰めるなら、病人や身体障碍者ではなくて、もっと直接に現在の社会構造において悲惨な状況にある弱者を登場させるべき、という野暮なツッコミは思いつく。むろん障碍者も社会的弱者であることは間違いないけれど、本作のつむぎのような、ある日とつぜん足が動かなくなった人物、というのは、いうほど「社会の被害者」性は薄い。もちろん、ちゃんと「社会の被害者」を出してしまうと、それは本当にプリキュアの手にはおえず、真面目に社会変革の話をしなければならなくなるので、ここらへんが個人ヒーローものの限界だよな~~と思いながら観ていた。(いや、なんか青いキュアプリンセスはどこかの国の姫?みたいなこと言ってた気はするので、『ハピネスチャージプリキュア』においてはむしろ国家権力側にいるのかもしれない。しらんけど。)

「不幸な境遇でも幸せになれるよう頑張れ」みたいな、典型的な新自由主義発言をプリキュアがしていてうおおおおおお強者の戯言!!と逆にテンション上がった。


・バトルシーンとか

「圧倒的な悪いヤツ」であるところのブラックファングの極悪非道な言動に対して、プリキュアたちが「ブチ切れる」のが良いな、と思った。怒りの感情で敵を制裁するヒーロー。正義の味方とか皆を幸せにするとかなんとかうそぶいても、結局は私情で私刑(リンチ)を執行する暴力肯定者なんだよなぁ!!!とあからさまに示されるので。

というか、本作のバトルシーンは基本的に興味が持てなかったというか、ぼーっとしちゃっていつの間にかシーンが過ぎ去っていて、じぶんはほんとにバトルに関心が薄いんだなあとウケた。

「女の子だって暴れたい!」に批判的ではもちろんなくて、「女の子だろうが男の子だろうが誰だろうがなるべく戦わないでほしい(興味がないから)」というのがわたしのごく個人的なアニメの好みです。

やっぱり有名過ぎるキャッチコピーには色々といわくがつくよね


・キャラクターの印象

青いひと(キュアプリンセス/白雪ひめ)とジーク王子との二転三転する関係のドラマが良かった。欲を言えば自己犠牲を払って消える前のジークにひめが「さっきは人形だからって態度を変えてしまってごめん」と謝罪するくだりを入れてほしかった気もするけど、まぁ王子が消えるのを見てプリキュア4人中ゆいいつひめだけが涙を流していたし、ラストのバレエ発表会の席でもジークの人形を抱えていたから、最後まで素敵な関係だな、と思った。
というか、この映画上では、キュアプリンセスが圧倒的に活躍していたというか、魅力的に話に関わっていたように思う。

そういう作劇上の扱われ方の差異をなるべく棚上げして、純粋な好みでいったら黄色いひと(キュアハニー/大森ゆうこ)が魅力的に思えた。彼女がTVシリーズ本編でもう少しどんな人物なのか観てみたい気持ちはある。
あと、どうせキュアハニーとキュアフォーチュンのコンビ(ゆういお?)が二次創作では人気なんだろ?となった。

タグは存在するけど、意外とそんなでもない……?


主人公のピンクのプリキュアの子とヘテロ恋愛っぽい雰囲気が出てる男子キャラの存在には驚いた。プリキュアってそういうのアリなんだ、って。……でも確かに『ふたりはプリキュア』序盤でもふつうに「憧れの男子」キャラはいたような気がする。覚えてない。

たくさんの少女が当然のように登場するプリキュアという作品において、「別アニメの男主人公」っぽいキャラがひとりでもいると、プリキュアに不慣れなわたしなんかはそこにハーレムものの雰囲気を感じとってしまう。ソワソワする。神聖なプリキュアがギャルゲーのヒロインへと変貌してしまうと想像することほどイヤなものはない!! 


・映像演出に関して

劇場版とはいえプリキュアの映像にそんなに期待してはいなかったけど、けっこうところどころの決め画で「ええやん!」となるカットは多かった。というか、2回目の鑑賞で感じたのは、全体的に映像の質が高いということ。
キャラの等身も高めということで(シリーズ全体の水準がわからないけれど)、わりかし自分好みのリアル寄りの人物画(立ち姿や表情など)が発生しやすいのかも。

そして、この映画でもっとも驚愕したのはエンディングの3DCGダンス映像! ……プリキュアの3DCGってこんなにクオリティ高かったの!? そりゃあプリキュアオタクがプリティシリーズのCGを見たら微妙だと思うわけだ~!と納得した。2013年(10年前!)の時点でこれだから、今はもっとすごくなってるのか? どうなんだ!? 


