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〈勇気〉なんか貰えない。やすい「感動」など無用だ。

いまだに、オリンピックのメダリストなんかが「勇気を与えたい」などと言ったりするが、いかにもスポーツ馬鹿らしい、烏滸がましい物言いだ。

また、それを聞いて「勇気をもらった」などと、何も考えずに、条件反射的な言葉を口にする人も少なくないが、それであなたは、どんな勇気を持った人間になったんですか、とお尋ねしたい。

言うまでもないことだが、勇気というのは、そう簡単に与えたりもらったりできるようなものではない。

まあ、たしかに「感動」ならば、与えられたりもらったりすることもできるだろう。一般に言われる「感動」というものは、それほど「安い(易い)」生理科学的条件反射なのである。

こんなことは、文学作品を読んでいる人間には、常識に類することだ。
いわゆる、泣かせたり、しみじみさせたり、怒りを覚えらせたりして、人の情動に働きかけることを「感動させる」と言うわけだが、こうしたものは、まともに本能の働いている人間であれば、赤ちゃんの笑顔を見て「カワイイ」と思うのと同様の、本能的な反応、つまり、進化論的に仕組まれた、科学的な条件反射の類に過ぎない。

だから、一昔前の純文学作家は、読者を「感動させよう」とするような書き方を、安易な姿勢だとしりぞける人が多かった。

事実、感動させるためのパターンというのは、だいたい決まっていて、それは何度くりかえされ、使い古されようが、やっぱり「感動」させられてしまう(オリンピック報道を見るが良い)。
それほど「本能」というのは、抗い難いものなのだ。

したがって、ここのツボを、このパターンで突けば、必ず大半の人が感動するであろう、というようなパターンで小説を書く安直さを、昔の純文学作家、恥じた。
その、いかにも読者を小馬鹿にした創作姿勢が、そうした安易さに秘められていると感じていたからだ。
だからこそ、人間にしか感じられない「深いもの」、人間の人間たるところを描こうと、多くの純文学作家は努力した。
そのため、昔の純文学というのは、総じて「難しい」し、わかりやすい「感動」など提供しないのである。

しかし、資本主義社会においては、読者に知的な努力を求めるような作品は、不利である。
わかりやすく言えば、馬鹿でもわかる、子供向けの作品(商品)の方が、たくさん売れるに決まっている。

そして、そのような「お客様は神様です」という建前だけの甘やかしによって、読者の感性や知性はいっこうに鍛えられないまま「それでいいんですよ。あなたはあなたのままでいいんです」などと煽てられ、それを真に受けたあげく、いくつになっても、大人の知性が育たない「幼稚な大人」に育ってしまう。

無論、そういう人が求めるものは、安直は「感動」である。

猿の脳の快楽中枢に電極を挿して、そこを刺激し続ければ、猿はずっとイキっぱなしで食事も取らずに餓死してしまう。

これを人間に当てはめると、知性を鍛えることもせずに、ずっと幼稚なまま大人になってしまうと、人間にとっての高度な知的作用である倫理観を鍛えなかった未熟な大人が、知性を鍛えなかった他の未熟な大人を、平気で食い物にしたりする。
いわゆる「高齢者を狙った特殊詐欺」などがそうだが、要は、人間として鍛えられなかった、しかしタイプの違う未熟な人間同士による、動物的な弱肉強食が、そこでは展開されるというわけだ。

noteは「クリエイター」の作品発表の場だということになっているが、ろくに勉強も訓練も経てこなかった人間が、持って生まれた才能だけでどうにかなる、などと考えるのは、よほどおめでたいと言うべきであろう。

そんな特別な才能のある人間は、何万人に一人なのだというくらいの常識は、とうぜん持った上で、それでもやりたければ作家を目指すべきだ。
無論、趣味でやるならいいが、世に出て「有名になりたい(人からチヤホヤされたい)」とか「金儲けもしたい」などとは考えない方がいい。そんな人の99パーセントは、確実に落ちこぼれるからだ。
つまり、自己実現などできない。

また、感動することが良いことだとか、感動させることが無条件に素晴らしいなどと思っている、薄っぺらい人は、作家にはならない方がいい。

きっと、そののんきで甘い認識につけ込まれ、使い捨ての消費財として、誰かに利用され搾取されたあげく、絞りカスとして捨てられるのが関の山だからだ。

しかしまた、大半の人は、そのようにして搾取するに値する才能など持ってはいない、という事実を直視しよう。
この程度のこともできない勘違い人間が、他人を感動させようとかいうのが、そもそも烏滸がましいのである。

(2021年7月28日)

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