~感想おわり~


『人形の国のバレリーナ』がわたしに合わなかったからといって、オススメをしてくれたこと自体をどうか後悔しないでほしいです。わたしは苦手な作品のどこが苦手なのかを自分なりに分析して文章にする行為そのものが大好きなので、今回も総じてとても楽しかったです。時間やお金を無駄にしたとはまったく思っていません。自分ひとりでは(あるいは我々ふたりでは)手を伸ばすことのなかった作品に触れられたことに、本当に感謝しています。どうか、今回で気落ちせずに、よろしければまたおたよりを送ってほしいです……と言ってしまうのは傍若無人すぎるでしょうか。


さて、せっかくおたよりでお薦めしてもらったのに、片方が無慈悲に酷評しただけで終わるのはなんだか申し訳ないので、もともと『人形の国のバレリーナ』を大好きだという、プリキュアオタクの相方に、簡単に作品評を書いてもらいました。

※とはいえ、今後、オススメ頂いた映画をわれわれ2人ともが酷評することは十分にあり得ます。今回は、たまたまわたしは不評で、相方は(わたしの感想とは無関係に)もともとこの映画が大好きだった、というだけです。



・相方の『人形の国のバレリーナ』評


映画というものの、必須ではないがわりと本質的な要素として、『作品世界を貫いていたはずのルールがクライマックスで破れて、無秩序が到来する』というものがあると僕は思っていて、また、そういったルールの破綻と無秩序こそが、僕が映画のなかで一番愛するところでもある。『人形の国のバレリーナ』がこの世で一番好きなアニメ映画であることの理由の多くもここに拠っている。

ご存じかと思うが、『人形の国のバレリーナ』では、ラストバトルで超パワーアップしたキュアラブリー/愛乃めぐみが敵キャラを倒すと、つむぎさんの呪いが解けて彼女は歩けるようになる。好きな映画のことだから、このラストの展開の是非について私はずっと考え続けているんだが、まあ、やっぱり正しくはないんよな。この映画って殴って解決するタイプの話じゃなかったじゃん!っていう反感がどうしてもある。

いままでさんざん、殴っても解決しないような話をしてきたのに、最後は殴って解決してしまう。それも棚ぼた的な解決。これは、この映画を貫いていた『この映画の問題は殴っても解決しない』というルールの明らかな破綻であるし、解決を導くためのキュアラブリーの超パワーアップやその前段階としてのミラクルライト点灯は一種の無秩序と言わざるをえない。でも、その破綻と無秩序こそがいい。いや、本音を言うと、この破綻と無秩序が“いい”とか“悪い”と思うことすら僕はなくて、ただ『破綻と無秩序がある映画としてしかこの映画はありえないんだよなあ』という留保なしの納得感だけを感じている。


愛乃めぐみというヒーローの出発点は、常に博愛精神なんだよね。個々人が持っている事情や背景には関係なく、世界にいる人びと全員を愛する、そういうスタンスを出発点として、でもそのスタンスがときに挫折したり、迷走したりしながらちょっとずつ変化していく、でも根っこは変わらない……というのがテレビ本編で描かれていた愛乃めぐみの物語。で、劇場版である『人形の国のバレリーナ』では愛乃めぐみのスタンスに対するひときわシリアスな告発――プリキュアには救えない人もいる――が投げかけられることになる(成田良美女史はよくこういうことをする)。

プリキュアには救えない人もいる、そういう厄介な問題が持ち上がったときに、これを『今まで見落としていた意外な解決策』とか『当たり前すぎて見落としていた、でも有効な解決策』を発見することで解決する、というタイプの映画はままある。『人形の国のバレリーナ』でも、『でも仲間がいるじゃん』というのが、再発見されたソリューションとして機能している感じはある。

でもこういった、ソリューションの再発見という、ある意味“正しい”展開だけでラストまでたどり着くのは、愛乃めぐみの物語ではないんよな。愛乃めぐみは、解決策を全く考えないほど馬鹿ではないけれど、でも、鍵が見つからない状況でも扉をたたき続ける無謀さもあり、また、確証がない状況でも解決を約束する無責任さもある。かてて加えて、無謀と無責任をおして行った行動の果てに棚ぼた的な勝利を呼び込んでくる天性の運もある。だから、(途中気弱になりもするけど)クライマックスでは、『プリキュアには救えない人もいる』という告発を「そうかもね」と認めながら、がむしゃらに前進を続けるし、あろうことかつむぎさんの呪いを解きすらする。この展開、どの角度から見てみてもやっぱり正しくはないんだが、愛乃めぐみというヒーローのヒーロー性の表現としてこの展開以外はありえない。愛乃めぐみの物語のクライマックスは間違った勝利でないといけない。英雄神話とは境界を越えるものなので。


そんでもって、この映画、ヒーローとしての愛乃めぐみのヒーロー性の表現、というところにとどまらずに、もう一段階ひねりがある。

それは、殴ることで問題を無事解決したはずの愛乃めぐみが、どういうわけか『プリキュアには救えない人もいるかもしれない』という風にまた気弱になってしまう、というところ。でもここで、『きっとめぐみさんには全員を救えるよ』というふうにめぐみさんを承認してあげるのが、当初告発者の側だったはずのつむぎさんなんだよね。

これ、『愛乃めぐみが提出したソリューションが有効だったから有効性を認めた』みたいな冷静で合理的な対応ではなく、完全に『あなたがあまりに頑張ってるから私が折れましょう』っていう対応だよね? つむぎさんの側が道理を曲げてしまっている。

でも、これによって初めて、境界を越えてしまった愛乃めぐみという英雄は、ふたたび境界を越えて人間社会に戻ってきたときの居場所が保証されている。道理を越えてしまった者をふたたび受け入れるためには、一般人の側も道理を曲げるしかないってことやね。

一般人の側がちょっとずつ道理を曲げることで英雄をふたたび人間として呼び戻すことができるのなら、逆に、道理を曲げて奇跡を起こすという点において、一般人もひとりひとりがちょっとずつヒーロー・みんながプリキュア、ということは言えるかもしれない。正直言って、今すぐに、ではないんだけど。プリキュアの戦いがひと段落して、つむぎさんも少しだけ大人になった、そんな未来に、めぐみさんとつむぎさんの再会はあるのかなあと思う。


話が変わってもう一点。
愛乃めぐみのような、確証がないにもかかわらず『あなたを救います』と断言するタイプの一種の無責任さについて。あるいは、それで間違った勝利をつかんでしまうストーリー的な欺瞞について。これって、ひとに見せる作品としてどうなんだろう、というのは僕はずっと考えているところではある。コンスタティブにいって、明らかに間違った主張ではあるので。

でも、子供たちにみせる作品を作る人にはやはり、ヒーローはなにがなんでも『あなたを救います』と断言するし実際に救ってみせる作品を作るしか選択肢はなかったのだろうと思う。このジャンルには、プリキュアを観る人、主に子供たちがつらい状況にあるときに『どうせ私を救う人はいない』と思い込んで口をつぐんでしまうことだけは何としても避けたい、というのがあるだろう。だから、『誰にでも救ってくれる人はいる』という主張は堅持されねばならない。コンスタティブには間違ってるけど、パフォーマティブにはそう言い続けることだけが正解だから……。

(なんか愛乃めぐみとヒーローの話ばっかりしてしまったが、ほかのキャラにもそれぞれ好きなポイントがいろいろある。特にこれっていう話にまとまらないからここに書かないけど)

そんなわけで、『人形の国のバレリーナ』まあ正しくはないので、誰におすすめをすることもないけど、僕が一番好きな映画である、という説明でした。


~相方の感想おわり~



いやぁ~~めっちゃおもしろいですね。まじめに。


要するにじぶんは英雄神話が嫌いなんだろうと思います。(ホメロス『オデュッセイア』も全然面白くなかったし……。) 最近の『サイダーのように言葉が湧き上がる』や『秒速5センチメートル』の感想でも書きましたが、スケールがデカくない、超越性も介在しない、つつましく、地に足のついた物語やキャラクターが好きなのだろうと思います。

本作の理念はコンスタティブには間違っているがパフォーマティブには正しい、というのは、まさにまったく同じことをまったく同じ語彙で書こうと思ってました。というか あれっ、書いてなかったっけ?とまで思いました(後出し孔明)。ほんとうにその通りだと思います。ただ、今回はなぜか、いろいろな要因で、わたしはパフォーマティブな次元での正しさよりも、コンスタティブな次元での正しくなさを重要視して受け止めた、ということです。わたしも常にコンスタティブな次元で評価するわけでは多分ないと思われます。

上の感想には載っていませんが、「ゆういお」についてや、プリキュアのセルルック3DCGダンスアニメの歴史についても、相方からすこし教えてもらいました。『ドキドキ!プリキュア』のエンディング「この空の向こう」めっちゃ名曲ですね……



『キンプリ』のほうの感想トーク回は、近いうちに公開されると思います!

改めて、おたよりを送って下さって本当にありがとうございます!

「オススメの映画を教えてください」とありますが、正直なところ、べつにオススメの映画じゃなくても構いません。「これ私はとても嫌いだけど、こいつらはどう受け取るんだろう?」みたいな理由で苦手な映画を送って下さるのも大歓迎です。

今後とも、映画感想トーク ポッドキャスト『映画館が遠い』をよろしくお願いいたします!


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